<如月の徒花>



 その日の下都は、自らが歓楽街であることを忘れたかのような静けさに包まれていた。
 鉄燈籠の灯火まではさすがに落としていないのだが、大路小路を行き交う人々の数はまばらで、そのいずれもが粛々とした雰囲気に包まれている。天から地を見下ろす今宵の満月は、穏やかな蒼い光を宿しているというのにだ。

 それは身を震わせる真冬の寒さが、酔狂の夢に生きる者達の頭を覚ましたせいなのかもしれない。仰ぐ者がいなくなろうと、天に奇怪な月は在り続ける。いくら取り繕うとしても、自分達が身を置くこの境遇そのものが、過去の記憶の証なのだ。
 忌避しようと試みたところで、心は沈み、笑みは消える。この日だけ、年配者らは失ったものを懐古し、歳若い者達は語り継がれた言葉を反芻しては、擬似的にその悲しみを想起する。
 上都から定められた訳でなく、下都を牛耳る党首達が強要した訳でもない。それこそいつからか、暗黙のうちに、『都』の人々は一年に一度訪れるその日を喪に服す日と心得ていた。


「毎年毎年、辛気臭い日だねぇ」
 二階の格子窓から大門の方を見やり、おうち太夫は溜息をついた。愚痴をこぼしたところで急に大門から客が押し寄せてくる訳もなく、売れっ子花魁の憂鬱が解消されるはずもない。これがまだ太極月を過ぎ、月の紅色が鮮やかな日であれば諦めもつくが、せっかくの稼ぎ時を暦ごときに邪魔されたのだ。意気消沈するのも無理はない。しかもさらに間の悪いことに、こういう時に限って、彼女の想い人はどこかへ外出しているのである。
 すっかりやる気を失った楝太夫は、化粧もほどほど、着物は襦袢じゅばん一枚という何ともあられもない姿でふてくされていた。
「何もこんないい天気の日に、通夜気分にならなくたって良いじゃない。どうせ明日にはお祭り騒ぎだっていうのにさ。枳姐さんだってそう思わないかい?」
 そう問われ、花にも劣らぬ美貌を備えた女は、並んだ数々の着物から太夫にと目を移した。彼女が持ってきた着物は、いずれも日頃の太夫の服装とはあまりにもかけ離れた、奇抜な意匠をしていた。緋色の緞子どんすに白虎の姿を縫いつけたもの、墨染めの生地に恨めしげな女幽霊の絵を描いたもの、黒い髑髏が桜花の元で饗宴に耽る様を写した羽織りなど、実に様々なものがあり、しかも全てが男物なのだ。
「そうね、今日はどこの見世も商売上がったりでしょうね」
 苦笑しながらも、枳の頭の中はすでに、明日の件で埋まっているようだった。今でこそ静まり返っているこの下都だが、明日には大事な年中行事である節分祭が控えている。実の所、遊廓の裏方ではその準備に追われっ放しなのであった。楝の前に並べられている派手な衣装の数々も、彼女が節分祭の仮装に入り用ということで、かつて枳が使用していた物を持参してもらったのだ。

「でもね楝。この忌み日があってこそ、明日の祭が意味を成すのだから。我慢しなければ駄目よ」
「分かってるよ、そのくらい。明日の豆撒きで、この日生じた魑魅魍魎・悪鬼厄災を追放する。そういう意味合いの祭なんでしょう?」
 『都』で毎年行われる節分祭は、元はと言えば上都の、それも宮中でのみ行われる年中行事だった。古来より、季節の変わり目には鬼や邪気が生ずると考えられており、宮中ではそうした穢れを祓う演舞追儺ついなの儀≠もって、立春の訪れを祝っていた。
 それがいつの頃からか――少なくとも封印∴ネ後からは、下都では季節を分けるという意味合いで節分祭≠ニ名を変え、退魔の慣習儀式として定着したのである。しかも庶民に馴染みやすいものとして、その様式も上都とは様変わりしてしまっている。
 まず、ひいらぎの枝にいわしの頭を刺した柊鰯と呼ばれるものを戸口に飾る。それから吉兆の方角を向いて、太巻き寿司を丸齧りする。遊廓では遊女達が、いかにもかぶき者といった風情の男物の着物で仮装し、逆に一部の男が女物の打掛と化粧で女装する。そうして祭を存分に楽しんだ後、各々の惣名主か、もしくは若衆頭を鬼に見立てて炒り豆を投げつけるのだ。
 炒り豆が貴重な食料というだけでなく、どさくさ紛れの外部からの襲撃を防ぐため、豆撒きは必ず室内で行われる。そしてこの時ばかりは惣名主と若衆頭を思う存分追えるとあって、人々の盛り上がり方も並の比ではなくなる。
 すなわち、前日に想起した忌むべき記憶を再び忘却し、新たな一年を生きるために節分祭は存在すると言っても過言ではないのだ。

「願掛けして平和になるくらいなら、この世に鉄忌はいないってね……あ、私がこんな事言っただなんて、お客には告げ口しないでおくれよ」
「ハイハイ、今のうちに好きなだけ愚痴を吐いてしまいなさいな」
 苦笑しながらも、枳の目元は悪戯を思いついた子供のように楽しげであった。楝が退屈ゆえにむくれているのではなく、祭での晴れ姿をいち早く見てもらいたい相手がこの場にいないことに不満を抱いているのだと、この元『都』一の太夫はとうに悟っている。
「そんなに椿がいなくて寂しいの?」
「別に〜、あの新参者が今頃どこをほっつき歩いているかだなんて、この楝太夫様には関係ないことでありんすよ〜」
「本当に仲の良いこと。いっそ夫婦にしてもらえるよう、一度燥一郎にかけあってみましょうか?」
 楝太夫と、昨年『彩牡丹』から鞍替えしてきた若衆頭の椿が惹かれあっているという噂は、すでに『火燐楼』では大半の人間の知るところとなっている。他の遊廓と同様、『火燐楼』でも夫婦になるには惣名主の了承の他、様々な条件が必要となるのだが、それも他所と比べればかなり寛容とされている。能天気を地でいくような燥一郎ならば、申し出ればまず間違いなく、二つ返事で認めてくれることだろう。
 しかしそんな枳の返事が予想外だったのか、楝の顔は見る間に赤く染まった。
「な、え、あッ……!?」
「まぁ、もっともあの人も、今頃どこでまた悪さをしているのやら」
 金魚のように口をパクパクさせる楝を他所に、枳は一人溜息をつく。楝の手前ではそう言ったものの、夫の行方についてはおおよそ見当がついている。ただ諸事情があるため、彼の居場所を若衆に告げ、連れ戻させることはできないのだ。
「久暁も明日になるまで『火燐楼』には戻ってこないそうだし。ウチの男衆は本当に、必要な時にはいつもいなくなるのだから困るわ。明日になったら存分に豆をお見舞いしてあげないとね」
「そう言えば、久暁の旦那はこの日いつも遠出しているんだっけ。あの出不精の旦那が泊りがけで出て行くなんて、一体またどうしてなのさ?」
 平静を取り戻した楝が首を傾げても、枳はやんわりと微笑みながら
「ある大切な人のお墓参りなんですって」
とだけ述べ、それ以上詳しく語ろうとはしなかった。



 眼下の平地に溢れる光はいつもと同じく、眩いほどに輝かしい、造り物の温もりを感じさせた。この日だけは饗宴の喧しさや酔香の香りが薄れ、久しく忘れられていた静寂なる夜が戻ってくる。もっとも、人里離れた黒狗山で生まれ育ち、二年前から定期的にまたその山を訪れている久暁にとって、夜の無音などもはや珍しいものではない。
「よお」
 ゆえに、不意にきさくな声が自分にかけられた時も、久暁は特に驚いた様子を見せなかった。静けさの中で聞こえた微かな足音が、次なる来訪者の存在を教えていたのである。
「お前も来たのか、椿」
「一応、他人事じゃないからな」
 灯り一つない山中とはいえ、満月の光は互いの顔をはっきりと判別できるほどに照らしている。『火燐楼』にいるはずである若衆頭の突然の来訪にも、久暁はさして驚いた様子を見せなかった。
 決して花開かぬ裸の桜木が群生する黒狗山では、街とは違い、身を切るような寒さに襲われる。白い着流しの上に、花鳥の紋をあしらった派手な羽織を重ね着してはいても、椿の顔は寒さで幾分か強張っていた。しかし彼の猟犬のような目は、吸い寄せられるように久暁の前にある小さな墓石へと向けられている。
「墓碑銘は刻まないのか?」
「本当の名前を知らないからな」
 久暁の族名である阿頼耶≠ヘ、この冷たい土の下で眠る女から貰ったものだが、それは彼女の一族が代々受け継いできた八色の黒¢謾ェ家当主としての名に過ぎず、本当の名については誰も知る者がいなかった。彼女の脱走により、第八家の血脈は全て八色の黒≠フ内部粛清に遭い断絶してしまったからである。それに名を貰ったとはいえ、八色の黒≠ナあることから逃れようとした彼女の墓に阿頼耶≠ニ刻むのは抵抗感があったのだ。
 納得したように頷くと、椿は懐から小さな包みを取り出した。中から花型の干菓子を二つ取り出し、墓石の手前の地面に置く。すでに墓前にはさかきが活けられ、水を入れた杯も供えられている。残念ながら線香だけは火の使用を禁じられているため、置くことはできない。

「燥一郎から聞いたが、毎年来ていたんだってな」
 その名前を聞いた瞬間、久暁の胸中で昏い炎が揺らめいた。だが決して表情には出すまいと、平静を装いつつ言葉を返す。
「ああ。山を下りて以来、ちゃんと手を合わせてやれるのはこの日くらいしかなくてな」
「へぇ〜、真面目。それじゃあ今更、ウチのお袋にわざわざ教えるまでもないか。お前が俺達の分も世話してくれていたみたいだし。それに今あのボケたお袋なんかにこの場所を教えたら、ウキウキしながら墓を暴きかねないからな……って、冗談だ、睨むなよ」
「言って良い冗談と悪い冗談があるぞ」
 椿とは知り合ってまだ一年しか経っていない。当人達の与り知らぬところで関係があったと判明したのがきっかけで、椿は『火燐楼』にやって来たのだが、彼の人間性については未だ分からないことが多かった。
 砂螺人の血が半分流れている久暁は、常人よりも優れた直感力を有しており、単純な嘘ならばすぐに見破れる自信があった。ところが椿相手では、その直感が充分に働かないのである。もう一人、直感力で行動を読めない相手がいるのだが、尋常ならざる力を持つ件の麗人と違い、椿は正真正銘、生身の人間である。原因があるとすれば、そうした読心術に対抗する訓練を受けているせいであろうか。彼の本当の素性から考えればそれも当然と思えたが、その割りに椿は人懐っこく、何だかんだと言いながら面倒見が良い性格をしている。そうした底の知れぬ本性が、久暁にとっては彼を苦手に感じるのと同時に、好ましく思える要素でもあった。
「それにしても何だ、もう二十三か」
「そうだな。叶うことならば、もっと光の当たる暖かい場所で眠らせてやりたいが、まだしばらくは難しそうだ」
「馬鹿野郎、お前の歳のことを言ってんだ」
 手を合わせ終わるなり、唐突に椿がそんなことを言ってきたので、久暁の思考はしばらく停止した。話の流れからして、てっきり墓のことを指していると思っていたのだ。
「……お前とは知り合ってまだ一年足らずのはずだが。何をそんなに感慨深く頷いているんだ?」
 訝しげに久暁が問うと、椿は犬の毛のように短い黒髪をがしがし掻きながら、
「あー、要はな、お前が『央都』から『都』になってから生まれた最初のガキなんだから、あれからもう二十三年も経っちまったんだなぁと。俺もこうなる前の『都』なんざ、ろくに覚えてねぇけどよ」
と、遠く眼前に広がる『都』の夜景に目を細めた。

 この後も延々と、街とそこに棲む人々は常夜の世界を生き続けるのだろうか。
 弟子を育て、鉄燈籠を作り、年老いながら一生を終えていく己の姿を、久暁は想像しようとした。しかしそれらの光景は、描いた端から霧散してしまう。未来を思い描こうとする度に、かつて望んだ、結局は手に入らなかった幸せへの渇望が心を締めつけ、いつしかそれは無数の鉄忌を屠る己の姿へと繋がっていく。その修羅道こそが、これから先、自分が歩み続けるであろう未来だと――穏やかな生涯を送れるはずがないと、確信めいた直感が告げているのだ。

「明日になれば、この夜生まれた厄災は人の住処から追われ、祓われる。それが形式上のものに過ぎないとはいえ、願う人間の心は本物だ」
 久暁もまた、『都』へと視線を向ける。二年前に鉄忌狩りを再開して以来、元々黒かった彼の髪は、明らかなほどに赤みがかった色へと変わっている。このまま鉄忌狩りを数年続ければ、いずれは深紅と染まるやもしれない。
「俺は、あの光の中に居ても良い存在なのか?」
 享楽と酔夢に浸る街――その中に溶け込めない、修羅に憑かれた自分。二十三年前の今日に生まれ、異貌と異様な体質を抱えながらも人界と交わってきた久暁だが、かの朱蜘蛛あかぐも事件∴ネ来、彼は己の在り方に言い知れぬ不安と虚無感を抱いていた。
 狂おしいほど恋しい輝きと、心を預けられる温もりを宿した灯火が、到底自分の手には届かないものであり、またそれに成り代わることも不可能だと知ってしまった。虚ろな心を潜ませる身体は、いつも鉄で出来ているかのように重く感じられる。
 未だに人を真似ているだけで、すでに自分の本性は、鋼の血肉を纏った鬼にも等しい存在と化しているのではないか。いや、もっと初めから――この生気のない山で、死した母より生まれた時点から、人とは相容れぬ存在であったのかもしれない。

「久暁、ちっとばかり屈め」
 そんな久暁の真意に気付いたのか否か。おもむろに、椿は自分よりも頭一つ分高い久暁の顔を見上げ、その頭を下げるよう手振りで示した。いきなり何かと久暁は訝しんだが、相手の目つきがいつになく真剣だったことから、素直に背を屈める。
 直後、耳元で鳴った風切り音がこめかみへの打撃へと変わる前に、久暁の身体は斜め後ろへと後退した。
 間一髪で頭上を通過したのは、椿が放った右拳だ。もし反応が遅れていれば、そのまま拳骨は久暁の頭を強打していただろう。
「やっぱり外したか。こういう時だけお前の勘の良さに腹が立つぞ」
「……何がしたいんだ、一体」
 残念そうに毒づく椿に対し、表面上は静かに、それでも声には充分すぎるほどの怒気を含ませながら、久暁は懐に手を伸ばしていた。潜らせた指に、暗器として持ち歩いているたがねの鈍い切っ先が触れる。しかし、椿はそんな敵意などお構いなしだった。
「自分が生まれた日だってのに、何をまた重苦しいことを考えているんだ。この馬鹿義弟おとうと
「母親同士が義姉妹だったというだけの、義理の従兄弟だろう」
「いいや、去年の黄泉呼び≠フ一件で承諾したからには、今は義兄弟だからな。遠慮なくあれこれ言わせてもらうぜ」
 そう宣言するなり、椿は自分よりも高い位置にある紅色の双眸を、真正面から見据えて言った。
「お前はお前自身が思っているほど、暗がりの似合う人間じゃねぇんだよ。単に灯りに慣れてねぇものだから、目を焼かれるんじゃないかと杞憂しているだけだ。本当に闇ん中が落ち着くってヤツはな、灯りの良さを知りながら、それが気に食わなくて逃げていやがるんだ。けど、お前は違う。お前は誰よりも、灯りの心地よさを求めている。だからもうちっと素直になれ」
 懐を探っていた久暁の手が、スッと戻される。手に鏨は握られていない。相変わらず表情に大きな変化は見られなかったが、久暁の苛立ちが消えたのは確かだった。
「それにもしお前が人から離れ、本気で独り暗い修羅道を歩む気なら、今度こそ俺はお前を殺さねぇといけなくなる。節分祭の他愛もない呪いごとを現実にするなんざ、この椿様は御免だぜ?」
 自信あり気に笑みを浮かべる椿とは逆に、彼の最後の言葉に、久暁は疑問符を浮かべていた。すると、途端に椿の表情が曇る。
「……さっきのは笑う所だろうが」
「何処が?」
「だから俺の立場と本名的に……って、ああそうか。お前は字が読めないんだった」
「おかしなヤツだな」
 どうやら椿にとっては会心のネタだったらしいが、久暁は全くその意味に気付けなかった。だが、先程まで兄貴風を吹かせていた椿が、苦虫を噛み潰したような様子へと変わったのには、さすがの久暁も苦笑せざるをえなかった。

「すまない、椿。けれども俺は……」
と言いかけて、久暁の口は急に閉ざされた。また何者かが墓前を訪れたのか、獣の目が椿から逸れ、周囲を睥睨する。しかし誰の姿も見えず、足音も聞こえない。
「どうした?」
 明らかに警戒する目つきへと変わった久暁を案じ、椿も月明かりだけを頼りに辺りを見渡す。久暁が言うには、この黒狗山では時折、身体を何かがすり抜けていくような奇妙な気配がするという。だが、久暁の様子を一変させた原因は、どうやらその気配ではなかったらしい。何かを把握したかのように視線を戻すと、何事も無かったかのように久暁は言った。
「別に大したことじゃない。それじゃあ、俺は百舌爺さんの様子を見てくる。椿もさっさと楝の元に行ってやれ。ここにいると、貴重な時間を潰す羽目になる」
「そりゃどうも。ああ、行くなら少し手足は隠しておけ。出ているぞ、アレが」
 椿もそれ以上追求しようとはしなかった。久暁が話し途中にこの場を去ろうとする理由など、一つしか考えられない。
 椿の忠告を受け、久暁は剥き出しだった両手に手袋をはめた。浅黒い肌に薄く浮かぶ紋様の羅列を、椿は見過ごしていなかった。この寒さで手が冷えたため、浮かび上がってきたのだろう。
「ったく、鋭いんだか鈍いんだか、どっちかハッキリしろっての」
 軽く別れを告げ、墓前から去り行く赤茶けた髪を見送りながら、椿は独り呟いた。繊細かと思えば鈍感な一面もある。椿もまた、出会って一年目になる阿頼耶=斬月=久暁という人間のことを、未だ計りかねていると言えた。

「相変わらず嫌われているな、燥一郎」
 完全に背の高い後姿が見えなくなったかと思うと、椿は後方にある桜の裸木に――いや、正確にはその柔らかい枝の一つに腰掛ける人影に語りかけた。
「やっぱりバレるんだよなぁ。せっかく人が心配して様子を見に来てやったってのによぉ」
 そう言いつつ、つまらなそうに炒り豆をぼりぼりと齧るその男は、微かな月光をも燦然たる光に変えてしまうかのような眩い美貌を備えていた。蘇芳色の着物の上に、桜と飛蝶の模様をあしらった緋色の打掛。腰掛けた枝の下へと垂れる墨色の長い髪が特徴的なその男は、紛れもなく『火燐楼』の惣名主、朱蜘蛛の燥一郎その人であった。
「明日の節分祭に使う豆をむさぼりながら言ってんじゃねぇよ、この阿呆」
「いや〜美味そうだったからつい。あいにく椿の分はもう残ってないが、代わりにお前にはこれを進呈しよう。魚なんて見るのも嫌だが、久暁の面倒を見てくれているお礼だ。俺のお手製なんだから大切にしろよ〜」
 にゃはははと笑いながら燥一郎が何かを放ったかと思うと、それは椿の手をすり抜け、彼の頭の上へと落ちた。漂ってきた生臭さと、魚という単語に嫌な予感を覚えた椿だったが、伸ばした手が掴んだものは案の定、鰯の頭が刺さった柊の枝――柊鰯だった。
「……これは俺の本名に対する嫌味かコラ。久暁にお前の正体全部バラされてぇのか、えぇ?」
「それにしても何だなー、久暁のヤツ」
「無視かよ!?」
 眉間に怒りの縦皺を刻みつける椿を他所に、燥一郎の視線は地面にある墓石に向けられていた。
「一体何を企んでいるんだか。いい機会だからこっそり教えてくれねぇか、椿よぉ」
「そいつは無理だ。互いの秘密は守るという条件で、俺は『火燐楼』に来たんだ。例え今すぐ『都』をくれてやると言われたって、こればかりは譲れねぇよ」
「お前も久暁に負けず劣らず真面目だなぁ」
 キッパリと断られた割りに、燥一郎は微塵も悔しげではなかった。最初から答の予想はついていたとでもいうように。
「まぁいいや。あとどれだけ長くても七年――七年経てば、アイツの人生は終わりを迎える。それまでは好きなようにさせるさ。命の危険が及ばない範囲でな」
「自分の首を斬られておきながら、よく言うぜ」
「うるせー、余計なこと言うなぁ」
 栗鼠のごとく頬に豆を詰めこんだまま、燥一郎は椿に言い返した。そんな子供っぽい――しかし得体のしれない正体を秘めた上司に対し、椿はやれやれと溜息をつく。
 もっとも、その猟犬を連想させる目が穏やかならざる光を宿していることに、気付かぬ燥一郎ではない。
「燥一郎、徒花あだばなってのはな、何も大切にしていれば散らずに済むって物じゃねぇんだ。それどころか、この厳しい冬に晒されてこそ、いつかは散ると知っていても最高に美しい花を開かせることができる」
 言いながら、椿は銘のない小さな墓石へと手を置いた。雨風に晒され、表面が白くなったその墓石を撫でる手は何故か、肉親である久暁がそれに向けるもの以上に愛しげであった。
「そして、それは決して無駄なことなんかじゃねぇ……なんて、俺がこの墓に眠るヤツの立場だったら、そう言っている所かもしれねぇな」
 自嘲するように笑いながら振り向いた男の表情は、はるか昔に燥一郎が遭遇した、誰かのものと重なって見えた。




目次へ

Copyright (c) 2006−2010 Yaguruma Sho All rights reserved.  / template by KKKing