<叶わざる悪夢>



 『都』の夏は蒸し暑く、そして一年の中で最も活気に満ちている。
 陽の暖かさを失った事でかつてほど酷暑ではなくなったが、それでも盆地にこもる湿気により、内であろうと外であろうと、鍋の中で茹でられているかのような心地がするのは今も変わらない。その暑さに気が短くなる者、大胆なまでに薄着になる者、涼を取ろうと必死で扇をばたつかせる者と、人々の反応は様々であるが、日頃常夜の陰鬱な空気に押し込められている者達が、意図せずして在りのままの感情を露わにしてしまう――それがこの季節の特徴であった。
「いっそよぉ、封印≠ツいでにあの三つの山の、どれか一個でも消えてりゃなぁ。そうすりゃ風通しも良くなったろうによ」
「馬鹿な事を言っている暇があれば、見世に戻ったらどうなんだ。祭で忙しいはずだろう」
 暑さに溶け、だらりと廊下で寝転ぶ燥一郎の愚痴にも、久暁は鏨を打つ手を止めることなく付き合っていた。脳天気かつ、あちこち落ち着きなく神出鬼没に現れることで知られる『火燐楼』惣名主であるが、暑さに弱い性分がたたり、梅雨が明けてからはこうしてバテている時が多かった。姿を現せば邪魔をするからと追い払われる久暁の作業場に居ても、座ることを放棄するほどに参っていれば大人しいものである。害を及ぼさない限りは、久暁の対応も寛大になった。
「祭なんざ千克達に任せてりゃ良いんだよ。月が沈んで涼しくなるまで、俺は休憩。渡り舞も今日は『彩牡丹』の番だし、興味ねぇや」
「『火燐楼』からの舞手は? 今日はどこに向かう予定だ」
「『桃源楼』だったかなぁ」
「……だったらここで半死になっている場合か。向こうで何かあったらどうする」
 燥一郎の呑気な答えに、鏨を打つ音が止む。だらしなく横になる麗人には全く緊張感がない。
「心配するなって。何かあったりしたら、『上都』から武士共がすっ飛んでくらぁ。今までだってそうだったろ」
 夏の盛りを彩る渡り舞とは、各遊廓から選りすぐりの芸妓を集め、順繰りに五つの遊廓を巡り舞を披露する、『下都』一人気のある行事だ。通常、どこの勢力でも、他の遊廓への芸妓の移動は固く禁止されている。例外となるのが、この渡り舞であり、それには祭の華としての役目以上に、『上都』に対して『下都』の平穏を示す目的も含まれていた。
 特に、『火燐楼』が生まれるに至った朱蜘蛛事件≠機に、『桃源楼』の惣名主である利宋が『火燐楼』を目の敵にしている事は周知の事実である。となれば、日頃は『下都』を看過している『上都』といえど、『火燐楼』と『桃源楼』を行き来する渡り舞には注視せざるをえなくなる。
 せっかくのハレの日に、張りつめた警戒心の只中で舞を披露しなくてはならない芸妓達の苦労が偲ばれるが、そこは名の知れた舞手揃い。敵意も感嘆へと塗り替えてしまう程の技量を備えているからこそ、燥一郎も安心してくつろいでいるのだ。
「お前は心配性なんだよ久暁。それとも、何か嫌な予感でもするのか?」
「いや、特にそんな気がする訳ではないが……」
 言い返されて、確かに、自分は何を杞憂しているのかと自問する。
『火燐楼』が生まれてから早六年。その間、祭りで大きな問題が起きたことはなく、『下都』の力関係は均衡を保ち続けている。最大勢力である『桃源楼』から離反し、『火燐楼』を興した燥一郎もまた無能ではない為、こうして職務を放棄しているように見えても、渡り舞でいざこざが起きぬよう、すでに細心の注意を払っているであろうことは間違いない。
 これまでも、それを疑ったことはないはずだ。
 なのに何故、今年は妙に心が落ち着かないのか。
「まぁ変な気配がするってんなら、椿に言って護衛の若衆共を増やすけどよぉ」
「大丈夫だ。お前の言う通り、今までと同じで何事も起きないだろう……そうに決まっている。少し疲れてるのかもしれないな」
「おぉ、珍しい。久暁が自分で疲れているのを認めるなんざ。まだ祭りの日は続いてるってのに、大雨降らすんじゃねぇぞ」
「降る訳ないだろう。そんな理由で、っと」

 茶化す燥一郎に久暁は呆れた様子で応酬していたが、おもむろにその会話が中断され、浅黒い肌をした男の顔がほころんだ。
とと、お仕事もう終わり?」
ぺたぺたと小さな足音がしたかと思えば、廊下から障子ごしに半分だけ、幼い顔がちらりとこちらを覗き込んだ。
 歳の頃は五つか六つ。藍色の生地に白線で無数の風車が描かれた浴衣を着ており、細く柔らかな黒髪を結い上げた頭には、大きな赤い飾り布が蝶結びになって揺れている。
 全体的にほっそりした身体つきの少女の肌は、陽光を知らない世代らしい白さをしている。一方で、おずおずと目の前の二人を見つめる瞳は、父親譲りで紅い。
「すずか。もうすぐ終わるから、少しそこで待っていてくれ」
 低く優しい声がそう告げると、少女はこくりと頷き、その場に腰を下ろした。
「よぉ、すずかちゃん。可愛い格好してるじゃねぇか。枳に着せてもらったのか?」
 寝転がったまま顔を少女の方へと向け、燥一郎は眼福眼福と大仰に呟いた。
「これだけ可愛けりゃ、俺も冥途の土産ができたってもんだぜ」
「燥ちゃん、お病気なの?」
「そうなんだよぉ。燥ちゃん暑くてもう動けないんだ。死にそうなんだよぉ……」
 わざとらしく弱々しい声を上げて床に伏せる燥一郎の頭を、すずかの小さな手が撫でる。心配して、というよりも、誰に似たのか感情があまり表に出ないその表情は、燥一郎の冗談を見抜き、仕方なく話に乗ってやっている様でもあった。
「何をふざけているの燥一郎。ほら、すずかもそんな所で座ってないで。せっかくの浴衣が着崩れちゃうでしょう」
 作業の仕上げに集中する久暁の代わりに燥一郎を叱ったのは、遅れて現れた枳だった。彼女もまた、白地に藍で描かれた朝顔が鮮やかな浴衣を身に纏い、すでに出かける支度を整えていた。薄く白粉をはたいただけの肌は、一児の母とは思えない程に瑞々しく、かつての名声が色あせないものである事を実感させられる。
「おぉ、枳。邪魔してるぜぇ」
「本当にその通りね。涼みたければ、奥の座敷の方が風通し良いのに。また久暁の部屋におしかけて、貴方ときたら……」
「俺は暑いのも嫌いだけど、退屈なのも死ぬほど嫌いなんだよ」
「貴方の退屈しのぎに久暁を巻き込まないで。特に今日はこれからお祭りを見に行くって、すずかと約束しているのよ。作業妨害はやめて」
「気にするな枳。そいつに絡まれる事には慣れきっている。この程度で効率は落ちない――そら、終わった」
 コツコツと小気味よく鏨を打っていた槌の音が止み、浅黒い色をした手が仕上がった彫金細工を持ち上げる。黒々とした一枚の金属片の表面には、幾重にも花弁を重ねた月下美人が咲いていた。後々、鉄燈籠の側面に溶接される予定の素材だが、細長い花びらの一枚一枚を透かし彫りで再現したそれは、作業場を照らす燈籠の灯りにかざしただけでも、白く繊細な花模様を掲げる手の内にほころばせる。
「綺麗……」
 ぽつりと呟いたすずかの言葉に、久暁は照れたように微笑み、彼女を手招きした。寝転ぶ燥一郎を乗り越えて近寄ってきた我が子を軽々抱き上げ、作業場を後にする。
「それじゃ、燥一郎。しばらく留守にするから、勝手にくつろいでいてくれ」
「おうよ。家族水入らずで楽しんできな」
「燥一郎、久暁の言葉に甘えてくつろぐのは構わないけれど、この前みたいに変な設計書を紛れ込ませたりしないでよね」
「へいへい」
 釘を刺す枳に、軽い返事が応える。本当に反省しているのかしら、と苦言を呈す枳が先を行くのに、すずかと久暁も後を追う。
「あ、そうだ久暁」
 思い出したようにかけられた声に、去りかけた久暁の短い黒髪が振り向く。
「『火燐楼』に着いてもし椿を見かけたら、今からでも『桃源楼』に向かった渡り舞について行けって、言っといてくれねぇか。やっぱりお前の直感は気になるからな」
 意外な申し出に、一瞬久暁は虚を突かれたような顔になった。が、すぐにいつもの平静さを取り戻す。
「分かった。杞憂にすぎないと思うが、ありがとう燥一郎」
「俺とお前の仲だろ。たまの休養だ。一緒に楽しんでこい」
 振り返らず、後ろ姿だけで手をひらひらさせる燥一郎に、すずかも応えて小さく手を振る。良い友を持ったと心の中でのみ呟き、久暁は生産域区にある自らの屋敷を後にした。





 『火燐楼』に着いた時には、すでに『彩牡丹』から来た渡り舞による演舞が始まっており、見世が並ぶ大通りの両側は、ひしめき合う見物人で埋め尽くされていた。
 芸妓達は通りの中央をねり歩き、時には立ち止まりながら舞を披露していく。遅れてきた久暁達は、とてもその中心まで近付けそうになかった。
 その代わり、並みの昇陽人より長身である久暁は、ここでも頭一つ分は飛びぬけている。その両肩ですずかを肩車すれば、難なく人垣の向こうが見渡せた。
「どうだ、すずか。見えるか?」
「うん」
 返事は控えめだが、その顔は正面を通り過ぎる芸妓の一団に釘づけである。傍にいる枳はすでに見ることを諦め、演舞よりも久暁の頭を掴む娘の様子に目を細めていた。
「良いわねぇ、すずか。特等席よ」
「去年見た渡り舞とも全然違うだろう。今年はまた、一段と派手だな」
 舞の演奏と人々の歓声に紛れ、その言葉への返事はなかった。久暁の視覚と聴覚もまた、人垣の向こうを通り過ぎていく華やかな行列を追うのに忙しい。
 『彩牡丹』から来た一団は、黒地に様々な色彩の錦を織り込んだ着物を纏っており、その半数以上が年若い女に見えた――というのも、『下都』唯一の男娼を専門に扱う遊廓である『彩牡丹』からの芸妓となれば、見た目は女子でも、その実は男である可能性が高い。そして『彩牡丹』の女形はその特性ゆえに、女が持たぬ色香を備えた女として、独特の雰囲気を備えていた。
 また、艶やかな女舞の前後には、一戸の楼閣に匹敵するほどの大きさをした山車が、居丈高に存在感を示す。三重になった山車は黒漆の上に金銀を貼り、その全体を絡め取るようにして、巨大な五色の龍が巻きついていた。
どの遊廓も渡り舞の見世物には気合を入れるが、今年の『彩牡丹』が率いる山車の迫力は圧巻だ。だが、巨大な車輪をゆっくり転がしては進んでいく、豪華絢爛な祭りの目玉を目で追う久暁の表情は厳しい。
「何か不満げね、久暁」
「山車の龍の造形が甘い。二つの山車で合わせて十頭、どうして全て同じ顔にしてある。色だけ変えて満足しては中途半端だ」
 憮然とする久暁の指摘に、枳も思わず苦笑する。当の『彩牡丹』の者に聞かれでもすれば反感を招きかねないが、幸いこの祭りの賑わいでは聞こえるはずもない。
「こんな時でも、貴方らしい感想ね」
「あ、あぁ……すまない。いつもの癖で」
「そんな、謝らなくても。貴方のそういう生真面目なところが好きなのよ。燥一郎に爪の垢でも飲んでもらいたいくらいね」
 先の燥一郎の様子を思い出したのか、呆れたような溜息が美しい唇からついて出る。今度は久暁が思わず笑みを浮かべる番だった。
「相変わらず、枳は燥一郎と顔を会わせると口論が絶えないな」
「あら、そんなに仲が悪いように見えていたの」
「違う、逆だよ。出逢ったばかりの頃から、枳は燥一郎にだけは手厳しいと思ってな」
「燥一郎は能天気すぎるのよ。初めて逢った時からそう。覚えている? 私が『白梅廓』からの渡り舞として『桃源楼』に行った時、燥一郎がどうしていたか」
 懐かしいなぁと、久暁の双眸が細まる。彼にとっても、枳との出逢いは忘れようもない、かけがえのない大切な思い出の一つだ。
「若衆頭で警備に専念しなくちゃいけないって時に、あの人、呑気に見世の上からこちらを見物していたのよね」
「でも、おかげで騒動になるのは防げた」

 忘れもしない、初めて枳と遭遇した八年前の夏祭り。
 当時まだ『桃源楼』の一員だった久暁と燥一郎の前に、枳はかつて身を置いていた『白梅廓』――後々、燥一郎がこれを乗っ取り、『火燐楼』と成すのだが――の渡り舞として現れた。
 その頃すでに『白梅廓』一の遊女として知られていた枳は、『下都』一の芸妓でもあった為、彼女の行く先では人々が大挙して押し寄せるのが常だった。そして離反者が現れる以前の『桃源楼』は、現在よりも強大な存在感を誇示しており、他党からの反感も強かった。
 すると当然、『下都』一の美女を追う群衆に紛れて、よからぬ事を企てる者も現れる。自らを厳重に警護させる『桃源楼』惣名主の利宋を暗殺することは難しくとも、『桃源楼』への反発を煽り、失墜させるだけの事件を起せば『下都』の均衡は崩れる――その為の標的として狙われたのが枳だった。
「楼の上から眺めていた燥一郎が賊に気付き、匕首を投げていなければ、枳は助からなかったかもしれない」
「間一髪で斬られる所だったものね。けれど、その前に刺客が通りへ飛び出してきた時、真っ先に私の前に駆けつけ庇ってくれたのは貴方だった」
「嫌な予感がしたし、俺は目が利いたから」
「そうね。あの時、私を守ってくれたのが貴方で、本当に良かった」
 いつの間にか、二人は目の前の絢爛な光景とは違う、過去に見た騒然たる一大事の記憶を見つめていた。二人にとって、それは何度季節が廻ろうとも瞼に焼きついて消えない、唯一の祭だ。共有する時に想いを馳せる内に、自然と互いの両手が繋ぎ合わされる。
とと、あっち」
 最後尾の山車が手前まで近づいてきた頃、おもむろにすずかが久暁の黒髪を引き、そこでようやく我に返る。
「もう見るのはいいのか?」
「うん」
「そうか。それじゃ、屋台の方に行こう」
 人ごみですずかが体勢を崩さぬよう、ゆるりと振り返り大通りを後にする。その間、もう片方の手はほっそりとした枳の手を、はぐれないようしっかりと握りしめたままだった。


 昇陽人よりはるかに長身であるのに加え、浅黒い肌をした久暁の外見は相当目立つはずであるが、これだけ祭りが盛況で、なおかつ馬鹿騒ぎする者達がこぞって異様な装束を身に纏っているせいもあり、彼に向けられる奇異の視線も紛れてしまう。そのせいか、こうして蒸し暑い熱帯夜の只中に居ようとも、久暁にとってこの空間は好ましいものであった。
「どこに行きたいんだ?」
「金魚と、飴」
「そうか。飴は何を作ってもらうんだ?」
「モチ」
「……ああ、モチか。うちの猫の。じゃあ、そうお願いしないとな」
 肩車から降り、久暁に手を引かれ歩くすずかは表情こそ大人びているが、辺りを見回す視線は年相応の好奇心に満ちていた。そんな親子の会話を、一歩後ろからついて歩く枳が微笑ましく見守っている。
 大通りから枝分かれする小路は、何軒かで身を寄せる見世の一角を区切りながら升目状に遊廓を走っており、祭りの期間中はこの小路に様々な見世物や屋台が並ぶ。
 婚姻制限によって子供の数が極端に少ないことから、すずかと同じ年代の少年少女を見かけることは稀だ。それ故、子供が楽しむような余興があるだろうかと久暁は案じていたが、顔には表われずとも、すずかはそれなりに家族と一緒に過ごすこの時を喜んでいるらしかった。
「っと、あれは……」
 数々の怪しげな露店の前を通りすぎながら、金魚すくいと飴細工を探し歩いていた三人だったが、唐突に、久暁の視線が彼方へと向けられる。目的の屋台を見つけた訳でないのは、獣の瞳が標的に照準を定めるように、微かに揺れ動いていることから明らかだった。
「すまない、枳。すずかと少しだけ待っていてくれないか。さっきあの角を椿が曲がっていった」
「分かったわ。なるべく早く戻ってきてね」
 すずかの小さな手を枳に預け、返事をすると同時に、久暁は椿の跡を追い走りだした。

 雑踏を縫うように、背の高い身体がするりと人々の間を抜けていく。
 祭りであるだけに、今はどの路も、通常よりも多くの明かりが灯されている。煌めく燈籠の光は常夜を忘れさせるほどに眩く、それを作った本人である久暁の双眸も輝きで満たす。視線を巡らすにも目を細めなければならず、先へ先へと歩み去っていく傾いたいでたちの背中を追うのにも苦労する。
 久暁の旦那、とすれ違った誰かに呼ばれた気もしたが、今は振り返っている暇はない。久暁もまた椿の名を呼んでみたが、進む後ろ姿は相変わらずだ。
 ようやく人五人分の間にまで距離が縮まったかと思うと、椿はまたしても路の角を曲がっていった。ちょうどその角には、すずかが行きたがっていた飴細工の屋台が立っていた。後でまた来なければ――そう思考の隅に記憶し、久暁も角を曲がる。

「あ、とと
 不意にかけられた声と視界に入ってきた姿に、今度は久暁も足を止めずにはいられなかった。
「あら久暁。椿の事はもういいの?」
 つい先程別れたはずの枳とすずかがそこにいた。二人とも、狐につままれたたような表情をした久暁の様子を、不思議に思っているようである。人混みと燈籠の光に惑わされ、椿を追うのに急く余り、いつの間にか元来た場所へと戻ってしまったのだろうか。
「いや、さっきまで追いかけていたんだが……こちらに来たのを見ていないか?」
「ごめんなさい。すずかと話し込んでいたから、全然気づかなかったわ」
 視線をすずかに移せば、彼女もまた、頭を横に振って答えた。急いで顔を上げ、二人の向こうに続く景色を見据えたが、あの後ろ姿はもうどこにも見つけられなかった。
「若衆の誰かに頼んで、言付けしておけば良いんじゃないかしら。この人手の中、探し回るのは大変よ」
「……そうだな」
 徒労に終わった追跡に落胆したのか、久暁の声が沈む。
「『桃源楼』に向かった渡り舞が心配なのは分かるけど、利宋だって八年前の件があるから、そうそう自分の縄張り内で騒動は起こしたくないでしょうし。少し心配しすぎよ、久暁」
 そんなことより――と、枳は久暁がやって来た道の方を指差した。
「さっき通りすがりの露店の人に尋ねたら、飴屋さんはそっちの方向にあるんですって。こちらに来る途中で見かけなかった?」
 花がほころぶような微笑で枳は尋ねたが、その視線が久暁の方へと向き直った途端、笑みに影がさした。

 久暁の紅の瞳に、火が点った。
そう錯覚するほどに彼の表情が強張り、鋭さを増した眼光が、妻であるはずの枳を射ぬかんとしている。ほんの一瞬での豹変ぶりに、枳の形の良い眉が顰められる。
「どうしたの久暁」
「枳が何故、俺が椿を探す理由を知っているんだ。さっき俺が追いかけていく時も、理由を聞かずに行かせたな」
「それは貴方、屋敷で燥一郎と話していたでしょう」
「あの時すでに、お前はあの場から去っていた。俺には気配が分かる。そして――」
 口にしたら全てが終わる。
 そう確信しながらも、悟ってしまったからには止められない。
「お前が嘘をついていることも、今の俺には分かるんだ」
 周囲は三人の様子などお構いなしに、延々と続くかのような宴に興じている。
 しばしの沈黙の後、枳は戸惑った笑みで応えた。
「久暁、少し人酔いして疲れているのよきっと」
「椿の存在をそのまま残したのは失敗だった。アイツが『火燐楼』にいる理由は、この世界が全くの偽りだという証明にならざるをえない。だからこうして直接対峙しないように操作したんだろう」
「一体何の話をしているの。いい加減にしないと怒るわよ」
「椿は俺を殺さずにいる代わりに『火燐楼』に身を置き、俺と燥一郎から望む情報を得ていた。俺がアイツに話したことは全て、ここに居場所がないと絶望していたことに繋がっている。俺が儚人≠ナあったが故の絶望にな」
 決定的な言葉を聞き、ついに枳の表情から笑みが消えた。今のこの世界において、久暁とは一切無縁であるはずの言葉。
 全てを思い出した事で、今や久暁は完全に醒めた。破裂しそうな感情を必死で押し留め、目前の夢の女に告げる。
「それでも、『火燐楼』にいる間は椿も本来の自分を忘れ、若衆頭の椿≠ニして生活することを良しとしていた。それを俺も意識していたから、直接会って会話しさえしなければ、俺もこの世界を疑わなかったはずだ。しかし、枳――今の俺はどういう訳か儚人≠ナはない。だから、より強く分かるんだ。偽りから生じた綻び、その違和感が」
 目を焼くほどに眩い燈籠の光。それを何の感情も抱かずに過ごしたことなどない。あれは忌まわしい光だと、そう避けてきたことを心の奥底では覚えていたせいなのか、椿の存在を起点にした違和感は、常夜を照らしだす光を受けさらに亀裂を広げていった。あと一押しで砕けるという所まで。
 その一押しを、枳は口走ってしまったのだ。もう誤魔化しは効かない。
「ねぇ、とと。どうしたの。喧嘩は駄目だよ」
 両親のただならぬ様子に、すずかが不安げな声で久暁の袖を引いた。
 この子もまた幻だ。久暁が儚人≠ナなければ在りえていたかもしれない、叶わなかった夢の子ども。
 声に応え、少女の方へと向けた顔は、すでに父親らしさを失っていた。代わりにあるのは、別れを告げようとするかのような哀愁だった。
とと、楽しくないの? 幸せじゃないの?」
 なおも心配そうにこちらを見上げてくる子と目線を合わすべく、久暁は身を屈めた。母親譲りの整った顔立ちと白い肌、父親譲りの紅い目をした子を、浅黒い腕でしかと抱きしめる。
「ここは幸せだ。けれども、全てが嘘だと俺には分かる」
 すずかの小さい身体から伝わる体温は、間違いなく人そのものだ。それだけに、この世界が夢でしかない事実を告げる己の直感が恨めしい。
 しかし、それでも久暁はその直感を信じることにした。
「もう止めてくれ枳……いいや、冽。こんなものは辛いだけだ」
 すずかから身を離し、再び枳の方へと向き直る。彼女はもはや、その美貌に何の感情も表してはいなかった。久暁がずっと恋焦がれてきた枳という女もまた、夢を見させる為の人形にすぎない。
「本当に馬鹿で哀れな人。気づいても素知らぬふりをしていれば、ずっと幸福な夢を見続けることができたのに」
 枳とよく似た声が、彼女の後方から久暁の耳を抉る。
 最後に見た姿と同じ、白い着物に首元までの黒髪。顔の右半分を醜い火傷に覆われたその人物はしかし、全身に入れ墨のような紋様を浮かび上がらせた無性の姿で、再び久暁の前に現れ出でた。





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