<昇陽の神器>



 東の空が明るみ、星々の瞬きが弱くなる。朝焼けに燃える水平線からは、夜の底から蘇った太陽が今にも生まれ出でようとしていた。
 しかし、『昇陽』の大地は未だ暗い帳に覆われている。それは昨日、日没よりも早く陽光を消し、今をもって朝の訪れを妨げているモノのせいだ。
 地より仰ぎ見れば、それはまるで一つの島が浮いているようにも思えた。よくよく目を凝らせば、その一塊の巨躯が、とぐろを巻いた姿であると気付くだろう。空を寝床とする化け物は、鋼でできた鱗の一枚一枚でもって天から降り注ぐ光を遮り、あるいは反射させ、地上を照らすまいとしていた。
 体内で脈打つ冷たい血潮のせいか、黒々とした体躯は、そこかしこを薄氷に包まれている。陽光を受けようとその衣が溶け落ちる様子はなく、禍々しい身を飾る戦化粧さながらに、まばらな雪は怪物に荘厳な美しさを与えていた。
 未だまどろんでいるのか、時折り低く唸る他は静かなもの。一方、空中に留まり続ける鋼の獣の頭頂で、彼女はずっと下界を見下ろしていた。
 正確には、今は彼女≠ナはない。
 夜に凝った冷気と、鋼の体躯に冷やされた風が、剥き出しになった上半身を強くなぶっている。それでも鳥肌一つ立てない白い肌の上には、無数の紋様が羅列となって絡みつく。かつての姿を失い扁平となった胸元、長く細い腕、すらりとした首筋のみならず、着物の裾から覗く足の爪先に至るまで、呪詛のごとき文字は途切れることなく全身を巡っていた。半ば焼けただれた跡を残す、怨嗟を顕現させたような顔にも。
「まだ封印≠ヘ解けていない。このまま事が動くまで、この鉄忌を飛ばし続けるつもりか」
 背後からかけられた声に、冬空を映したような瞳がようやく眼下から離れる。振り向いた先に佇む赤い人影に投げかけた一瞥には、嘲笑が含まれていた。
「あれほど無力さを味わっておいて、まだ私の元に現れるの。懲りないわね」
「今は貴女を害するつもりはない。話をしに来ただけだ」
 雪女≠ニ呼ばれていた存在――冽から離れること数間先。大きく突き出た一枚の鱗の上に、黒い色眼鏡をかけた男が佇んでいた。風に煽られる赤い髪は激しくふり乱れ、昇りゆく陽を受けて火の粉を撒くように輝いて見える。だが表情は固く、まだ夜を引きずっているかのように暗い。
「話?」
 彼の言葉に、冽はいっそう憐れむような目を向けた。
「この期に及んで命乞いでもしようと言うの?」
「……貴女の次の手を伺いに来ただけだ。進退はそれから決める」
 皮肉を無視し、八佗は不動の姿勢で自らの要求を述べた。ほんのわずかな会話をかわす間にも空はすっかり明るみ、いよいよ東の空が金色に輝こうとしている。これはどちらにとっての時間稼ぎなのか。両者とも、ただ刻々と過ぎゆく時間に焦る様子はない。
「進退なんて考えるだけ無駄よ。私はこの世の理を書き換える。そこには貴方の存在意義などない」
「私の進退ではない、この国の存亡についてだ」
「へぇ、まだこの国の神器≠フつもりでいるのね。元々人から神器≠ノ転向した貴方のこと、数百年も面倒を見ていれば愛着が湧いて当然なのかしら。私にはついぞ分からない感情だけど」
 クスリと冽が笑うと、二人に吹きつける風がさらに寒さを増した気がした。青白い頬に貼りつくように伸ばされた黒髪が吹き払われる度に、右半面の焼け跡がありありと陽光に照らしだされる。それを恐ろしいと思う八佗ではなかったが、美醜を併せ持った冷酷な笑みには嫌悪感が湧いた。
「この鉄忌、七穢なえ≠ェ惨事を引き起こすのが心配? 安心なさい、貴方が何も仕掛けない限りは、これを地に下ろすつもりはないから」
「ではこちらが手を出した場合は」
「そうね、ここから眺める景色の半分は、爪の一掻きで原形を留めなくなるでしょうね」
 含むまでもない脅迫。彼女にとって、今は来るべき者が訪れるまで待つだけの退屈な時間だ。その無聊の慰めという矛先が、いつ振り上げられることになるか。
「今の私なら、民草を手にかけようが何の呵責も湧かないわ。そもそも人間を害せなかったはそう定められていたからにすぎない。軛がなくなればどうでも良きこと」
「ならば何故、根源の起動式を改変しようとしている?」
「今在る理が間違っているからよ。間違いは正さないと」
「貴女が望む正解にか」
「誤りに蝕まれた世界を存続させ、滅ぶがままにしておくよりはるかにマシよ。考えてごらんなさい」
 冽の細指が八佗を指す。今の彼女は管理者≠ニしての機能をほぼ失っているはずだが、向ける指先には、八佗を刺し貫こうとするかのような脅威が宿っていた。
「私が世界を変えれば、人は統制を取り戻し、争いのない恒久的な平和が蘇る。儚人≠燗度と出現しない。暁来のかけたまじないが解かれない限り、私達はこの星で利用され続けるだけなのよ」
「それで、代わりに貴女ののろいを甘んじて受けろという訳か」
 半分まで顔を出した太陽を、流れてきた雲の壁が遮り、その濃い靄の縁が金色に染められる。八佗の瞳と同じ色だが、黒眼鏡に隠された眼は、新しい一日を告げる光を拒絶していた。これ以上の時の経過を望まないように。
 返された言葉にも、冽はただ冷笑でもって応えるのみ。
「本当は分かっているんでしょう? どうすることが最善の方法であるのか。神器≠ニしての定めに背かず、貴方が抱え続ける使命を終わらせるには。いい加減に認めなさい。貴方の夢はとうに潰えたのだと」
 太陽を隠す雲が、徐々に濃さを増していく。彼方に見える叢雲だけでなく、二人の間を漂う霧までもが光を遮ろうとする。強風に流された雪雲がここまで漂ってきたのかと思えば、実のところ、それはより確実に八佗と冽の周囲に吸い寄せられていたのであった。
 黒鋼の鱗がかすれた音を立て起き上がる。緩慢な動作は、未だに半ば眠りから覚めていない証だろう。足元がゆらりと揺れ、怪物が大きく息を吸う。それにとっては僅かな寝息に等しいのかもしれないが、背に乗る二人にとっては、声も届かぬほどの強風となる。引き寄せられた雲は、それもまた鉄忌の一部であるかのように周囲を巡り、いつしか衣のごとく厚さを増していた。
「最後に一つ訊く。彼は今どうしている?」
 つい先日、霧の中で相対した時を思い起こしながら、八佗は重ねて問うた。
 目の前の男がそれを尋ねたのが意外だったのか、冽は一寸、訝しげな眼差しを向けた。
「生きているわ。でも、もう二度と貴方の主やあの娘には会えないでしょうから、きちんと教えてあげなさい。儚人≠ヘ私の中に溶けて、その存在を完全に失ったのだと」
 次に浮かべた満面の笑みは、彼女が心から愉しんでいることを告げていた。
 その言葉の通り、あの儚人≠ヘまだ生きているのかもしれないが、冽に取り込まれた彼がどうなっているのかなど、八佗ですら知る由はない。
「話はここまで。次に会いまみえた時には容赦しないわ、消え失せなさい」
 女の声に呼応し、渦まく雲が二人の姿を完全に隠す。たがが外れたかのような哄笑が耳に響くのを苦々しい表情でこらえ、八佗は全貌を雲中に潜ませた七穢から姿を消した。





「それで、おめおめと退き下がったという訳ですか」
 昨日の混乱から一夜明け、ようやく設けられた朝議の場にて語られた八佗の報告は、多くの失望と苛立ちを招いた。
 時刻計の針が卯の刻を過ぎてより半刻。とうに太陽は昇りきったはずだが、相変わらず屋外は暗がりに覆われている。ただし、空に浮かぶ怪物の全貌は分厚い雲に隠され、今では濃い影すら見えない。通常の曇天ともまた異なることに、その黒く広がる雲は呼吸をするかのごとく、常に一定の流れにそって渦巻き続けていた。
 不穏そのものなのは天の様子だけではなく、陣定じんのさだめに会する官吏達の胸中も同じだ。八佗の屋敷の講堂に集った数十人の公卿らは、いずれも階級に沿った色彩の束帯を纏っている。定められた通り列を成す彼らの前に座すのは、この『昇陽』の王=\―白巳女帝であるかぐやだ。
「内大臣、右大臣に対して左様な物言いはお止めなさい」
 八佗へ嘲笑めいた苦言を漏らした官吏の一人を、すかさずかぐやが咎めた。ずらりと並ぶ官吏達の先頭に座する内大臣と呼ばれたその男は、それでも主の叱責に退かず、堂々たる面持ちで応えた。
「恐れながら主上。『昇陽』の守りの要として、化生の物に直接対抗する術を持つのは右大臣殿、ただ一人なのですぞ。それが敵地に乗りこむ業を持ちながら、手も足も出せずに舞い戻ってくるなど。あの目前の脅威を前にして、民に何と説くおつもりか」
 内大臣――名をつぶらい時道ときみちという中年の男は、蛇の目に例えられるその眼差しで八佗を見据えた。八の字に整えられた口髭は見事な左右対称を成しており、完璧主義者としての内面がありありと表れ出でている。
 長らく左大臣派を標榜していた円家の代表である時道にとって、八佗は目の上の瘤である。両者が険悪な仲であり、また超常の力を持たない円家がその引け目故に、八佗の政策に一端の歪みも良しとしないことは周知の事だった。『茫蕭』に対して一向に埒があかない現状、追及もより厳しくなっていた。
「そも、右大臣殿には先日の単独行動についても、問いただすべき議がございます。自ら武士達を率い出立しておきながら、道中で姿を消し、あまつさえ主上を危険にさらすなど。御身は己の力を過信するあまり、右大臣としての務めを心得違い致しておるのではありませぬかな?」
 時道の追及には、一昨日に相克酒場で行われた密会への非難も含まれているのだろう。一瞬、八佗に不安げな視線を送ったかぐやだったが、彼は挑発めいた時道の物言いに何も動じることはないとばかりに、毅然とした様子を崩さずにいる。
 密会の翌日にも、難癖を付けて武士十家の招集を妨害した円家だが、彼らとて『昇陽』の将来を憂いている有司である。政敵への非難は、彼らが思い描く理想の国を造るための厳しさでもあるのだとかぐやに教えたのは、他ならぬ八佗だ。
 しかしこの詮議立ては、八佗の右大臣としての責務を問い糾しにかかっている。左大臣が健在であった時と同じく、超常の力を持つ八佗が自ら盾となり剣となるが故に、実質的な指導者となることを認めていた円家とその他の旧左大臣派にとって、その絶対性の破綻は許されざることであった。
「内大臣、今は右大臣の責任を問うよりも先に詮議せねばならないことがありましょう。それに、左様な過ちを右大臣が犯すはずがありません。昨日の行動にも、相当の理由があったのでは」
「ですが主上。昨日の右大臣殿の行為は、明らかに使命の放棄に値します。分身の術を用いるのであれば、少なくとも一名は主上のお傍に控え御身をお守りせねばならぬ所を、よもや鉄忌のみならず、閻王や雪女≠ニも遭遇させる羽目になるとは、何のための超常の力であるのか。さらに遺憾でありますのは」
 ぎろりと蛇の目が動き、『昇陽』の民にはそぐわぬ八佗の異貌を睨みつける。
「そのような不祥事を起こしながら、我々にはあの化け物どもに対抗する術がない故に、今後も右大臣殿の行為に目を瞑り続け、頼るしかないという事でございます。これでは法も何もあったものではありませぬ」
 ――内大臣殿は、お師匠様を罪人にしたいの?
 誰にも聞かせてはならない疑問を、痛む胸中にてそっとこぼす。白巳女帝としてこの場に在る以上、不和や疑念を招きかねない発言はうかつにできない。
 今や誰もが不安の只中で恐怖し、解決の糸口を求めている。
 円時道とて、このまま巨大な鉄忌に留まり続けられていては困るはず。だが、頼りとなる八佗が対抗手段を何一つ持たないとなれば、それこそ最悪の事態である。
 今の内大臣は八佗に不満をぶつけることでしか、この状況に順応することができないでいるのだ。高官の彼ですらこの様子ならば、他の者も、ましてや外にいる民衆が、さらなる不審を抱えていてもおかしくはない。
 時道の発言に言葉を窮したかぐやの様子を見てとったのか、ようやく八佗が口を開く。
「私の昨日の行動については、後に如何様な処罰も甘んじて受けるつもりだ。それが待てぬというのならば、あの大鉄忌も民のことも後回しにし、このまま話を続けたまえ、内大臣殿」
 その言葉に、時道は一度ゆるりと頷き、口元をきっと引き締めた。不満を押し殺す一方で、好機を得た喜びを隠すかのように。
「その言葉、しかと覚えておきましょうぞ。今が非常時なればこそ、この場での追及は保留と致しますゆえ。その代り、今後いかなる策を――」
と、時道が次の議題に切り替えようとした、その時。

 どぉん、ごとんと。
 まるで丸太が壁に激突したかのような音が寒々しい空気に響き渡り、居並ぶ者達の肩を震わせた。
「な、何か、あの物音は?」
「失礼。離れで少々取り込み中なもので。お気になされぬよう」
 すわ空の鉄忌が尾でも下ろしたかと想像し、すくみあがる一同を、平静そのものな八佗が宥める。
「離れにいるのは何者です?」
「武士十家の若い者が数名。その内の一人は、封印≠ウれた『央都』からこの地に現れた浅葱家の娘だ」
「ほう、例の……」
 昨日の会に出席しなかったとはいえ、時道の耳にも封印≠越えてきた客人の件は届いている。
「それは是非とも、この陣定が終わり次第、面会をお願いしたく思いますな」
「善処しよう」
 八佗の物言いに、時道はわずかに怪訝な表情を浮かべた。その意味する所を問おうとしたものの、
「では今後の対策について、私の意見を述べさせて頂きたく」
 即座に次の言葉を継いだ八佗に止められてしまう。
「雪女≠フ言い分は、先に申し上げた通りだ。彼女にはすでに、こちらを攻撃する意志はない。あの鉄忌は最早、私に対しての牽制と防御でしかなく、彼女の目的が果たされるまで、我々が大人しくしてさえいれば良いらしい」
「襲撃者の言葉を鵜呑みにするおつもりか」
 またしても聞き捨てならぬとばかりに、時道が八佗の発言に食いつく。その指摘に賛同して、他の内大臣派の官吏達からもおうおうと声が上がった。
「『茫蕭』の襲撃から二十七年。その間、鉄忌の徘徊に悩まされながらも、我々は今日まで耐えてきた。しかしいっこうに敵の去る気配はなく、あまつさえあの化け物ですぞ」
「あれほどの脅威を見せながら、我々を攻撃するつもりはないなどと、その様な話、俄かには信じがたい」
「右大臣殿が雪女≠フ言葉を信用した、その根拠を教えて頂きたいものですな」
 一人が恐怖を抑えることを止めれば、続けざまに噴き出してくる。日頃『癒城』の中心街に籠りきり、円家と右大臣の指示を仰ぐばかりの彼らにとって、八佗に反論するなど思いもよらないことのはずだ。
 それでも、八佗は変わらず頑なだった。
「全てを話したとて、方々には到底理解はできまい」
 嘲りの色は含まれていなかったが、その言葉は一同をさらにいろめき立たせるのに充分すぎた。内大臣を始めとする一派の顔色が変わるのを察知し、慌ててかぐやが口を挟む。
「右大臣、私からも頼みます。この状況にあっては、どのような情報であっても共有しておくことがまずは肝要ではないのでしょうか。でなくば皆の意見を一つにまとめることも叶いません」
 さすがに白巳女帝の求めとなれば、八佗も応えない訳にはいくまい――そう固唾を飲んで見守る貴族達の視線が集まる中、かぐやは声の震えを必死で抑えながら続けた。
「我々を襲う気はないと、そう雪女≠ェ申したのは確かなのでしょう。ですが、未だに私達は彼女が何の為にこの国を襲い、何のつもりで今になって私達を襲うつもりはないと言い切ったのか。それを知らずして翻弄されるばかりでは、人々の心は安らかになりません。彼女、そして右大臣――貴方がたが何のために今此処に在るのか。それをはっきりと示して欲しいのです。全てを明らかにすることで」

 ――これはこれは。
 白巳女帝らしからぬ迷いなき発言に、思わず時道は内心で舌を巻いた。
 かぐやの言葉は間違いなく、一同の不満を代弁していた。常に右大臣の陰でひっそりと鎮座し、意見を言えども八佗にすげなく一蹴されるという、形ばかりの帝かと思っていた彼女が、いつの間にこれほど八佗に物申すようになったのか。
「右大臣……」
 真摯な眼差しを向けるかぐやの願いにも、八佗は沈黙を貫いている。だがあと一息――焦れる時長だったが、ここで揶揄すれば逆効果である。
「右大臣、お願いです。どんな事実であろうとも私は信じます。だから話して下さい」
 返事を待つ静けさが、講堂の寒さを増幅させる。
 なのに、誰もが身体の震えすら忘れて次の言葉を待ち望んでいる。
「どんな事実であろうと?」
 ようやく声を発した八佗は、かぐやも誰もその眼に映してはいない様子であった。黒眼鏡に隠された金色の瞳が見据えるのは、彼に挑もうとする意志そのものだ。
「知れば打ちのめされるだけの事実を、それでも知りたいと言うのかね」
 念を押す八佗の気迫は、昨日雪女≠ニ相対した時と変わらぬほどの、決死の覚悟を備えていた。官吏達が思わず慄く中、かぐやだけは一歩も引かぬ姿勢を保っていた。
「お願いします」
 いつもなら、こうしてかぐやが懇願した場合、八佗は致し方ないとでもいうような溜息を一つつくのが癖であった。ところが今回はその気配もなく、代わりに己が抱える歳月の重みを示すかの様に、微動だにしない表情と威圧が、周りを射すくませようとする。

 その膠着状態から急に、八佗が離れの方へと視線を向け、危急の顔色を見せるなど誰が予想しただろう。
 不可解な八佗の挙動を問うより早く。
 先程聞こえた物よりはるかに巨大な音が、一同の耳朶を打った。

「な、何事!?」
 まるで鉄忌の眼球が破裂したかと思う程の、すさまじい爆音であった。真実何かが破壊された物ならば、壁の一枚や二枚は粉々になっていてもおかしくはない。
「右大臣殿、先程の音は一体何事か!?」
「取り込み中と申し上げたはず。詮なきこと故、各々方、静粛に――」
 動揺する官吏達をあくまで冷静に諌める八佗だったが、そこへ追い打ちをかける様に、今度は講堂の周辺を警護していた武士の一人が駆け込んできた。
「も、申し上げます! 離れの方から」
「知っている。私に報告するより先に、速やかに全員退避したまえ」
 血相を変える武士の報告を一蹴すると、八佗はおもむろに立ち上がり、居並ぶ者達の間をまっすぐ突っ切って、講堂の正面へと向かった。二枚合わさる引き戸に手をかけ勢いよく開けば、一瞬にして外の真白な空気が中へと侵入する。
 淀む雲に陰る白黒の庭。いつもなら静寂に満ちる空間であるはずの其処は、離れから疾走してきた小柄な影によって、たちまち本来の静謐さを失うこととなった。
「八佗殿、まだ勝負はついておりませぬぞ!」
「蛍さん!?」
 築山を抜けて一同の前に現れたのは、昨日の死闘から絶対安静を言い渡されているはずの蛍だった。未だに昨日の戦いの名残も痛々しく、黒装束はボロボロとなったままであり、傷ついた手に巻かれた包帯には血が滲んでいる。ただ妙なことに、拳を構える右の利き手だけは、あれほどあった裂傷が跡形もなく消えていた。
 荒い息をつく蛍の叫びに応え、雪を被る砂利を踏みしめ、彼女から数歩離れた位置に八佗が姿を現した。講堂の中の八佗は戸を開いてより、一歩も動いていない。忽然と出現した二人目の八佗は、彼の分身≠セ。
「何をしておるのだ武士達! 主上の御前ぞ! 早くその不届き物を捕えぬか!」
「落ち着きたまえ、内大臣。巻き込まれて怪我をしたくなければ、口を挟まずそこから退がることだ。皆も、一切彼女には近づくな!」
 そう命じたのは、蛍の前に立ちはだかった方の八佗だ。もう一人、陣定に参加していた方の八佗は、主や官吏達が前に出るのを止める――あるいは彼らを守ろうとするかのように、戸口で仁王立ちとなっていた。
「右大臣……いえ、お師匠様も蛍さんも、一体何が起きているのですか!?」
 かぐやの問いかけも二人には届かない。踏み越えられぬ間合いを挟んで睨み合う両者の目には、互いの姿だけが映っている。
「もう四度も挑戦して一手も届いていないというのに、まだ懲りないのかね」
 蛍と相対する方の八佗が、諭すように彼女に話しかけた。手負いの獣さながらな敵意を向ける蛍から闘志が失せる気配はなく、じりじりと足は間合いの内へと入り込んでいく。
「懲りませぬ。例え八佗殿が仰ったように、このまま待てば『昇陽』はおろか世界に安寧がもたらされるのだとしても、その為に久暁殿を犠牲にするなど、私には解せぬ!」
「現状、他に方法はない。これが最善の策だと、認めることだ」
 怒る蛍に対し、八佗は冷徹なまでにそう断言した。周りで様子を伺う者達にとって、その会話は不可解なものであったが、ただ一人かぐやだけは、二人の対立が八佗の黙秘する真実≠ノ起因しているのだと勘付いた。
「申し上げたはず。八佗殿がこのまま静観を貫き、諦めると申すなら、私は独りででも行く。久暁殿を救出してみせると!」
「確かにそう聞いたよ。そして、私に一手でもくらわせることができれば、七穢の元に連れて行こうとも言った。それが不可能だと分かりきっていることだから約束したことくらい、君にも分かっているのだろう」
「それでもお約束はお約束です!」
「仮に七穢の元へ向かった所で、どうやって儚人≠救出するつもりかね? 相手は管理者≠セ。そして儚人≠ヘ彼女に取り込まれてしまっている。鉄忌を斃す力があるというだけで、君に何ができる?」
「やってみなければ分からぬ!」
「神器≠ナある私を相手にして、すでにその様だというのに?」
「くっ……!」
 完膚なきにまで意志を否定され、悔しげに顔を歪めたのも一瞬。鳶色の瞳で狙いを定めると、蛍は一気に地を蹴った。
「早い!」
 すでに幾度も蛍の戦いぶりを目にしてきたかぐやでさえ、かつてない速度で八佗に迫った蛍の動きには驚嘆の声をあげた。日頃、武士達の鍛錬すら目にすることのない官吏達からすれば、瞬きする間に娘の拳が右大臣を打ったように見えたはずだ。
 ところが、繰り出された打撃を受け倒れたのは八佗ではなく、攻撃を仕掛けた蛍の方だった。
「うぐぁ!!」
 苦痛の声と共に吹き飛んだ蛍は、その勢いで築山の松をへし折り、さらには奥に築かれた塀へとぶつかっていった。硬い壁に小柄な身体が叩きつけられた途端、白い塀の面に亀裂が走る。いつ、どうやって、八佗が反撃したのか。居合わせる誰の目にも、その瞬間は全く見えていなかった。
「何度やっても無駄だ。いい加減に諦めたまえ」
「まだだ! これしきの、ことで……!」
 普通の人間ならば到底起き上がれないであろう痛手を受けながら、蛍はぎこちなくとも立ち上がった。二人の八佗は同じ顔で呆れたように溜息をつくと、おもむろに庭に立つ者だけを残し、もう一人が消失した。

 片方の八佗が消えた代わりに、そこへ慌ただしく駆けつけてきた一団がいる。離れに蛍と共にいたはずの、白戯ら武家の若者達だ。
「蛍! もう止めておけ!」
 この騒動を始めから見ていたであろう彼らは、講堂に辿りつくなり蛍へと呼びかけた。
「分かっているのかお前! 昨日の怪我もあるのに、さっき離れの壁ぶち抜いてふっ飛ばされて、身体ガッタガタのはずだろう!? 死ぬ気か!?」
「身体なぞ少し痛いくらいのもの! 心配無用ぞ!」
「馬鹿野郎! いくらやったって、そいつへの攻撃は全部お前にはね返ってくるんだ! そういう起動式なんだよ、破れる訳がない!」
「いいや、破れるはず!」
 揺るぎない蛍の反論に、白戯は言葉を詰まらせた。
 八佗が最も得手とする起動式は分身≠ナあるが、彼の武器となるもう一つの起動式がこの反射≠セった。八佗の戦闘力は、長年の修練で身につけた武術による所が大きいのだが、その武技のみで鉄忌を駆動させる起動式を破壊することはできない。
 一方で、同じ動力で活動する鉄忌が、互いを攻撃することは可能である。かつて八佗に襲いかかった鉄忌の大群が、何一つ武器を持たない彼を相手に全滅したのは、ひとえに自らが振りかざした爪や牙を受ける羽目になったからだ。それも分身≠オ、無数に数を増やした八佗を相手にしたとなれば、反射≠ナ跳ね返る攻撃の手数も増え、一撃が数倍の反撃に転じる事となる。結果、八佗は自ら動かずとも、ただそこに立っているだけで自分に危害を与える者へ攻撃することが可能になるのだ。
 現に今、攻守を兼ね備えたこの起動式によって、蛍は自分が放った渾身の攻撃を何度も我が身にくらい、跳ね飛ばされている。しかし、それでも彼女が諦めようとしないのは、昨日七穢が出現した瞬間の出来事を覚えているからだ。
 不意打ちだったとはいえ、あの時八佗は確かに、七穢の鱗に切り裂かれ深手を負った。今は傷も癒えたようだが、その事実は彼の反射≠ェ絶対ではないことを教えている。
 求めるのはたったの一手。だがその一手は、圧倒的な存在を打ち破る可能性を見出す為に、必ず決めなければならない一手だ。その手段が昨日の死闘に隠されているはずだと、蛍は固く信じていた。
「君からの攻撃は全て君に返る。諦めが悪いとはいえ、それは充分に理解しただろう。これ以上、君の暴走に付き合っている暇はない」
 そう失望を込めて言い捨てると、八佗は蛍から視線を逸らした。固唾を飲んでなりゆきを見守っている一同の方へと向き直り、そのまま元居た場所へと戻って行こうとする。
 赤い袍の背が見えたのを合図に、またしても蛍が弾かれたように飛び出す。
 ――背後から襲おうと同じ事。
 背後から一気に迫る闘気を感じながらも、八佗は振り返ることなく、起動式により自滅する蛍の姿を想像した。

 しかし、その想像は彼の横を通りすぎる黒装束を目撃したことで、たちまち消滅する事となった。
「お、おい!?」
「ここここちらへ来るな無礼者!」
「ひぃっ、お助けあれ……!!」
 白戯達の驚愕と、貴族達の悲鳴が入り混じり、講堂の中は俄かに騒然となった。戸口を警護していた武士が止める間もない。疾風のごとく中へ飛び込んだ蛍は居並ぶ貴族を次々と怪力で押しのけ、目を丸くしているかぐやへと腕を伸ばした。
「蛍さん何を!?」
 かぐやが問うよりも早く、手甲をはめた手が彼女の腰と首筋に回され、がっちりと身体を拘束する。そこでようやく何があったかを悟り、居合わせた者達の顔から血の気が引いていった。
「主上! あぁ、何たることか!」
「小娘、貴様! 何と愚かな事をしでかしておるのか、分かっておるのか!?」
「な、何やってるんだよ蛍……」
 狼狽する者達に牽制の睨みを飛ばしながら、蛍はかぐやと共に奥へと後退していく。抵抗せずなされるがまま従うかぐやだったが、自分の喉元を押さえる手に力が入っていないことに気づき、ハッとする。
「蛍さん、貴女まさか――」
「静かに! お咎めは後で如何様にも受けますが、今はご無礼をお許しあれ……!」
 誰にも聞こえないよう耳打ちする蛍の切迫した声音に、かぐやはおのずと口を塞がざるをえなかった。彼女が自分に危害を加えることはないと確信しているが、その狙いを悟ったところで、どうすべきかと困惑する。
「方々、そのまま動かずに! 私とて主上に危害を加えたくはない。ただ、八佗殿に私の要求を叶えて欲しいだけなのだ!」
「何を白々しい。右大臣殿、如何なされるおつもりか」
 額に冷や汗を浮かべながら、時長は八佗に事態の収拾を促した。白巳女帝の身を案じ手を出しあぐねいている者共の中、ただ一人、赤い異貌だけが冷静さを保っている。
 だが実の所、それはこらえ難い憤りが湧きあがるが故の無表情であったのかもしれない。先刻、真っ向から抗おうとした蛍を弁舌と起動式で叩き伏せた時と異なり、今の八佗は落胆から転じた明らかな敵意を反逆者に向けていた。
「それが君の覚悟の証とでも言うつもりかね」
 黒い色眼鏡で目元が隠されていようとも、彼の金色の瞳から温もりが失せたことを蛍は感じ取った。
 この感覚には覚えがある。
 八佗が冽と対峙した、あの時の記憶が目の前に蘇る。
「ならば私は今この時より、正真正銘、君の敵だ」

 決別の宣言を告げ終えるよりも早く、蛍の背後より剥き出しの殺気が迫る。
 ――今だ!
 空を払う音を合図に、かぐやの喉を押さえていた五指が手刀に変わった。腕を振るう軌道の勢いそのままに、鉄忌の装甲をも貫く手が後方を薙ぐ。
 膨れ上がった殺気を切り裂かんとする手刀は、殺意がはるかに強固な実体を得た拳に止められた。
「やはりそうか……!」
 攻撃が阻止されるであろうことは狙い通りであった。分身≠オた八佗の拳撃が、硬く鈍い音を立てて蛍の手と衝突した瞬間、彼女から会心の声が上がる。未だ絡め取られたままのかぐやもまた、一つの事実に気付き目を見開いた。
 ――蛍さんの攻撃が反射≠ウれていない!?
 それまでいくら攻撃しようと蛍の身に返ってきていたはずが、八佗の拳と組み合う手は、しかと静止している。

 その攻防もつかぬ間。さらに下方から、もう一つの拳が直進してくる。
「ぐふッ!」
 両手が塞がった蛍のがら隙の胴へと、また一人増えた八佗の打撃が叩き込まれる。背骨まで突き抜けるような痛みに意識が飛び、肺の空気のみならず、胃液が喉元まで逆流するのを蛍は体内で感じた。
 全くの虚をつかれ、思わずかぐやからも手を離し、膝を折る。それだけで充分無力化させたと傍目には思えたが、小柄な身体が地に崩れ落ちるのも待たず、八佗は彼女を蹴り飛ばした。
「蛍さん!」
 講堂の床に倒れ込んだ蛍の姿に、かぐやは悲鳴に近い叫び声をあげた。それでも八佗から発せられる殺気は治まらない。攻撃を仕掛けた分身%人を消し、再び元の一人に戻ると、庭から講堂へと足を踏み入れる。気圧され恐怖に慄く周囲の者共には目もくれず、まっすぐ蛍の元へと歩んでいくが、その両の拳は未だ骨も軋まんばかりに、硬く握りしめられている。
「反射≠フ作動条件を見抜けたとして、たかだか十数年の研鑽による君の武功が、数百年を生き、分身≠行使する私を凌駕できるとでも思ったのかね」
 接近する八佗を前にして、蛍は咳き込みながらも片膝をつき、体勢を立て直そうとした。昨日の怪我も疲労も色濃く残る身体は思うままにならず、例え八佗と一対一で相対したとしても、同じく圧される事となっていただろう。

 八佗の反射≠ヘ防御と攻撃を兼ね備える。それほど優れた起動式ならば、常時用いることで、昨日のような痛手を受けることも防げたはずだが、実際はそうならなかった。七穢の攻撃を受けたあの時、八佗が傷を負った事実から推測するに、反射≠フ起動式は八佗が意識して作動させており、なおかつ自らが攻撃する際には扱うことができないのだろう。
 かぐやを人質にとって周囲の不安を誘い、八佗自らが手を下さないことには治まらない状況を作るのは成功した。
 しかし反射≠封じた所で、八佗のもう一つの武器である分身≠ニ、純粋な彼自身の戦闘力が依然大きな壁であることには違いない。
 たった一手くらわせるだけだというのに、その壁の何と高く、そして堅固なことか。
 八佗を打ち負かすには、あと一歩足りない。だが、
「君は、自分が何者であるのか理解したのだろう。それなのに、久暁殿を救うべく冽に抗うというのか」
蛍の間合いから離れること数歩の位置で、八佗は歩みを止めた。攻撃の手を休め再び蛍の自滅を誘うつもりかと思われたが、半歩片足を退きやや背を前に屈めた姿勢からして、相手が諦めない限り、また叩き伏せる気でいるのは確かだった。
「理解したからこそ、私は助けに行かねばならぬのです!」
「それは『茫蕭』の管理者≠笏ェ尺瓊に操られる形で、彼にしてきた事への償いのつもりかい?」
「違う! 私は、私は……!」
 言葉にならない激情に、蛍の顔に迷いが生じる。その隙を逃さず、不意に八佗の姿がかき消える。分身≠利用した瞬間移動で、忽然と蛍の目前に現れ、彼女の視覚が相手を認識するより先に手を動かす。唯一傷が癒えていた右腕、その肩に一撃を与え、続けてまたも鳩尾を打つ。
肩への攻撃によろめいたものの、胸部への攻撃を蛍は寸での所で受け止めた。しかし、拳を止めた手を即座に絡め取られ、空いた手で襟首を掴み上げられる。
 フッと身体が浮かび上がったかと思えば、視界が一回転し、背中から床に叩きつけられた。背骨から広がるしびれる痛みに、しばし手足の感覚が消える。それでもまだなお、蛍は歯を食いしばり苦鳴をこらえた。
「くっ、うぅ……」
「これ以上続けるなら、五体満足の状態でいられなくするがね。私は人間を害せない。しかし、自分が何者であるのかを理解した君は別だ」
 早朝の凍える空気よりも、さらに冷ややかな声が頭上から降ってくる。その間にも、蛍が両手をつき上体を起こそうとするのを見て、声音からさらに感情が消えていく。
「右大臣、もう止めて下さい! それ以上続けたら、蛍さんが死んでしまいます!」
「この状況でいたずらに『昇陽』を危機に陥れようというなら、その愚行、命で贖ってもらうより他はない」
「そんな……それでは、久暁さんを殺そうとした左大臣と同じではありませんか!」
 左大臣と同じと言われたことが、火に油を注いだのか。八佗の放つ鬼気がさらに膨れ上がる。反して、歪む口元は自嘲に満ちていた。
「あの八尺瓊と同じか……我ながら、よく今日まで『昇陽』の神器≠ナいられたものだと呆れるよ」
「それは、一体どういう意味です?」
 師としてでも臣下としてでもない、別人のような八佗の物言いに、かぐやは困惑せざるをえなかった。
 その真意を問う間もなく、ふらつきながら立ち上がった蛍の腹部へ、容赦なく八佗の足が突き出される。防御の遅れた小さな身体は、あっけなく後方へと蹴り飛ばされた。
「これが最後の警告だ。久暁殿のことは諦めたまえ。雪女≠フ目的が達成されるまで、このまま放置するより、我々に方法はない」
 腹部を押さえて悶絶する蛍の姿に、今度こそ勝負はついたと、誰もが予感した。なのに、顔を上げた彼女の鳶色の瞳は、よりいっそう強い闘志に満ちている。その気迫は、最前彼女が白巳女帝を人質にとったことさえ、一同から忘れさせるほどであった。
「それでも私は! 私は久暁殿を救いたいのだ!」
 片膝をつきながら、蛍は腹部にあてていた手を懐に差し入れた。そこから何かを取り出したかと思えば、その手に握られていたのは昨日久暁が消えて以来、彼女が頑なに所持し続けていた綺羅乃剣に他ならなかった。
 どれほど念じようと、久暁以外の者に剣は使えない。それでも蛍がこれを手放せなかったのは、久暁の生存を信じるが故だ。

 そして全てを悟った今。自らの手に在るこの剣がただの神器≠ナはなく、またこれを久暁に返すことにどれだけの意味が含まれるのか、彼女は知ってしまった。

「私が久暁殿を救いたいのは贖いの為ではない。私はずっと久暁殿に守られてきた。だから、私も久暁殿を守りたいのだ!」
「蛍、さん……?」
 揺るがぬその意志が、形となって現れたとでもいうのか。一瞬、蛍の背の上に揺らめく炎が見えた気がして、かぐやは慌てて目をこすった。ほんのわずかな、陽炎のもやにも似た微かな幻影だったが、垣間見た淡い色合いには見覚えがある。
「蛍さん、貴女は一体……」
 肩を震わせるかぐやの存在も埒外に、蛍の意識はひたすら眼前の八佗に向けられていた。
「最後の警告も拒否か。儚人≠フせいで君を失わねばならんとは、残念だ」
 これまでの中で最も長く重苦しい落胆の溜息をついた直後、八佗の姿が完全に消滅した。
「これは、一体どこに!?」
 それまで闘いの行方を見守ることしかできないでいた周囲の者達が、我に返って一斉に八佗の姿を探した。
 ただ一人、片膝をついた姿勢のまま屈みこむ蛍だけは、顔すら上げず微動だにしない。

 ――これが最後。おそらく八佗殿は理解したはず。
 自分が必殺の手を使う決意を固めたこと。そして、自分が何者であるかを理解した上で、課せられた使命よりも、己の心に従うことを選んだのだと。
 ――申し訳ない。かぐや殿、八佗殿、『昇陽』の皆よ。
 これは自分が生まれた意味を否定する決断かもしれない。だが、例え裏切り者となっても、悔いはしない。
 彼を守ること。彼を助けること。彼の記録を運ぶこと。
 それを生きる意味にしたいと、願ってしまったから。

「蛍さん、後ろ!」
 忠告の声は、はるかに遅かった。
 再び蛍の背後から現れた八佗が、彼女の脳天を潰すべく腕を振り下ろす。
 その出現と同時に蛍もまた振り返り、迫る腕へと手刀を突き出す。
 刹那の攻防の最中。娘の繊手を覆う鮮やかな炎は、映した者の目にその光景を焼きつけるべく、いっそう強く輝いた。

 肉と骨のぶつかり合う音も、苦痛の悲鳴もなく。
 まっすぐ空をきった蛍の手は八佗の腕を断ち、さらに赤い胸元をも穿った。

 誰もすぐに声を上げることができなかったのは、それがあまりにも予想外の出来事で、事実と認識するまでにかなりの時間を要したからだ。
 動きを止めた二人の内、八佗の右腕は鋭利な切り口をさらしており、断ち斬られたその先の手は床に落ちた途端、跡形もなく消滅した。だが、わずかに滴る血は床を濡らし続けている。
 至近距離で動きを止めた八佗の蛍の間では、淡い緑白色の炎がゆらゆらと身を躍らせていた。熱を持たない冷光を放つ火はそれ以上燃え広がりもせず、蛍の右腕だけを覆うように存在を主張している。
彼女の手刀の切っ先は、八佗の胸に届くかという、ほんの一寸の隙間を残して停止していた。
「何故、とどめを刺さないのかね?」
「一手でも与えることができれば認めると。そういうお約束だったからです」
 問いかけた八佗の表情は、腕の痛みをこらえてはいても苦痛に満ちていた。しかし、蛍の返答を聞いた途端、膨れ上がっていた殺気がたちどころに霧散していく。
 鈍い動きで蛍から離れ、断たれた片腕を押さえしゃがみ込んだ八佗の姿にいてもたってもいられず、かぐやは彼の元に駆け寄っていった。
「お師匠様! ああ、何ということに……」
「下がっていたまえ、かぐや。まだ蛍殿との話は終わっていない」
 かぐやに見せまいとするように、八佗は傷口をもう片方の腕で隠しながら彼女を制した。戸惑うかぐやだったが、それでも視線は吸い寄せられるように蛍の方へ――正確には彼女の腕が纏う炎に向かう。周囲の者達も息を呑み、奇怪だが惹きつけられずにはいられない火に魅入っていた。
「お師匠様、蛍さん。どうか教えて下さい。これはどういう事なのですか?」
 恐々尋ねるかぐやに、八佗は重苦しげな表情で沈黙するだけだった。代わりに蛍が口を開く。
「八佗殿、貴殿はいつから私の正体に気付いていたのですか?」
「……あの雪原で救出した時に、もしやと思ったのがきっかけだ。確信したのは、閻王から綺羅乃剣がかつての物とは変容していると聞かされた時だったがね」
 苦しげに話す八佗の様子に、思わずかぐやは制止をかけようとした。だが先に八佗がそれを察し、視線で彼女を押し留める。
「閻王曰く、綺羅乃剣は一度『茫蕭』の管理者≠フ手に渡った際、その起動式の一部を奪われたらしい。その後何らかの理由で改造を施され、久暁殿の手に渡ったようだが、彼が手にしていた剣はいわば容器、殻だ」
 久暁が綺羅乃剣を用いる時に発現していた炎――起動式は、殻である刀身と、そこから抜き出された中核を成す起動式とが、分離してなお繋がっていた為に行使できていたのだという。
 では、奪われた綺羅乃剣の核はどうなったのか。『茫蕭』の管理者≠フ内、『都』に潜伏していた者が炎を操っていたと、八佗は蛍から聞いた。それが綺羅乃剣の力に由来するものであるのは間違いないはずだが、ならば何故、その管理者≠フ手の内より逃れたにも関わらず、綺羅乃剣の力が失われていないのか。
 そこで八佗は一つの仮説を立てた。すると、全ての疑問にぴたりと答が当てはまっていったのだという。

「八尺瓊を襲う為、管理者≠ヘその身に綺羅乃剣の起動式を宿したのだろうが、その核全てを取り込むことはできなかったはずだ。取り込む情報量にも限界があっただろうからね。では器から切り離され、さらに分割された剣の残る核はどうなったのか」
 一度言葉を切り、八佗は蛍へと視線を向けた。様子を伺うのも一瞬、覚悟を決めた蛍の眼差しを確認し、了解したという風に軽く頷く。
「綺羅乃剣はこの世界に存在する最古の神器=Bその性質は、人から神器≠ノ変わった私のような、通常の神器≠ニは大きく異なっている。通常、神器≠ヘ管理者≠ノよって変化させられるが、綺羅乃剣を生みだしたのが何者なのか、それは全くの不明だ。ゆえにその機能の全てを解き明かすことはできないが、状況から考えて、君がそうであると判断せざるをえなかった」

 欠落している記憶。鉄忌をも斃す人並み外れた力。昨日の集会での異常。

「そして何より、『茫蕭』の管理者≠ェ久暁殿をこの地に飛ばした際、君もまた共に現れた。他でもない、君とその剣はかつて一体の物だったのだ。器をなくした剣の核が、死した者の身体を器として再構築し、生まれ変わった存在が君だ。君は云わば、人の姿を得たもう一つの綺羅乃剣なのだよ」

「蛍さんが、綺羅乃剣……」
 蛍の右腕で燃える冷たい炎が、八佗の言葉を何よりも証明している。自らの正体を明かされた所で、蛍はもはや動揺も困惑もしなかった。思うはただ一つ。
「私は、自分が人間でなかろうと構わないのです。『昇陽』の神器≠ナありながら個の感情に走る私に、八佗殿がお怒りになられるのも無理はありませぬ。ですが――」
「もういい。散々聞いたよ」
 蛍の話を遮り嘆息すると、八佗は腰を下ろし、無事である左袖を引き千切った。それで斬られた腕の傷口を縛り、改めて蛍に向き直る。
「お師匠様、早くちゃんとした手当を――」
「無駄だ。鉄忌と違い、彼女は管理者≠フ起動式すら消滅できる綺羅乃剣そのものだ。その攻撃による傷はすぐには塞がらない。大丈夫、死ぬほどではないよ」
 顔色を変えたかぐやに、八佗は平静と変わらぬ居丈高な態度で諭した。それでも痛みは激しいらしく、血のにじむ布越しに腕をつかむ手には、それに抗うべく力が込められていた。
「申し訳ない八佗殿。このような時に、貴殿に傷を……」
「その分、君には責任を充分とらせるつもりなので覚悟しておきたまえ。約束は約束だ。行って、どこまで君が冽に抗えるか、君の綺羅乃剣の力が久暁殿を救えるのか、試してみるが良い」
 その八佗の言葉に、不意に慌てた者がいた。それまで我を忘れて一部始終を見守っていた時長だ。
「待たれよ右大臣殿! 今あの鉄忌と雪女≠ノ手を出せば危険だと申したのはそなたではないか! にも関わらず、その不届きな小娘を向かわせると――」
「話を聞いていなかったのですかな、内大臣。彼女は神器≠セ。それも雪女≠倒しうる可能性を持つ。ただ、その保証はないのだがね」
「もし反撃で、我々が襲われたら……」
「一つ、対抗策を考えた。蛍殿が失敗して死ぬか、もしくは雪女≠ェ倒せずとも久暁殿を救出してこちらに戻るか、その時に必要になるであろう策だ。貴殿らの協力も必要なる。それでもまだ不満があるなら、今ここで述べたまえ」
 八佗の気迫に押され、官吏達が一斉に押し黙る。ただ時長だけはなおも食い下がった。
「先程、その娘が現れる前に主上が求められた真実。それを全て、詳らかに明らかにすると申されるなら、この時道も尽力いたしましょうぞ」
「承知した。あまり時間がないので、手短にはなるがね」
 未だ時長から不審の色は消えていないが、八佗の方針に従う気配を覗かせたのは確かだった。それを見てとると、
「かぐや、私が蛍殿を連れていけば気配で勘付かれる。君が蛍殿に命じたまえ」
 そう八佗はかぐやに進言した。
「め、命じるって……」
「完全に綺羅乃剣であることを自覚した今の蛍殿は、『昇陽』の領界ならばどこにでも現れ出でて刃を振るえる。王≠ナある君の命令さえあれば」
 蛍もまた、それを聞くとかぐやに請うような視線を向けた。かぐやにとって、その命令はこのまま冽の動きを待つのではなく、『昇陽』から仕掛けることを決断する勅令である。

「かぐや殿、いや主上。お頼み申す」
「今まで通り、かぐやで良いと言っているじゃないですか。私こそお願いします、蛍さん。必ず久暁さんを助け出してきて下さい」
 命令らしからぬ物言いであったが、蛍にはその言葉が何物にも代えがたいほど嬉しかった。力強く一歩踏み出し、かぐやの両手をとって強く握りしめる。
「ありがとう、かぐや殿。いざ参る!」

 掛け声を合図に、蛍の姿が一瞬でその場から消え失せる。
 おぉ、とどよめく周囲をよそに、床に座ったまま身動きを取らない八佗と、彼を支えるかぐやだけは、蛍のいた場所をしばらく眺め続けていた。

「……彼女に会ったのは二十八年ぶりになるのか、それとも十三年ぶりになるのか」
 深い感慨にふける呟きはとても小さかったが、その言葉に、かぐやはやはりと言いたげな表情を浮かべた。
「あの両手を握る癖、同じだと私も気づいたんです。でも、何故なんですか?」
「言っただろう。死した者の身体を器として再構築し、生まれ変わったのだと。器をなくしたアレが自然消滅する直前に、人の身で起動式を授けられた王≠フ血筋の者が死んだ。その情報を基にして、馴染む新しい器を作ったとしたら納得がいく」

 しんと沁みる寒さが、いつかの吹雪の夜を思い出させる。こみ上げる哀しみと新しく得た力強さを噛みしめ、かぐやは記憶の中の恐怖に別れを告げた。

「さあ、教えて下さい。お師匠様や蛍さん、そして久暁さんに、あの雪女=\―全ての理に繋がる真実を」





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