<希われし者>



 鬼気に煽られ、花びらの一枚一枚が火の粉と変わる。
 熱を持たぬ偽りの炎は、黒狗山の山頂から夜闇を奪った。そして今また、かの地の主をも奪おうとしている。
 桜吹雪が光の渦と化して、暗天を舞う。その只中、燥一郎は全身に煌々と燃えさかる焔を纏っていた。
 標的を仕留めるべく、宙を渡る。それが閃光の速さでもって動いたからには、目に映るのは闇に尾を引く残像のみとなる。火球は相手の撹乱を誘い、周囲を変則的に旋回していく。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄、心性清浄にして、諸々の汚穢不浄なし。我身は六根清浄なるが故に天地の神と同体なり」
 しかし、燥一郎の身体が翻るより早く、水面に立つ八尺瓊の口からは高速の祝詞が紡がれた。いかなる不浄も祓う言葉は、己を害する災厄の接近を許さない。空中を雀蛾すずめがさながらに高速で飛ぶ燥一郎だったが、その実、彼の動きは大きく制限されていた。不可視の壁が現れては消え、消えては現れ、さらには獲物を挟み込むべく蠢き、彼の進撃を阻む。
 八尺瓊が形成した起動式の結界は、さながら立体的に組まれた迷路だった。しかも複雑に入り組む通路は、常にその形を変えていく。燥一郎の炎に起動式を破壊する力があるとはいえ、八尺瓊の起動式は式≠フ物とは桁違いに精緻で堅牢だ。破壊の為に動きを鈍らせれば、八尺瓊に正確な位置を教えることとなる。そうなればさらに結界を重ねられ、行動範囲を狭められるだけでなく、最悪の場合、先程の石牢のごとく捕らえられかねない。使い手が式≠ナあった時でさえ、突破には半月を要したのだ。八尺瓊本人が操るとなれば、戒めを解くには年単位の時間すら刹那に等しい。
 おそらく迷路に出口などないはず。ならば、相手に最も近づいた時を狙い、修復する隙も与えず、一撃で結界に大穴を開けるまで。
 蝶のごとき優雅な所作と、蜂のごとき速さでもって障害を回避する燥一郎の思考は、死地においても朱蜘蛛と称された狡知さを保っている。
 それでも八尺瓊には通じないのか。

「今ぞ、一藤」
 八尺瓊の元まであと十歩という距離にまで近付いた瞬間。合図と共に、それまで波一つ立てていなかった水面が飛沫をあげて弾ける。水滴を跳ね飛ばし現れた白拍子は、その背に柔らかな両翼を備え、白鷺の頭をしていた。
 かつて蛍によって倒されたはずの式∴齠。だが、喉元にくらった一撃は致命傷に至っていなかったらしい。翼を激しく打ち鳴らすや、化生の物は主を守るべく、宙を渡る火球めがけて飛び上がった。
 目前からの奇襲に、燥一郎の動きがわずかに鈍る。姿が垣間見えたのは刹那にも満たない一瞬だったが、この状況においては立ち止まったも同然の油断だ。
 上下左右、全ての方向から迫る威圧感に、恐れを知らぬはずの燥一郎の顔が強張り、一直線であった軌道をずらす。そのわずか半寸後に、人間一人分ほどの空間が現在の位相から切り離される。内部で舞っていた火の粉が瞬く間に消えたことからして、それはこの『都』を隔離したものと同じ起動式――対象を別空間に転移させ閉ざす封印≠ノ違いない。八尺瓊にとってこの起動式は、盾であると同時に矛でもあるのだ。
 敵を捕らえるべく、迷路は次々と閉鎖され、新たな誘導路を形成していく。しかし、後退する襲撃者を追う一藤は、封印≠ウれたはずの空間を事もなく飛翔する。
 ――自分の式≠ノは作用しないのか。
 思考の隅で呟く間すら停止できない燥一郎と違い、結界の影響を受けない一藤は自在に空を飛び回れる。いつしか異形の舞い手は、徐々に行動範囲を奪われつつある敵と並走するまでになっていた。
 新たな起動式の発動を防ぐべく、燥一郎はより多くの火の粉が漂う上空へと向かった。拡散した火一つ一つの力は弱いが、綺羅乃剣の起動式はそれにも宿っている。相殺とまではいかずとも、多少は術の展開を妨げられるはずだ。
 燥一郎の思惑を察し、一藤が鷺の目を歪ませた。水面に波紋を生み、勢いよく上昇した鳥人の両手に、大ぶりの鉄扇が広げられる。速度は落ちるが、そうでもしなければ炎の吹雪に全身を焼かれてしまう。現に火の粉が白い羽を掠る度に、まるで齧られたかのように、一藤の柔らかな羽は次々と消滅していく。

「だったらコイツはどうかなぁ?」
 再び引き離した追っ手を振り返り、燥一郎がニヤリと口の端を吊り上げた。彼の声に応えるように、空中を漂っていた花びらは渦となり、やがて幾つかの塊に群れたかと思うとたちまち矢の形を為していく。
 揺らめく鏃と風切り羽を備えた数十本の火矢は、全ての形成が終わるのを待たずして発射された。
 燃える花びらが結界迷路の影響を受けずして一藤に届くならば、この矢とて例外ではないはず。そう読み、鉄扇を貫く矢を放った燥一郎だったが、結果は舌打ちに終わった。
 一直線に一藤の元へと飛来した矢は、標的に触れずして悉く四散してしまったのだ。先程まで展開していなかったはずの、八尺瓊の封印≠ノ閉ざされて。
「おぉ!? まずい!」
 一拍二拍、遅れて発射された残りの火矢も同じ末路を辿る。燥一郎の至近距離に現れた封印≠ヘ、彼の予測を超え、はるかに速く展開されていた。
 ――なーんかおかしいな。
 違和感を覚えた燥一郎だったが、その理由を推測する余裕はない。封印≠ノ気を取られた隙に、足元から迫る一藤が背後へと回った。
 身を守っていた鉄扇の一つが投擲され、鋭利な刃が弧円を描き迫る。結界迷路で行動範囲を制限される燥一郎の動きを読み放たれたそれは、意思あるモノののごとく正確に彼へと向かっていく。
 起動式を用いない式≠フ物理攻撃など、まともに受けた所で燥一郎には大した痛手とならない。それは八尺瓊も承知しているはずだ。
 にも拘らず、あえてこの場で一藤を使う理由とは。
 横合いから飛来する扇。凶器の気配に目を向けた瞬間、ざわりと燥一郎の背筋が震えた。いわばそれは、久暁が持つ直感力と同じ類の勘であったかもしれない。
 避けるまでもない攻撃の裏に潜んだ、必殺の予感。燥一郎は寸での所で鉄扇から視線をそらし、逃げるようにその場から離れた。直後、元いた場所が封印≠ウれたのを確認し、ようやく先の違和感の正体に気づく。
「あぁ、分かった! そういう事かよ」
 後退した燥一郎の様子に、好機を得たと見たか。一藤は舞い戻った凶器を再び手にすると、我が身が焼かれる事も厭わず、今度は鉄扇を二つとも宙へと放った。その動きに続くべく、自らも翼を強く打ち鳴らす。
 これまでに相対してきた式≠ニ同様に、一藤を焼き払うのは容易い。だが、今の燥一郎が一藤の姿や攻撃を視認する訳にはいかなかった。これこそが八尺瓊の仕掛けた起動式の要なのだ。
「小賢しいだけあって、見抜くのも早かったようだの」
 燥一郎が反撃しないのを見てとり、八尺瓊が嘲笑を浴びせる。その言葉に視線を向ければ、案の定、その焦点を起点にして八方を閉ざす不可視の檻が形成され、たちどころに周囲の空間を封印≠オてしまう。わずかでも停止すれば、あの内部に閉ざされて終わるだろう。
 八尺瓊が先に唱えた祝詞は、結界迷路を構築するものと見せかけて、実は別の目的でもって紡がれていた。結界迷路は燥一郎の襲撃より以前に設置していたにすぎず、本当の目的は、燥一郎自身に起動式を仕掛けることにあったのだ。
「言霊か……! 力ある音がテメェの媒介とは、さすがは一味違うなぁ!」
 自在に鉄扇を投擲する一藤と幾度も接近しながら、その度に結界の壁が立ち塞がり相手を攻撃することができない。苛立ちを露にする代わりに、燥一郎は八尺瓊へと賞賛の声をあげた。
 燥一郎が綺羅乃剣から得た起動式を、炎の形として行使するのと同じように、八尺瓊は自身が発した言葉の音を介して起動式を発動していた。耳で聞く音を完全に閉ざすのは容易ではない。例え超高速で移動したところで、それが本物の光の速さでもなければ、逃れるのは困難を極める。炎で自らを守る鎧を作ったとして、それを形成するより先に、燥一郎が八尺瓊の言葉を耳にした時点で彼の術中に落ちてしまうのだ。
 式≠フ攻撃はただの陽動。本当の狙いは、燥一郎の意識を引きつける事にあった。起動式の引き金は、彼の視覚に設定されていたのだ。
 視点を定めた範囲を起点にして、その周囲に封印≠発生させる。発動完了までわずかな隙が生じるのですぐには仕留められないが、完全に振り切ることもできない為、標的は無限に逃げ続けざるをえなくなる。
 結界迷路で燥一郎の動きを制限したならば、一々動きが鈍った所を狙うより、行動を予測してその方位にあらかじめ封印≠仕掛けておけば良い。そうすれば発動時間の隙なく敵を始末できるはずが、八尺瓊はその手段を使わない――いや、使えなかった。それほどまでに、八尺瓊は長年に渡る『都』の封印∴ロ持により弱体化していたのだ。
 ――だから大したことない式≠わざわざぶつけてきたんだ。それなりに勝てそうな小細工を使ってな。
 燥一郎が一藤を倒そうと近づけば結界迷路がそれを拒み、逆に一藤の接近を待とうとも、自分にかけられた起動式が相手の姿を視認した瞬間に封印≠発動させる。そうして八尺瓊は、燥一郎に攻めの手を与えないつもりであった。
「しかーし、分かればこっちのもんだ!」
 自らの不利に焦るどころか、八尺瓊の限界を悟ったことで、燥一郎はいっそう笑みを深くした。緋色の飛蝶舞う打掛が宙で翻り、さながら錦鯉が跳ねるように身を躍らせ空を泳ぐ。追う一藤とまた一定の距離を保ったまま、縦横無尽に形を変える結界の内部を飛び交う燥一郎の全身は、いっそう眩く燃える火炎に包まれていた。
「その程度の火で炙り、我が結界が破れるとでも?」
 勝ち誇る八尺瓊には、燥一郎の不敵な笑みは虚勢としか映らなかった。
 故に彼は気付かない。始めは一藤と一直線に距離を取っていた燥一郎が、その逃れ方を、幾度もの宙返りから反転を繰り返す動きに変えていたことに。
 何度も何度も結界迷路に阻まれながら、燥一郎は狙っていたのだ。
 一藤と己の位置が、変化する結界の抜け道で繋がる、一瞬の好機を。
 そして数十歩ほどの距離をおいて、その道はついに成った。
 何百回目ともつかぬ反転の瞬間に機の到来を確信し、勢いを失わぬまま、燥一郎は一藤めがけて直進した。
 視線もまた直線。近づく一藤から一切ぶれることなく焦点を合わせる。
 たちまち展開された封印≠フ気配が、真っ直ぐ飛び込む燥一郎を捉えるべく収縮し、そして――術を完了することなく消滅した。
「我が結界を利用したと……!?」
 八尺瓊の口から、初めて動揺の声が上がる。燥一郎の視覚を元に展開されていた封印≠ヘ、周囲で形成される結界と比較して、完了までにわずかな時間を要する。そこを利用し、燥一郎は結界迷路が目前の道を閉ざす直前に、封印≠ェ生じるよう図ったのだ。散々泳がされたことで、結界が変化する間隔は充分把握できた。すでに完成された起動式に挟み込まれたことで、未完成の起動式は打ち消されてしまったのだ。代わりに、今度は堅牢な結界が燥一郎と一藤の間を阻む。
 だが、燃えさかる火球のごとき様相の燥一郎は速度を落としも、反転して引き返しもしなかった。八尺瓊の元へと至る為に温存していたはずの、最大出力の炎でもって結界を突き破りにかかる。
「いかぬ、一藤よ退がれ!」
 それまで火に煽られようと亀裂一つ生じさせなかった結界が、薄氷を砕くも同然に消されていく。読みを外れ、捨て身ともいえる攻撃に移った燥一郎に危機感を覚えた八尺瓊が、指示を与えるには遅すぎた。
 煌々と輝く火は光の速さで一藤に直撃し、爆ぜ、その眩い欠片を飛散した。あたかも燥一郎自身が砕け散ったかのように、麗しい姿は跡形もない。直撃を受けたかに見えた一藤も無傷である。
「寸前で力尽きおったか……いや」
 あっけない幕切れに思えたのはわずかのこと。燥一郎の消失にも関わらず、周囲の焔吹雪はまだその揺らめきを絶やさずにいる。
 炎に我が身を焦がしながら、一藤が甲高い鳴き声を上げた。再び羽を動かし、消えた標的を探すかと思えば、その鷺頭は主である八尺瓊の方へと向けられた。
「……おのれ小童めが!」
 己めがけて飛来する一藤を見るなり、八尺瓊の凍てつく視線に怨嗟が混じった。
 接近する一藤が、鉄扇を水平に構え直す。落とすことない速度は、そのまま主の胴を両断しかねない勢いとなっていた。
 八尺瓊に祝詞を唱えさせる猶予も与えず、一藤の神速が彼を直撃する――そう思われた双方の接触は、白い翼の急停止と鈍い破砕音で終わった。

 たった一歩。踏み出した八尺瓊が、その手を一藤の顔面に埋めていた。
 鷺の嘴よりやや上部、鼻筋辺りの位置へと、少しでも力をこめれば折れてしまいそうなか細い指が、白刃同然に鉄の頭蓋を穿つ。赤黒い体液が噴出すと同時に全身の力が抜け、砕かれた鉄扇が水中へと落下する。断末魔を上げる余裕すらない一撃に、一藤は完全に沈黙した。
「中身が俺だと分かった途端に容赦ねぇなぁ」
 ところが、命を絶たれた式≠フ口元からしないはずの声が上がった。能天気な口調は紛れも無く、姿を消した燥一郎のものだった。
「さすがはテメェのお手製式≠セ。頭を半分潰されても、身体の各部にある予備の記憶核で保護されて、こうして情報だけとなって生き永らえることが出来るって訳か。テメェみたいな血の通わねぇ存在でも、自分の造った僕は大切にするんだなぁ?」
「黙れ。我が被造物を踏み躙った貴様の口上など、聞くも腹立たしい。もはや一藤の身体からは出られぬぞ。その身に潜った愚行を悔やむがいい」
 白い狩衣と顔に返り血を受けた八尺瓊の姿は凄絶であったが、宣告する声音はそれ以上だった。有無を言わさず、八尺瓊は突き立てていた手を引き抜くなり、パンッと大きく両手を打ち鳴らした。
 空間に響く音の振動は、仕掛けられていた結界を起動させる。顔を潰された一藤は見えない壁に囲われ、たちまちその全身はこぶし大程の小さな塊へと変じた。閉ざされた空間に圧縮され、原型の欠片も残すことなく潰されたのだ。
 ただ赤黒い体液を垂れ流す鉄屑となってしまった一藤に、八尺瓊はもはや何の慈悲の色も見せてはいない。主の手によって葬られた式≠ヘ、虚しく水底へと沈んでいった。

 しかし、庭中で燃えさかる火はまだ消えない。
 ――一藤に潜みしは本体ではなかったと……!?
 己の式≠破壊させられたことで、硬質の心に乱れが生じたのか。
 不覚を悟った時にはもう遅い。
 背後から音もなく伸びた両手が、八尺瓊の喉を締め上げた。
「ぐッ……!?」
「ざーんねん。さっきのは俺の複製を潜り込ませただけの、分身≠フ応用だったんだよっと。℃ョ″の方に気付けたのは良いが、他にも分裂してるとは思わなかったみてぇだな」
 能天気な声の主は振り返らずとも分かる。勝利を確信したかのごとく朗らかに笑うと、燥一郎は八尺瓊の耳元に顔を近づけ囁いた。全身は未だ、あの明々とした火に包まれている。
「長い年月人真似しすぎて、管理者≠ェどういうモンだったか忘れたかぁ?」
 燃える指を八尺瓊の喉笛に食い込ませ、それ以上彼が言葉を発せないよう圧迫する。白い肌を舐める起動式の火は、じわじわと焼くのではなく、気道に抉るような苦しみを与えた。
「管理者≠ヘ姿形こそ生物を模してはいても、その実は髪の毛一筋に至るまで起動式で形成された情報の塊。俺達にとって、身体なんてのは中核である情報を保存するための箱みてぇなもんだ。誰よりも、テメェがそれを一番良く知ってると思ってたんだがなぁ」
 燥一郎が滔々と語る間にも、加わった力により骨が軋み、端正な顔立ちが苦痛に歪む。このまま細首をへし折るつもりでいるのだと察知した八尺瓊は、無理やり身体を捻り、魔手から逃れようとした。
「嘘だろ、おい?」
 それは虎鋏にかかった獣が、挟まれた脚を捨てて逃走を図るようなものだった。
 がっちりと掴む燥一郎の両手に、首の血肉の大半を削られながら身を引き剥がす獲物。その人としての皮の下からこぼれた物は、式≠ニ同じ赤黒く冷たい体液と、耳障りな金属音を響かせる鋼の骨だった。燥一郎の両手の火が破壊をさらに助長し、白い細首は、豆腐を削るがごとく容易く引き裂かれていく。起動式の炎に血肉を焼かれ抹消されながらも、その強行ゆえに、八尺瓊の首はずるりと枷から逃れ出る。
「八尺瓊≠ワで半鉄忌化させてるとはな! だがもうこれで、テメェは起動式が使えねぇ!」
 もはや鋼の骨のみで頭部と肢体を繋ぐだけとなった八尺瓊が、言霊を用いられるはずもなく。虚しく口をパクパクさせる『昇陽』最強の術者は、無惨な様で池に半身を沈めた。
「往生際の悪さもここまでだ! 八尺瓊≠ェ無くなればテメェは詰みだぜ暁来=I」
 先程まで相手を捕えていた両手の平から、火柱と見紛うほどの焔が立ち上る。両者の間にある闇を、一点も残さず焼き尽くさんばかりに。
 燥一郎の両手が翻り、炎の有り様を真似る抹消の術式が八尺瓊に襲いかかる。
 一度真白の狩衣に触れた瞬間、それは全身に燃え広がり、悲鳴を上げさせる間もなく火だるまと化していく。水中であろうと消えぬ火は、不変の存在であった者をたちまちの内に、物言わぬ骨へと変えていった。

「アハリヤ アソバストマウセヌ」

 宿願を果たした燥一郎の耳に、もはや聞こえるはずのない呪いの言が響いたのはその時だった。
 とっさにその場から離れようとしたが、時すでに遅し。

「モトツミクラニ カエリマシマセ」

 痛みはなくとも、右腕、胸部、胴、両脚、およそ全身の半分以上がたちどころに消滅したのを、軽くなった身体で彼は感じ取った。飛沫を上げて池に落ち、浮かび上がる様は、羽を切られた蝶のようでもあった。実際、血を流さないその身体の切断面はツルリと滑らかで、割った玉石の切り口と似ている。
 燥一郎のすぐ傍には、鋼の残骸となって水中に没した八尺瓊の躯がある。しかし、先の言霊は紛れもなく封印≠発動させていた。八尺瓊でなければ扱えぬはずの、神器≠フ御業みわざを。
「ああそうか。そういや式≠ヘ全部で十二体いたんだっけか」
 相手が見えるように、水中を左手で掻き、燥一郎は肩から上だけ残った身体を動かした。
「一人、まだ始末していないのをすっかり忘れてたぜ。多すぎなんだよテメェの式≠ヘ」
 燥一郎の目に映ったのは、広大な屋敷の方からこちらへ向かって悠々と歩み寄ってくる、青竹色の単衣を着た女の姿だった。初めて見る顔のはずなのに、その笑みにはとても見覚えがある。ここに現れてより、幾度となく目にした覚えのある嘲りを含んだ笑い方だった。
「人の真似しやがって……」
「元よりこの式≠ツづらは、八尺瓊≠フ身に何か起きた場合に備えた仮初の箱。この時の為だけに作られた存在である。故に、つづらは本望よ」
 そう応えた式=Aつづらの言動は、まさしく八尺瓊のそれと同じであった。常に八尺瓊につき従い、彼に仇なす者には最大の敵意を向けるがしかし、自身は戦う術を持たぬはずであった最年長の僕。そのつづら≠ヘ最早、彼女の中には存在しない。今の彼女は、破損した身体から乗り移った八尺瓊本人であった。
「何人も我を討ち破れはしない。そなたがいくら策を弄そうとも、結局は無駄な足掻きよ」
「いやぁ、どうかな? 一つ良いこと――違うな、残念な話を教えてやろうか。テメェに殺られる前に俺達が結界≠フ外に飛ばした儚人≠ヘ、俺の片割れがついさっき回収した。お前に勝ち目はねぇぞ」
 身体の大半を失ってなお、燥一郎は絶望の追い討ちに反論した。暗い水面に広がる髪は池と同化したかのように見え、そこにぷかりと浮かぶ麗貌は、この異質な戦いの象徴でもあった。だがつづら――の姿をした八尺瓊はそれを一笑に付す。
「それで我を出し抜いたと思うておるのか、痴れ者が。儚人≠ニ綺羅乃剣を手中に収めたとて、我がこの封印≠フ内に在る限り、お主らの思い通りにはならぬ。我が力尽きるよりも先に、お主らこそが無に還ろう」
「そうだな、だから何度も言っている。お前を引きずり出す。俺達が記録子に還元されちまう前にな」
「まだ戯言を申すか。如何なる管理者≠竍神器≠ナあろうと、我を超える事などできぬ。所詮は紛い物。後より生まれ、先に朽ちる者共よ」
 これ以上語ることはない――そう告げる代わりに、八尺瓊は再び両手を打ち鳴らした。一藤を屠った時と同じ結界の檻が現れ、燥一郎を包囲する。
「消え失せよ」
 言い終わるより早く、不可視の壁に圧縮され、まだ美しい形を残していた肩や腕が砕かれ、潰されていく。
 それでも、麗しい顔は破滅を前にして、会心の笑みを絶やさない。

<そうだな。そうやってテメェは独りで彷徨い、独りで消えていくんだ>
 やけに耳元で響く声が、八尺瓊の背筋を凍らせる。瞬間、押し潰されようとしていた燥一郎から豪炎が吹き出し、結界の中から跡形もなく消え失せた。
「まだ何処かに分身を潜ませおるか。しかし先の分身が最も多くの力を分けていたと、見破られぬとでも思うたか」
 姿を見せない燥一郎に対し、八尺瓊は再び結界迷路を、今度は自らの屋敷を中心に展開させた。残る起動式の火は桜の花びらを介し、屋敷の周囲へと燃え広がっている。現れるとすればその火を媒介にするより他なしと考えた八尺瓊だったが、結界がいくら火を閉ざし術式を消し潰そうと、声の主は潜んだままだ。
<自分が世界の中心だと信じて疑わねぇが、実際は歯車の一つにすぎねぇ。本当は何の為に在るのかも忘れたまま、この世の理に飲まれている。それが今のテメェだ>
 火の粉一つも逃すまいとする八尺瓊の執念に、屋敷を囲んでいた炎は数分と経たずして、僅かばかりの残り火だけとなった。あれほど眩く夜空を舞っていた火花の嵐も、元の風流な花吹雪へと戻っている。
<同じなんだよ。俺達他の管理者≠竅A儚人≠ニな>
 にも関わらず、燥一郎の声は八尺瓊の耳朶を震わし続ける。視界に捉える残り火には、燥一郎の――管理者≠フ自我を含む情報はおろか、毛先一本ほどの記録を残すこともできまい。ならば、この声はどこから聞こえているのか。
 まだどこかに媒介とするだけの起動式の火が残っているのかと、全神経を集中させる八尺瓊だったが、そのつづらの目が不意に大きく見開かれる。
 決して己の術の影響を受けないであろう場所。思い至った解答は、同時に絶対の危機を八尺瓊に知らしめた。
「貴様、最初から八尺瓊≠フ本体が狙いで……! 馬鹿な! それほどの断片と化した身で、本体の防壁を破れるはずが……」
 言いかけて、さらなる最悪に気づき肩を震わせる。自身を構成する情報を、自ら削った燥一郎の力だけならば、到底目的は果たせまい。だが、彼が手に入れたのは綺羅乃剣の起動式――あらゆる起動式を分解し、消滅させる、彼らにとっては最大の脅威とも呼べる武器だ。
「まさか、初めからこの為に綺羅乃剣を奪ったというのか!?」
 池の上で繰り広げられた戦いに気をとられ、一体いつから炎が燃え広がっていたのか、八尺瓊は完全に失念していた。その分、時間は燥一郎に味方している。
<その証拠を今からたっぷり見せてやらぁ。よーく見て、よーく思い出しな。暁来さんよ!>
 高らかな宣言と共に、灯りに満ちていた屋敷から、眼を焼かんばかりの光が溢れだす。
 常世の空も、桜花の宴も、何もかもをただ真白に染める光に飲まれ、八尺瓊も耐え切れず双眸を閉ざす。





 次に目を開いた時、目前にあった屋敷は跡形もなく消え失せていた。それどころか、広大な庭も、それを囲むように咲き誇っていた桜の群れも、明けぬ夜を塗りつぶしたあの光に巻き込まれたかのごとくなくなっている。
 八尺瓊が立つ場所は、何処かの通路だった。ただし、そこの壁や床は、一面を見たこともない光沢を放つ材質で覆われており、その青みを帯びた黒灰色の素材自体が、仄かに発光することで明かりを生み出していた。淡く光る通路はどこまでも続くかのように果てが見えず、また他の道と交わることもなく、八尺瓊以外のものは存在しない。
 ひやりとした静寂が、ただ独りそこに在る八尺瓊を責めるように、圧力となって押し寄せる。もっとも、これが敵の仕掛けた幻影と知る八尺瓊は元の平静さを取り戻し、この異質な空間を意に介さぬ様子で、毅然と前を見据えた。
「この期に及んで如何なるつもりか。斯様な景色、我には心当たりなどない」
 呟けば、言葉は幾重にも反響して虚しく響く。燥一郎の返事はなかった。
 代わりに、しばらくの無音の後、足元を照らす光が揺らぎ明滅した。一拍の間をおいて、今度は目前に細かな光の粒が現れる。
「何ぞ、これは……」
 ちかちかと眩くきらめく粒は寄り集まったかと思うと四散し、微かに光る一片の平面な物体に変じた。白く薄い膜の様なそれに触れようとした八尺瓊だったが、幻のごとく手をすり抜けてしまう。
 八尺瓊の接触に反応したのか。宙に浮かぶ発光体の表面に、無数の点と線が浮かび上がる。あらゆる形を取りながら、均等な間隔で整列する点と線の構成に、八尺瓊は見覚えがあった。形こそ違えど、それは自らも用いる『昇陽』の文字とよく似ている。

<緊急入電>

 現れた文字はそう読めた。意味が分からず指で触れると先の文字が消え、代わりにこれまた無数の文字が現れる。

<これはもうすぐこの世界から旅立ち、二度と逢えぬであろう君に捧げる最後の言葉だ。君がこの世に造られてから、共に過ごした日々は私にとって何ものにも代え難い記憶となった。じきにこの世界が終わるとしても、私はこの記憶を決して忘れはしないだろう>

 その文章は、誰かに宛てた言葉であるようだった。しかし八尺瓊の記憶に、この送り主に関する心当たりはない。何の感情も示さぬまま、燥一郎の思惑を図るべく続きに目を通す。

<だが、君はその日々を捨てなければいけない。役目を果たすために、余計な雑念は除かなければならない。幾億、幾兆もの願いを叶えるために、君は行け。この作戦が実を結んだその時に、君が幸せであることを私は願おう>

 つらつらと綴る文面のいずこにも、書き手の名らしきものは記されていなかった。代わりに、末尾には一段と小さな文字で、手向けの言葉が締めくくられていた。

<さようなら、星渡る神子よ。君が一人の人間、暁来であった時を知る者より>

 八尺瓊が読み終えると同時に、文字を映していた物体は元の光の粒に戻り、たちどころに輝きを失い消え去った。
「知らぬ……」
 直後、唇を噛み、かつてないほどの苛立ちを露わにした八尺瓊が、姿を見せない敵へと叫んだ。
「知らぬ知らぬ、知らぬ! 確かに、我は管理者″暁来である。世界の初めに在りて、理を生み管理する者ぞ。だが、斯様な光景もこんな戯言も一切知らぬ!」
 全く覚えのない場所に、何者かからの伝言。茶番にすぎないと思いながらも、何故か八尺瓊は――いや、彼の殻を被り、身を潜めていた暁来≠ニ呼ばれた存在は、忘れて久しい恐怖にも似た感情を味わっていた。起動式でこの幻想を破壊しようと試みるも、この空間ではどれだけ祝詞を口にしようと結界は展開しない。
「おのれ……八尺瓊*{体からこの起動式を用いおるか」
 自らの手の内にあったものを完全に掌握され、さらに追い詰められる。
 燥一郎はまだ言葉一つ発さない。代わりに、また先程と同じ光の粒が現れ、文字を映した一枚の画像と変わる。だが、今度の文章は先のものとは様子が大いに異なっていた。
<これより先は次元隔絶域に入ります。他次元相似宇宙干渉計画℃タ行者以外の、区域内からの完全離脱を確認。実行者は承認をもって転送準備を開始して下さい>
 一通り読み終えると映し出されていた文字が消え、代わりに<是>と<非>を問う選択肢が表示される。
 無論、これにも覚えはない。自分とは何も関わりのないものだと信じているのに、
「手が、勝手に……!?」
 器としたつづらの右手が、暁来の意思とは無関係に動き、映し出された<是>の文字に触れようとした。とっさに左手で押さえ止めようとしたが、映像に伸びる手は強靭な力で前へ前へとにじり寄っていく。
「何故だ! 何ゆえ我が意思に従わぬ!」
 もう爪の先が触れるという直前まで迫ったところで、またしても、新たな光の粒が目前に現れ文章を映し出す。
<緊急入電>
 始めに見た文字と同じもの。しかし今度は触れずして、それは次の言葉を浮かび上がらせた。
<計画を中止せよ。相似宇宙の膨張が停止した。これより先は安定期に入ると予想され、改めて経過観察の必要あり。繰り返す、計画を中止せよ。君は独り次元を渡らずにすむのだ。今すぐ引き返せ>
 意のままにならぬ右手に冷静さを欠いた者の目に、警告の言葉は読み取れなかった。
 半透明の発光体、その実行を促す選択肢の上へと、細い指が重なる。
<実行者による承認を確認。記憶装置の転送完了と同時に次元干渉を開始します>
 切り替わった画面が告げると、その表面から、幻ではなく質量を備えた物質が生えるようにして姿を現した。これまで見覚えのないものばかり見せられてきた暁来だったが、毛彫りに似た細緻な紋様を持つ、その銀筒だけは良く知っていた。
「これは、綺羅乃剣……?」
 手に取り確かめようと、それを掴んだ直後。
 通路を照らしていた光が爆発し、暁来と呼ばれし者の視界は、一切の闇に閉ざされた。





 ――ここは、何処か?
 次に意識を取り戻した時、暁来の、つづらの器を借りた身体は、どこともしれない暗闇の空中に浮かんでいた。右手にある硬い感触は綺羅乃剣のものだ。あの通路も、妙な言葉を伝えていた物体も、他には何もかも見当たらない。深海を漂うように、独りふわりと浮遊する感覚が、時間の流れすら止めて永遠に我が身を支配する。
 嫌な感覚ではなかった。それどころか、どこか懐かしささえ感じられる。ずっと遠い昔に、同じように何処かを漂っていた気がして、暁来は自分の裡に、その理由を問いかけた。
 ――いつ、どこで?
<これはお前の記憶。お前という暁来≠フ記憶だ>
 ――ではあの通路での出来事は?
<あれはお前ではない暁来≠フ記憶。始まりの出来事。お前がはめ込まれた理の原型だ>
 ――何故我はここにいる?
<幾億、幾兆もの願いに請われたからだ。それはお前の望みでもあった。けれども、そうなるように導いたのはお前の意思ではない>
 ――では、我は何の為にあるのだ?
<それは――>
 もはや自らのものなのか、誰のものなのかも分からない声に問いかけ、その答を聞き、暁来は大きく息を吐いた。ずっと己が忘れていた、古き想いが息を吹き返したかのように。
「あぁ、そうであったか。私は――」
 ――初めから、暁来≠フ駒でしかなかったのか。





 屋敷から溢れていた光が消え、暗闇がその中にも潜り込む。同時に、八尺瓊が身体としていたつづらは、まるで糸の切れた人形のように眼を見開いたまま倒れ伏した。美しい顔には、内から裂けた亀裂が蜘蛛の巣さながらに広がっており、物言わぬそれが二度と動かないであろうことは明白だった。
 彼女が倒れてすぐ、傍の床が一点、ほうっと明るくなったかと思うと、そこから緋色の打掛を纏った美丈夫がゆるりと姿を現す。揺らめく微かな炎で形作ってはいるが、彼の全身は今や、背後の景色が透けて見えるほどに消えかかっていた。何があっても絶やさぬ笑みだけが、彼が消え去ることを防いでいるようでもある。
「やーっと、ここまできたか……」
 動かなくなったつづらを一瞥し、苦笑いを浮かべながら、燥一郎は屋敷の壁へと手をついた。手はそのまま壁の中へと吸い込まれるようにして消え、わずかの間、屋敷全体から軋む音が上がる。
 そして数分の後。燥一郎が潜り込ませていた手を引き抜くと、何の変哲もない木板の壁に見えていたそれが、カタカタと幾重もの駆動音を奏でながら、中心から左右に割り開かれた。
 壁の下にあったのは、無数の金属部品と管を組み合わせ繋ぎ合わせた、浮き彫り細工にも似た機械の集合体だった。おそらくは、この屋敷全体がこのような構造をしているのだろう。それも、鉄忌が『昇陽』を襲うよりも、はるか以前から。
 この機械仕掛けの屋敷こそが、『昇陽』の左大臣・八尺瓊辛の正体であったなどと、一体誰が気づけたであろうか。

 露わとなった駆動部分の中央に、燥一郎が探し求めていたそれはあった。
 手の平に乗るほどしかない、玻璃とも水晶ともつかない透明な材質でできた勾玉。それこそが、八尺瓊を動かす核であり、『昇陽』の管理者″暁来が、我が身の崩壊を防ぐために潜んでいた本体であった。
「忘れていたことをぜーんぶ思い出して、過負荷に耐え切れず休眠状態になったか。何とか、計画通りだな」
 剥き出しとなった暁来を前にして、燥一郎は大きく安堵の息をついた。もはやこれは膨大な情報を宿すだけの代物。自我崩壊して眠りについたまま、二度と目覚めることはない。
「……二十七年前、俺が儚人≠すぐに回収しなかったのは、願われたからだ」
 すでに聞くことはないと分かってはいても、燥一郎は物言わぬ存在となった暁来に語りかけた。どうしても、言わずにはいられないことがあった。

 ――死なせないで。

 二十七年前、その最期の言葉を聞いた時から、燥一郎の本当の戦いが始まったのだ。
 こいねがわれて全てを始めた、目の前の存在と同じように。
「暁来、星を背負うほどのアンタには塵のような願いに思えるかもしれない。けれど、俺にはその夢が全てなんだ」
 かき消えそうな姿に笑いを湛えたまま、燥一郎は炎揺らめく指で、壁の装置から暁来の本体を抜き取った。

 そして、世界は再び、闇夜から真昼へと反転する。





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