<炎魔襲来>



 何者であれ、死はあっけなく訪れる。
 一族の一人として生まれてきた時より、そんな当たり前の事など、身に沁みて知っていた。こうして横たわる今の自分こそが、何よりの証明だ。遅かれ早かれ、いつかはこうなるだろうという確信があった。ただ、それが思っていたよりも早く訪れただけに過ぎない。

 鋼の爪に抉られた胸からは、まだどくどくと血が流れ出ている。そのせいか、ひどく寒い。この山は元々異様なまでに寒かったが、それと自分の中にあった熱が抜けていく現象は全く違う。当然だろう、命の灯火そのものが失われるのだから。例え真夏日に同じ目に遭ったとしても、きっと同じ感覚に陥ったはずだ。
 自分が今まで殺してきた者達もそうだったのだろうか。誰一人として、己の意思を保ってはいなかったけれども。

 感情を操作することで、快楽に満ちた死や、憤怒に溺れた死を、本人の意思とは裏腹に遂げさせる――それが自分の技だった。恐怖や悲しみを抱く死は一つも与えていない。不穏分子の核たる者を殺し、集団の反抗意識を削ぐことが、自分に課せられた役目だったのだ。恐怖心などが顔に表れれば、他殺であるとすぐに判別されてしまう。
けれど何よりも、繰り手である自分がそうした感情を知らないのだから、標的に恐れを抱かせることなどできるはずがない。
 現にこうして、今度は自らが死に逝く番になったというのに、自分はそれを恐れていない。諦念のせいではなく、そもそも昔から己が無くなる≠ニいう事に抵抗がないのだろう。

 恐怖≠ニは自衛の為に、危機を察知する信号として働く。だがこれまでの自分には、忌避すべき危機というものが存在しなかった。
 あの異人の男に殺されかけた時ですら、逃走する己の心に恐怖は芽生えなかった。むしろ、あの時は生の実感を得た歓喜と、それを放棄せざるをえなかった無様な結果に対する憤りとで、死の影の事など全く念頭になかったのだ。
 逃れようのない死に直面した今になっても、それを恐れることができないのだから、己は紛うことなき魂の欠陥者なのかもしれない――あの男が嘲笑ったように。
 ならばこのまま無惨に死に逝く事こそ、ふさわしい末路なのだろう。

 そう思い、意識を放棄しかけたというのに。
 胎を内から叩く感覚に呼び覚まされ、抉られた胸の痛みが蘇った。

 そういえばコレが一緒にいたのだと、今更ながらに思い出す。
 生まれ月をとっくに過ぎても生まれなかった子供。ひょっとしたら死んでいるのかもしれないと思っていたが、まだ生きていたらしい。
 普通に誕生していれば良かったものを、半年も過ぎてしまった結果がこの様だ。誰かにこの胎を裂いてもらわねば、このまま自分と道連れになるより他はない。
 外の世界を、先に生まれた兄を、業深き父を、母の顔を知らぬまま。
 恐れも悲しみも怒りも、喜びも幸せも味わぬまま。
 生まれるより先に、死に逝くのだ。この自分が、初めて生の実感を得たその時に宿した存在だというのに。

 ああ、それはとても許せない。
 愚かな一族の象徴として、人でなしの欠陥者として死ぬのは自分一人だけでいい。自分と異質の存在であるべき者が、自分の一部として共に死ぬなど認めない。

 襲いかかった鋼の化け物達はすでに一匹残らず鉄屑と化し、周囲に残骸を残すのみとなっている。それを為した何者かが、傍らで自分を見下ろしている事にも気付いていた。
 梢の影を焼き、ゆらゆらと揺らめく緑白色の炎が視界の端に映っている。それが何を意味するのかは知らないが、致命傷とはいえ、まだ息がある女を黙って見ているからには、そのまま見殺しにするつもりなのだろう。救いを求めても無駄だと分かっていたからこそ、自分はこのまま死を受け入れるつもりだった。

たった今、ただ一つの後悔ができてしまった事を悟るまでは――

 視界が霞み、意識も薄れゆく中、女はほぼ無意識に最期の言葉を口にしていた。それは到底音として聞こえず、臨終間際の吐息と大差ない弱々しさであった。
 叶わざる願いとして遺した言葉が、二十七年の時を経てもなお生き続けることになろうとは夢にも思わぬまま、暗殺者として生きた女は、黒狗山にて息を引き取った。





「相変わらずさっむいなぁ、この山はぁ」
 鳥の鳴き声一つすら聞こえない陰気な山中を、能天気な大声が響き渡る。およそ場違いな声音の主は、これまた生気に乏しい黒狗山には似つかわしくない艶やかな存在だった。
 神の御手によるものかと思うほど端正な目鼻立ち。長い睫毛に縁取られた眼差しや、一片の染みもない白磁の肌、墨を流したかのように滑やかな長い黒髪は、彼が男であることを忘れさせるほどに美しい。そして、そのような美丈夫は『都』において、唯一人しか存在しない。
「おーい待て、燥一郎。何をしに来たんだ一体……」
 裸木が居並ぶ道を悠々と歩く麗人の後ろから、彼を引き止めようとする嗄れ声が聞こえた。古びて破れ目だらけになった獣の毛皮を纏い、暗い山道を小走りで進むのは、この山をねぐらにしている老人――通称百舌≠フ鳴滝だ。片手には煌々とした光を放つ球が掲げられている。それはたった一個でも光源・熱源として大いに活用できる鉄忌の眼球だが、他に人の住処もなく、二つ表の月も沈んだ今の黒狗山を照らし出すにはあまりにも力不足な代物だ。先を行く、夜目にも鮮やかな濃緋色の着物を見失うまいとするのに精一杯で、百舌老人自身は何度も木の根や梢に引っかかっては転びそうになっている。その度に、どうして何も灯りを手にしていない燥一郎が平然と夜道を歩けているのかと、老人は首を捻っていた。
「うーん、この辺りだと思うんだけどなぁ」
 息を切らす老人を尻目に、燥一郎はようやく立ち止まったかと思えば、何もない木々を眺めながら思案するそぶりを見せている。そこはつい先日、久暁が八尺瓊辛の式≠ニ遭遇した場所であった。追いついた百舌老人が、光球でその視線の先を照らしてみても、やはりあるのは裸の桜木だけである。久暁が斬った鉄忌の残骸は式≠ノ回収されたのか、すでに破片一つすら見当たらない。
「おい、燥一郎。久しぶりにこの山に来たかと思えば、何を探しているんだ? お前もさっきの雷を見ただろう。ありゃあ、もしかしなくても鉄忌が現れる前触れに違いない。こんな所で油売っている暇があったら、『火燐楼』に戻るべきじゃないのか?」
 鉄忌と口にした瞬間、百舌老人の身体に震えが走る。先日の、久暁と共に鉄忌に襲われた時の出来事を思い出したのだ。
 長年黒狗山に住みついている鳴滝だが、あれほどの鉄忌の大群と対峙したのは初めての事だった。今思い出しても生きていられるのが不思議なほどであるが、それもこれも久暁が定期的に山を訪れていたおかげである。先だって閃いた雷光に怯え小屋へ戻ろうとしていた折に、偶々見かけた燥一郎の後を追いかけてきたのも、親切心というよりは、いざという時に身を守る手段が必要だったからというのが大きい。見た目こそ虫も殺せぬような華奢な男だが、燥一郎は久暁よりも腕が立つと噂に聞いている。それでも綺羅乃剣を持たない限り、鉄忌を斬ることはできまいが、いざとなれば『火燐楼』に匿ってもらえるかもしれない。
 そんな期待を抱きつつ、燥一郎に忠告する老人だったが、
「おぉ、『火燐楼』の事なら、俺はもう惣名主じゃねぇぞ。さっき抜けてきたからな」
「は? 抜けたって、お前……!?」
 燥一郎の発言に、鳴滝は一瞬我が耳を疑った。言われてみれば確かに、蓮華屋にて絢爛な内掛けを羽織り、朱蜘蛛≠ニして畏怖と賞賛を集めているとされる男が、たった一人で刀も持たず、外套もなしに黒狗山をフラフラと闊歩しているなど奇妙である。しかし、鳴滝には俄かに信じ難かった。
「お前の事はこの山に暮らしていた時から知っているが、そこまで阿呆だったとは思いもよらなかったぞい。世の中な、笑えねぇ冗談は冗談なんて言わねぇんだ。大体、お前が『火燐楼』の舵を取らなくて誰が取るんだ。あの鬼っ子に廓の管理はできまい。それで『火燐楼』が潰れでもしたら、儂はどうやってお飯を食らっていけば良いと――」
「んな事よりもよぉ、爺さん」
 寒さに震えながら切々と訴える百舌老人の言葉を、燥一郎はあっさりと聞き流した。
「久暁がこの山に来ていた時、変な感覚がするとか言ってなかったか?」
「ああ? そういえば以前、身体を何かがすり抜けていくとか、そんな妙な事を言っておった気がするが……」
 どうしてそんな事を訊くのかと訝しむ鳴滝だったが、燥一郎はその答えに満足したらしい。
「やっぱりなぁ。砂螺人の感覚は伊達じゃなかったって事か。んで、そいつはどこでよく感じるって?」
「そんな事までは聞いておらんよ」
「じゃあ他に、アイツが不審な言動をとるような事はなかったか?」
「さてなぁ……いや、待てよ」
 何か思い当たる節があったのか、おもむろに鳴滝は道から外れ、数歩先にある茂みの中へと分け入った。光球を頼りに、燥一郎も後に続く。
「そういえば昨日、ここで斬坊が鉄忌とやりあって倒れたんだがな。アイツ、冷えた身体で震えながらそこだ、そこにいる≠ニか唸っておったわい。何の事かと思っていたんだが、関係あるのか?」
「倒れていたのはどの辺りだ?」
 鳴滝が指さした先の地面は、ここ数日雨など降っていないにも関わらず、じっとりと濡れていた。よく見れば、灯りに照らされた草木には、何者かに断たれたような不自然な切り口がある。それを確認した燥一郎の目がスッと細められ、次に目前の空間を凝視する。口元の笑みからして、彼は目的のものを見出したらしかった。
「なーるほど、綺羅乃剣のせいで修復が遅れたのか。おまけにさっきの雷でまた破れやすくなってやがる。ま、俺はそっちの方が助かるんだけどな。左大臣の奴、物を隠すことに関しては天下一品だぜ、本当に」
 一体何を独り呟いているのかと、老人が問いかけようとしたその時。
 傷一つない燥一郎の白い掌が、パンと乾いた音を立てて打ち鳴らされた。それと同時に、手と手の間に揺らめく赤い火が生まれたのを目撃し、今度は目がおかしくなったのかと百舌老人が声を失う。
 凍てつく寒さがさっと身を引き、冷ややかな光を放つ鉄忌の眼球も、橙の色に染まるなり真白の輝きを失った。間近にいても、炎の熱さは感じない。なのにその色彩を、その揺らめきを目にしただけで、鳴滝は胸の内が熱くなるのを感じた。大火を恐れ、火の使用を禁じられてからどれだけの月日が経っただろう。久方ぶりに目にした原始の光は、彼に疑問を忘れさせ、永遠に魅了させるかと思うほどに美しい。

 驚くべきことは、それだけでは済まなかった。
焔を両の手に宿し、燥一郎が目前の虚空に向けて大きく腕を振る。何もない空間に留まる炎が二つの半円を描き、すぐさまそれは大人の背丈と同じ大きさの円となった。
 空中に浮かぶ火の輪がいっそう激しく燃え上がり、あまりの眩しさに鳴滝が目を瞑る。
 これ以上何が起こるのかと怯える老人の鼻腔を、甘い花の香がくすぐった。
 何かが顔にはらはらと降りかかっていると思い目を開けてみれば、炎の輪から穏やかな風と共に、桜の白い花びらが吹き流れてきているではないか。
「よーし、上手くいったな」
 満足げに燥一郎が見つめる輪の向こうに、鳴滝がよく知る黒狗山の姿はなかった。
 まるでその円の中だけ景色を切り取り、別の絵をはめ込んだように――そこにある黒狗山の木々は、溢れんばかりに満開の桜花を咲かせていたのだ。
「は、はあぁあああああああ!?」
 鳴滝は完全に混乱した。自分は夢を見ているのに違いない。そう思い何度も顔をつねったり、目を擦ったりしてみたが、輪の向こうで咲き誇る夜桜はそよ風が吹く度に、薄い花びらを彼の元へと送り届けている。
 呆然とする老人を余所に、燥一郎は輪の中へと一歩踏み込んだ。全身が炎の門を通り抜けても、反対側にその姿は現れない。彼が佇んでいるのは、向こう側に見える桜花の山の中だ。
「あぁ、爺さん。しばらくは『火燐楼』にいた方が良いけど、夜明けが来たら皆と一緒に山へ逃げるんだぞ。アンタには久暁が世話になったからな。達者でいろよぉ」
 ひらひらと手を振りながら陽気に笑う燥一郎だが、よく耳を傾けてみれば、彼の言葉は今生の別れのそれに近い。そんな事に気付く余裕など、鳴滝にはなかったが。
 老人がようやく我に返った時には、すでに桜の園への入り口は閉じられていた。空間を焼いた炎の残滓はまだ弱々しく揺れていたが、それもすぐに虚空へと消える。初めから何事もなかったかのように、燥一郎の姿も失せていた。元通りの静けさと寒さと暗闇、そして周囲に撒き散らされた桜の花びらが、立ちすくむ百舌老人の身体を震わせる。
 先の出来事は、間違いなく現実に起きたのだ。
「……朱蜘蛛≠ネんてもんじゃねぇ、ありゃあ天狗だ。奴は、本物の妖怪だったんだ……」
 歯の根が合わぬ老人の足元では、光を失った鉄忌の眼球が転がっている。精緻な鷺の彫金に飾られていた球体にかつての美しさはなく、溶解した彫刻の中心で、核たる球には無数の亀裂が走っていた。





 黒狗山で久暁が体験した奇妙な感覚。その正体が、歩く燥一郎の前を通り過ぎる。
 灰色の毛並みをした狸が一匹、人の姿に驚き、飛ぶようにして逃げていった。他にも兎やいたち、鹿や地鼠といった様々な生き物が、地面に降り積もった花びらを蹴散らしながら夜道を駆けていく。
 さらに先へと進んでいく内に獣道が途切れ、代わりに天を衝かんばかりにそびえる花崗岩の鳥居が現れた。その先は敷石で舗装されたなだらかな坂となっている。悠々と鳥居を潜り、視線を目指す彼方へと向けてみれば、毅然と頂に向かって伸びる大階段が映る。誰の侵入も許していないはずの山に、このように整備された通り道があるはずがない。だが、これが黒狗山の本来の姿なのだ。
 獣一匹おらず、決して花を咲かせない裸の桜木ばかりが並ぶ黒狗山の光景は、八尺瓊がある物を隠すために作り出した幻――結界≠フ一種に過ぎない。とは言え、『都』を丸ごと封印≠キる力を持つ八尺瓊が仕掛けた結界≠ニもなれば、その幻は完全に現とすり替わり、今日まで誰にも見破られることなく機能し続けていた。久暁が砂螺人としての直感力で異常を感じ取っていなければ、燥一郎が起動式の綻びを見つけることすら難しかっただろう。
「こんな良い場所を独り占めしてやがるんだもんなぁ。ちっとばかし見物していっても罰は当たらねぇだろう」
 ようやく目にした真の山の姿は、まさに絶景と言えた。四方八方、見渡す限りの桜花が視界を埋めている。それも一種のみではない。薄紅色が特徴の緋寒桜、柔らかな細枝を高みより垂らした枝垂しだれ桜、白に墨色がさす墨染め桜、淡黄緑の花を咲かす御衣黄ぎょいこうなど、実に様々な花模様となっている。坂下から山頂を見上げれば、まるで花霞が闇色の天へと吸い込まれていくように思えるほどだ。
 さらに振り返れば、遥か眼下にて燦然と輝く『都』が一望できる。鉄燈籠によって照らし出された街路は光の道筋を描き、その灯りを若い桜の花々が薄紅色に色付けている。薄靄がかった街からは、眺めているだけでそこに住む者達の喧騒が聞こえてきそうだ。
 ほんの数刻前まで、燥一郎もあの場所に暮らしていた。もう二度と戻れぬのだと思うと、今まで何の感慨もなく眺めていた黒狗山からの光景が、初めて心の底から素晴らしい物だと感じられる気がする。

 今のような状況でなければ心ゆくまで花見を味わえたのだろうが、そんな燥一郎の短い遊山は、不意に現れた二つの人影によって中断された。
 大階段の手前にて佇む大柄な姿は、明らかに人のものではない。一人は全身を橙と黒の縞模様に彩られた毛に覆われており、頭部は一つ目虎の顔をしている。もう一人は体形こそ人間に近かったが、肌は青灰色の鱗に覆われ、同じ色合いをした蓬髪の下の額からは、捻くれた長い角が三本伸びている。どちらもまじないを記した防具に身を包んでおり、手には大人の腕を三本束ねたかと思うほどに太い鉄尖棒かなさいぼうを握っていた。
 異形を見てもなお、燥一郎にはまるで警戒するそぶりが表れない。それどころか、旧来の友に話しかけるような調子で二体に呼びかける。
「よぉ、お前らは八尺瓊の式≠ゥ? 悪いが奴の居場所まで案内を――」
 最後まで言いきる余裕もなく、返答は襲撃という形で返ってきた。黄濁した一つ目と、蓬髪の下から覗く虹彩なき銀の双眸に、燥一郎を歓迎する気色は皆無だった。
 双方の手にある鉄尖棒が旋回し、舞い落ちる花びらを巻き込む旋風を生む。二体は鉄忌をはるかに凌ぐ速さで燥一郎へと突進し、招かれざる侵入者の脳天へと武器を振り下ろした。
 虎頭の者の名は坤千こんぜん。三本角の者の名は万乾ばんけん。いずれも対鉄忌用に創り出された、戦闘に特化した式≠ナある。しかし――

 数々の鉄忌を粉砕してきた彼らの鉄尖棒が、燥一郎の頭に触れた瞬間。
二体の堂々たる体躯は、紅蓮の渦へと飲み込まれた。

「おぉ、しまった。案内させるつもりがやりすぎちまった。人の話を最後まで聞かねぇからだぞぉ、全く」
 悪びれもなく言う燥一郎の目の前で、火達磨となった異形の者達が、武器もろとも地に崩れ落ちる。重量のある落下音が聞こえるよりも早く、二体の断末魔が桜花の山を震わせる。
 叫びはごく短かった。燥一郎が右手を振ると、勢いよく燃え盛っていた炎は瞬時に消え失せた。赤黒い煙が幾筋も立ち上ってはいるが、地面に焼け跡は存在せず、物言わぬ巨躯の下敷きとなった花びら一つさえ焦げていない。にも拘らず、二体の式≠ヘ最前までの原型を一切留めぬ、無惨な姿と化している。
 果たして、その有様は骸と呼べるものなのだろうか。火に炙られた痕跡はなく、それどころか身体からは皮膚そのものが失われていた。代わりに剥き出しとなっているのは、白骨が丸ごと金属化したかのような骨格だ。関節部を繋ぎ合わせる、筋組織らしき物も見られない。
「へぇ〜、元々からくり仕掛けで動いていた式≠ノ、鉄忌と同じ流動組織を施したのか。起動式で造られた体液は破壊≠ナきても、骨格は自然鋼だからそのまま残るって訳だな」
 がらくたと化した式≠しげしげと観察し、燥一郎が感心の声を上げる。
 そののらくらとした物言いも、長く続くことはなかった。

 周囲に積み重なっていた花びらが、不意に巻き起こった旋風により宙へと舞い上がる。
 視界を覆い隠すほどに激しい桜吹雪が止んだ後には、これまた二つの小さな人影が出現している。
 一人は、銀紗の唐衣の上に、一点の朱を添えた柄の小袖を纏う童女。もう一人は、薄紫の地に銀糸で草模様を描いた水干姿の童子だ。どちらも見目はあどけない子供だが、のっぺりとした表情はまるで能面の様で、薄気味悪さが漂っていた。
 二人の視線が、先に斃れた二体の式≠ニ、能天気に笑う燥一郎の姿を捉える。感情の表れない面の下で、童達は何を思ったのか。燥一郎に察知できたのは、新たに現れた二人もまた式≠ナあり、自分を排除するつもりでいるという事だけだ。
 禿だった童女の髪が蠢めいたかと思うと、それはたちまち彼女の身長をはるかに超えた長さに伸び、一本一本が針のごとき硬度を備える。相方らしき童子の方も、花を手折ることすら厭うような小さな五指から、黒い刀身とも呼べる鋭利な鉤爪を生やす。
 またかと、燥一郎があからさまに煩わしげな表情を浮かべる。そんな敵に与える猶予などない。招かれざる客を討つべく、二人の童は勢いよく一歩を踏み出した。
 ――いや、正確には一歩しか進むことが出来なかったと言うべきか。

 殺気を含んだ疾走を始めた瞬間、二人の首から下が、またしても燃え盛る炎に包まれた。
 赤子の金切り声にも似た絶叫が、童達の口から響き渡る。容赦なく揺らめく火は、悶え転がろうとも消えはしない。燥一郎の手が再び翻り、ようやく尋常ならざる大火が失せた後には、先の式≠ニ同じように鋼の骨格を露にした童女と童子の姿があった。炎に飲まれなかった頭部のみが、現れた時と変わらぬ美しさを保っている。だが、繋ぎ目も露な首元からは、二人の命の素ともいうべき流動組織を形成する赤黒い体液が、雫となって流れ出ていた。すぐにでも彼らの創造主による修復を受けねば、ただの鉄屑となるのを待つしかない。
「だからぁ、式≠チてのは神器≠ェ造った神器もどき≠ノ過ぎねぇんだからよぉ。それが神器≠造り出す管理者≠ノ勝てるなんざ、本気で思ってんのか? 起動式で動く者――つまりあの仕組みの一部として動く奴は、因果で絶対的な優劣が定められているって、お前らの主も知っているはずだぞ」
 物分りの悪い生徒に言い聞かせるかのように、燥一郎が指を立てて説教する。いつの間に発現させたのか、その指にふわりと火の蝶が止まり、夜闇にも映える燥一郎の麗貌をさらに照らし出す。足元で呻く二人を見下ろしながら、彼は屈託のない笑顔を浮かべていた。
 愉悦的でも嗜虐的でもなく、当然の理を示す為の、自信に満ちた笑みである。

「さーて、命ばかりは勘弁してやるから、今度こそ八尺瓊の所へ案内を――」
「「「「朱茨あかし! 玄附子くろぶし! 辛様の御命令ぞ、その者を取り押さえよ!」」」」
 唐突に四方から上がった甲高い声音。それに応えるかのように、息も絶え絶えとなっていた二人の式≠ェ顎を大きく開き、燥一郎へと飛びかかる。
「おおっと!?」
 相手が退くよりも早く、首から下の骨を剥き出しにした童達が、彼の細い足首に齧りつく。虎鋏のごとく喰い付いて離れぬ頭に、さすがの燥一郎もこれを問題視したらしい。指に止まっていた焔の蝶が再び羽ばたき、足元の小さな頭へと舞い降りる。
 瞬時に発火した火球は、もはや悲鳴をあげさせる暇すら与えなかった。刹那の内に二人の頭部は能面じみた顔を失い、鋼のしゃれこうべへと変ずる。そうなれば敵の足に噛みつく力すら残らない。
 あっけなく剥がれ落ちた二つの頭蓋に、最後の抵抗も虚しく終わったかと思われたが――
「「「「あの方が築きし結界牢にて、永久に閉ざされるが良いわ! 蛮族め!」」」」
 立て続けに放たれる、四重奏の罵声。その直後、燥一郎の周囲にあった敷石が急にせり上がり、壁となって彼を内に閉じ込めた。
 声の主――大階段に現れた新たな人物は、足元に届くほど長い白髭を生やした老人だった。ただし、その背丈は五歳の子供と変わらぬ程に低い。赤地に派手な金糸で極楽鳥を描いたかみしもといい、まるで猿回しの猿のようである。しかも、声がした方角を視線で追ってみれば、全く同じ背格好をした老人達が、いつの間にか燥一郎を取り囲んでいたのだ。
 四人はそれぞれ、常人には聞き取れない極小の言葉で何かを呟いている。その微かな音に刺激され、石の牢はさらに高さを増し、遂には天を望む唯一の出口をも塞いだ。
 無論、燥一郎とて大人しく閉じ込められてやるつもりは毛頭ない。しかし彼が放った炎は、石牢にぶつかるなり霧散してしまう。わずかに黒く変色した箇所も、瞬く間に元通りの無機質な色合いを取り戻した。
「面倒だなぁ。条件となる鍵以外の起動式を一切遮断する仕組みか。壊す片っ端から術の構造が変化してやがる」
 ちろちろと燃える火を灯り代わりにして見回すが、内部は大人三人だけで満員となりそうな程、狭い空間であった。外側にいる四人の老人の声はおろか、桜花の香りすら届かない事からして、石の厚さという問題以前に、異質の空間で外界と隔てられたと考えるべきだろう。
 どうしたものかと思案する燥一郎に、焦りの色はなかった。所詮はこれも起動式によるもの。いくら八尺瓊の手による術だとしても、扱う者が式≠ニなれば必ず、何らかの綻びが生じるはずだ。
 そう思考を巡らし、手にした灯火を自ら消す。無音の闇の中、燥一郎は何かを探るように一点を凝視している。
 やがて目前の暗闇が徐々に厚みを備え、一つの塊を形成し始めた。その変化を促すように、燥一郎の白い手が現れた影を招く。膨らんだそれは、次第に人の形を得ていった。
 これといって特徴もない、単に人間の姿を模しただけの影法師は、燥一郎と向き合うなりピタリと動きを止める。その額には、影とは真逆の白い光で一つの紋様が描かれていた。1≠ニいう形を目にするなり、薄い唇から蠱惑的な舌の先がちらりと覗く。
「ふーん……条件となる鍵は、この紋様に対応する存在の名か。八尺瓊の野郎、駄目元とはいえ良い時間稼ぎを思いついたなぁ。そうと分かれば、冽が痺れを切らす前にとっとと破るか」
 溜息混じりに大きく息を吐き、長い睫毛を生やした瞼が一寸閉ざされる。
 次に目を開いた時、そこに朱蜘蛛≠ニ呼ばれた美丈夫の面持ちは無かった。代わりに現れたのは、先程彼に葬られた朱茨や玄附子と同じ、作り物めいた表情だ。人としての顔を捨て、ただの美しい人形と化した燥一郎の口元が機械的に開閉する。
「モノ――」
 最初の一言を皮切りに、止め処なく無数の単語が紡がれていく。
「――アンネローゼ、ヴィロス、シェバマト、アペルティア、タリリ、クスノ、アンフェ、リーメブ、ガラシュシジャ、ムル=リルス、ファピル=カティ、サシュ=レーン、ラーン=アン、マナッシア=イトゥ、ユユス=ラルス、レカ=ガル――」
 途中で息継ぎする間もない。およそ常人では続かぬ言葉の羅列を、燥一郎の口は休むことなく、聞き取りすら不可能な早さで吐き出す。
 出鱈目な言葉ばかりに思えるその単語だが、次々と呟かれる声に反応するように、対峙する影法師にも変化が起こった。一つ二つ、十個百個と言葉が増えるにつれ、額にあった紋様の形が1≠ゥら2=A2≠ゥら3≠ニいう様に次々と変化していく。止む事なく、呪文のごとく綴られる単語が一定数を経る毎に、対応する紋様の数が増え、それもまた同様に変化し続けていく。いつしか、点であった紋様は集合して線となり、影法師の全身を巡る一つの大きな模様と化す。

 自らが紡ぐ呪文の言葉。燥一郎はその一つ一つが名前≠セと知っていた。
 対応する紋様が表す意味。燥一郎はそれが数字≠セとも知っていた。
 しかも膨大な数である。長く影法師の身体に巻きつく紋様の羅列は、那由他・不可思議を超えても到底足りぬ桁数となっていく。星の数よりも多く、無量大数の彼方、無限の果てまで続くかと思うほどに。

「――絶、澪、累、莫――」
 その数に辿り着くまで、どれだけの時間が経過したことか。
 暗闇に閉ざされた空間では、正確な時の流れなど把握できない。それでも、燥一郎が口を止めることは一度もなかった。感情が消えた顔には、疲労の色すら見られない。
 一方、数を増やし続け、複雑化する紋様に侵食されゆく影法師は、徐々に輪郭が曖昧となっていく。終わりが近づき、起動式が崩壊しかけている証拠だった。
「――喬狐、廉秋、小琴――」
 終焉の直前になって、燥一郎の呟く速度が急激に遅くなった。彼が最もよく知る者の名が出番を待っていたかのように、ゆるりと宙へと放たれる。
「――阿頼耶=斬月=久暁」
 最後の名を唱えた瞬間。燥一郎を捕らえていた石牢は、音を立てて崩壊した。

 桜花の只中に戻った美丈夫は、すでに人形から人へと戻っていた。主の作りし結界牢が破られたことに驚きを隠せない式℃l人だったが、それ以上に彼らを震撼させたのは、燥一郎の纏う気の変わり様だ。
 彼を捕らえてより、すでに月は十五回も空を行き来している。牢を出ると共に、燥一郎は置き去りにされた『昇陽』にいる片割れが得た情報を、自らも受け取った。それにより知らされた現状は、彼から初めて余裕の笑みを奪った。月下美人と謡われた麗貌に朱蜘蛛≠ニ畏れられた毒気が宿り、代わりに慈悲が失われる。
「冽の奴、えげつない真似しやがって……」
 ここには居ない何者かに向けた苛立ちを、気に留めるような式≠ナはない。なおも敵を封じようと、すぐさま二度目の石牢が起動する。
「悪いが、時間食っちまったからな。手加減とか出来ねぇわ」
 燥一郎が告げるのが早かったか。
 それとも起動しかけた石牢から彼の姿が消える方が早かったか。
 突然、視界から標的が消滅し、式£Bは思わず動揺した。本来は結界の修復と維持のみを担い、戦闘とは無縁だったのが災いしたのか。軽く何者かに触れられたと感じた時にはすでに、四人の全身は炎上していた。その炎の勢いたるや、これまでの比ではない。
 たちどころに骸骨と化した四人の式=B彼らの骨が敷石に散らばると共に、周囲の草や舞い飛ぶ花びらにもその火が燃え移る。決して式∴ネ外を焼くことのない火炎だが、飛散した火はそれ自体が生き物のように桜の木々を包み込み、一つの花弁の形も損なわぬまま、瞬く間に山中を炎上させるべく広がっていく。
 頂きを目指し、桜木を飲み込んでいくその炎よりも早く、燥一郎は大階段を上がる。
 一度地を蹴る毎に姿が消え、現れたと思えばはるか十数段を一気に移動している。跳躍の度に瞬間的な移動を繰り返す燥一郎が、終着点にまで辿り着くのに十秒もかからない。
 そして――麓から迫る炎の脅威も、現れた襲撃者の姿をも、全く意に介さぬ世界がそこには広がっていた。

 かつて黒狗山への立ち入りを禁じたのは左大臣家であった。その詳細な理由を知る者はおそらく、左大臣と対立する立場にあった右大臣こと八佗しかいなかったであろう。
 左大臣家の所有地および住まいは上都の朔北にある。それは誰もが知る常識だ。
 しかし、実際に八尺瓊辛の屋敷を訪れた久暁は、その地の雰囲気があまりにも、自分が生まれ育った黒狗山に似ていることに疑問を抱いた。もし今久暁が、燥一郎と共にこの地に足を運んでいれば、その疑問はたちどころに氷解していたはずだ。
 黒狗山の山頂にあったのは、朔北にある左大臣邸と寸分違わぬ屋敷であった。
 ただし、一切生者の気配がなかった朔北の屋敷と違い、今燥一郎が佇む彼の庭には春の初めを歓喜する花々が咲き乱れ、それと戯れる蝶や鳥が多数見られる。御簾によって隠された屋敷の内部からは、火とも鉄燈籠とも異なる光が溢れ出ており、常夜であるはずの空間が、その屋敷を中心とした周囲のみ真昼のごとく照らし出されていた。
 白砂を敷き詰めた地面を蹴り、燥一郎はさらに宙を渡ろうとした。
 だがここに至って、不意に弾かれたかのように大きく後退する。笑みの消えた表情が、張り詰めた弓のごとく緊張する。
 風下から追ってきた炎を背に佇む麗人。彼をその場に留まらせたのは、胸を圧迫するほどの威圧感だ。

 それは悠久にも等しい歳月を経た者だけが纏える気配だった。常人には到底推し量れないほどの年月を生きながら、永遠の普遍性を保ち続ける者――それの放つ、ゆらぎを許さぬ硬質の声が、襲撃者の炎を震わせる。
「四元らに託した我が檻を、四百刻で破りおったか」
 ふわりと、音もなく、白い狩衣姿が庭の湖面へと降り立った。緋色の裳袴はおろか、黒い沓にも飛沫一つ跳ねてはいない。空中から忽然と現れたその者には、どのような穢れも許されないというのか。
 烏帽子の下、化粧を施したかのように白い顔では、切れ長の双眸が侵入者を睥睨している。歳の頃はおよそ二十代半ばだが、中性的な若い顔立ちに対し、燥一郎へ向けて放たれる鬼気は幾千年分もの重圧が宿る。
「蛮族の分際で、綺羅乃剣の力をその身に取り込むとは。だがそれしきの事で、我を降せると本気で思うておるのか?」
「ああ、思ってるさ。随分と時間がかかっちまったが、ようやく会えたな左大臣。探す手間が省けたぜ」
 燥一郎の顔に笑みが蘇る。ただしそれは、いつもの余裕に満ちたものではなく、相手を牽制するための威嚇にも似た嗤いだ。屋敷の主の目には、それも虚勢と映る。
「たかだか二十八年を長き歳月と捉えるか。人と交わる内に、己の存在意義を忘れおったとみえる」
「どっかの誰かさんと似たようなこと言うなって。封印≠謔闡Oから俺がこの国に潜んでいたって事に、つい先日まで気付かなかったくせによぉ」
 距離にして数十歩。それ以上踏み込まずとも、すでに双方共に相手の間合いに入っている。未だ動こうとしないのは、互いに相手が何者であるかを知るが故だ。
「汝らが何を目論でいようとも、全ては徒労よ。浅葱の娘を使い、我を仕留めたつもりであったと見えるが、我はこの通り健在ぞ。そして儚人≠烽アの『都』より消滅しておる」
「ああ、そうだな。ぜーんぶ俺の計画通りだ・・・・・・・・・・・
 その一言で、敵が決して虚勢を張っているだけではないと、左大臣は判断したらしい。燥一郎を卑下する視線に、微かな警戒心が入り混じった。
「久暁の鉄忌狩りの目的は予想外だったけどよ。そのせいで最善の手順とはいかなかったが、これでもうアイツが殺される心配はなくなった。封印≠維持し続けたテメェも、かなりの力を消耗しているはずだ」
「儚人≠イときを使って何をするつもりかは知らぬが、我も随分と侮られたものよ。管理者≠ニはいえ最も歳若く、五百余年ほどしか存在していない汝ら『茫蕭』の小童こわっぱが、『昇陽』を幾千年も守り抜いてきた神器≠フ我に敵うとでも?」
「おぉ、自信満々じゃねぇか。綺羅乃剣を模倣した程度の起動式なら、自分が影響を受けるはずがないと確信してんのか、八尺瓊辛」
 対面してより初めて呼んだ相手の名。続ける言葉に、燥一郎は朱蜘蛛の名にふさわしい毒牙を添えた。
「それとも、暁来あきら≠ニ呼んだ方が良いのかなぁ?」

 かけられた言葉に、八尺瓊は沈黙で応えた。しばしの間の後に口を開いた時も、その無表情に動揺は微塵も表れていなかった。代わりに怒りの色が見て取れるのは、『昇陽』の祖神ともいえる暁来大神おおみかみの名を軽々しく口にされたからか。
「さて、何の戯言か?」
「しらばっくれてんじゃねぇ。もう何もかもお見通しなんだよ。テメェの正体も、過去もな」
 広大な敷地を取り囲む桜木が、燥一郎の言葉を受け、さらに激しく炎を燃え盛らせる。
 二人の間を飛びかう火の粉もまた、庭の草木に燃え移ってはそこを燎原と化すべく勢いを増していく。
 焔は八尺瓊が佇む池へと迫り、彼の者の逃げ場を失わせる。今や燥一郎が操る炎は、彼にとって万の軍隊にも等しい存在と言えた。
「時間がねぇから単刀直入に言うぞ。俺達が『昇陽』で欲しいのは三つだけだ。一つ目は綺羅乃剣にある全記録。二つ目は儚人≠フ指標情報と端末としての機能。そして三つ目はテメェだ、最初にして最後の管理者=\―あるいは星を渡る媒介者。いつまでも八尺瓊≠フ殻を被っていないで、正体を見せてみろよ。その上で教えてやる。この世界で最高位に立っているつもりのテメェが、どれだけそのことわりに利用されているかってのをな。聞けばちったぁ、俺達に協力する気になるかもしれねぇぞ?」
「黙れ小童。壊れた管理者≠フ分際で何をほざくか」
 燥一郎の挑発めいた物言いを、硬質の声が一蹴する。湖面に波紋一つ立てず、それでいて淵の火炎を退ける鬼気の強さ。八尺瓊は冷静さを失っていない。だが燥一郎に向けていた敵意は、完全に殺意へと変わっている。
「その醜い本性を露わにし、跡形も残さず消え去るのは汝の方よ」
「じゃあ仕方ねぇ。一番初めの宣告通りだ」

 ――必ずお前を引きずり出す。

 かつて自らが『昇陽』に潜むある者へと向けた宣言。
 二十七年の時を経て再び口にした言葉と共に、燥一郎は炎の波を従え、地を蹴った。





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