<七つ牡丹>



 常夜の『都』に昼夜の別は無い。それでも一日の始まりと終わりは存在する。
 遊廓を中心とした下都において、その区切りとなるのは空を行く二つ面の月ではなく、各地区の入り口と出口を兼ねる大門であった。毎日定時に開閉するこの大門は、招かねざる者の侵入と裏切り者の脱走を防ぐだけではなく、ひと時の夢の始まりと終わりを告げる役目も担っていた。
 下都の巽区一帯を勢力下に置く、ここ『彩牡丹』とてその例外ではない。今日もまた、一晩の宴を終えた客と見世の芸妓とが、談笑しながら大門で別れを告げていく。ただ、下都のどこの遊廓でも普通に見かけるであろうその場面も、『彩牡丹』では様子がかなり異なる。
 通常はどこの遊廓でも、任期を終えていない遊女の足抜けを防ぐため、入れ替わりの恐れがある他区からの女性の来訪は原則禁止している。ところが、『彩牡丹』内を見回してみれば、明らかに客と思わしき女性の姿がそこかしこで見受けられるのだ。無論、それでも大半の客は男衆なのだが、彼らがこの地に赴く理由も、また他の遊廓とは大いに違っている。

 確かに存在する違和感の原因。それは彼らを見送る芸妓達にあった。
 見渡せば、艶やかないでたちをした女子達は皆、十代のまだ若い子供としか言えないような年齢の者しかいない。また、芸妓達の中には男装の麗人と思しき、女顔負けの美貌を備えた着流し姿の者まで混じっている。その体格が二十代前半の女性のものと違うことに気付けば、もう答えは導き出せるだろう。
 ここ『彩牡丹』に、いわゆる遊女はいない。
 客の相手をするのは全て少女の如き少年、そして美女の如き美男――すなわち男娼だ。
 『彩牡丹』は下都で唯一の、陰間を専門に扱う遊廓なのである。
 元々『昇陽』において衆道は広く知られたものではなかったが、それでもこうした嗜好を求める者がいなかった訳ではない。今でこそ各党の用心棒を指す若衆≠ノしても、本来意味する所は男色を生業とする若者のことである。表向き陰間として見せかけ、戦力になる若者を集めていたのが、いつの間にやら本来の意味に取って代わってしまったのだ。
 無論、陰間を扱う見世は『彩牡丹』だけに限らず、他の遊廓にも数軒は存在する。しかし『彩牡丹』は専門という点において、明らかに他党とは一線を画している。
 婚姻が制限されている『都』において、相手を孕ませる心配が無いというのは、客にとって最も安心できる要素である。さらに客が女性ともなれば、我が身にかかる恐れのある危険性を知っているだけに、避妊への対策、および来訪に関しての口止めはより徹底したものとなる。『彩牡丹』側は感染症への警戒に専念しさえすれば、足抜けや密通といった損害を最小限に食い止められるのだ。
 実際、『彩牡丹』が興って以来、党から離反した者は一人もいないという。男手が足りず、生産力で劣るために他党との交流があまり盛んでないせいかもしれないが、それが真実ならば、陰間専門という特異性に併せて、内部の結束力も相当なものであることが伺える。
 だがそれは、見方を変えれば『彩牡丹』の人間が外部の者に対して、決して心を許しはしないという証明であるようにも思えた。

「見てみろ、夜刃やいば。あの色ボケ共の面を。昨日の雷の事などすっかり忘れ去ったかのようなニヤケ面じゃねぇか」
 大門の前で踏み止まる客を遠目に眺めながら、若衆の一人が侮蔑に満ちた呟きを漏らした。三十路も半ばかというその男の傍らでは、弟分の若者が退屈そうに何かの錠を弄んでいる。闘犬を思わせる顔つきをした兄貴分の、着流しの袖からのぞく両腕には幾重ものサラシが巻かれてある。一方、夜刃と呼ばれた弟分は歳若い顔に似合わず、額から頬にかけて縦に走る傷により、右目が縫い合わされている。見るからに近寄りがたい雰囲気をかもし出す彼らはこの日の門番で、閉門後から次に開門するまでの間を受け持っていた。
 刻限はもう間近と迫っているのに、名残を惜しむ客はいつまでも後ろ髪を引かれている。それほどまでに別れ難いのならば一夜を共にすれば良いものを、大概の者――特に上都の者などは、月が昇るのを恐れ、滅多に一夜を明かそうとはしない。それだけ臆病でありながら、そういった者に限って、手を振る美少年達の目が笑っていないことに気付かないのだ。やりとりを眺める二人の若衆にとって、目の前の光景はただただ滑稽なものに映る。
「稲妻が見えた時だけは、誰もが慌てふためいていたというのに。これだから余所の連中は……」
 夜刃もまた、呆れた様に独眼で冷たい視線を投げかける。恐らくは、この『彩牡丹』にいる全ての若衆と陰間が、今日一日同じような感情を抱いていたに違いない。

 昨日、明けることのない暗い空を、一筋の雷が走った。雲一つない空に閃く光の意味する所を、知らぬ者はこの『都』には居まい。おまけに昨日は太極月を過ぎ、鉄忌が絶対に出現しない期間に入ったばかりだったのだ。
 当然、どこの遊廓でも、一時は蜂の巣をつついたように騒然となった。しかし、実害が無かったこと、そして何より左大臣が居るのだから心配は要らないだろう≠ニいう意識が、半日近くも経てば混乱する民衆を沈静化させていた。当の左大臣からは、何も情報が流れてこなかったというのにだ。
 これがいつかの動乱期であったのなら、不測の事態を引き金に上都に反発する者も現れたかもしれない。二十七年という歳月は、牙を鈍くするのに充分な時間であったらしい。
 結局、ここ『彩牡丹』においても、一晩経てばいつもと変わらぬ日々が戻ってきただけであった。
 去り行く客の遠ざかる背を最後まで確かめることもなく、美しい顔の少年達は一人、また一人と大門の前から離れていく。一晩のみならず、幾たび肌を重ねた相手だとしても、その客をいつまでも恋しげに見つめ続けるような陰間は『彩牡丹』にはいない。往来を歩く余所者の姿が消えてようやく、彼ら本来の表情――冷え切った目に似つかわしい無感情な顔つきに戻る様を見るたび、夜刃ら若衆は、いつまでこのような日々が続くのかと暗鬱になる。

末那まな様――もとい、くきの様からは相変わらず何も指示がないと?」
「らしいな。あの方の病状は相変わらずだ。むつ様も、昨日の事件については不干渉でいろと言う」
 愚痴混じりの雑談を続けて半刻も経ったかという頃になり、ようやく最後の帰り客らしき男が大門の向こう側へと抜けていった。その客にしつこく絡まれていた陰間が、やれ疲れたと言わんばかりに女物の着物の襟を崩そうとしている所へ、門番の二人はねぎらいの言葉をかけた。
「務めご苦労。だが、着崩すのはせめて見世に戻ってからにしておけ。まだ泊り客の目があるぞ」
「……承知」
 声変わりもまだしていない少年は、不承不承襟を正すと足早にその場を去って行った。若衆のからかいと言うよりも、心なしかそのやりとりは、規律違反を咎める軍のそれを思わせた。
 辺りから陰間と客が消えた途端、『彩牡丹』の大通りはその賑やかさをひそめ、代わりにぼんやりとした鉄灯籠の明かりが見世の格子の影を色濃く落とす。昨夜の雷の件もあってか、日頃に比べれば今宵ははるかに静かだった。客の騒ぐ声がまばらにしか聞こえない事から察しても、今日泊りこんでいる客は相当少ないに違いない。商売あがったり――と思うのが下都での筋なのだが、何故かこの門番二人に限らず、辺りを見回る若衆達はその閑散たる様を快く思っているようであった。

「好機とはいえ、五年前とは勝手が違うからな。余所の奴らも知恵をつけた。前回のように幹部を暗殺したとしてもすぐに替えが現れるだろうし、下手に動けばこちらが危うくなる。あの方が戻るのを待つしかねぇよ」
「結局は若次第か……本当に若の言う通り、この『都』に夜明け≠ェ来ると思うか、宿薙すくな
 さあなと薄く笑い、闘犬に似た顔つきの男――宿薙は大扉の留め具を外した。『彩牡丹』の主は今もこの地にいるが、長らく病を患っている身であるため、実質的な指導者は別にいる。その人物がある使命から『彩牡丹』を離れて以来、すでに五年が経過した。宿薙の笑みは苦笑というよりも、苛立ちをこらえているかのように歪んでいる。その表情が自分自身のものでもあると、夜刃もまた悟っていた。
 軋む音を立てながら、黒木で組まれた『彩牡丹』の大門が閉じていく。扉一枚の幅が大人三人を横に並べたほどもあるため、左右から押していくにも力がいる。夜刃と宿薙は共に競い合うように両の扉を押していったが、完全に門が閉ざされた時、二人の扉はほぼ同時に静止していた。
 一度大門が閉ざされてしまえば、外部から遊廓の中へ入ることはおろか、内部から外へ抜け出ることも禁止される。何処の党であれ、一日の内の半分はこうして他党と完全に隔絶された時間を持っている。上都からすれば、それは下都の結束を必要以上に強くさせないための措置であるが、下都側からしても、外敵に内部の情報が完全に漏れるのを防ぐために、自らの領域を閉ざす必要があった。故に大門が閉められたからには、新たな侵入者が現れることは許されない。
 にも関わらず――

 門扉から手を離し、振り返った宿薙と夜刃のすぐ目の前に、その男は立っていた。足音はおろか、両腕にはめた無数の腕輪が打ち鳴り合う音すら聞こえなかったというのにだ。
 顔を覆い隠す黒の覆面頭巾からは、彼が何者であるかなど把握できなかった。白地に笹葉を散らした柄の着流しを視認するよりも先に、宿薙と夜刃の喉元に鋭い打突が襲いかかったからである。
「ぐぉッ!?」
 鎖骨の上を狙った二本指の直撃を受けた夜刃が、くぐもった声を上げ、喉を押さえた。一方、同じような攻撃を受けながら、年上の宿薙はこれを寸での所でかわしきった。すぐさま身を屈めると、腕を空振りさせた男の空いた胴へと、サラシで巻かれた肘鉄を喰らわす。
 中に残っている泊まり客であるはずはなかった。覆面等で顔を隠したまま、遊廓内を闊歩することは許されない。素顔を見せないという事実が、これ以上ないほどに招かねざる客である事の証明となっているのだ。手傷を負わせたとて、宿薙らに咎めはない。
 しかし、覆面から覗く男の目はその一撃を――さらに言えば、重なり合うサラシの隙間から現れた毒針の先端を正確に捉えていた。
 片足を軸にし、白い着流しが大きく身を捩る。宿薙に背を向ける形で、男は攻撃をかわした。毒針を仕込んだ腕が横薙ぎに振るわれ、その先端がかすりでもすれば男の命はない。にも関わらず、その男は背を向けたままでも物が見えているとでもいうのか、正確に宿薙の頭へと手を伸ばした。
「遅い」
 呆れたような声が溜息をつくと同時に、宿薙の脳天から硬い音が聞こえた。指の第二関節を突き出すようにして握られた男の拳が、つむじを穿つようにして打ったのだ。その痛みたるや、のみの刃を叩きつけられたかと錯覚するほどである。宿薙の頭頂から眼窩へと電流のような刺激が走り、塵にも似た光が一瞬視界を舞う。
「手の内を知る人間相手に暗器など、意味がない」
 痛みに麻痺する思考を叱責するかのように、白い着流しの男が冷たく言い放つ。その聞き覚えのある声音と、自分の攻撃を完全にいなした身のこなしから、相手が何者であるかを宿薙はようやく、完全に理解した。
「ウッ……! 貴様、何者だ!?」
 背後では喉の痛みに顔を歪める夜刃が、敵意も露わに着流しの男を睨みつけている。その手には懐から取り出した苦無が握られていたが、男が問いに答えるよりも先に、宿薙の手が夜刃に制止を求めた。
「何故止める!?」
「馬鹿野郎! 相手をよく見ろ、誰に得物を向けている!?」
 思いもよらぬ宿薙の反応に今一度相手を見据えた途端、夜刃の手から苦無が転がり落ちた。
 覆面を取り去った侵入者の顔は、『彩牡丹』に居るものならば誰もが知っている人物のものだった。最後に直で見た時から五年の歳月が経ち、三十路近くになったとはいえ、彼の顔つきに大きな変化はない。犬の毛に似た短い黒髪に、何か含む所があるような薄い笑みを浮かべる、無精髭を生やした顔はかつてのままだ。変わったと言えば、右頬を走る一筋の新しい傷痕と、耳飾や腕輪など、やけに傾いた服装をしているくらいのものか。
「大門を二人で閉める際は、必ず一人一枚ずつ、順に閉めていけと言ったはずだ。視界を塞がれたせいで見ろ、この様だ。俺がいない間に随分と隙まみれになったな、宿薙に夜刃」
 面に浮かべた薄笑いとは裏腹に、男の言葉には静かな怒気が含まれていた。しかし最早、相手に抗う気など毛頭ない。宿薙と夜刃は膝をつき、頭を垂れて男に跪く。
 彼ら二人だけではない。騒ぎを察し、大門前に駆けつけた他の若衆達までもが、その男の姿を見るなり顔色を変え、次々と地に伏せていく。
「今日の大門前の見回りはこれだけか。昨日の騒ぎの後にこれだけとは少ない。俺なら一人で全滅できる。どれだけ鈍っているんだ、お前らは」
 十数人ばかり集まった若衆の頭上から、傾いた外見におよそ似つかわしくない硬質の声音が責める。だが、跪く男達の顔に怒りや屈辱の色はない。彼らは皆一様に驚き、慄き、そして歓喜から涙を流す者さえいた。
「よくぞ、よくぞお戻りになられました……若」
 感極まった宿薙の一言に忠誠を認めたのか。『彩牡丹』の実質的指導者、柊野くきのは笑みを深くした。





 次期惣名主の帰還は、彼の住まいである見世『七牡丹』をにわかに騒がせた。早がけて伝達に向かった若衆から瞬く間に話は広がり、柊野が見世に辿り着いた頃には、昨夜稲妻が閃いた時以上に、遊廓の人間達は動揺していた。
 非番の若衆や裏方の女中、さらには客の相手をしていたはずの陰間達までもが、彼の姿を一目確かめようと廊下に顔を覗かせた。そうした者達を見つける度に、柊野の一喝が辺りの空気を震わせる。
「見知った顔が久々に現れたくらいでガタガタ騒ぐな! 持ち場に戻れ!」
 あまりの剣幕に、何事かと部屋から転がり出る客まで現れたが、そういった者達には会釈一つ返さず、柊野は曲がり角の多いジグザグした廊下を進んでいく。こうした廊下は『七牡丹』のみならず、『彩牡丹』のどの見世にもある特徴である。これだけ死角が多くては、外部から訪れた客はどこに誰が潜んでいるのかなど、まず分かるまい。離れに続く中庭に向かう手前の廊下など、七つの通路が交差しており、さながら蜘蛛の巣のようである。

「こんな静かな夜だというのに、急に騒がしくなったかと思えば。野心家がようやくお帰りか」
 七つの分岐を持つ廊下の角にさしかかった所で、姿なき者の声が柊野の足を止めた。
 付き添いの若衆達がすかさず身構えたが、柊野は彼らを無言で押し止め、さらには
「ここから先は着いて来るな」
と、その場から退くよう命じた。完全には納得せぬまま、それでも不満一つ言わず、屈強な男達は柊野一人を残して去っていく。代わって二つ隣の角からヌッと姿を現したのは、紅白の派手な色合いの着物に身を包み、無造作に髷を結った巨漢だった。
 いや、正確には巨漢と言うよりも、肥満体質のその体は膨れた皮袋と称した方が似合っている。大人二人が並んで歩いても余裕のある幅の廊下を、たった一人でほぼ塞いでしまっているのだ。おおよそ角の陰に隠れていたとしても、その存在感は隠し通せるものではないはずだが、酔香に酔った赤い顔でヘラヘラと笑うその男は、今の今まで気配を完全に殺していた。
「やはりお前は今日も来ていたか、東雲しののめ佐京」
「こんな時だからこそ来たのだ。昨日の空模様からして、何か起こる気がしたからな。幸い、昨日の今日で拙者がここを訪れたとしても、上都でその理由を勘繰る者はいない」
 クツクツと自嘲の笑い声を上げる佐京だが、東雲≠フ姓を持つ彼は紛う事なき武士十家の一つ、東雲家の人間だ。さらに言えば、佐京とはかつて刀聖≠ニまで謳われた稀代の剣豪の名であり、それを受け継ぐ三十路過ぎのこの男はすなわち、刀聖≠フ息子にして、東雲家の当主でもある二代目佐京その人に他ならない。
 そんな立場の人間が、下都の男娼街に入り浸っているなど、許されるはずがないのだが――
「いつまでも嘘をつき続けていると、いざという時、誰も信じなくなるぞ」
「それは心配無用。上都では拙者の嘘は、よほどの朴念仁以外にはとっくにばれておるよ」
 佐京の言う朴念仁とは、上都の大半の貴族や頭の固い浅葱家、そして近衛というだけで武士十家の宗主気分でいる黄櫨こうろ家の事だ。東雲家では、佐京の放蕩ぶりが下都を探るための演技に過ぎないことなど、周知の事実である。
 しかしながら、身内以外の上都の実力者から不信をかっているという事実は、佐京にしてみれば相当不利益なはずである。それなのに、『彩牡丹』の正体を知りながら、あえて彼はこの地に最も多く足を運んでいる。丸めた餅のようにむっちりとした外見の印象とは裏腹に、およそ食えない男だという事を、柊野は重々承知していた。
「それで、戻って来たという事はつまり、七つ牡丹≠その背に負う決心がついたのか?」
 探るような問いかけに、柊野はただ口角を微かに釣り上げただけで答えた。まるでそれ以上は語らずとも分かるだろうと言いたげに。不敵な笑みと呼応し合うように、七つ牡丹≠ニいう言葉が飛び出た途端、彼の視界に映る闇がいっそう濃さを増した。
「己を最も己たらしめる仮面を被ったか。やれやれ、噂に聞いた『火燐楼』でのお主の方が、人当たりが良さそうだったがな。『彩牡丹』でのお主には諧謔を楽しむ心がない。ゆっくり話をする間もないか」
 脇を通り過ぎ、中庭へと向かう傾き者の背になおも左京が語りかける。その言葉については反応を返す必要もないとばかりに、柊野はただ足だけを動かした。

 そのまま歩き続けて幾許かもしない内に、剥き出しの肌をひやりと撫でる風が吹きつけてきた。『七牡丹』の中庭は、砂利と敷石だけを配置した枯山水となっている。客をもてなす見世を抜けここまで来れば、ただでさえひっそりとしていた今宵の遊廓の賑わいが、息を殺したかのように消沈して思える。
 庭を取り囲む渡り廊下へと辿り着いた柊野を出迎えたのは、今にも死にそうなほど青ざめた顔色をした中年の女だった。知らぬ者がいきなり対峙すれば、生気のない庭から現れた幽霊かと思うことだろう。
「睦か。長い間苦労をかけたな。変わりない様で安心した」
「若もお変わりなく……私の力が至らぬばかりに、ご帰還早々の指導、恐縮にございます……これで若い者共も頭の緩みが締まりましょう……」
 柊野からねぎらいの言葉をかけられ、女――睦は消え入りそうな言葉と共に、深々と頭を下げて敬礼した。顔色の悪さに加え、落ち窪んだ眼窩や、その下に浮かんだ隈のせいで目に見えて明らかではなかったが、彼女が心から柊野の帰りを喜んでいるのは確かだった。
「母上の容態はどうだ?」
 その問いかけにすぐには答えず、睦は覚悟を決めるように、一拍の間だけ両目を閉ざした。再び瞼が開かれた時、彼女のかげった瞳には、さらに沈痛な感情が露わとなっていた。
「それが……」
「柊野ぉー!」

 耳を澄ましてでもないと聞き取れないほどのか細い声が、ようやく形を成したと思った瞬間。『彩牡丹』中に響き渡るかというほどの甲高い絶叫が、離れの二階からこだました。
「どうして五年間、便りの一つもよこさなかったのー! 母さん寂しがってたんだからねー!」
 柊野と睦が揃って視線を向けた先に居たのは、欄干から身を乗り出す、四十路も半ばを過ぎたであろう一人の女性だった。白妙の地に水墨の梅林を描いた着物に、葡萄えび色の肩掛けを羽織ったその姿は年相応の装いに相違ないが、階下の二人に向けての口調は、違和感を覚えるほどに若々しい。胸元まで届く黒髪を一つに束ねている飾り紐など、十代の禿かむろが身につけているような幼いものだ。だが、満面の笑みを浮かべる無邪気な表情は、これ以上ないほどの喜びに満ちていた。
「そんな寒い所で突っ立っていないで、早く中に入ってきなさーい! あ、睦もどう? お菓子あるよ?」
「お気持ちだけありがたく頂戴いたします……」
 間近にいる柊野でも言葉の全てを聞き取れないというのに、さらに離れた場所で浮かれる女に彼女の応えは届いたのかどうか。申し出に対し睦が辞儀するのを見届けるより早く、いそいそとその女は部屋の奥へと引っ込んでしまった。すでに二人をもてなすことしか頭にない様子である。
 離れから女の姿が消えるなり、睦が大きな溜息をついた。呆れなどではなく、世の不条理を嘆くかのように。
「これこの通りでございます……」
「案の定か」
 分かっていたことだと、柊野もまた嘆息する。
「この五年間で一段と悪化したようだな」
「元より、ご当人に進行を食い止めようという気がござりませんゆえ……今では私と話していても、心は完全にあの方が最も幸福であった頃……あの女が生きていた頃に留まったままという有様で……」
「そうか」
 短く返した柊野に、苦悩している様子は見られなかった。彼にしてみれば、母親の病状はいずれ起こるべき事態が起きただけのことに過ぎない。母親の家系は代々、暗殺の手段として、自分自身の精神・記憶をそっくりそのまま他人と成し、変装する業に長けていた。演技などではなく、他者の記憶から細かな癖に至るまで、全てを自らの物とし、その他者に成り代わるのである。
 ありとあらゆる他人が自分となる――そんな事を幾度も幾度も行っていれば、当然のように本来ある自分自身の精神は変質し、たちまちの内に崩壊してしまうだろう。それを防ぐ為、彼女の一族はある程度精神の均衡が崩れ始めると、自身が最も支えとしている記憶を日頃反芻するようになる。そして、さらに精神状態を保つことが難しくなってくると、反芻する記憶に完全に囚われ、現実と空想の区別もつかなくなってしまう。そうなれば後は、ただ幸福な記憶に耽溺しながら、緩やかな死を待つしかない。
 睦の知る限り、こうした症例は三十歳を過ぎた頃から現れ始めるものだったが、柊野の母の場合は、発症の兆候が異様に早かった。この『彩牡丹』を作り出した当初から現れていた病状である。今では充分すぎるほどに末期と呼べた。

「柊野様。いえ、もうすでに貴方様は実質的な新たな宗主でありますので、これからは貴方様を末那様とお呼びするべきですね……」
 末那≠ニ呼ばれた柊野の双眸が、急に鋭さを増す。先程廊下にて、東雲左京から七つ牡丹≠ニいう言葉を聞かされた時以上に、胸の内では暗い感情が広がっていた。それらの言葉が意味する所を噛みしめ、これから成すべき事を言い聞かせるために。
「あの方がお命じになられた『火燐楼』の彼の者の件……真偽は如何でございましたか……」
「母上は昨日の雷以来、食事をとったか?」
 求める答えの代わりにまるで見当違いの問いを返され、睦はしばし戸惑った。それでも、彼女は問いの理由をさらに尋ね返しはしない。それが部下としての当然の義務であった。
「いえ、食欲がないと仰られ、何も口にしておりませぬ……どうしてその事をご存知で……」
「それが答えだ。心を病んだとはいえ、あれでも宗主の自覚があるという事だ」
 ハッと何かに気づいたように、睦の重々しい目が見開かれる。次に離れへと視線を向けた時、そこに憐憫の情は微塵もなかった。
「左様でございましたか……」
「皆に伝え、客の始末を頼む。東雲以外はどうすべきか、承知しているな?」
 無言で頷くと、睦は柊野の横をすり抜け、見世の方へと足早に歩いていった。だが、おそらく彼女は途中で引き返し、これから離れの部屋で交わされる会話を盗み聞きに来るだろう。
 柊野が次期宗主として、成すべきことを真に果たすか確かめる。それが下位の五家をまとめる自分の役割だと、彼女は信じている。そして、そうした行為を当然のように容認するのが『彩牡丹』なのだ。
 全ては裏切りを許さぬが為。鉄の掟を守る為。
 一族郎党が生き延びる為だ。

 腰に差していた刀を帯から抜き、手に携える。『彩牡丹』を離れてからの五年間、結局一度もまともに使われる機会のなかった得物だが、先日研いだばかりの刃同様、使い手にも鈍りは一切ない。
 母親の部屋の前に立った時、柊野の呼吸は息をしているかどうかも分からぬほどに静かだった。冷静であると言うよりも、感情ごと凍りつかせてしまったのかもしれない。
 それでも、障子を開けた先の部屋にいた母親は、変わらず歳相応でない幼さに彩られた、満面の笑みで柊野を迎えた。
「もぉ、遅いじゃない柊野。ウチお腹ペコペコなんだからね!」
 膨れっ面で菓子箱から煎餅を取り出す母親の文句にも言い返すことなく、柊野は彼女の前に正座した。自分が食べるのかと思いきや、母親は煎餅を柊野の前へと差し出す。それにも無言で応える息子に、仕方ないなぁと母親は肩をすくめた。
「さては我慢しているんでしょう。もう、母さんに似て意地っ張りなんだから。そうやって涼しい顔して平気な様に見せる所なんて、特に義姉ねえさ――」
「末那――いや、もうすでにそう名乗る権利は貴女にはない。八色の黒¢謗オ家当主くきの。同じく第七家にして汝が子、柊野が問う」
 母親の話を急に遮り、柊野が一段と強い語気で宣言した。その威圧感に、さすがの相手もキョトンとして首を傾げる。
「どうしたの? 帰った早々、急に改まっちゃって」
「五年前、貴女が『火燐楼』に向かう俺に授けた密命。それを覚えているか」
 尋問めいた問いかけをする柊野だが、彼にはその答えがすでに読めている。
「……何だったけ?」
 予想通り、母親はまるで分からないという様な苦笑いを浮かべた。
「えーと、ちょっと待って。確か義姉さんに関する事だったと思うのね。義姉さん絡みの物事ならまだ覚えている事が多いの。うーん……」
 焦りながら目を閉じ、深く考え込む母親の様子をも、柊野は冷ややかに見つめている。しばらくうんうんと唸っていた割りに、彼女の頭の中ではどういう思考が巡ったのか。
「そ、そんな子育てなんて大役、ウチに勤まるのかしら……でも、義姉さんがウチにしかできないというなら、この身に代えても果たしてみせるわ。見ていて、義姉さん!」
 考え事が止まったかと思えば、唐突に母親は目を輝かせながら、目の前にいる柊野もそっちのけで虚空を仰ぎ見だした。これが睦の話していた、病の現状である。
「回想か妄想か、独りで盛り上がっている所を悪いが、それは何の関係もない。幸福を反芻するのはこれっきりだ」
 一人悦に浸る母親の独白を止め、柊野は携えていた刀を彼女の目の前に掲げた。
 空いた右手が柄を握り、するりと白刃が引き抜かれる。
 殺気を含んだ刃の輝きを前にしても、母親は息子がなぜそんな物を取り出したのか合点がいかないらしく、また小首を傾げていた。

朱蜘蛛あかぐも事件≠ノよって、下都の勢力図には大きな変化が現れた。さらにそれは、新たなる下克上を誘うきっかけにも為りえた。ゆえに俺は五年前、反乱分子となる可能性のある他党の幹部を暗殺することを貴女に提案し、貴女もそれを認めた。『彩牡丹』という仮面を被り続けた我ら八色の黒≠ェ、真に八色の黒≠ナある為に」
 五年前、下都の重要人物が次々と謎の不審死を遂げた、黄泉呼び≠ニ呼ばれる怪事件。この柊野らの暗躍により、下都は『火燐楼』以後、勢力を分散させることなく拮抗した力関係を維持することとなった。上都の誰に命じられた訳でもない。柊野と彼に賛同した者達は、自らの意思で八色の黒≠ニしての責務を果たそうとしただけだ。
 生き残った八色の黒≠フ存在を隠し、下都の俗世間の中に紛れ込ませようとした母親と違い、柊野は黒≠ニしての誇りを失っていなかった。彼が母親を説き伏せ、黄泉呼び≠行ったからこそ、『彩牡丹』の者達は彼を新たな宗主とすることを暗黙の内に認めたのだ。
「そうして反乱分子を消していった末に、次の矛先はあの者へと向かう事となった。この遊廓にいる誰もが、その出生に疑念を抱いていた、阿頼耶あらやの名を持つ奴の事だ。分かるな?」
 確かめる柊野の問いに、母親はうんうんと嬉しそうに首を縦に振った。
「勿論分かるよ。阿頼耶は義姉さんの名前、これ常識。義姉さんと同じ名前を持つ、あの子の事も当然知っているよ。でも、見た目が全然似てないって話だし、本当の子供じゃないかもしれないじゃなーい」
 その全く似ていない容姿が、別の誰かによく似ていたが為に疑念が深まった事については触れず、柊野の母親は一人ふてくされた。
「そうだ。五年前、貴女はさっきの言葉と全く同じ台詞を言った。そしてこうも言った――いや、命じたんだ」
 未だ獲物を定めていなかった凶器の切っ先が、持ち主の母へと向けられる。
「『火燐楼』へと潜入し、阿頼耶=斬月=久暁が真に裏切り者、阿頼耶の血族であるか否かを探れ。鉄燈籠を作る奴を、相応の理由と時期なくして殺せば、それこそが混乱の元となると説き、来るべき時が訪れるまで、奴を殺すなと貴女は命じた。真相など、とっくの昔に知っていたのだろう」
 右手にした刀を構えたまま、柊野がゆるりと立ち上がる。母親もまた、目前の刃には目もくれず、大人しく視線で柊野の眼光を追った。最後まで彼の言葉を聞き漏らすまいと、かろうじて残っていた理性がそうさせたのか。例え正気を取り戻したとしても、柊野が彼女を赦すことはない。
「第七家当主、くきの。お前は裏切り者の血筋を匿い、掟を破った。『昇陽』を影より守ってきた八色の黒≠亡八稼業に貶め、誇りを汚しただけでは飽き足らずにだ。もうすでに、阿頼耶の名を持つ者はこの地より消えている。断罪される覚悟はできているか」
 掟破りには死あるのみ。
 裏切り者とはいえ、宗主であった母親なら、それを誰よりも骨身に沁みて知っているはずである。
 怨嗟にも似た憤りに満ちる息子の表情からついと目をそらし、母親はもうすぐ自分の命を奪うであろう刀を見つめた。
 突きつけられた剣先に、脂による曇りは一片もなかった。それが意味する所を悟り、彼女の口元に安心したような、柔らかな笑みが浮かんだ。例えこのやり取りを誰かが監視していたとしても、この刃が語る真実にまで気付くことはないだろう、と。

「だって、ウチには義姉さんが全てなんだもの。あの子を妊娠したまま行方不明になっていた義姉さんと再会した時、頼まれたの。子供を守ってね、って。その時の義姉さんは、あの下衆男のせいで両手の指が欠けていたし、足だってびっこ引いていたし、顔も身体もどこも傷まみれだったし、喉だって潰されていたのよ。義太夫として諸国を旅する事だけが慰めだった義姉さんなのに。だから義姉さんとの約束を守るのは、ウチの最大の使命なの」
 幸せな記憶の中で、棘のように残る義姉の痛ましい姿を思い出し、柊野の母の目から涙が溢れる。だが、かつて交わした約束について語るその口調は、柊野の冷徹な言葉をはね除けんばかりの自信に満ちていた。
「話したことあったっけ? 他人の精神と同調し、その心を自分の意のままに変質させてしまう技を受け継ぐ阿頼耶の家に生まれた義姉さんは、百年に一度現れるかという程の才能の持ち主だった。でも、誰の精神とも同調できるようになるには、自分の精神を維持するために何ものにも干渉を受けない=A生の実感すら希薄な、虚ろな心を抱えて生きなければいけない。そうやって道具のように暗殺業をこなし、いずれは死んでいく運命に義姉さんには納得ができなかった。何を為すにも、自分の意志で動きたい。けれど放っておけば、技を磨けば磨くほど、義姉さん自身の精神は脆くなっていく。そんな危うさを抱えながらも一人凛々しくあった憧れの義姉さんが、義姉さんを大好きで大好きで仕方がなかったウチを必要としてくれたのよ。この身を捧げたって惜しくなんてないわ」
 足掻くでもなく、心残りを吐き出すかのように、母親は裏切りの動機を誇らしく並べ立てた。無意味だと言わんばかりに、柊野がそれを打ち消そうとする。
「それも、所詮はお前の主観に過ぎない」
「構わないわ。例え、ウチが義姉さんの喪失感や虚無感を抑えるための道具でしかなかったとしても。ウチは義姉さんと一緒にいられて、それだけで充分幸せなの。だから、この二十七年間の沈黙は、義姉さんを切り捨てようとしたお上と黒に対する、ウチからの復讐。そういう事にしておいて」
 自身の死を覚悟した最後のけじめか。それとも、未だ幸福な夢と戯れているだけなのか。
 失う恐怖など微塵も感じさせない、感無量といった微笑みに、柊野はこれ以上の会話の無駄を悟った。

「最後に一つだけ良い?」
 ふと思い出したように、小さな呟きが母親として慕っていた女の口から零れた。
 しかし、続く言葉よりも早く、柊野の手中の刃が閃く。

 苦鳴はなく、風切音が耳を打ち、細い身体が一瞬打ち震えただけの変化。
 この場を監視していた何者かにも、その太刀筋を捉えることは出来なかっただろう。
 通常の刀よりもはるかに薄く仕上げられた刃は、その軽さと持ち主の技でもって、視認不可能な速さを得た。再び静止した剣先が血に濡れていると気付いた時にはすでに、女の左胸には紅く丸い染みが現れていた。黄泉呼び≠フ時と違い、目に見える形での死を与えなければ、他の一族への見せしめにはならないと、年長者達が納得しないからだ。前日から覚悟を決め、潔斎までしていただけに、その顔は眠りについている時と大差ないほどに穏やかである。

 ぐらりと、正座したまま前のめりに倒れた女の首筋に、柊野の指が触れる。脈はまだ完全に途切れていない。腐っても八色の黒≠フ一人。そう簡単に死にはしない。
 女の完全な死を確かめるそぶりを見せながら、柊野は精神を集中させた。彼女から伝授された技ではなく、彼が生まれつき備えていた、本当の母の血筋から受け継いだ技でもって、死に逝く女の心に同調する。

 ――貴方があの子を斬らねばならないのは、それが義務だから。決して、憎しみを理由に斬っては駄目。
 言いかけた言葉の続きが、柊野の脳裏に響く。きっと彼女なら伝えずにはいられなかった意思だと分かっていたからこそ、他の誰にも知られぬよう、柊野は女の意を汲み、声と化す前に彼女を殺めた。
 どこまでも世話の焼ける人だと呆れながらも、彼女の遺言に耳ではなく、心を傾ける。
 ――義姉さんとあの子……貴方の母と弟を恨まないで。
 そんな事を伝える為に最後の力を使ったのかと、すでに届くはずがないと分かっていても、柊野は彼女を非難せずにはいられなかった。
 彼女――くきのは誰よりも何よりも、柊野を守ろうとしていた。生まれ年を偽り、一族を欺き、柊野が生来備えていた阿頼耶一族としての能力までをも、くきのは末那一族のそれにねじ変えたのだ。
 柊野の母は、唯一人しかいない。当然、弟などいるはずがない・・・・・・・・・・存在してはいけないのだ・・・・・・・・・・・
 時間にすればほんの数秒。その間に何十回と、同調した心の声でくきのを詰る。そんな息子の文句にも、彼女なら笑って応えるのだろう。

 ――ありがとよ、お袋。

 軽い身体から命の鼓動が消えていくのを感じながら、柊野が最後の言葉を残す。
 涙を流すことのない宗主の仮面の下、この五年間で彼が得た彼自身≠ニしての言葉は、春に先駆けて咲きほころぶ寒椿の如き温もりの色を備えていた。





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