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<幕間>深い水底に横たわり、影が満たされていく様を仰ぎ見る。 遠く揺らめく水面ごしに眺める空は鮮やかさを失っていた。射しこむ光が弱々しくなるにつれ、身体を包む水からも透けた色彩が失われていく。 何かが空を覆い、この水瓶に蓋をしようとしている。 そうと分かった所で四肢は動かない。それも当然だ。両足は欠け、左腕は神経を失い、右腕は砕かれた。今の己は芋虫と変わらない。 形定まらぬ蒼穹を、端から闇が貪っていく。 呑みこまれた光源は太陽だろうか。 紅の双眸に焼きついた残像を想起する間もなく、視界が暗転する。 うねる水が凍えるほどに冷たくなり、血と肉と骨で作られた己の身体は、世界もろとも凝固した。 しかし、凍りついた外界とは裏腹に、体内では熱が燃え盛っている。 熱い。溶ける。流れる。 もはや血や肉や骨の別はない。自らの形を残す鋳型の中を、ドロドロに溶解した肉体と精神が流動する。 いつしか、形を無くした自身を内包する殻は、脆い氷から強固な鋼へと変じた。 その重み、その冷たさに絶望し、咆哮を上げた直後。暗闇の彼方で煌いた一条の光に、己が胸を貫かれる。 飛来した光刃は殻を破り、内部にて渦巻く己を容赦なく焼き払った。緑白色の火が発する、想像を絶する冷気でもって。 真の炎に非ざれば、この身が解放されるはずもなく。 全身を苛む熱さに悶え、枷を身につけたままどれだけの時間、この苦痛を味わい続けただろうか。 ――ならばその夢、現実にしてみせましょう。 この地獄の責め苦には到底似つかわしくない、鈴の音のように澄んだ声が不意に響く。 高らかな哄笑が夢の一幕の終わりを告げ、出来の悪い舞台を打ち壊すべく、視界が真白へと塗り潰されていく。 周囲を侵食する無の色彩に、自らも呑み込まれた瞬間。 それまであった彼自身の意思は、霧散するがごとく吹き消されてしまった―― 言葉にならないうわ言を呟きながら呻いていた頭が、息を吹き返したかのように勢いよく跳ね起きる。荒い息が蚊帳の中の静かなまどろみを掻き消し、未だ悪夢の感覚が覚めやらぬ頭を目覚めさせようとするも、全身の震えはなかなか治まらない。 明かり取りの窓から射し込むわずかな月光の下、やや赤みがかった短い黒髪から雫が滴り落ちる。今が夏の盛りとはいえ、あまり汗をかくことのない体質の身で、これほど脂汗を流すというのは異様なことだ。 ――何かとてつもなく、恐ろしい夢を見た気がする。 そう思い必死で思い出そうとしたが、あれほど苦しまされたというのに、悪夢の内容は何ともおぼろげで、欠片も意味を見出せそうにない。 「大丈夫?」 にわかに起きた騒々しい気配に、こちらも目を覚ましてしまったのか。苦悶の表情で頭を抱える男に、わずかばかり離れた位置から、柔らかい女の声がかけられた。 「随分うなされていたけど、どこか具合でも悪いの?」 言いながらすっと伸ばされた繊手が、汗に濡れた額に当てられる。ひやりとした触感が、男の心をたちどころに鎮めていった。 「気にしなくていい。嫌な夢を見ただけだ」 「夢? どんな?」 「……もう忘れた。それに、大した内容ではなかった気がする」 苦笑する表情に、女が気付いた様子はない。おそらく、今の自分の様をより明るい場所で目にすれば、浅黒い肌をした顔が青ざめて見えることだろう。 そうと悟られないよう、月光から身を退ける男をなおも気にかけ、女は傍に寄ろうとする。 「本当に大丈夫だ。そう心配しないでくれ」 「なら良いけれど……燥一郎達に言いくるめられて飲みすぎたんじゃないの」 「せいぜい二合だぞ」 「やっぱり。一合が限界の貴方からすれば、全然大丈夫じゃないでしょう」 酒の話になった途端、先程まで慈愛に満ちていた女の声音が、たちどころに不機嫌となった。それもまた自分を気遣っての事だと知っているだけに、男は申し訳なく思わずにはいられない。 「すまない……」 「別に貴方を責めてなんかいないわ。悪いのは燥一郎と椿よ。貴方が酒に弱いのを知りながら、面白がって隙あらば飲ませようとするんだから――」 「シッ、静かに」 呆れ顔で愚痴をこぼしていた女の口を、鋭い声が止めた。 二人の間で、それまで一人静かに寝息を立てていた小さな身体がもぞもぞと、寝相とは違う動きをした。薄い掛け布団の下から現れたのは、およそ五歳になろうかというほどの年頃をした少女だった。薄く開いた目は寝ぼけているらしく、ぼんやりと宙を見つめている。 「悪い、起こしてしまったな」 「貴方に似て勘の良い子ですものね、 仕方ないというよりも楽しげに、女が子供のしなやかな黒髪を撫でる。 その少女の方はと言えば、自分がどうして夜半に目を覚ましたのか理解していないらしい。ぼうっと何事かと考えている内に、また睡魔が訪れたらしく、今にも瞼が閉じようとしている。 「どうしたの、 それでも二人が何事かを話していたのは気になるらしく、あどけない声が男に問いかけた。もうすでに、あの悪夢による激しい動悸は治まっている。それでも不安にさせないよう、精一杯平静を装い、幼子の頭を撫でながら囁きかける。 「何でもない。ほら、もう寝ないと。明日は一緒に祭を見に行くんだろう?」 「ん……」 父の言葉に満足したらしく、少女の紅色の瞳が閉ざされる。そうして幾ばくもしない内に、小さな寝息が聞こえてきた。祭への期待感に興奮する間もない。二度目の眠りに誘った睡魔は、このまま幸せな夢を与えながら、この子を明日へと連れて行くことだろう。 そう思い安心した途端、男を強烈な眠気が襲った。あれだけ悪い寝覚めの直後だというのに、不思議なものである。 「お休みなさい、久暁」 男の長身から力が抜け、自然に布団の海へと落ちていく。子供の向かいで横たわる妻の声を子守唄代わりに、今度こそ深い眠りにつこうとするかのように。 そんな夫の寝顔を見つめながら、とて楽しそうに、女はひどく酷薄な笑みを口元に湛えていた。 前へ | 次へ | 目次へ |
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