<死の抱擁> (後編)



 百数十歩ほど離れた先を、蛍がぎこちなく歩いている。彼女の左腕は力なく垂れ下がり、右足も引きずっていた。遠目からでも、その動きで負傷していると分かるほどに。
 事実、彼女の黒装束は所々を裂かれ、肌にはいくつもの切り傷が刻まれている。特に酷いのは両の拳で、砕けた手甲の下にある柔らかい手は、無数の針が刺さった跡により真っ赤に染まっていた。今もまた、一歩進む度に、その傷から血の雫が滴り落ちていく。
 蛍の向かう先――ほんの十数歩ほど離れた位置には、彼らがいた。いや、それはすでに一人と一つの亡骸であるのかもしれない。
 横たわる長身の上へと、覆い被さる黒い影。左半身を鋼へと変えた男の顎は、自分と同じ浅黒い肌をした者の喉笛を咥え込んでいた。
 牙に肉を食い破られる痛みと、喉を締めつけられる苦しみが同時に襲いかかり、久暁は血混じりの泡を吹いている。獣の双眸は白目をむき、解放を求める舌だけが虚しく空気を舐める。それを頃合いと見たのか、胸元で傷の塞がりを妨げていた鉤爪がようやく動き、二本の指で痙攣する舌を挟み込んだ。

 もうこれで魂を偽る言葉は吐けない。このまま舌を引き抜けば、肉体という器に栓をしてしまえる。
 そう、彼はいつだって、自らが手を下す際にはこうやって殺してきた。
 この方法こそが、彼が愛し、この世から奪ったという印になるのだ。

「止めぬかぁああああああ!!」
 負傷した足を引きずる蛍が、閻王の凶行を止めるべく突撃する。だが、何回目かにもなる襲撃は、またしてもあと一歩という所で止められた。
 閻王の周辺で静止する何十何百本もの赤黒い針が、敵の接近を察知するなり飛び上がり、蛍の周囲を取り囲む。払いのけて進もうと、蛍が一歩踏み出した瞬間に、その生きた凶器は彼女の全身を貫きにかかるのだ。
「いけません! 蛍さん、退がって!」
 かぐやの言葉は蛍へと届く前に、後ろから止めに入った皐弥により塞がれた。
 襲いかかる針を、蛍は次々と打ち払っていく。しかしあまりにも数が多すぎるせいか、次第に動きが精彩を欠いていく。そのうち隙を突いた凶器が、動きの鈍った彼女の脚や腕を容赦なく貫いた。
 娘が耐え切れず膝をつけば、これ以上は手出し無用とでも思っているのか、針はまた閻王の元へと戻っていく。残された蛍は悔しさと焦りに顔を歪ませ、それでもなお立ち上がろうとする。
 そんな痛々しい姿に我慢ができるほど、かぐやは冷静になれはしなかった。
「どうして止めるのです!? 早く二人を助けなければ……!」
 武士達に助力を求めるも、彼らの表情は晴れない。どういうつもりなのかと問い詰めようとした所で、皐弥が重い口を開いた。
「主上、無論あの二人は我らが全力を尽くして、閻王から救出いたします。しかしその前に、御前には一刻も早く『癒城』にお戻り頂きたいのです」
「そんな、私だけこの場を去るなど……」
「主上! 御身は『昇陽』の要であることをお忘れか!?」
 皐弥の一喝に、かぐやは思わず身をすくませた。今対峙している皐弥は、あの相克酒場で接したような友人≠ナなく、白巳女帝を守護する二藍家の武士に他ならなかった。その時になってようやく、彼らが自分を守るため、閻王の気を惹くような目立つ行動を取るまいとしていることにかぐやは気付いた。
「閻王の間近に御前の姿を見た時、我らがどれだけ肝を冷やしたとお思いか。何故この地にまかり越されたかは、今はあえて問いませぬ。ですが、彼らの身を案ずるよりも、まずはご自分の立場をお考え下され」
「ですが……私は……」
 未だ納得しきれないかぐやに対し、皐弥は一歩も譲る様子を見せない。そんな二人の間に、正隆が血相を変えて乱入してきた。
「おい! あの浅葱の娘、また向かって行きおったぞ!」
 反射的に正隆の指が指す方へと視線を向ければ、壮年の武士の言う通り、小柄な少女は諦めることなく黒影へと挑みかかっていた。

 ――五月蝿い小娘だ。
 こちらまで届かないとはいえ、何度も入る邪魔が鬱陶しくなったのか。喉笛に食いついていた閻王の牙が一旦離れた。舌から離れた鉤爪は、意識を失ったまま虚空を見つめる久暁の両目を撫でて、瞼を落とす。一見すれば愛情の垣間見える動作だが、その次に鉤爪が触れたのはあの左胸の傷跡だった。
 鉄忌化しかけた皮膚を突き破り、再び爪で肉を引き裂く。もはや久暁には、そんな拷問じみた所業に反応する体力すら残っていないようだった。わずかに身体が震え、骨を砕かれた右手が抵抗しようと戦慄く。自由の利かない右腕に、まだ指を動かせるだけの力が残っているのを確認すると、
「安心しろ、すぐに終わらせる」
 そう優しく耳元で囁き、閻王は蛍へと向き直った。久暁の胸へと突き立てた、鉤爪もそのままに。
「そこの小娘、鬱陶しいぞ。命がある内にさっさと失せろ。貴様に用はない」
 迫りくる蛍を、またもや針の群れが妨げる。強行突破しようにも、傷ついた右足を引きずりながら閻王へ接近するのは容易ではない。ぎりぎりの間合いで踏み止まり、愉悦の笑みを浮かべる閻王を睨みつけながら隙を窺うことだけが、今の蛍にできる精一杯の戦いだった。
「誰が退くものか。そなたこそ久暁殿を離せ! 己の勝手な妄想に、久暁殿を巻き込むでない!」
「離せだと? 馬鹿か貴様」
 閻王は愚問を鼻で笑うと、鉤爪に捕らえたままの久暁を抱え、その傷口が蛍の目によく映るよう見せつけた。胸元のみならず、久暁の紋様を浮かべる浅黒い首筋にも、鋼の牙によって穿たれた傷跡が刻まれている。
「コレはすでに俺の物だ。あの白い女を阿頼耶への土産にするよりも、コイツの方がよほど良い餌になる。二十八年も待たせたからにはこれほどの用意でもせねば、奴はまた俺を本気で殺しにかかりはしない」
 まるで謡うかのように愉しげな閻王の言葉が、蛍を嘲笑う。その間にも、左胸に突き立てられた鉤爪は、さらに奥深くへと食い込んでいく。反射的に苦痛の声を上げた久暁の口腔内に、閻王は右手を挿し入れ、食いしばった歯が舌を噛み切らないようにした。儚人≠ヘ自身の意志による自決ができないが、無意識の事故となれば万が一という事もある。閻王にとってみれば、死に様が同じだろうと、自分が直接手を下せなければ意味がないのだ。
「コレの味わう苦痛が、いずれ阿頼耶へと繋がる。想像するだけで達しそうだ」
 食い千切られかねないほどの力で生身の指を噛まれているというのに、閻王の目は自らの言葉通り、快楽の色に染まっていた。その様に嫌悪の吐き気がこみ上げてくる。蛍の全身は耐え難い怒りで震えていた。
「狂っておる……! 久暁殿はそなたの子ではないか!?」
「コイツもそんな事をほざいていたが、阿頼耶が俺の元から去って一年半も過ぎた頃に、あの『茫蕭』の連中が攻め来て、『央都』が封印≠ウれたのだ。コイツが真実、阿頼耶の子であろうと、俺の子であるはずがない」
「いや、八佗殿が申しておった! 儚人≠ニなることが決まった人間は、胎児の間に一度身体を作り変えられる。そのため、母親のはらで過ごす期間が通常の倍にもなるのだと。それでなくとも、一目見れば誰でも気付く! 久暁殿が紛れもなく、そなたの血を引いておるのだと!」
 叫びながら、蛍は一縷の希望にすがっていた。この事実に、閻王の気が変わってくれればと。
 元より、真偽を見分けるのは閻王の得手とすることだ。蛍の言葉が真実であるか否か、最後まで聞かずとも判断はできる。だが、例え真実だと知った所で、それに心を動かされるとは限らない。
「……で、それが何だというのだ?」
 返ってきたのは、無駄な時間を費やしたという胡乱な態度だけだった。
「そなたは、やはり鬼だ……! 鬼畜外道だ!」
 彼の一言で、蛍の頭は点火したかのように熱くなった。威嚇する針の群れをはね退けながら、ぎこちなくも一直線に閻王めがけて突進する。

「ええい! あんなやり方では埒があかぬわ!」
 再度直進していった蛍の短絡的な行動に、卯乃花正隆は思わず地団太を踏んだ。目の前で歳若い娘が、命を危険に晒しながら閻王に挑みかかっている。それを大人しく見ていられるような正隆ではないが、今下手に加勢をすれば、今度はかぐやの命が危ない。
 かぐやの身の安全を確保しつつ、攻撃の機を窺うには一つの方法しかなかった。
 残ろうとするかぐやを無理やり連れ、閻王と蛍の動向が把握できる程度に離れた林の一角に、武士達は揃って身を潜めた。本当ならばすぐにでもかぐやを『癒城』へと帰したかったのだが、蛍と久暁を救い出すまで、彼女は頑としてその場を離れようとはしなかったのだ。
「閃鉄筒隊、機会は一度きりと思え。合図があるまで絶対に動くな」
 茂みに埋もれた状態で、皐弥は背後に控える二藍家の武士達に声をかけた。その数名は一様に、あの鉄の筒を組み合わせたような外見の武器――対鉄忌用の閃鉄筒を構えている。それもかぐやが護身用に携帯している物とは形がかなり異なっており、猫ほどの大きさもある重厚な鉄の塊から、鉄忌の眼球を打ち出す砲身が細長く突き出している。通常の小型閃鉄筒が鉄忌との直接戦闘を念頭において作成された代物であるのに対し、彼らが扱うのは遠方より接近してくる鉄忌を狙撃するために作られた専用の閃鉄筒であった。
 合図を送るのは皐弥ではなく、正隆の役目だった。彼ら卯乃花家の武士は閃鉄筒を邪道と嫌い、あくまでも弓刀剣のみを武器としていたが、正隆にはかつて閻王を捕縛する際に、彼と戦ったという貴重な経験がある。その記憶を頼りに、一瞬の隙をついて攻撃を仕掛けるのが彼の役割なのだ。
 しかし、それでもかぐやの表情は不安の色に満ちている。
「お師匠様――右大臣はどうしました? 一緒のはずではなかったのですか?」
 同行していった八佗の姿がないことに気付いたかぐやだったが、正隆は
「あのような不忠者、捨て置かれませい!」
と、憤りに満ちた答だけを返した。皐弥から、彼が忠告だけを残し何処かへ消えたと教えてはもらったが、八佗の不可解な行動の理由はかぐやにも分からなかった。
 自分の傍から離れるはずのない八佗が、武士達が現れてもまだ姿を見せないとは。もしや、この場の誰もが知る由のない、閻王よりも恐ろしい事態が起きようとしているのではないか――

 そんな懸念がかぐやの胸中に広がっていく間にも、蛍は次々に傷を負っていく。
 針の動きは彼女が標的に近づくにつれ、いっそう激しさを増していった。両目を狙い飛来してくる物があれば、手の甲で受け止め払い落とす。払い落としきれなかった物はそのまま肌を突き刺し、鋭い痛みを与えてくる。それでも、引き抜いていては瞬く間に全身が針山と化してしまう。急所だけを防ぎながら、蛍は捨て身の勢いで雪を蹴った。
 あとわずか、目と鼻の先ほどにまで接近してきた娘を一瞥し、閻王はようやく久暁から手を離し立ち上がった。自らが直接手を下さない限り、この娘が止まることはないだろう。それは同時に、彼女にも自分が破壊するにふさわしいほどの価値があるかどうか、試す機会が生じたという事だ。自らが最高と認めた宝を前にしてもなお、彼の強欲は止まる所を知らなかった。
 最後の一本を打ち払い、遂に蛍の拳が閻王へと向けられる。
「おおおおおおおおおッ!!」
 雄叫びと共に繰り出した一撃を、閻王は真正面から左手で受け止めた。今度は衝撃を緩和する武器もない。素のままで受け止めた衝撃は鋼の腕を軋ませ、掌に指の跡を作ったが、閻王に与えた痛手はわずかなものだった。すかさず、今度は閻王の右手が蛍の頭を狙って振り上げられる。かろうじて、残る左手で反撃を防ぐ事には成功したが、蛍の小さな手で受けたその拳は生身であるにも関わらず、鉄塊のごとく重かった。
「一つ訊く。貴様はあの標持ち≠フ何なのだ?」
 互いに力をぶつけ合う拮抗状態。隙を探り合い、共に動けずにいるというのに、閻王の問いかけにはまだ余裕が表れていた。
「何であろうと関係ない! 久暁殿から離れよ!」
 当の蛍には応える暇などない。僅かばかりの力も抜けない上に、必死になる余り、急き立てる感情が思考を停止させていた。
「まさか標持ち≠ネどに惚れているとでも?」
「なッ……!?」
 そんな彼女の様子を見て、閻王は何を思いついたのか。せせら笑いながら呟かれた言葉に、蛍は思わず気を乱した。
 途端に両腕が押し返され、鉄の左手に押さえつけられた右手へと、骨を圧迫する力が加えられる。体勢を崩される前にと、すぐさま蛍も渾身の力を振り絞り、鬼の両腕を押し返そうとした。それでも完全に形勢を戻すには至らず、自然に均衡をとるべく足が一歩退く。その後退に、閻王は己の優位を確信した。
「止めろ止めろ。木偶人形が人間の真似をした所で、今更人間になど戻れるものか。見苦しいだけだぞ」
 更なる動揺を煽るべく、自分の胸元までの背丈しかない娘の頭上へと、閻王は毒を含んだ言葉を投げかけた。それは無我夢中で抗う蛍の意識を逸らすのに、うってつけの言葉であった。反射的に俯いていた頭が上がり、両腕にも震えが走る。閻王を仰ぎ見た蛍の表情には、理解不能である事に対する苛立ち以上に、恐怖が如実に表れていた。
「何だそれは、どういう意味か?」
 声音から予想以上の効果があったと察知するや否や、閻王は会心の笑みを浮かべた。彼が投げかけた言葉は、蛍の心臓を捕捉したも同然だった。
「自分で気付いていないのか。だが、この閻王の目は誤魔化せん。貴様のその気配は――」

「――と同じですって?」

 閻王から与えられようとしていた答は、不意に耳元で聞こえた女の声によってかき消されてしまった。その鈴を鳴らすような清らかな声音も、閻王と同じ言葉を口にしたような気がするのだが、肝心な部分は何故か蛍の記憶に残らなかった。
 ――何者か!?
 視線を動かしたが、誰の姿も見当たらない。そもそも姿が見えていれば、目の前にいる閻王が何かしらの反応を見せるはず。しかし今の彼は口だけを動かし、声なき言葉で何かを語りかけている。突然聞こえるようになった女の声以外、蛍には一切、何の音も届いていないのだ。
「そう、そういう事だったのね。ならば後は簡単だわ」
 姿なき女は何かに納得したようだった。耳元――それも両方から囁きかけられているというのに、吐息の存在すら感じられない。それだけでなく、何故か蛍はその声に聞き覚えがあるような気がした。
「もう機能はほとんど回復しているのでしょう? 貴女、本当の自分を思い出しなさい。そうすれば今の彼など、指先一つで殺せるわ」
 微かな笑いが耳朶を打つと共に、蛍の裡で燃え盛っていた感情が次第に鎮火していった。音のない世界で、視界がより鮮明に、背後まで広がっていく。まるで魂ごと作り変えられるような感覚に、いつしか蛍の意識が遠くなる。
 ただ一つだけ聞こえる言葉。その声音の主は拡大した視界の先、蛍の真後ろに佇んでいた。
 白い素足と肩を剥き出しにした白妙の着物。かつて見た狐面と、蜘蛛の糸を束ねたようだった髪は失われ、代わりに彼女は素顔を晒していた。顔や首筋に纏わりつく影色の髪の下、灰色の瞳で微笑む面は季節はずれの狂い桜を連想させる。そのちぐはぐな美しさはおそらく、傾国の美貌と呼ぶにふさわしい整った顔立ちが、顔の左半面にしかなかったからだろう。女の右半面――特に右目から耳にかけての肌は、無惨なまでに焼け爛れていた。
 蛍が女の姿を視認すると同時に、向かい合う閻王の口元から笑みが消え、視線が蛍から外れた。彼もまた、招かれざる客の出現に気づいたのだ。

「観測を。しかる後に破棄を」

 どこか聞き覚えのあるその言葉と、彼方から聞こえた炸裂音が、蛍の意識を閉じる引き金となった。

 力押しで自分に歯向かう娘、雪女=A後方からの攻撃――いくら閻王に危機を察知する直感力が備わっていようとも、同時に発生した脅威に対処しきれるはずがない。
 とっさに組み合う蛍の手を振り払い、上体を後方へと捻る。だがそれもわずかに遅い。飛来した親指大ほどの硝子球は閻王の左胸を貫き、赤黒い血みどろの花を雪上に描いた。
「おのれッ! 狙いを外しおったな!」
 林の中では、閻王が傷を負った様子を見て、正隆が悔しげな叫び声を上げていた。本来ならば頭を撃ち抜き、即死させる手はずだったのだが、血を流す閻王が立ち直った様子からして、弾は心臓をも外してしまったらしい。
「馬鹿な、孫十郎の腕は二藍武士の中でも折り紙つきだというのに」
「鉄忌から作られる武器などより、弓の方がよほど頼りになるという事よ! ええい、こうしてはおられん!」
 失敗した以上、この林に隠れ続けるのは無理だろう。そう判断した正隆は部下を引き連れ、すぐさま林から飛び出そうとした。
 その一歩を踏み出した瞬間、彼らは雪女≠フ姿と、それ以上に信じがたい光景を目の当たりにする事となった。


 左胸を貫かれたとはいえ、致命傷でない限り、閻王の傷はすぐ鉄忌化により修復される。
 それが完治するよりも早く、彼に生じた隙を撃つべく、蛍の手刀が襲いかかる。
 自分が手を離せば、次にそのような手段を取るであろう事は閻王にも予測がついていた。それでも退かなかったのは、体格差から考えて、蛍の攻撃が届くよりも先に彼女の腕を砕くことができると確信していたからだ。
 彼女の拳が傷口を撃つ前に、閻王の左腕がそれを止める。
 動作を読む彼の直感力は、確かに正しかった。

 突き出された蛍の手刀が、鋼鉄の左腕をやすやすと斬り裂きさえしなければ。

「馬鹿なッ!?」
 それはまさしく、叩き潰すでも貫くでもない、斬撃と称すにふさわしい現象だった。
 蛍の細い五指は閻王の左腕を縦に斬り開き、指先から肩までの部位を半分削ぎ落とし、溢れんばかりの赤黒い返り血を自ら浴びた。右腕、胸、肩、首筋、顔面と頭髪の全てが血色に染まり、視界を奪う。蛍は目も虚ろなまま、手刀を繰り出した姿勢で動きを止めた。
 ガシャンと耳障りな音を立て、閻王の左腕が雪上に転がる。ただでさえ常に体内を喰われる痛みにさらされているというのに、大きな傷を負ったことで死の危険を察知した鉄忌の血が騒ぎ、より鉄忌化を侵攻させようと急速にその速度を速める。増した激痛に苦鳴を漏らしながら、閻王は自らの武器を呼び寄せようとした。鉄忌の血から作られたあの武器を取り込めば、応急処置とはいえ、またすぐにでも左腕を再生させる事ができるはずだ。

「残念だけど、コレは私が貰ったから」
 蛍に打ち砕かれた無数の針が、息を吹き返す感覚は伝わってこなかった。その代わり、冷たく脈打つ刃が閻王の首筋へと当てられる。
「面白い趣向だったけれど、さすがにやりすぎね。儚人≠鉄忌化するなんて、大切な指標情報に傷がついてしまったじゃない。これでは一度修復しなければ使い物にならないわ」
 赤黒い刀身が蠢く。浮かんでは消える脈動の波紋は、閻王の意思に一切従わない。彼が我が身を捧げてまで作り出した凶刃は雪女≠フ手中に渡り、彼女を新しい主と認めていた。
 それもそのはず、元々鉄忌は彼女が作り出した物だ。在るべきものが在るべき主の元へと戻っただけの事である。
「貴様、それを俺から奪うつもりか」
「本当は綺羅乃剣が良かったのだけれど、あの人があの儚人≠ノしか扱えないよう弄ってしまったから。長年、私を相手に良い夢を見ていたのでしょう? なら、これはれっきとした花代よ」
 鉄忌化と流血の痛みをこらえる閻王を、麗貌を残す冷ややかな冬空の色をした目が背後から哂う。
「その標持ち≠見殺しにする気ではなかったのか」
「まだ使い道があるのに、どうしてそんな事をする必要があるのかしら? 自ら刃を受けたとはいえ、本当に死に至る未来を察知したなら儚人≠ニしての本能がそれを止めるはず。だからあのまま彼が死ぬとは思ってなかったわ。貴方が本気になりさえしなければ」
 鈴を鳴らすように涼やかだった女の声が、不意に臓腑を震わすような低い声音へと変じる。
「困るのよ……彼に愛憎を注いで殺すなんて。もう少しであの人が言うことを聞く所か、反発しかねなかったわ。最も、もうそんな心配は必要なくなったのだけれども」
「そうと分かっていながら、この娘を使う気になるまで俺の好きにさせていたか」
 血濡れの刃を首筋に当てられながら閻王は破顔した。それは到底、死の危機に晒されている者の表情ではない。彼は心の底から、この状況を悦んでいたのだ。
「良いぞ、ますます気に入った。どちらを壊すべきか、実に迷う」
「何とでもお言いなさい。貴方が望むような奇跡――死の運命を覆すほどの魂の力など、所詮は人の子の夢語りにしか過ぎないのよ」
 そう言い捨て、雪女≠ヘ閻王の首筋から刀を引いた。代わりに彼女の左手が鉄忌化した肩に触れる。

 刹那、黒山のごとき存在感を示していた閻王の姿が、この場に居合わせた全ての者の視界から消え去った。

「い、何処に消えおったのだ!?」
 遠くから第二撃の機を窺っていた武士十家達も、皆一様に目を丸くした。目を離す隙もなく、一心不乱に敵を睨みつけていたというのに、その標的が瞬時にして消え去ってしまったのだから無理もない。
 では、消えた閻王は何処に行ったのか。
 その答は雪女≠フ傍らに降った、赤黒い雨が証明した。
「夢見ていると良いわ、永遠に」
 初めは雫のようだった雨が、瞬く間に周辺を赤く染め上げる。遠目からその変化に気付いた武士達が空を仰いだ瞬間。

 遥か天上から、一つの黒影が地へと墜ちた。

 風を受けて広がった黒頭巾や外套が翼のようにも見えたが、落下したものは紛れもなく人であり、閻王だった。一体どれほどの高度から落とされたのか――生身の右腕右脚はあらぬ方向に捻じ曲がり、頭部付近の薄雪はじわじわと、鉄忌の血とは異なる鮮やかな紅色へと変じていった。例え雪が深く降り積もっていたとしても、即死は免れなかったと思しき有様だった。

 動かなくなった閻王にはもはや目もくれない。次に雪女≠ヘ何を思ってか、呆然と佇む蛍の元へと近寄った。
「役に立ってくれてありがとう。でも、恨むなら貴女をそんな風にした燥を恨みなさい」
 閻王と相対した時と同じく、温もりのこもらぬ言葉で彼女は蛍に囁きかけた。それと同時に、娘の身体から力が抜ける。
 気絶した訳ではなく、鳶色の双眸はしかと雪女≠捉えている。にも関わらず、雪上に倒れた蛍の身体は石と化したかのように重く、自由が利かない。

「閻王……蛍さん!?」
 雪女≠ェ現れた途端に、無敵の強さを誇っていた閻王がやられ、蛍までもが地に倒れた。顔面蒼白でよろめくかぐやを受け止めた皐弥だったが、彼女の細い肩は寒さのせいだけとは思えないほどに震えている。
「これ以上は伏せてなどおれぬ! 皐弥殿、主上を連れて即刻この場から立ち去れい! あの娘子は儂が救いに向かう!」
 蛍が雪女≠フ手にかかったものと思いこんだのか、正隆は今にも馬で駆け出さんとしていた。しかしその出撃も、かぐやの悲痛な声で止められる。
「いけません! 行ってはなりません!」
 久暁と蛍を救い出して欲しいと願ったのはかぐやのはず。その言葉の意味を問いただそうにも、彼女の全身の震えはさらに酷くなっていた。見開かれた目が此処ではない、遥か遠い先を見ている事にようやく気付いた皐弥が、必死で彼女の意識を呼び戻そうと訴えかける。
「主上、如何なされた? もしや何かがえておられるのですか、主上!」
 かぐやの異変。それはこの『昇陽』でただ一人、皇家の直系である彼女だけが持つ力――未来視の発現に他ならなかった。いつどこで起きるかも分からず、ほんの直前の未来しかることのできない力の為、今ではその有効性はほとんどと言って良いほどにない。
 そうと分かっていながら、皐弥は動揺していた。かぐやの怯え方が尋常でないのだ。
「来る……! 地の底から、とてつもなく巨大で、恐ろしいものが……!!」
 震える声で呟いたかぐやの指さす先、『央都』跡地の雪原では、雪女≠ェ久暁の元へと足を進めている。妖艶な肢体が足首に絡めた鈴の音も軽やかに歩み行く様を映すなり、かぐやの双眸は深く沈んだ絶望の色へと変じた。
「嫌……このままでは久暁さんが……もう駄目、間に合わない……!」


 そう遠く離れていない林の中で何が潜み、何を揉めているのかなど、雪女≠ヘとっくに承知していた。知ってはいたが、手出しする気は毛頭なかった。
 彼らは気にするほどの脅威ではない。むしろ気がかりなのは、閻王を止めるためにあの神器≠消し損なった事だ。
 だが、あのまま彼が姿を消そうと、ここで現れて最後の抵抗を見せようと、彼女にはどうでも良かった。これでようやく、全ての邪魔者が片付いたのだから――
 浅黒い肌に無数の紋様を浮かべた儚人≠フ心臓は、まだかろうじて鼓動を停止してはいなかった。切り刻まれた赤銅色の髪は血と泥で汚れ、元の燃えるような色彩の名残は全くと言っていいほど見当たらない。襤褸ぼろ同然となった着物から伸びた手足の先も、凍傷で変色している。到底立つ事はできない上に、今や両腕も使い物にならない。上体を起こす事さえできなくなった久暁を、雪女≠ヘ無表情で見下ろした。
 彼の手の先、ほんの少しの距離にて転がる綺羅乃剣に胡乱な視線を向けたかと思うと、白い足が鈴の音を鳴らし、銀筒を蹴り払う。主の手から離れた剣が蛍の元へと転がっていったのを確認すると、彼女は久暁の傍らに屈みこみ、鉄忌化しかかった左胸に白い指を這わせた。
 指先の冷たい感触に久暁の身体が一瞬震え、閉ざされていた瞼が微かに開く。
「お……前は……」
 霞み、歪む視界に雪女≠フ素顔はどのように映ったのか。息も絶え絶えに、それでも久暁は懐かしさすら覚えるその名を呼んだ。
「から……たち……? い、や……そういち……ろう?」
「どちらもかつては同じ存在だった。けれども今は違う。私の名前は冽」
 閻王から奪った生ける刀を手にしたまま、雪女=\―冽は久暁の上体を起こし、抱きかかえた。閻王のような荒々しさは欠片もなく、冷たい両手は柔らかく、傷ついた身体を労わるように優しく撫でる。
「覚える必要はないわ。それより、疲れているのでしょう? もうお眠りなさい。貴方の役目は終わったのだから」
 そっと、頬に白い手が触れた所で限界が訪れたのか。久暁の意識の糸がふつりと切れ、視界が闇に閉ざされる。それを確かめ、満足したように、冽は彼の唇に口付けをした。
 本来なら、これは昨晩に与えているはずの接吻だった。随分と遅くなってしまったが、『昇陽』を襲撃した時以来、この瞬間の訪れを彼女はずっと心待ちにしていたのだ。

 武士十家も、かぐやも、身体の自由が利かず視覚だけでその様子を見ていた蛍も、誰もが目の前で起きているその現象を理解できずにいた。
 初め、彼らの目には久暁の身体が縮んだように見えた。長く伸びた脚が腰の付け根からするすると引かれていく様子に、久暁が足を屈めたのかと武士達は思った。ところが、冽がこちらを振り返った途端、それがとんだ誤りであった事に彼らは気付いた。
 冽の唇が離れても、まだ久暁は上半身を彼女に抱えられていた。女がゆるりと立ち上がった時、雪上に投げ出されていたはずの久暁の下半身はすでにそこにはなかった。

 消えた下半身の代わりに、久暁の腰から下は、冽の腹部と一体化していた。
 むしろ、ずるずると雪に埋まるかのようにして、今も冽の身体へと沈み込んでいる。

 よく見れば、冽の剥き出しとなった脚、そして着物の袖からのぞく両手にも、久暁のものと思しき大腿や手が、そこだけ切り取られ貼り付けられたかのように融合していた。それすらも瞬く間に小さくなり、女の手足の中へと消えていく。
 溶ける、消える、沈む――誰もがこの光景にふさわしい言葉を見つけ、現状を把握しようとするが、それはより混乱を招くだけとなった。
 無理もない。誰もが見出した、この状況を説明する言葉は取り込む≠セったのだ。
 人の姿をした者が、人を生きながらにして呑んでいく。
 あまりのおぞましさに、かぐやがか細い悲鳴を上げた。無論、その程度で捕食ともいうべきこの行為が止む訳がない。久暁の身体は胸部まで消え、今度は背中が女の胸元へと吸い込まれていく。
 武士達がようやくこの光景を現実であると受け入れた時には、すでに久暁の肉体と呼べるものは頭部だけとなっていた。それすらも、たちまち顎から冽の胸元へと沈んでいく。

「や……めよ…………」
 誰もが得体の知れぬ恐怖で凍りついたかと思われた静寂の中、微かな声が冽の恍惚に水を差した。焼け爛れていない左半面の麗貌を、かすかな声がした方へと向ける。そこでは動けずにいた蛍がわずかに地を這い、鳶色の瞳でこちらを睨んでいた。手には先程、冽が蹴り飛ばした綺羅乃剣が握られている。しかし、蛍がいくら念じようと、銀色の刃はその姿を顕現させはしなかった。
「本来の自分に戻りきれていないから、反動で動けなくなったりするのよ。私を止めたければ、真実を受け入れなさい」
 冷たく見下した言葉が蛍に追い討ちをかける間に、久暁は鼻先まで呑まれていた。固く閉ざされた目は、すぐ間近で繰り広げられている静かな戦いの気配にも開く様子がない。
「私は貴女とは違う。神器£Bとも違う。そしてもうじき、管理者=\―『昇陽』に潜むあの女や、我が半身である燥とも違う存在になる」

 とうとう最後に残った久暁の一部、火の色を失った髪の一筋が冽の内へと消えた。
 言葉を失う蛍を余所に、久暁を完全に取り込んだ冽の身体には変化が起きていた。
 肩口まで広げていた着物の襟口が緩み落ち、白磁のような彼女の肌を胸元まで露出させた。だが、妖しい艶かしさを魅せていた乳房はそこにはなく、かつて双丘のあった場所は平らな、それこそ男性の胸元と変わらない扁平なものとなっていた。かと言って、他に冽の女性的な体型を損なった様子はなく、それがいっそう彼女――もしくは彼の男性でも女性でもない、中性的な印象を強くさせた。
 その姿に、蛍は一つ思い当たる言葉があった。
 脳裏に浮かんだ言葉を裏付けるように、冽の染みや傷一つなかった肌に次々と、あの浅黒い肌に浮かんでいたものと同じ紋様の羅列が現れる。
 ――間違いない。彼女は儚人≠ノなったのだ!

 全身に証が現れたのを確認し、冽は感慨深げな溜息をついた。
「これでようやく……」
「貴女を殺せる」
 歓喜に打ち震える冽の言葉を遮った声は、赤い幻影となって背後から襲いかかった。
 冽に負けず劣らず、この機を待ち望んでいたその襲撃者の姿を、遠く離れているとはいえ、かぐや達が見間違えるはずがない。
「右大臣!?」

 蒼天はすでに、西の空へと移った太陽により赤く焼かれようとしていた。雪原の白さを際立たせていた陽光もまた、赤光へと変化する。
 冽が主導権を握ったかに思えた、この場の調和を乱す赤い人影。黒眼鏡を取り払い、西日と同じ色をした魔眼を露にさせた八佗は、冽の心臓めがけて手にした小太刀を突き出した。
 剥き出しとなった背中――今や儚人≠フ証たる無数の紋様に彩られた肌を、鋭利な刃が切り裂くよりも早く冽の身体は前方に屈み、そのまま軽やかに手で地を突き、宙を舞った。重力をものともせぬ動き以上に、危機を回避できたのは儚人≠ニしての生存本能か、それとも久暁が備えていた直感力によるものなのか。いずれにせよ、一転し八佗に向き直った冽の表情には余裕の笑みが浮かんでいる。
 無論、それで躊躇ちゅうちょする八佗ではない。標的を討ち損なった小太刀を再び構えると同時に、冽の背後にもう一人の八佗が出現した。彼の全にして一でもある分身だ。
「せっかく全てを教えてあげたというのに、それでもなお私を討つというのかしら。自らの力では鉄忌の外殻すら傷つけられないというのに?」
「今の貴女ならば、これでも充分」
 応えたのは前方にいる八佗でも、背後にいる八佗でもなく、冽の左右に新しく姿を現した二人の八佗だった。彼らの手にも同様に、光る小太刀が携えられている。四人の八佗に囲まれ、さすがの冽も動きを止めた。いつも閻王と相対していた時のように、不意に姿を消したり、宙へと舞い上がったりもしない。ただ佇み八佗の動きを見計らっている彼女を見て、八佗は一つの確信を得た。
 先に対峙した際、彼女が八佗に打ち明けた計画が真実であるならば、彼女を倒す機会は今において他にない。久暁を――儚人≠吸収した今の彼女は、限りなくただの人間に近い状態にある。されど完全に管理者≠ニしての要素を排した訳でない限り、神器≠ニしての禁則事項に触れることはないはずだ。
 そう思い至ったからこそ、彼はあえて、この瞬間まで身を潜める決意をした。閻王が久暁を狙い、その久暁を得るために冽が閻王を排除するであろう事まで悟りながら、彼はこの瞬間の為だけに心を鬼にしたのだ。

「八佗殿……駄目だ……それでは、久暁殿が……!」
 蛍の制止を求める声も、八佗にはすでに聞こえていない。彼の意識はとうに、数千年来の悲願成就に支配されていた。
「愚かね……神器≠焉A儚人≠焉A管理者≠焉A誰も彼も……」
 四方を取り囲む刃の光を捉えながら、冽は心の底から落胆したかのような溜息をついた。
「だからもう、終わりにするべきなのよ。誰かがではなく、この私が」

 女の言葉に最後まで耳を傾けることなく、四人の八佗は地を蹴った。
 彼らに真偽は存在しない。全ての八佗が本物であり、思考と感情を共有しつつも、独立した行動を取ることができる。だが、今の彼らは一様に一つの行動をとる事に気を取られていた。もし誰か一人でも冽が動きを止めた真意と、彼方から聞こえるかぐやの警告に意識を傾けていれば、その異変に気付けていただろう。
 冽の手にする生ける武器がその形を歪ませ、彼女の足元の地中へと消えていったことに。

 身動きのとれぬまま、地に倒れ伏していた蛍の耳に一つの鼓動音が聞こえた。

 固唾を飲み、八佗の戦いを見守っていた武士達が、足元に小さな揺れを感じた。

 すでにその存在の出現をていたかぐやは、幻だった禍の影が、実物となって八佗へと襲いかかるのを目撃した。

 あと少しで冽へと突き立てられるかに思われた小太刀の内、三本が弾き飛ばされ、虚しく雪上へと落下する。攻撃を妨げたのは、冽の足元から突如生え出た巨大な鋼の刃だった。冽の背丈よりも長く鋭利な刃先は、生えると同時に八佗の視界を塞いだ。驚き、一瞬動きの鈍った三人の赤い衣を、立て続けに生えた新たな刃が容赦なく貫く。串刺しとなった八佗は血を流す間もなく、その姿を消失させた。
「八佗殿!?」
 身体の動かぬ蛍の元へと、唯一攻撃を免れた八佗が後退してきた。万が一のためと、攻撃する速度をずらしていたのが幸いしたのだ。しかし生き残ったとはいえ、同一人物である自分の分身がやられたのだ。苦痛に満ちた表情で腹部を押さえている様子からして、綺羅乃剣による傷をたちどころに修復させた時とは比較にならぬほどの傷を負ったらしい。
 だが、彼の身を案ずる間もなく、蛍は八佗に抱えられる形でその場から離れた。八佗にも分かったのだ。冽が何を、この『央都』跡地に仕掛けたのかが。
 八佗が逃走する間にも、冽の姿は次々に地から突き出る巨大な刃の影に隠れていく。
 それはおそらく、あの静かなる夜からずっと、この地の底で眠りについていたのだろう。
 閻王が八佗の計画通り、あの武器でもってこの地に消えた鉄忌の群れを探っていれば、彼の存在にもっと早く気づく事もできたはず。
 ――今や、全ては始まってしまった事だが。

 冽を覆い隠した刃の群れは、地を崩すがごとく強大な地震を呼び起こした。
 いつもの揺れとは違う、不自然な大地震の揺れに誰もが翻弄される中、八佗に抱え上げられた蛍だけは、『央都』跡地に広がりゆく亀裂をその目に捉えた。
 その隙間から覗く、鋼色の無数の鱗までをも――

 やがて亀裂が地割れを引き起こし、空が夕闇の到来を告げる茜色に染まる。
 しかし、その日は『昇陽』に住む誰もが日の入りを見ずして、夜を迎える事となった。
 大地を抉り取るようにして浮かび上がったその鉄の塊は、太陽を隠し、空を我が物として、『昇陽』を暗い影の底に沈めようとしていた。





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