<死の抱擁> (前編)



 これは悪夢の続きなのか――その瞬間、蛍は我が目を疑った。
 いや、どう否定しようとこれは現実だ。強打された腹部には、今もなお背筋を貫くような痛みが残っている。それが何よりの証拠だった。
 同じ光景を目にしたかぐやの身体から力が抜ける。気を失った彼女を受け止めながらも、蛍の視線は目前の二人から逸らすことができなかった。

 黒衣の男と、赤銅色の髪をした儚人≠ヘ、今にも身体が触れ合いそうな至近距離にいながら硬直していた。共に次の手を繰り出すこともなく、雲の切れ間から射しこむ陽光に縫い止められたかのように、彼らはそれ以上退きも進みもせず、ただ時を忘れ対峙している。
 息をのむほどの静けさを破り、久暁が激しく咳きこんだ。吐き出した鮮やかな血は胸から滴り落ちる雫と混じり合い、足元の雪に吸い取られる。先刻転がり落ちた綺羅乃剣が陽光を反射し、その在処ありかを主張しようと、紋様に彩られた手は力なく垂れたまま動かない。
 閻王の無感情な目は、左胸に刃を沈めた久暁を見下ろしている。凶器は彼が突き立てたものであり、また相手が自ら受けたものでもあった。蠢く大刀は肉と肋骨を断ち、切っ先は背中へと達している。喀血の量を確かめずとも、傷が肺に達しているのは明らかだ。
 それでも、閻王に勝ち誇る様子は微塵も見られない。
「一体どういうつもりだ」
 空いた右手で短くなった久暁の髪を掴み、無理やりに視線を合わせる。口元を吐き出した血で汚し、呼吸もか細くなっているというのに、彼の獣の双眸は深手を負ったとは思えぬほどの、意志の力を宿していた。
「紙一重で心臓を避け、即死を免れたのは大したものだと褒めてやろう。だが、どの道この傷では死ぬ。血迷った末に引導を渡されたいとでも願ったか?」
 問いに対し、久暁は赤く染まった口元を震わせた。生きた刃が形を保ったまま、ドロドロと体内で蠢く。それでも喉の奥からせり上がる嘔吐感と、それ以上に意識を支配する激痛が、胸元の異物感を忘れさせる。
 左胸を貫いた大刀は、急所である心臓は外したものの、傍らの肺を容赦なく斬り裂いている。凶器を引き抜かずとも、あと僅かばかりもすれば死に至る。そうと分かっていながら、閻王の左腕は命を失ったかのように微動だにしなかった。

「違う……」
 死に瀕す久暁のか細い呼吸が、途切れ途切れの言葉を紡いだ。
「俺は、僅かばかりも避けてなどいない……避けたのは閻王、お前の方だ……」
 そよ風にすら掻き消されそうな声音は、後方で目を見張ったまま動けずにいる蛍には到底聞き取れないものだった。久暁の顔に浮かぶのは紛れもない死相だ。だというのに、閻王の表情がいっそう険しさを増したのは何故か。
「何を戯けたことを。あの女を誘い出す必要があるからには、命まで奪われる恐れはないとでも思ったのか? なめるな屑が。貴様が死にかけても現れぬのならば、いっそ殺してみるまで。塵ほどの価値しかない貴様の生死などどうでも良い」
 そう言い捨て、閻王は久暁の胸元から武器を引き抜こうとした。しかし、鋼鉄の掌が血塗れの柄を握り直すよりも先に、久暁の右手が刀身の峰を掴みその動きを止める。
 決して強い力ではない。閻王が軽く腕を動かしさえすれば、簡単に大刀は引き抜けたはずだった。持ち主以外の生物が触れたことで、生ける大刀の表面を小波のような震えが走る。微かな気配を硬質の掌ごしに感じ、閻王の腕がまたも静止する。
「避けたのは、そんな理由、からではない……言っただろう、分かったと……お前の望みが……」
 残る力を振り絞るようにして、久暁は言葉を紡ぐ。その間にも、朦朧とする紅の瞳からは次第に光が失われていく。臓腑を抉る痛みに、意識が奪われようとしているのは間違いない。再度激しく血を吐く様子を見て、閻王は小さく舌打ちをした。
 鉤爪がようやく動いたかと思うと、それは握り締めていた柄を手放し、自らが操る大刀の刃へと突き立てられた。断たれることなく、水に沈むがごとく、閻王の左手は赤黒い刀身へと潜り込む。
 五指の関節から金属同士の噛み合う音がした直後、鉤爪は薄い膜を破るようにして大刀を引き裂いた。
「貪れ」
 続けざまに閻王が短く命じた瞬間、久暁の左胸に新たな痛みが走った。消えかけていた意識が呼び戻されるほどの激痛に、思わず傷口を押さえ地に蹲る。
「あぁッ、く……! む、胸が……!?」
 幾千本もの針で刺し貫かれ、氷で直接臓腑を切り裂かれるかのような感覚が、大刀に貫かれた時の痛みを塗り潰すかのように、体内で急速に広がっていく。
 呻きながら、久暁は傷口に指を這わせた。伝わった感触はすでに、裂かれた肉や温かい血の質感からは程遠いものと化していた。覚えのあるその質感に、全身から血の気が引く。胸の奥に生じた激痛も止むことなく、むしろ肺から心臓へと、痛みは徐々に広がりつつある。
「まさか……!?」
 自らの身体に起きた異変について問いただす間もなく、閻王の右足が久暁の腹部を蹴り上げる。空気と共に血混じりの痰を吐いた久暁の襟首を掴み上げると、左手の鋭い爪でその着物を引き裂く。咒符の攻撃により、すでに襤褸同然となっていた着物は容易く破れ、凍てつく寒さの只中に久暁の上半身は曝け出された。
 野狂洞を逃げ出した時から、半裸同然だった身体である。今更寒さなど大して変わらない。細身でありながら彫像のごとく引き締まった浅黒い体躯と、その表皮に浮かぶ無数の紋様は、幾つもの傷と泥、そして新しく濡れた血によって汚れている。しかし、今や致命傷を負ったはずの胸元から、血は一滴も流れ出してはいない。
 左胸下から脇腹にかけて走っていたはずの傷口は、鈍色に変色していた。これまでに幾度も斬った鉄忌や、目の前にいる閻王の左半身と全く同じ質感の物が、久暁の傷を塞ぐと共に、その身を貪っている。陽光の元に晒された身体は、その事実をまざまざと久暁と蛍に知らしめた。
「分かっているとは思うが、鉄忌化したのは皮膚だけではない。破損した肉、骨、臓器に至るまで、全てをこの鉄忌の血が鉄忌化を進行させることで修復している。だが、安心しろ。貴様の話がさっさと終わりさえすれば、鉄忌化した部分を抉り取って、せめて人として死なせてやる。そら、早くしなければ心臓も丸ごと奴らに食われるぞ」
 鉤爪の狙いを心臓に定めながら、閻王の狡猾な目が久暁を挑発する。傷を塞いだとはいえ、身体を貪られる――体細胞を捕食され、取得した情報を元に擬似細胞が本来の細胞と入れ替わり、体組織を鉄忌のそれと同化させていく鉄忌化≠ヘ、全てが完了するまで絶えることのない痛みを肉体の持ち主に与える。そして、元に戻る術などない。

「くッ……このままでは久暁殿が!」
 閻王の言葉に、蛍はよりいっそう焦りを募らせた。勝ち目がないと悟った以上、自分は閻王の注意が久暁に向けられている今の内に、白巳女帝であるかぐやを安全な場所に連れて逃げるべきなのだろう。だが、気を失ったかぐやを抱えて馬に乗り、そのまま駆け出してしまえば確実に、後に残された久暁は死ぬ。それではここまで来た意味がない。
 武士十家としてかぐやを守るべきか、無謀を承知で閻王に挑むべきか――そんな葛藤が決定的な隙を生む。
 かぐやを抱えていた蛍の両腕が突然、人の物とは思えないほどの力で背後へと引っ張られた。
「何ッ!?」
 冷たい雪上にかぐやの身体が倒れ込んで初めて、蛍は自身の身体に幾本もの縄が巻きついている事に気付いた。不自然なまでに赤黒く、蛇のようにうねりくねり伸縮するそれらは、紛れもなく閻王が操るあの武器が変化したものだった。閻王が引き裂いた大刀のもう半身は、蛍が目の前の光景に気を取られている間に土中を潜り、肌に触れるか触れないかというほどの慎重な動きで身体に纏わりつき、彼女の全身を縛り上げたのだ。
「いくらお前にそれを壊す力があろうと、肝心の拳が振るえなければ役には立つまい。妙な真似をしようものなら、締め上げるだけでは済まさん。捕食されないだけありがたく思え、小娘」
 振り返りもせず、閻王が嘲りの声をかける。それを合図として、ぐねぐねと蠢く縄が、肉を捻り切らんばかりの力で小柄な身体に食い込む。
「これしきの縄など……!」
 背後に固定された両腕に力を込め、縄を断ち切ろうとするが、その力に対抗するかのように、縄はさらに強く締まる。メキッという破砕音が手甲の限界を告げた所で、蛍の両腕に激痛が走った。
「あぁッ!」
 おそらくは手甲に守られていた両腕の骨に皹が入ったのだろう。それでも戒めを解こうと足掻く蛍の苦鳴を背後に聞き、閻王の口元が愉しげに歪む。
 しかし、
「いい加減にしろ、閻王。これ以上無関係な人間を痛めつけた所で、お前の望みなど叶いはしない」
 右手に捕らえられたまま、体内を鉄忌の血に侵食されている久暁の瞳に、先程と同じ憐憫の情が入り混じっている。そうと察知した途端、閻王の笑みは掻き消えた。
 ぐらぐら沸く岩漿のごとき感情が、黒衣の裡で業を煮やしている。飢えた視線で死に向かう獲物をなおも射抜きながら、閻王は久暁の言葉の真意を探った。
「標持ち≠イときが、この閻王の何を見透かしたというのだ?」
 答を促すためか、喉笛を掴む手からわずかに力が抜ける。圧迫が楽になった隙に、久暁は冷たい空気を痛む肺へと送りこんだ。

「お前が雪女≠狙う理由。そして、お前が俺を嬲りながらも、未だにとどめを刺さないでいる本当の理由。つまりは……お前自身が抱える弱さ≠だ」

 自分の裡を覗きこむべく、真正面から凝視してくる閻王の視線を、久暁はそのまま受け入れた。睨み返す訳でもなく、無言の威圧感に従う訳でもない。相手が望むままに覗き込ませる。いくら直感力を働かせたところで、それだけで閻王が答を視ることはできないのだと、久暁には分かっていた。
「雪女≠その手にかけるために、こんな事をしているのだと言ったな。お前の事だ、あの言葉に嘘はないだろう。だが、それが最大の目的か?」
 答えはない。代わりに鉄の五指がかすかに動き、締め上げが強くなる。喉元を押さえつけられ咳こむも、久暁は語るのを止めようとはしない。
「また、お前はこうも言った」
 対象を欲しがると同時に、湧き上がる破壊衝動。幸福と絶望の矛盾した行動原理を持つ理由が、持たざる者としての嫉妬と孤独にあるせいではないかと、彼は自身を考察していた。
 雪女≠殺めて奪えるものとは何か。それが一時の劣情を満たすだけというならば、十数年も戦いを続ける必要などあるまい。八佗の軛から逃れる術を得た以上、何処へでも去るなりして、ただの女を襲えば済む話のはず。
 それでも雪女≠ナなくてはならない理由とは。しかも奪った結果殺すのではなく、閻王は殺すことを前提にして彼女を探している。ならば、あの白い女は彼にとって、ただの手段に過ぎないのではないか。
「閻王、雪女≠フ先に誰を視ている? いや、彼女だけではない。お前は俺の影にも、誰かの姿を視ているな」
 閻王が自らの左半身を鉄忌化した時点で、彼がとうに捨て身であることを久暁は悟るべきだった。彼はもはや自身の生に執着などしていない。故に生身で得られる悦楽にも興味はない。燃え盛る地獄の業火のごとく、絶えることのない欲望だけは強大だというのに。
 初めて雪原で戦う様を目撃した時、閻王はあの生ける武器を用いてはいなかった。久暁という駒を手に入れて初めて、彼は八佗の支配から逸脱した暴走行為をとった。
 もし、その理由が儚人≠巡る謎と関わりをもたない、初めて言葉をかわした時に閻王が知った、ある事実に基づくものだとしたら――
「お前は雪女≠確実におびき寄せようとする一方で、俺を試していたな。彼女と俺と、どちらがより目的にふさわしい道具となりえるかと。それでお前は、幾度も殺す機会に恵まれていたのにも関わらず、俺をすぐに殺そうとはしなかった。俺が阿頼耶の子供で、彼女がもう死んでいると知った時から」
 首を鷲掴みにする左手の力がさらに強くなる。それでも、久暁の言葉は武器としての鋭さを失わない。

「お前が本当に望んでいるのは、阿頼耶との繋がりなのだろう」

 彼女の死が確定していない内は、雪女≠倒して封印≠解くことが目的だったはず。しかし、ただ殺すだけでは不充分だった。
 阿頼耶と閻王の間に何があったのかは久暁も知らないが、わざわざあのような武器を作った程だ。阿頼耶に匹敵すると閻王が認めた女を自らが手にかけ、その事実を阿頼耶に誇示する何らかの必要性があったのだろう。そしてそれは、阿頼耶の死を知ったことでさらに捻じ曲がった目的へと変じた。
 少なくとも今の閻王は、雪女≠殺すのに自身の命を惜しんではいない。実の所、人外の化生である彼女と刺し違える覚悟なのかもしれない。彼が黄泉の世界を信じているかどうかは知らないが、閻王は彼女を殺したという事実を、死した阿頼耶への手土産にするつもりでいるのではないか。
 到底理解しがたい思考だが、彼が阿頼耶との殺し合いを何よりも愛しんでいた事を考えれば、久暁を殺さないでいるのにも納得がいく。閻王自身は否定したが、彼と阿頼耶の子が存在しているなら、これに勝る彼女との絆はあるまい。屑として打ち捨てるか、駒として利用するか。その判断を下すために、閻王は久暁をわざと逃走させ、その価値を見極めていたのだ。おそらくは何度も使えない≠ニ判断し、とどめを刺そうとはしたはず。けれどもその度、彼は無意識に踏み止まった。彼の直感がその可能性を捨て切らなかった。
「だからお前はさっきも、自分から急所を避けて攻撃した。俺はその行動を予測し、あえて避けなかったんだ。だが、これで良い。俺が死に至るほどの傷を負えば、あの女が来るのだろう。お前の望みを叶えてやる。その代わり聞け、閻王」

 喋る間にも、胸元の鉄忌化はじわじわと進行しつつある。すでに元あった傷口以上に皮膚は鉄と化しており、体内を貪る物の存在感が次第に大きくなっていく。外殻となる表皮と違い、体内の器官は擬似細胞と入れ替わってもしばらくは元々の肉体と同じ性質を維持するが、全身の皮膚の硬質化が完了すれば即座に溶解し、閻王が操る武器のような生ける血となる。例え目に見える鉄忌化した部位を抉り取ったとしても、その時点で肺や心臓を食われてしまえば、死は確定したも同然だ。
 幾筋もの紋様に絡みつかれた右手が、意を決したように鋼の鉤爪を掴む。
「お前と相対して、俺にはようやく分かったことがある。この地に現れて以来、俺はずっと『都』に戻る事ばかり考えていた。『都』に戻り、あいつらに会い、儚人≠ニ茫蕭の禍≠ノまつわる全ての謎を明らかにする事が俺の使命なのだと思っていた。その答の先に何が待つのか、知ろうともせずにな。無論、答は今も分かっていない。だが、それだけが『都』に戻る目的なのかと、ずっと心の奥では引っかかっていた。それが最終目的ではないのだと、俺は初めから知っていたんだ」
――ただ、恐ろしかった。
「自分の最たる願いへと思い至れば、俺はきっと誰かをこの手で殺すことになる。そう俺の直感が告げていた。それを認めたくなくて、俺は他の方法を探していたのかもしれない……お前の、本当の目的を知るまではな」
 閻王は阿頼耶との再会を求めていた。その欲望の為にどれだけの犠牲を払い、自らの身体さえ朽ち果てようとも、彼は進む事を止めない。死者には会えないという絶対≠悟りながら、なおも絆を求めて暴走を続けた。
 彼の意思に阻まれ、久暁は今死に瀕している。それは決して、久暁の力が及ばなかったからではない。
 我が身を捨ててでも阿頼耶との繋がりを求める、強固なる意志に突き動かされている閻王を、心が決めた答を受け入れきれず、迷走する者が打ち破れるはずもない。

 勝ち目がないと知りながら、抗った所で何が残るのか。
 何も残りはしないだろう――唯一の意志に、己以外の誰かの為に、殉じる覚悟もない者には!

「俺は、自分が納得するために『都』に戻り、全てを明らかにしたかった訳じゃない。俺の本当の望みは、あいつらを――燥一郎と枳を救うことだ」
 例え利用されただけだったとしても、恨みを抱くには孤独を思い知りすぎた。
 今は恨みや疑念以上に、彼らの存在が愛おしいのだと気付いてしまった。
 初めて得た友。初めて愛した女。
 このまま彼らとの絆を失う苦しみに比べれば、これまでに味わった痛みなど、何と他愛無いものである事か。
「あいつらは左大臣や八佗を敵に回し、鉄忌を生み出して人々を恐怖に陥れた。けれどもその行いの裏には、そうでもしなければ果たせない目的があるはずだ。その目的がもし、あいつら自身をも含めた大きな犠牲を生むものならば、俺は二人を止めなくてはならない。それが俺のなすべき事だ。その為ならば、この身がお前のように鉄忌と化そうが耐えてみせる。この魂だけは、何があろうと蹂躙されはしない」
 鉤爪を掴む久暁の右手が、冷たい硬質の肌に爪を立てた。息苦しさから何度も目の前が霞み、視界が揺れる。喉笛を押さえつける腕を掻き毟りたいという衝動を抑え、紅の瞳は硝子球となった相手の左目を、真正面から見据えた。

「孤独のうちに在り、絆を求めたという点で俺とお前は同類なのかもしれない。ただ唯一違うのは、お前は死者を救うという自らの願望の為に死を望んでいるが、俺は生者を救うために生を望んでいる。だから、俺はお前に勝つ。どれだけ嬲られようと、必ず生き延びてみせる」

 それが、久暁が得た答の全てだった。
 陽光の下で一体となって佇む影が、不意に二つに分かれる。どさりと雪上に崩れ落ちる音と、激しく咳き込む声を聞き、蛍は久暁が解放されたのを確認した。
 全身を雁字搦めに縛る縄に締め上げられ、全く身動きのとれないまま、それでも彼女は久暁の告白に耳を傾けていた。その戒めも、久暁の話が終わると同時に、縄が勝手に解けたことで終わりを遂げる。両腕の痛みは楽にならなかったが、すかさず顔を上げて久暁の様子を伺い、彼の無事を確かめる。
 胸元の鉄忌化は未だ広がっているようだが、久暁の顔色には生気が戻っている。
 なのに、蛍は一瞬も安堵することができなかった。

「ふ……っくっくっくっくっく……」
 閻王の肩が揺れている。漏れ聞こえる声音は、彼が笑っている証拠だった。
 そして幾許かもしない内に、忍び笑いは天地を揺るがすかのような大笑へと変わった。
「ハァーッハッハッハッハッハッハ! フハッ、ククククッ……傑作だ! 最高だな貴様! クッ、ハハハハハハハハハハハ! ハァーッハハハハ!!」
 左手で自らの顔を抱え、身体を反り返らせながら哄笑する閻王の姿に、蛍だけでなく久暁の胸中にまで不安が広がった。
 久暁の目に映る閻王は、まるで初めて会った時の様に不気味な影を纏っている。ただし、最前までと違い、彼の口元にはあの嘲りに満ちた歪んだ笑みがない。今そこにある閻王の表情は、まるで宝物を目の前にしたかのような、歓喜に満ち溢れたものだった。
 ――幸福を見出した者の満ち足りた表情が、何故これほどまでに恐ろしく思えるのか。
 止まない哄笑に、背筋を這い上がるような寒気を感じ、久暁は傍らに転がる綺羅乃剣に手を伸ばそうとした。しかし、あと一歩という所で、黒い靴が渾身の力でもって久暁の右腕を踏みつける。
「あぐッ……!?」
「天意≠諱A今この時にこの者と邂逅させた幸運に、今回ばかりは敬意を表そう」
 空を仰ぎ、祈りの言葉を諳んじるような調子で閻王は呟いた。足元でもがく久暁の前へと屈みこむと、黒い手袋をはめた右手で顎を掴み上げる。
「まさかあの男……!?」
 久暁の動きが止められたのを目にし、堪えきれなくなった蛍は二人の下へと駆け寄ろうとした。しかし、その行く手を遮るかのように、不意に目の前で雪飛沫が舞った。雪の下に潜んでいたあの咒符が姿を現し、無数の針となって彼女へと襲いかかったのだ。
「邪魔をするでないッ!」
 無我夢中で針を払いのけようとする蛍を、針は前後左右から貫きにかかる。邪魔者を拒むその執拗な妨害が、これから起こりうるであろう出来事への恐怖感をいっそう煽る。
 閻王が穏やかな微笑を浮かべているのを目にした途端、久暁の中で蠢く鉄忌の血が凍りついた。実の所それは、紛れもなく久暁自身の血潮であったのかもしれない。
「前言撤回だ。どうやら貴様には俺が愛し、己の手で破壊するだけの価値があるらしい」
 顎から頬へと、愛撫するかのように右手が久暁の顔を撫でる。その大きな手が血で汚れた口元を覆った直後、ゴキリと骨の砕ける音が閻王の足の下から聞こえた。
 痛みを訴える叫び声は、押さえつけられた手によりただの呻き声となった。閻王は踏みつけていた足を退けると、右腕の骨を砕かれた久暁が雪上でもがくのも構わず、その身体を無理やりに仰向けにさせた。
「二十八年も待たせたのだ。心に虚ろを抱え、他の感情など何も持ち合わせていなかったあの女が俺に向けた殺意など、もはや萎えて久しいだろう。それでは駄目だ。そんな阿頼耶になど意味はない。ゆえに必要なのだ――ヤツが再び自我を呼び覚ますほどに強力な餌が! ヤツが欲しがるような愛憎の種が! もはやこの世で会えぬなら、俺にその餌を奪われたのだと知らしめ、世界に記憶させるまでのこと!」
 吼え猛る閻王の鉤爪が金属質な軋みを上げ、勢いよく振り落とされる。押さえつけられくぐもった悲鳴が再び上がると、肉片を付着させた金属の破片が、雪上に鮮やかな血球を撒きながら宙を飛んだ。
 鉄忌化した表皮を抉りとられた久暁の胸元からは、溢れるように血が流れ出した。だが、体内には鉄忌の血がまだ残っているため、新しく開いた傷口もすぐさま赤黒い瘡蓋かさぶたに似た膜によって塞がれていく。それが完全に止血するよりも早く、鉤爪が鉄忌化しかけた皮膚を突き破り、鋭い五指を肉に埋める。
「標持ち≠ニして己が身に刻みつけるがいい! そして阿頼耶に伝えろ! 次の星で送る来世でも、あの女が俺を忘れられないようにな!!」
 逆さまになった視界の中、呻き続ける久暁を覗きこむ閻王の口元が大きく開かれる。
 口から離れた右手が赤銅色の髪を掴み、その動きを封じたと同時に。
 鋼の牙を宿した閻王が、無防備となった獲物の喉笛へと食らいついた。





 漂い、惑わし続けた濃い霧にも、ようやく晴れ間が訪れた。山道の視界が開けた事に二藍皐弥ら武士十家が気付いた頃には、太陽は随分と西に傾き、陽光も黄みを帯びていた。
 『癒城』を出立してから二刻しか経っていないはずと首を傾げてみると、身体の節々が久々に動かしたかのように軋む。霧に惑わされ時間感覚までもが狂わされていたのかと、皐弥が訝しんでいると、
「右大臣! お主は今の今まで何処で何をしておったのだ!?」
という大音量の怒鳴り声が鼓膜を突き抜けた。
 驚いて声のした方を向けば、顔を真っ赤にした卯乃花正隆と、最前まで姿をくらましていた八佗がいるではないか。
「右大臣殿、戻られたのですか。急にいなくなってしまわれたので一体何事かと……」
 急いで馬首を二人の方へと向け、皐弥が駆けつける。ところが八佗は険しい表情をしたまま、傍らで憤る正隆の言葉も上の空で聞いているかのようだった。
「……正隆殿、皐弥殿。残りの者をつれて、このまま真っ直ぐ『央都』跡地を東へ向かって横断したまえ。急いで、そして絶対に深入りはしないように」
 ようやく口を開いたかと思えば、またもや八佗の姿は瞬時に消え失せてしまう。困惑する皐弥の横で、さらに機嫌を損ねた正隆が歯軋りしながら愚痴をこぼす。
「あの赤狸めが! 調子に乗りおって……!」
 正隆と彼の率いる武士達がこぞって八佗への不信を口にする中、皐弥だけは八佗の言葉がどういう意味を持つのかと反芻していた。
 ――嫌な予感がする。
 八佗がこれほど一人先走るような真似をするなど、皐弥の知る限りでは始めての事だ。
 右大臣は何かを隠している。一度姿を消してから、次に彼が現れるまでの間に何かがあったのだ。
「正隆殿、ここはひとまず右大臣殿の指示通り、東へ向かうべきかと。今になって『央都』跡地を渡れとは、何か理由があるかと」
「なればまずそなたの隊が先行せよ。鉄忌が跋扈ばっこする地を渡れという、右大臣の言など信用ならぬ」
「あい分かった。ではお先に後免!」
 渋る正隆を尻目に、皐弥はさっさと後続する武士達に激を飛ばした。黒々とした毛並みの馬達が山道を外れ、緩やかな斜面を次々に下っていくのを目にするや、
「ま、待てい! 年長の儂を差し置いて、本当に先行する奴があるか!?」
 正隆も慌てて馬を蹴り、後へと続いていく。

 時間からすればとうに大井山へ辿り着いているはずの頃合いだったが、『央都』跡地の平原へ出てみれば、その大井山まではまだかなりの距離があった。霧が出ていたとはいえ、八佗が同伴していながら道を間違えたというのは考えにくい。やはり、自分達はいつの間にか、人知のおよばぬ力に惑わされていたのかもしれない。
 そんな推測が皐弥の脳裏をよぎったところで、すぐ後ろで馬を走らせていた二藍分家の若武者が声を上げた。
「御当主、前方に人影があります! しかも一人にあらず!」
 ハッとして我に返り、声が示した方へと視線を飛ばす。その武士の言う通り、危険地帯にも関わらず、そこには複数人の姿があった。徐々に近付き、小さな人影の服装まで判別できるようになった途端、皐弥は八佗の言葉の意味を瞬時に悟った。
「正隆殿! 正隆殿ぉ!!」
 後方へと声を張り上げ、もう一人の指揮者の名を呼ぶ。その声音から尋常ならざる事態が起きたことを、正隆も察した。葦毛色をした彼の馬が急激に速度を上げ、皐弥の傍に並ぶ。
「何事か、皐弥殿!?」
「一大事ですぞ! 前方を御覧あれ!」
 促されるまま、正隆も前方を睨み、そこに何があるのかを知った。
「な、なんたる事か……!」
 驚愕すると同時に、正隆の足は馬の腹を蹴っていた。武士十家が所有する名馬の中でも、最速を誇る正隆の愛馬雪影≠ェさらに勢いを増し、風を切りながら疾走する。溶けかけた雪を土ごと蹴り上げながら一心不乱に走る正隆と雪影の行く先には、冷たい地面に倒れ伏す一人の娘がいた。
「ひ、姫様……いや主上! 何故斯様かようなところに!?」
 娘――かぐやの元に辿り着いた正隆は、馬から転げ落ちかねないほどの狼狽ぶりで傍へと近寄った。そのすぐ後に皐弥も駆けつけ、かぐやの様子を伺う。気を失っているだけで命に別状はないと分かると、二人の口から安堵の溜息が揃って漏れた。
「ん……」
 その内、続々と集まってくる武士達と馬の足音に意識を呼び戻されたのか。かぐやの両目が微かに開いた。
「おお! お目覚めになられましたか、主上!」
 安心感から歓喜に打ち震える正隆を見ても、かぐやにはすぐに状況が飲み込めなかった。
「正隆殿? それに、皐弥さんまで……? 私、一体……」
 ぼんやりした頭で、気を失う直前までの記憶を必死に手繰り寄せる。その原因に思い当たった瞬間、彼女の意識は一気に覚醒した。
「彼らは!? 久暁さんと閻王はどうなりました!?」
 詰め寄るかぐやに対し、何故か武士十家達は苦虫を噛み潰したかのような表情で黙り込んだ。はたと気付けば、いつの間にか皆一様に姿勢を低くして、何かから逃れるように息を殺しているではないか。
「どうして何も答えないのです? 蛍さん……蛍さんはどこにいるのですか!?」
 沈黙に耐え切れなくなったかぐやは、皐弥らの手を振り払い武士達の囲いを抜け出た。
「主上! 見てはなりませぬ!」
 正隆が制止を訴えかけるも、かぐやの耳には届いていない。それが聞こえるよりも先に、かぐやは目の前で起きている光景に心を奪われていた。





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