<真の願い>



「白戯、アンタねぇ。もう一刻も経つっていうのに、まだむくれているの?」
 こちらに背を向けて寝転んだまま、全く口をきこうとしない少年を見て、なずなとともえはもう幾度目かになる溜息をついた。
 彼女達とて、白戯の気持ちはよく理解している。かぐやと蛍がこの屋敷を立つ際、八佗の目を誤魔化すために残った彼女達だが、本音を言えば白戯と同じくかぐやについていきたい――いや、本来ならば常に傍に控えていなければいけない立場なのだ。
「かぐや……もとい、姫様のことは心配だけど。姫様自身がああ望んだのなら、私達はそれを信じるしかないじゃない」
「自分の命がどれほど重いものなのか、誰よりも姫様はそれを理解しているはずよ。蛍さんがいれば鉄忌が現れても大丈夫でしょうし、万一閻王と遭遇したとしても、彼相手なら姫様の言霊ことだまで止められるはず。夜までには絶対戻ってくるわよ」
 そう言われても、白戯の憮然とした表情の変わる気配は全くない。いい加減呆れてきたのか、先に話題を変えたのはなずなだった。
「それにしても、子供の頃以来よね。姫様をかぐや≠チて名前で呼ぶのも」
「あの『央都』から来た二人の本心を探るためとはいえ、こんなことしていたなんて武士十家の年寄り組に知られたら、下手したら不敬罪で棒打ちかもよ」
「でも元はと言えばお師匠様の提案だったんだもの。それより護衛一人つけただけで大井山に行かせたことの方が大問題でしょう。この歳で打ち首切腹は嫌だなぁ……姫様、ちゃんと無事に帰ってきてね。でないと私達、さっきのが今生の別れになっちゃうわ」
「まぁ、姫様のためを思えばそれも本望だけど」
 ともえの言葉を受け、なずなの口元にも寂しげな微笑が浮かんだ。
「あさひ様が亡くなられて以来、あんなに自分の本音に正直な姫様を見るの、初めてだったものね」
 かぐやの姉であるあさひが雪の夜に死んだのは、十三年も昔のことである。しかしその時以来、必然的に帝位につくこととなったかぐやと幼馴染達との距離は、近くとも遠いものとなっていた。せめて他人の目の届かない所では子供の頃と同様に、気楽に付き合える関係でありたい――そう願ってはいても、歳を重ねる毎に主従としての線引きは色濃くなり、その双方にかかる責任の重みもまた増していく。
 なずなや白戯らのように、家臣となる者達にとってそれは苦ではなかった。彼らには同じ立場の者が数多くいた。けれども、帝としての役目を担えるのはかぐやしかいない。重圧に耐えるためか、いつしか彼女は臣下である以前に友人として接していたなずな達の前ですら、本音を押し殺すようになっていた。そうでもしないと白巳女帝≠ニしての覚悟が揺らぐかのように。
 だからこそ、かぐやが蛍と共に大井山へ向かうと言い出した時、なずなとともえはそれが彼女の本心からの願いだと察し、快く送り出したのだ。でなくば、自分達の首と引き換えにしてでも行かせようなどとは思わない。

「白戯、アンタだってまんざらじゃなかったんでしょう。姫様だってこの二週間ほど、楽しそうにしていたって聞くし」
「……だから余計に心配なんじゃないか」
 それまでそっぽ向いていた白戯が、なずなのその言葉に身を起こす。振り返らずとも、彼が機嫌を損ねたままでいるのは明らかだった。
「かぐやは……いや、かぐや≠ノなっている間の姫様は確かに楽しそうだった。でもそれはかぐや≠ナいる間、帝としての重責から離れられたからだ。いくら右大臣の進言だからって、本気で『昇陽』の旗印になるって覚悟があるなら、今回みたいな茶番劇に乗るはずがない。帝としての誇りを汚すような真似は、絶対にするべきじゃないんだ」
 だが、実際かぐやはこの二週間ほど、白巳女帝≠ナはなくただのかぐや≠ニして『央都』からの来訪者と接していた。それはすなわち――
「姫様は本当のところ、未だに自分のことを帝にふさわしくない人間だと思っているんだよ。それを自覚していたからこそ、勝手に大井山に向かうだなんて無茶なことしたんじゃないか? かぐや≠ニしてではなく、白巳女帝≠ニして誰かを助けられるようにって。本当は逃げたくて逃げたくて堪らないはずなのに。そんな無理している姫様、俺は見たくないんだよ」
「そんな、姫様は……」
 帝としての立場から逃げるような人間ではない――そう反論しようとしたなずなだったが、白戯の言い分にも一理ある。大井山へ行きたがっていた時のかぐやは本気だった。あの時の覚悟が白戯のいう通り、自責の念から出たものならば、いずれそれはかぐや自身を押し潰してしまうのではないか。
 そんな不安が一瞬よぎり、なずなは全力でそれを脳裏から追い払おうとした。自分はかぐやを、白巳女帝を信じている。十三年間、重みを抱えてながら生きていたとしても、その時間が彼女を弱くしたとは思えない。
 けれども、もし本当にかぐやが帝という立場を恐れているのだとしたら、傍にいるべき自分達が、いつまでもここに留まっていて良いものか。

 気まずい沈黙を払拭しようと考えたのか。おもむろに年長者であるともえが口を開いた。
「そう言えば、せっかく姫様不在とバレないように私達が残ったというのに、右大臣殿ってばあれから全然姿を見せないわね」
 言われてはたと気づいたように、白戯となずなも沈みかけていた顔を再び上げた。
「まさか、もうとっくにバレちゃってたとか?」
「だったら俺達がこうして待機していられるはずがないだろう」
 八佗の性格からして、弟子である以前に『昇陽』の女帝でもあるかぐやから一刻近くも目を離すなど考えにくい。加えて、自分の言いつけを破った者を快く見逃すほど、彼が寛大な人物でないことは『昇陽』中の人間の知るところである。
「ねぇ、白戯。ちょっとお師匠様の部屋に行って、様子見てきなさいよ」
 妙な胸騒ぎを覚えたなずなが、眉間に皺を寄せる白戯を小突く。当然のように、白戯はふくれっ面で反論した。
「何で俺が?」
「アンタがここに居るっていう証明のために決まっているでしょうが。ほら行った行った!」

 女武者二人に追い立てられ、しぶしぶと白戯は八佗の部屋へと向かった。
 しかし、なずなの予感が的中したというべきか。それから彼らがいくら屋敷中をくまなく探そうとも、右大臣の姿はどこにも見当たらなかった。
 不審に思った三人がかぐやと蛍の後を追い、出立したのがその半刻後。
 西側へ傾きつつある太陽は、未だ眩しい光を残雪の地に降り注がせていた。





 大井山近くの霧は依然として濃い。吸いこむ度にじっとりと臓腑に纏わりつくような空気の中を、八佗は馬の背に揺られながら前進していた。
 移ろう山地の天候に阻まれ、太陽の位置が確認できないのが気がかりだが、感覚だけを頼りにするならば、屋敷を出立してより二刻半が経過した頃合いだろう。すでに大井山の麓から山中に分け入っていてもおかしくないはずだが、どういう訳か八佗は依然として開けた野道を歩んでいた。その後ろに続いていたはずの、武士十家の姿は見えない。
 武士達を連れては来たものの、初めから彼らに久暁を探索させる気はなかった。久暁を探せば、必然的に閻王と接触せざるをえない。かぐやを納得させるためにも、探索隊を出さない訳にはいかなかったのだが、八佗の行動支配を受けなくなった今の閻王と、武士達を合わせることは絶対に避けたかった。ゆえに仕方なく、大井山へと向かう道中で、八佗は武士十家達のみをそうとは気づかせず、閉鎖した空間に置いてきたのだ。
 武士達を中心として、その周囲数百歩分の距離の終わりと初めを繋げただけの単純な閉鎖空間は、八尺瓊の封印≠ニ比べれば格段に手前味噌な代物だが、時間稼ぎくらいにはなる。閉ざされた空間は本来の場所から切り離された別空間として独立するため、外部から破ることはできない。今頃彼らは、進めど進めど大井山に着かないことに業を煮やし、消えた八佗を罵っていることだろう。
 いつもならば不自然にならないよう自身の分身を共に置いてくるのだが、今の八佗は視界の効く範囲外にまで分身を作ることができないでいた。他でもない、そうやって武士十家を閉鎖空間に封じてきた八佗自身が、何者かの起動式によってこの地を抜けられずにいるのだ。
「全く、因果応報と言うべきかな」
 自分の置かれた状況を把握し、八佗は小さく嘆息した。これが罠だとすれば危惧すべき事態だが、彼に焦る様子はない。歩みを進める内に、前方に数人の人影が見えてきた。八佗の表情が険しくなったのは、その時になってからだった。
「なるほど、私の起動式を利用したのか。自分の術が元になっているのならば、すぐに気付けないのも道理」
 淡々と分析する八佗の前に現れたのは、先刻自分が置いてきた武士十家達に相違なかった。しかし彼らは一様に、凍りついたかのように静止している。八佗の失踪に憤慨していた卯乃花正隆も、部下に指示を与えていた二藍皐弥も、その時行っていたであろう所作のまま固まり、時の流れを忘れているようであった。
 彼らを閉じこめたのは八佗だが、このような目にまで合わせた覚えはない。自分以外に『昇陽』でこんな起動式が扱えるのは、現在ただ一人だけだ。

「無様ね。自分が仕掛けた起動式を改竄されていることにも気付けないとは」
 不意に、背後から鈴を鳴らすような声が聞こえた。聞き覚えはないが、誰のものかはすぐに分かる。その到来を予期していたのか、踵を返す八佗の動作は慎重そのものだった。
「よほど活動限界が近いのかしら。今のお前は『昇陽』全土に分身≠配置することで精一杯。私を傷つけることはおろか、あの男の暴走を止めることすらできない。管理者≠フ庇護を失った神器≠ノしては、長持ちした方でしょうけど」
 振り向いた先には、白装束を纏った女が立っていた。開かれた着物の胸元から覗く肩や乳房は勿論のこと、裾から伸びる素足も、地を覆う雪と溶け合うかと思えるほどに白い。
 ただ一点、かつて見た彼女の姿と違い、その頭に白妙のようだった長髪と、顔を隠していた狐面はなかった。それが閻王によって奪われたのだと八佗が知る由はないが、妖しめいた装束を失った雪女≠フ姿は、一見するとただの人のようであった。
 降りかかる雪、たゆたう霧の色を吸い込むほどの黒髪は首筋までの長さしかなく、それが彼女を娘のように幼く感じさせた。俯く顔の下、語る声音は澄んだ美しさを備えているが、未だ素顔を見せる気はないのか、その全貌は湿っぽく伸ばしてある前髪に隠されていた。
「もうすぐ世界は変わる。矛盾のない、正しい理の世界へと」
 警戒する八佗に構うことなく、雪女≠ヘ一人歌うように呟いた。
「でも、それはお前の望む世界とは違う。お前は神器=A私は管理者=\―どちらがより幸福な世界を作り出せると思って?」
「私としては、どちらも消えてなくなる事をお勧めするがね」
 相手の問いかけに対し、八佗は毅然とした態度で答えた。起動式に気付いた時から、彼女が接近してくる可能性は予想していた。八佗にとってこれは好機と言える。
 返答が気に食わなかったらしく、雪女≠フ気配が攻撃的な物へと変じた。その鬼気を受け止めながら、千載一遇の機を逃すまいと、今度は八佗から語りかける。
「さて、私の元に現れた訳を聞かせてもらおうか。まさか閻王の武器に恐れをなし、アレを止めてくれなどとでも言いにきたのかね?」
「私を前にしてその言い草、よくこれまで命があったものね」
 傍若無人な八佗の物言いに、雪女≠ヘ怒るどころか幾分か機嫌を良くしたらしい。内心、八佗は命がけで言葉を選び取っている。それを見透かした上で、自らの優位を誇っているのだ。
「貴方が余計なことをしてくれたおかげで、事態はかえって私の都合の良いように運んだ。けれどこれ以上儚人≠フ周りをうろうろされるのも困るの。アレを手に入れ、そしてもうまもなく『都』にいる私の片割れが彼女≠捕らえる。それで全ての計画が完了するのだから」
「やはり、貴女の目的も根源の起動式にあったのか。だから『昇陽』を襲ったと」
 『茫蕭』が侵攻してきたのは、八佗が『昇陽』を訪れた目的と同じだった。だが、彼女の話を聞く限り、その目標とすべき点は大きく異なっているらしい。
「それが目的ならば鉄忌などという物を作り、人々を襲う必要はなかったはずだ」
「いいえ、理由ならある。定められた行動に従い、左大臣は守れる範囲の人間だけを連れて逃走した。封印≠施したことで彼は弱体化している。今なら我々の手で討つことも可能よ」
 彼女の口ぶりから察するに、八尺瓊はまだ健在らしい。長年に及ぶ八佗の見解が確かならば、八尺瓊は根源の起動式に関わる彼女≠フ守護者であるはずだ。それにしても、神器≠ナある八尺瓊を討つ為とはいえ、『昇陽』の民を巻き込んだことについては八佗には納得しがたいものがあった。
「我々が人間を傷つけるのは不可能なはずだが、直接的でないにしろ、貴女はその制約を破っている。そんなことができるのは八尺瓊に守られている彼女≠ゥ、壊れた者であるかのどちらかだ。その身体、見たところ死人の肉体を借りているようにお見受けしたが、人間の殻を得て何を目論んでいる、『茫蕭』の管理者=\―いや、れつとでもお呼びした方が良いかな?」

 名前らしき言葉を耳にした雪女≠ェ、初めて顔を上げた。相変わらず目元は髪に隠されているが、形の良い唇からは笑みが消えている。
「お前を見くびっていたわ。幾千年も求め続けながら何一つ手にしていない愚者かと思えば、中々の策士だったようね。何故、私の名が分かった?」
「戯れで『昇陽』を訪れる以前に、世界中を旅し回った訳ではない。草原の国であった『茫蕭』で最も恐れられていたのは、草木の芽吹かぬ厳しい冬と、雨なき時に照らしつける太陽による渇きだ。その恐れと畏れの中心に管理者=Aすなわち貴女方がいる。あとはそれにつける名が、『茫蕭』で何と呼ばれているかを知っていれば済む話だ」
「そう、『昇陽』で警戒すべきは八尺瓊だけかと思えば、もう一つの神器を甘く見ていたわね。でもそれだけ知っていれば、後は語らずとも良いでしょう」
 そう言うと、雪女≠ヘ雪上に足跡一つつけず歩み寄っていった。ゆっくりと上がる右手は、指の一つ一つがほっそりとしていて、今にも折れそうな繊細さをしていた。しかし、八佗の黄金の目は彼女の指を、まるで鉄忌の鉤爪と同じだとでも言いたげに睨んでいた。
「いや、私が知る真実など断片的なものだ。だからせめて、消される前に今一度問いたい。貴女と、『都』にいる貴女の片割れは何をするつもりなのか? それと儚人≠ニに、何の関係がある? 」
 近付きつつある繊手を前にして、八佗がなおも問いかける。雪女≠ヘ冷たい笑みを彼に返した。無言の嘲笑による返答にも諦めず、八佗は再度言葉を重ねた。
「アレはこの世界の付け札=\―彼らを通して世界は観測され、変革の時が決定される。しかしそれだけではないのか? 彼らにはまだ何か謎があるとでも?」
 今度こそ彼女の琴線に触れたのか、雪女≠フ歩みが不意に止まった。
「そう……彼らと綺羅乃剣、そして彼女≠フ遺志が、私達≠世界から消滅させる」
 掲げていた右手を下げ、彼女は天を仰いだ。太陽を隠す雲を呪っているのか、はたまた霧によって凝る寒さに身を浸しているのか。息を殺し佇む神器≠ヨ教え諭すように、彼女――冽と呼ばれた女は宣言した。
「だから、私はそのことわりを変える。それが私の定めであり、全ての者が望む夢なのよ」





 切断された左腕から流れ落ちる赤黒い体液が、溶けかけた雪を禍々しい色彩に染める。周囲に散らばる咒符も同じ色をしているはずだが、彼が犯した数々の悪行がそう錯覚させるのか。その流血は鉄忌のものよりもどす黒く思えた。
 だが、それもつかぬ間のこと。流れる血潮はすぐさま硬質の皮膚と変じ、傷口を塞ぐ。滑らかな切り口だけ見れば、閻王の肘はまるで鋼の棒のようだ。おかげで失血死は免れたものの、すぐ傍らにある燃える刃を睨む彼の双眸は、それだけで剣の使い手を焼き殺しかねない憤怒に燃えている。
「貴様……!」
 牙をむいて唸るや否や、剣を手にしたまま動けぬ久暁の首元へと、黒い右手が襲いかる。
「お止めなさい! 今後一切、他人を傷つけることは許しません!」
 馬上のかぐやが一喝した瞬間、凶器にも等しい掌は再び制止した。まるで見えない糸で縛られているかのように、閻王がいくら力を込めようと、その手は獲物にまで届かない。
 忌々しげな歯軋はぎしりの音を間近に聞きながら、久暁は未だ剣を収めようとはしなかった。上体を支える腕に残りの力を込め、苦痛をこらえながら立ち上がる。変わり果てたその姿は、昨夜姿を消した時とは全くの別人と思えるほどに満身創痍だ。
 そんな息も絶え絶えな久暁を前にしても、蛍はすぐには動けなかった。この惨状以上に、それを引き起こすきっかけを生んだ言葉を彼女は信じきれず、思わず呆然と立ち竦んでいた。
「蛍さん、今の内です。早く久暁さんを!」
 かぐやの叱咤により、ようやく少女は我に返った。それでも動揺は鎮まらない。
 自分と義姉妹の契りを交わし、ただの平民と同様に周囲と接し、右大臣である八佗からの叱責に深く沈んでいた彼女――かぐやが『昇陽』の最高権力者だったなどと、にわかに信じられるはずがない。
「かぐや殿……いや、まさか、御身は真に今上帝……」
「理由は後で全てお話します。今は早く久暁さんを助けなければ。私が閻王を止めているうちに!」
 かぐやの必死な訴えに、蛍の逡巡は吹き飛んだ。かぐやの言う通り、今は暴かれた真実に目を白黒させている場合ではない。力強く頷き、蛍は久暁の元へと駆けだした。
「まだだ蛍! 来るな!」
 ところが、当の久暁が血を吐くような声で彼女を止めた。
 どういう意味かと尋ねようとした蛍だったが、その視線が久暁から手前にいる閻王へと移った途端、理由は明らかとなった。

 まるで背後にいる少女の視線に、自分が捉えられるのを待っていたかのようだった。かぐやの命令により制止しているはずの閻王の右手が、不意に動き出し雪上を掻いた。落ちていた自らの左腕を拾い上げたのだ。蛍とかぐやからは黒い背しか見えていなかったが、真正面から対峙している久暁の前で、閻王の口元はまたあの禍々しい弧を描いていた。
「そうか小娘、お前の存在を忘れていたぞ。八佗からの制約はすでに解除していたが、白巳女帝であるお前の分がまだだったな。ならばすぐにでもその鎖、断ち切ってくれる」
 振り向きもせず、閻王はかぐやに向かって言い放った。二人の娘には閻王が左腕を拾った所しか確認できなかったが、後ろ姿の動きだけでも、彼が何をしようとしているのかは察しがついた。
「いけない! その腕を放しなさい!」
 かぐやの言霊は一歩遅れた。閻王の手から左腕が滑り落ちる。しかしそれよりも先に、彼はその左腕の内部に残っていた自身の血を口に含んでいた。例え久暁が五体満足だったとしても、一連の動きを阻止できるほど素早くは動けなかっただろう。予期せぬ閻王の行動に、久暁は剣を構えたまま驚愕し、瞬きすることすら忘れていた。すでに閻王の喉は、捕食したものを嚥下している。
「ぐッ……!」
 口角から溢れた血が白髪混じりの髭を濡らし、白い大地に赤い斑点を描く。次の瞬間、閻王の全身が激しく震え、天を引き裂くような咆哮が上がった。
「ぁあああああ! がぁああああああああ!!」
 到底人のものとは思えない、獣以上に荒ぶる鬼そのものの叫び声だった。頭を振り乱しながら、巨躯は暴れるままに雪上に突っ伏した。黒頭巾を何度も地に打ちつけ、健在である右手と、掌を失った左腕とで、何もない白い雪をひたすら掻き乱す。
「え、閻王、貴方は一体……」
 荒れ狂う彼の行動に、蛍とかぐやは言い知れぬ恐怖を感じた。
 それは久暁とて同じこと。ただし、久暁の直感は恐怖以上に、かつてないほどの危険を閻王から感じ取っていた。目の前の男は間違いなく苦しんでいる。だがそれ以上に、この男は今の状況を愉しんでいるのだと。
 まだかろうじて右腕を動かすだけの力は残っている。のた打ち回る閻王に構わず、久暁は綺羅乃剣を振りかぶった。
 ――止めるならば今しかない!

 通常、綺羅乃剣は鉄忌や、起動式を扱う八佗や八尺瓊といった者以外は斬れない。閻王の左腕は鉄忌化していたため斬り落とせたが、完全に鉄忌化していない左上半身の結合部分にも効果があるかは謎だ。それでも、久暁はためらわずその部分めがけて剣を振り下ろした。彼の直感が、閻王の身体に巣食う凶器を完全に消せと告げたのだ。
 剣を彩る焔が、鮮やかな軌跡を描く。しかし、かぐやが制止の声を上げるよりも早く、硬い衝撃が久暁の手に伝わる。
 揺らめく鬼火を灯した刃は、赤黒い手甲を纏いし左手に止められた。
「残念、遅かったな」
 くぐもった低い声音がそう呟くなり、久暁の脳裏に電撃が走った。儚人≠ニしての生存本能と、砂螺人としての直観力、その双方が死の危険を彼に告げた。
「駄目! 止めて下さい閻王!」
 同じ危機をかぐやも予知し視たのか。だが、彼女の言葉はもはや力を失っていた。
 閻王が動きを封じられた際に散らばった咒符。鉄忌の血を凝り固め作られたその無数の凶器が、息を吹き返したかのように燐光を放つ。そして次の瞬間、鋭利な刃と化した紙片は、綺羅乃剣を受け止められ無防備となった久暁へと襲いかかった。
「久暁殿!」
 蛍が駆けつける間もない。群れた咒符が散開した途端、久暁の胸元から腹にかけてが、鮮やかな血潮の色に染められた。咒符が液状化した訳ではない。彼の浅黒い肌は縦横無尽に切り裂かれていた。まるで幾つもの鉤爪で掻きむしられたかのように。
 度重なる苦痛に耐えていた久暁とはいえ、これが限界か。もはや痛みに呻く声すら出なかった。顔を歪めたまま、傾いた長身は背中から雪上へと倒れこむ。
「おのれぇッ!」
 それを見るなり、蛍の頭がカッと熱くなった。思考が吹き飛び、ただ突き動かされるままに、小柄な身体は蹲る黒い影へと突進した。
 久暁を攻撃した咒符が、新たな獲物を切り刻もうと閻王の前を飛び交う。その赤黒い凶器を拳で打ち払い、蛍は閻王の背に狙いを定める。鉄忌の外殻をも破る力を込めた右手が、渾身の一振りとなって閻王を打つ――かと思えたその直前、
「邪魔だ」
 そう言い、振り返った巨躯を目にした途端、蛍の全身に震えが走った。その隙をつき、さらに重い拳が彼女の腹へと叩き込まれる。臓腑を抉るような衝撃を感じた時にはすでに、蛍の身体は後方へと吹き飛ばされていた。
「蛍さん!?」
蛍までもが攻撃を受け、かぐやの顔からますます血の気が引いた。当の蛍は地面を転がった末に腹を押さえて咳きこみ、胃の中の物を嘔吐している。内臓を痛めたのか、しゃ物には血が混じっていた。
「そんな……私の言葉が効かないなんて……」
自らの切り札が効力を失ったことに愕然とするかぐやへと、追い討ちをかけるように、黒衣の男から嘲笑が浴びせられる。
「お前の言霊には意志の強さが足りない。真の王の魂を持たぬ、形だけのまじないでこの閻王を御そうとは笑わせる」
 くぐもった声音に顔を上げたかぐやは、思わず小さな悲鳴を上げた。蛍が怯んだ理由を、彼女はようやく理解したのだ。
「何を……一体何をしたのです、貴方は!?」
 閻王の左腕は元の通り、鉤爪と化した鉄忌の手を備えていた。しかし、ただ左腕が再生した訳ではない。衣服の破れ目から覗いていた上半身、首筋、そして顔に至るまで、その左半身が全て鋼と変じているのはどんな悪夢か。
獣の瞳をしていた紅の左目からは、禍々しい赤光が放たれている。半身だけを見れば、彼の姿は鬼神をかたどった像そのものだった。皮膚が鋼に変じたというよりは、初めから鋼の身体に人の皮を被っていたかのようにも思えた。
「見ての通り、鉄忌化を進行させたまでだ。でなくばこの頭に仕掛けられた八佗の術を解除できないからな」
 声帯は無事だったらしいが、左半身が鉄忌化したことで閻王は幾分か話し辛そうだった。とは言え、彼から余裕は一切失われていない。かつて自分が命を救った娘に対して話しかける様子は、追い詰めた兎をどうなぶろうかと思案する獅子のようだ。

「お師匠様……いえ、八佗の起動式を解くなどと、そんな事が貴方に可能なのですか!?」
「鉄忌の血から武器を作る過程で、俺の腕は奴らに食われ鉄忌と化した。だがその恩恵で、俺は奴らの力の一部について知ることに成功したのだ。確かに、俺には八佗やあの女が扱うような術は仕掛けられない。それでも力の性質を看破しさえすれば、利用することは可能だ」
 鋼の外殻を持つ鉄忌が自在に動けるのは、体内にある生ける体液の働きによるものだ。そして久暁が『都』で浴びた物と違い、封印≠突破する前の鉄忌の体液は最も活性化した状態にある。
「俺の腕を食い、同化した奴らは自分達と同質の力に引き寄せられ、その力が弱ければ捕食する性質を持っている。あれほど八佗が鉄忌の血を浴びながら鉄忌化していないのは、ひとえに奴の力が鉄忌よりも強いからだ。もっとも、髪色が変わった様子から察するに、完全に捕食を防げてはいなかったようだが。でなくば、俺にかけた術が食われ、破壊されるはずがないからな」
 そして八佗の弱体化を悟った閻王は彼に気付かれないよう、製作を命じられた武器をより凶悪な形で造り上げたのだ。来るべき時が訪れた時、彼自身の野望を果たすただそれだけのために――
「何故、どうして八佗はそんな危険な物を貴方に作らせたのですか!?」
 震える声で問いかけるかぐやに対し、すでに相手にするのも飽いたのか、閻王は億劫な様子で答えた。
「そんなものは本人に聞け。俺はただこの武器を使って、鉄忌共を動かす力を生む根源的な何かを看破しろ、としか聞いていない」
「根源的な、何か……」
 理解不能な閻王の言葉に、かぐやは困惑した。だがそれもつかぬ間のこと。
「下らんことで悩むより自分の心配をしたらどうなのだ、『昇陽』の王」
 半分だけ生身の口元を歪ませ、閻王が前へと足を踏み出す。
「護衛の娘も倒れ、頼みの綱であった八佗の術も効かない。さあ、どうする? それでもこの俺を止めたいか? ならば十三年前の礼も含め、馬から下りてそこの雪上に一糸纏わず横になり、股でも開いてみろ。王としての尊厳とこの国を丸ごと引き渡すくらいの覚悟があるなら、考えてやらないでもないが」
 申し出を耳にするなり、青ざめていたかぐやの顔色に赤みが差した。恥辱からではなく、怒りによって。
 自分自身でも意識せず、反射的に手が懐に伸びる。取り出した閃鉄筒の先端を閻王に向けながら、かぐやは手の震えが鎮まるよう念じた。目の前の男に弱みを見せることが、心の底から許せなくなっていた。
「わ、私は今日まで、例え貴方にその気がなかったにせよ、貴方のことは命の恩人だと、思っていました。でも……それもこれまでです!」
「勝手に言っていろ。元より、貴様やこの国がどうなろうと俺には関係のないこと」
 かぐやに撃つ覚悟が足りないと見ているのか。自らが作ったもう一つの武器を突きつけられていながら、閻王の歩みは止まらない。いや、彼の注意はすでに別の物に向けられていた。

「さて、続きだ」
 そう呟くなり黒影が急に踵を返し、左手に赤黒い大刀を構える。背を向けられたにも関わらず、かぐやの指は依然震えたまま引き金を引けずにいた。
 振り向きざまに斬りかかってきた凶器。それを受け止めた鬼子の視線が、かぐやに踏み止まるよう無言で訴えかけていたのだ。
「久暁さん!?」
 鬼火を宿す綺羅乃剣と、蠢く赤黒い刃が交差する。ほんの数刻前まで、その武器は材料となった鉄忌と同じく、綺羅乃剣を受ければ容易く断ち切られていたはずだった。久暁を手こずらせた要因は、ひとえにその再生力と変幻自在の特性が脅威であったせいだが、閻王の鉄忌化が進行したことで凶器も力を得たのか。鉄忌を一刀で斬り捨てる神剣がいくら炎を燃え盛らせようと、その刀身は大刀の半ばまで斬りつけた所で食い止められていた。
 咒符の攻撃を受けた久暁の胸元には、痛々しい傷跡がいくつも走っている。しかしよく見ればいずれも浅く、出血も少ない。その理由を閻王はすでに察していた。正面から無防備な状態で切りつけられたとはいえ、あの大仰な倒れ方はおかしい。おそらくは寸での所でわざと後方に退き、傷が深くなるのを防いだのだろう。
「そんな身体になってまで、お前は何を望んでいるんだ、閻王!」
 剣を支える右手に、残る全ての力を込めながら久暁は叫んだ。紋様に彩られた顔は、今また裂帛れっぱくの気合に満ちている。まるで燃え尽きる直前の炎のように――消えかけていた火種が再び息を吹き返したことに、閻王は狂喜した。
「その言葉、そのまま貴様に返そう。その体たらくで何ができる? 今にも死にかけている貴様が、ただ世界を観測≠キるためだけに存在している標持ち≠ェ!」
 吐き捨てるように吼えるなり、閻王は空いた久暁の左肩めがけて自身の肩をぶつけた。交差していた刃が離れ、突き飛ばされた久暁がたたらを踏む。その隙にと大刀を握りなおした閻王だったが、唐突に身体が左へ傾き、追撃はままならなかった。即座に体勢を立て直した久暁を一瞥し、小さく舌打ちする。急激な鉄忌化のせいで、変化したばかりの肉体と感覚にズレが生じているのだ。
 閻王の不審な動きの理由を、久暁は即座に見抜いた。間髪入れず、演武を舞うように綺羅乃剣が虚空を切り裂く。刀身の軌道をなぞるようにして描かれた焔の光は、閃光の刃となって閻王めがけて飛来する。
 ――あの時、左腕を斬り落としたのはコイツか。
 砂螺人の肉眼でも捉えがたい速度で迫る攻撃を前にして、閻王の武器は大刀から咒符へと変化した。壁のように並べた咒符が光刃に断たれ、相打ちとなりながら霧散する。その間にも、群れから離れた一部の咒符が、またもや久暁へと襲いかかる。
 何度も目にした攻撃。当然、これは久暁にも読めていた。脇から飛来した咒符を一瞥もせずに斬り捨てる。最も強力な集合体である大刀と違い、力を分散された咒符の一枚一枚は簡単に始末できた。
 けれども、体力的な面では閻王の言う通り、久暁に勝ち目はない。左腕を斬った光刃ですら、二度とは通用しないだろう。しかも今の閻王は、左腕一本を失くしたからといって鎮まりはしまい。
 ならば、残された手段はただ一つ。

 数十歩ほどの距離をあけ、二人の動きが止まる。綺羅乃剣に自らの一部を殺されたことで、閻王の大刀は動きを鈍くした。生ける武器は、天敵が息を吹き返したと感じ取ったらしい。切っ先を獲物に向けながら、閻王は意のままにならない魔剣を忌々しげに睨んだ。
「久暁さん! もうこれ以上、閻王と正面から戦うのは止めて下さい! 今は退くべきです!」
 おもむろに叫んだのは、久暁が作った隙をつき、蛍の元へと駆けつけていたかぐやだった。蛍の受けた傷は決して軽くはなかったが、すでに顔色には生気が戻っている。
 しかし、彼女の覇気は閻王の一撃を受け、その膂力を確かめたことで慄いていた。目の前で繰り広げられる戦いに対して、蛍は己の無力さを痛感するばかりだった。かぐやは退くべきと説いているが、今の閻王から逃れる術などあるのだろうか。
「……久暁殿」
 泥で汚れた赤い髪を見つめ、蛍はその背に呼びかけた。これほどの死の淵に立たされていながら、久暁には逃走しようとする様子が微塵もない。あの夢で――いや、もっとそれ以前の、八尺瓊の屋敷で見たものと同じく、危機を回避する本能に抗おうとするかのように、彼の意志はあえて死地を選んでいる。
「どうしてだ……久暁殿。貴殿には『都』へ帰り、確かめねばならないことがあるのだろう。なのにどうして、こんな痴れ者相手に命を賭そうとするのだ!?」

 他でもない、久暁自身がその理由を知りたがっているのだ。答えられるはずがない。
 ただ、己の直感力が告げている――「あらがえ」と。むしろそれは直感などではなく、さらに上位の、魂の声とでもいうべきものであるのかもしれない。
 ならば、抗ったとしてそれが何になるのだろう。真実が得られないかもしれないという恐れを抱きながら、何故自分は綺羅乃剣を振るうのか。

 ――全てを知るまで、俺はこれ以上お前に囚われる訳にも、お前にアイツらを奪われる訳にもいかない。
 あの山中で久暁はそう宣言した。だからこそ閻王に刃を向けた。
 けれども、謎を明かすことが第一ならば、余計に自分は死と直面すべきではないはずだ。どれだけ惨めで無様でも、這いつくばってでも生き延びるために逃げることを優先しなければならない。なのに、久暁は抗う道を選んだ。矛盾だと分かっていながら、この身体も意志も退こうとはしない。肉体的な本能を支配するのが儚人≠ニしての性質であり、直感力が己の魂から生じたものであるとすれば、この危機を回避する術がまだ残っているとでもいうのか。
 到底そうとは思えない。例え閻王に一矢報えたとしても、自分の命はここで尽きるだろう。そこまで覚悟していながら、何故逃げない? 何を求めて、自分は閻王と戦っているのかが分からない。


 ――ここで戦った所で、何も得られはしまい。
 ――では、代わりに何が残る?


「そうか、そうだったのか……」
 その考えに辿り着いた途端、久暁の胸中を騒がしていた霧は跡形もなく掻き消えた。野狂洞を抜け出た時に見た光景のごとく鮮明に、全ての物が紅の瞳に焼きつく。体中の痛みという痛みが消えたかのような錯覚まで生じ、決死の気迫に彩られていた表情から敵意が失せた。
「何だ……?」
 互いの隙を見計らっていながら、急に殺気を消した久暁の変化を、閻王は当然見抜いた。見抜いたものの、その理由が読めない。綺羅乃剣を収める様子はないというのに、こちらを見つめる自分と同じ双眸は、失せた敵意の代わりに憐憫にも似た感情をこちらに向けている。それが閻王をひどく不愉快にさせたのは言うまでもない。
「どういうつもりだ、その目は。貴様、最後の最後で俺をまた失望させる気か」
「閻王、お前が俺に刃を向けるのは雪女≠呼び寄せたいから、ただそれだけの理由なのか?」
 挑発に応えることなく、おもむろに久暁はそんなことを尋ねてきた。この期に及んで言葉で語り合おうとする愚かしさを、閻王は鼻で笑う。
「でなくば貴様のような標持ち∴齔lを嬲るのに、この武器を持ち出したりなぞするか。貴様がヤツの目当てでなければ、さっさと両手両足をもぎ取って野垂れ死にさせてやるものを。下らん時間を使わせた報いは存分に味あわせてやるぞ、標持ち=v
「そんな身体になってまで彼女の首を欲しがる――それは本当にお前自身の欲望の為なのか?」
 再度の挑発にも、久暁は応える代わりに語りかけてきた。
 ――まさかコイツ、わざと俺を煽っているのか?
 ますます苛立つ自身の感情を抑えながら、閻王は訝しんだ。互いに必殺の一撃を狙う者同士、間にあいたこの距離ならば、おそらく先に動いた方が不利となろう。しかし、閻王の観察眼で見る限り、久暁が策を弄しているようには思えない。問いかけはあくまで、彼の自己満足の為であろう。
「あの女でなければこの渇きを潤せはしない。標持ち≠ナある貴様には到底分かるまい」
 戯言と分かっていながら、閻王は親切に答えてやった。もっとも、返す言葉には充分すぎるほどの毒を含ませてある。

「違う、ようやく分かったんだ。俺が本当に為すべきこと、そしてお前の望みも」
 侮蔑を受けたにも関わらず、急に醒めた久暁の態度に揺るぎはなかった。攻撃の機を伺っていた綺羅乃剣が、前方の敵に向かい構えなおされる。最後の力を残す右手に握られた剣は、閻王の持つ大刀でも鉄忌と化した腕でもなく、急所である左胸を狙う。
「ほざけ」
 何かを悟ったかのような久暁の言葉を跳ねつけ、閻王もまた、鉄忌化した自らの身体と、手にした生ける凶器に意識を集中する。変化した身体に馴染むための時間は充分にあった。もう二度とつけいる隙は与えまい。
 ただ、気がかりなのは久暁の構えだ。あれほど明確に急所を狙う構えを見せるとは、やはり何か策を講じているのだろうか。二人を止める術もなく、固唾を飲んで見守ることしかできないでいるかぐやと蛍にも、久暁の意図はまるで読めなかった。
 だが、もとより閻王にはそんな策があろうとなかろうと関係ない。

 まだわずかばかり残っていた薄靄が去り、空を覆っていた雪雲の切れ間から光の帯が射しこむ。
 眩いほどの光が雪に照り返され、我が目を射る前にと思ったのか。先に地を蹴ったのは久暁だった。
 迎えうつ閻王の口元が、半分だけ邪な弧を描く。右目は太陽に邪魔されようと、鉄忌化した左目に目くらましの光は効かない。その目に映る光景は、ただ動く物の姿がおぼろげに見えるだけ。それでも戦えるのは、閻王の直感力が不完全な視力を補い、残る感覚が捉えた気配より相手の行動を予測しているからだ。

 それゆえに、剣戟が交わろうとする直前で、久暁の手が力を失っていたことに閻王は気付けなかった。
 心臓を狙っていたかと思えた刃は、迫り来る黒影を前にして、宙に溶けるように消えた。
 握り締めていた指が解かれ、銀筒の柄が雪上に涼しい音を立てる。
 その冷ややかな響きが閻王の足を止めると同時に、久暁の左胸へと血塗れの刃は突き立てられた。





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