<白き闇>



 囚われていた洞穴から逃走して、どのくらい経ったのか。たちこめる霧に覆い隠され、空は一時的に時の色を失っていた。手がかりとなる太陽など見えるはずもないが、濃霧の白さに未だ翳りないということは、まだ夕闇が訪れる刻限ではないらしい。
 湿った太い赤松の幹に背中を預け、久暁は着物の左袖を引き千切った。それをさらに二つに裂くと、切り傷と凍傷により、焼かれるような痛みを伴う両の裸足に巻きつける。
 逃走中、あの武器に足をとられ、半長靴を捨てざるをえない羽目になったのは失敗だった。湿った地面に積み重なる笹の枯葉の下に、生きた咒符が潜んでいるとは、さすがの久暁にも読みきれなかったのだ。閻王の持つ血塗れの大刀から分離した咒符は、久暁の両足を捉えるなり粘着質な液状へと変じ、その動きを止めた。綺羅乃剣で斬りつけると、咒符はたちどころに形を失い、蒸発したかのように消えうせたが、半長靴にへばりついた物はすでに素材を取り込んでいたらしく、底もろとも滅してしまった。当然の事ながら、こうなると予測し、閻王が仕組んだのである。このままでは最悪の場合、足の指の二三本は失いかねない。
 その上、久暁の体力は寒さと無数の傷により、さらに低下している。足の手当てをするだけでも身体を重く感じ、節々が軋むような痛みに襲われる。自身が弱っているという何よりの証拠だった。体温の低下と共に現れる儚人≠フ証も、これまでにないほど鮮明に、刺青のごとく体中に浮かび上がっていた。

 それでも久暁が麓を目指して逃走を続けていたのには理由がある。先程のような竹林の中では、全てを斬り刻める閻王の武器と違い、異形の物しか斬れない久暁は圧倒的に不利だった。しかも竹の根は浅いため、柔らかい土壌に足をとられ易い。地の利は完全に、この山中を棲家にしている閻王にあった。
 麓の開けた場所ならば、日当たりの良い場所に群生する黒松や赤松や小楢といった陽樹が主となり、樹木の数も、竹林と比較すれば格段に少ないので障害が減る。さらに、陽樹が生えているであろう場所はこの山の麓の南側――すなわち『央都』跡地に面している方だ。その近辺まで来れば身を隠すものはろくに無くなるだろうが、その代わり閻王と久暁、二人の地の利は対等となる。そうなれば勝敗の行方は、この霧がいつ晴れるかにかかってくる。
 追跡する閻王の足取りが鈍った様子からして、視界が利かないのは向こうも同じらしい。かと言って、迂闊に近づけばたちまち正確な位置を感づかれてしまう。近寄らずにあの左腕を切り落とすには、かつて九十九丸を両断したように、綺羅乃剣の光刃を放つしかない。
 閻王は綺羅乃剣の性能について、その多くを知ってはいないようだった。これはあくまで奥の手。失敗すれば、二度目以降は容易く避けられてしまうだろう。
 機会は一度きり――しかも、そのために剣を振るうのは、この霧がたちこめる内でなければいけない。

「お前は感覚に頼りすぎなんだよ。確かに人並み以上に優れた直感だが、所詮は五感から得た情報を、経験を元に繋ぎ合わせて判断したものだ。それだけならば昇陽人と大して変わらない。違いと言えば、その感覚が昇陽人よりはるかに鋭いってことくらいだ。だから俺がお前みたいな砂螺人を討つならば、まずは五感のいずれかを封じるな」

 名を変えて『彩牡丹』から『火燐楼』へとやってきた男がかつて、そんな忠告をしたことがあった。燥一郎の件を数に含まなければ――久暁はこれまでに人を斬ったことがない。一方、忠告をしたその男は、すでに幾人もあの世に送っている。
 あれが親切心から出た忠告ではなかったとしても、彼は確かに事実を述べていた。視界を閉ざす霧の世界がそれを証明している。閻王だけでなく久暁の視覚も封じられたが、常夜で生まれ育ち、鉄燈籠の光を避けていた久暁にとって不可視≠ヘさほど問題にならない。その利点だけが、久暁が閻王に対抗しうる唯一の武器だった。
 しかしこれは危険な賭けである。久暁よりもはるかに研ぎ澄まされた直感力を有す閻王が、霧中でも感覚を乱すことなければ――もはや久暁に打つ手はなくなる。それに攻撃の要である左腕を断ったとして、閻王が完全に無力化するという保障もないのだ。
 『都』に戻る方法を探るためにも、今は生き延びることを最優先に考えるべきなのかもしれない。それでもここで彼を止めなければ、災いは遠くない未来に『都』へと牙を突きたてるだろう。そして自分から全てを奪い取り、失意と絶望の底へと叩き落すつもりだ。
 久暁にとって『都』とそこに住む者達は、厭いながらも愛した世界≠ナあり、枳と燥一郎はその世界≠フ中心だった。もう二度と手に入らない夢だというのに、久暁の胸中には未だ、彼らへの未練が残り続けている。
 思えば不思議なものである。真実次第では、彼らか『昇陽』の民か、そのいずれかと敵対することになるだろう。仮に悪意が無かったとしても、自分を欺いた彼らを何のわだかまりもなく許せはしまい。そうと知りながら、久暁は未だ、あの二人の事を想っている。今や己の命は風前の灯だというのにも関わらず、逃走よりも脅威を食い止めようともがく自分自身に呆れかえる。
 真実を知りたい、という理由だけでは説明のしようもない衝動に久暁は突き動かされていた。自分は何故、勝ち目がないと知りながら閻王と相対しているのか。その答の先にある感情に納得できないでいるのだ。恨み、疑惑、愛情の全てが渾然一体となって自分を突き動かす今もなお。

 己が為すべき事は何か。
 『都』へと帰る方法を探る事。脅威となる閻王を止める事。儚人≠ニ茫蕭の禍≠ノまつわる全ての謎を明らかにする事。
 その全てに久暁は是と答えるが、なぜか己の直感は否と囁きかけている。それらは最たる望みへ至るまでの過程にすぎない、と。では命を賭してまで求める望みとは何であるのか。

 堂々巡りの疑問に囚われている暇はないと、傷む喉で大きく冷気を吸う。もっと平地へ近付かなくては――そう思えど、一歩踏み出した途端に久暁の膝は折れ、身体が前のめりに倒れた。意思とは裏腹に、限界を告げる肉体が足枷となる。土混じりの雪を掻く手に、これほど力が入らないとは。
 思えば一昨夜に閻王に捕らえられて以来、ずっと極限状態の只中にあるのだ。子供時代に飢えを経験した事もあるとはいえ、死に追われ続け、それでもなお生き続けようとするのがこれほど辛いと思った事はない。だが、『都』にいた頃に味わったあの生き地獄――勝手に全てを拒み、孤立し、自分自身の為だけに存在価値を求めていたあの日々と、この苦しみは何ら変わらない。ならば余計に、今度こそ逃避する訳にはいかないのだ。
 久暁の闘志に応えるかのように、右手にした綺羅乃剣は、雪上にあっても鬼火を絶やさずに揺らめいている。銀色の刀身に映る我が身のなんと満身創痍なことか。霧に覆われた視界でも、血と泥にまみれた顔だけはいやにハッキリと見て取れる。今の久暁にはせいぜい、そんな自分の弱さを睨みつける事しかできない。それがたまらなく悔しい。

 しかし、その睨み合いも長くは続かなかった。刀身に映る自分以外の誰か――それこそ霧とは明らかに違う白い影の存在に気付き、久暁は我に返った。
 一体いつの間に現れたというのか。何の気配もさせぬまま、一人の女が倒れこむ久暁のすぐ傍らに立っていたのだ。小さな鈴の輪をはめた白い素足。豊かな胸元もあらわに肌蹴られた白い着物。蜘蛛の糸のごとく軽やかに、かつ纏わりつくような白い髪。そして微笑の上にて素顔を覆い隠す、妖しの狐面。
 直接合間見えたあの夜に感じたものと同じ寒気が、久暁の背筋を撫でた。すでに充分すぎるほど、痛みにも等しい寒さを味わっているというのに、恐怖心はそれをも凌駕して臓腑を凍りつかせようとする。何故、今、彼女がこの場に現れたのか。最悪≠フ姿を見たその刹那で、久暁の意識は彼女の存在感に囚われた。極限状態にある肉体の痛みと、刃の上で踊る鬼火に意識を乱されなければ、また前回のように魂を抜かれたかのように見とれていただろう。
 危機を告げる勘が警鐘となり、力尽きかけていた肉体に再び火をともす。女は久暁の間合いの内にいる。このまま上半身を勢いよく反転させれば、剣で女の腰元を薙ぐこともできたかもしれないが、そうとはせず、逆に久暁は剣の焔を小さくした。
 息を殺し、力尽きかけているように見せかける。鉄忌を連れてはいないが、今の久暁では彼女の動きを読みきれない。残りわずかな体力を考えれば、今は下手に動く方が危険だった。
 久暁が自分に気付いているとは知らないのか。雪女≠ヘ綺羅乃剣に冷ややかな視線を投げかけたものの、それには指一本触れようとしなかった。白糸のような髪が雪上に触れるのも構わず、音もなく久暁の頭の傍へとしゃがみ込む。
「もう限界なのかしら?」
 鈴の音に似て、心地よく響くも冷ややかな声が耳朶を打つ。初めて聞くはずである女の声に、久暁の胸の内がカッと熱くなる。相手は別人だ、間違いない。にも関わらず、その女の声音はよく知る誰かの声と重なって聞こえた。
「見殺しにはしないわ。用が済むまで貴方に死なれては困るもの。でも、今はもうしばらく放っておいても死にそうにないから、まだ手を出す気にはならないの」
 独り言にしては明確な敵意のこもった言葉。自分が意識を失っていないと、彼女は気付いているのだ。そうと分かった途端、剣の炎がわずかに勢いを取り戻す。だが雪女≠ヘそれにも動じない。
「一度は先に貴方の指標情報をいただこうかとも考えたけれど、余計な邪魔が入って二週間も機会を伺うはめになってしまった。それがかえって役に立つとは皮肉なものね。あの右大臣と砂螺人のおかげで、貴方の命は燥に対する良い人質となったわ。弱った左大臣の陰に隠れる彼女を引きずり出すのも、もはや時間の問題――本当はね、私は一刻も早く貴方を手に入れなければならないのよ。なのにどうして、死にかけている貴方を助けようとしないのか、お分かり?」
 問いかけながらも、息を殺している久暁から答が返ってくることはないと女は知っている。久暁を困惑させる様は、まるで嬲ることを目的にしているかのようだ。その証拠に、彼女の口元に浮かぶ微笑は、相手を嘲るかのようにひどく冷ややかなものだった。
「それはね、貴方が――」
 言いかけた雪女′元から笑みが消えた。耳元で囁いていた上体を起き上がらせると、霧の彼方へと視線を向ける。横になっている久暁には、彼女が睨む先に何があるのか確認できない。綺羅乃剣の刃にもその答は映っていなかったが、地につけた耳からは確かに、近付きつつある重い足音が聞こえていた。

「憎くて憎くてたまらないから、だろう?」
 霧中に現れた黒い影法師。それが全貌を明らかにするよりも先に、低く唸るような声音が女の言葉を継いだ。
 薄く積もる雪を踏みにじる足音は緩慢で、しかしどんな獣よりも隙のない動きを伝えている。紛れて聞こえてくるのは、水の滴る音。だが決して、その正体が雪解けの雫の音などでない事を久暁は知っている。
「待ちわびたぞ、女」
 霧に阻まれようとも、鬼の目は白い女の姿を鮮明に捉えていたのか。倒れ伏す久暁を見つけていながら、現れた閻王は彼に何の反応も示さなかった。まるで路傍の小石も同然に、一瞥を投げかけただけ。久暁以上に執着の対象としている雪女≠ェ現れたことで、閻王の刃の矛先は今や完全に彼女の方へと向いているようであった。
 自分から雪女≠ヨと標的が変わったからといって、これが久暁にとって最悪な状況であることに変わりはない。加えて、雪女≠フ出現を見計らったかのような登場――それは即ち、彼が霧に乗じて、久暁のすぐ間近に潜伏していたという事実に繋がる。あれだけ接近を警戒していたのにも関わらず、閻王は全く自分の存在を気取らせなかったのだ。手負いの獣を、すぐにでも捻られる絶対的な優位にあるというのに。
 そう思い至った時、久暁の脳裏を一つの予感がよぎった。おそらくは昨夜雪女≠ニ接触をしたあの時から、閻王は久暁を囮として使うつもりだったのではないか、と。捕らえたのは八佗の指示があった為だと思われるが、彼の命令を無視して久暁に危害を与え続けた事からして、全てが彼女をおびき寄せる為の行動であったとは充分に考えられる。
 利用されたという苦い感情よりも、そんな閻王の不可解な執着に対する疑問の方が、強く久暁の胸中を占める。八佗を脅かすほどの武器を持ち出し、自分を瀕死にまで追いやった以上、閻王がここで雪女≠仕留める気でいるのは間違いない。しかし、壊す℃魔奪う℃魔ニ同義として捉える閻王が、彼女を殺してまで何を得たがっているのかが分からないのだ。

 一方、雪女≠ヘ突然の乱入者に気分を害したのか、久暁に語りかけた際とはうって変わって、苛立ちのこもった非難を投げつける。
「野暮ね。男女の逢瀬を邪魔するなんて」
「ならば問題ない。そいつは標持ち≠セ。男ではない」
「今の肉体だけならばね。初期の胎児であったころは、性染色体に定められた通りに発育するはずだったんですもの。儚人≠ニして発現することが決定した後で、本来構築されるはずだった遺伝情報が空白部分に封じられ、肉体が無性体に作り変えられただけの事。身体の作りが違うだけで、染色体により決定された性は雄のままよ。不完全ながら性徴が現れたのもそのため。もっとも、これは周囲の環境に適応させ、生存率を上げるために儚人≠ノ備えられた特性とも考えられるけれど。まるで擬態ね」
 雪女≠フ語る言葉は全て、何かのまじないのように意味の分からぬものだった。もっとも、その疑問を解く気などさらさらない閻王にとっては、どうでも良い内容であったらしい。
「貴様ら木偶でく共は揃いも揃って、下らん御託が好きなようだ。俺が欲しいのはそんな物ではない」
 久暁の視界の及ばぬところで、閻王が血濡れの大刀を掲げる。鉄忌化した左腕が、動くたびに鈍い金属音を奏でた。
「貴様を殺すためにあつらえた特別な武器だ。さあ、興じてみせろ!」
 歓喜に満ちた咆哮と共に、液状化した刃が鎖へと変化し、女の狐面へと襲いかかる。
 膨れ上がった殺気を感じ、反射的に久暁が身を捩らせた直後――仰ぎ見た雪女≠フ顔から何かが弾かれるように飛んでいった。宙を舞うそれが狐面と、白妙の長髪だと悟った時にはすでに、久暁の周囲を漂う霧が雪女≠ニ閻王、双方の姿を再び覆い隠していた。





 八佗の屋敷を抜け出し、『癒城』の関門を越えてからおよそ一刻は経ったかという頃。『央都』跡地を迂回しながら大井山を目指す蛍とかぐやは、ここに至ってようやく急かせる馬を休憩させた。『癒城』周辺の積雪は、午前中日に照らされたことでほぼ溶けかけていたが、大井山に向かうにつれ標高が高くなりつつあるのか、もしくは曇天となったことで気温が上がらなくなった為か、駆ける馬を雪が足止めするようになってきたのだ。
「参ったな。まだ半分の道のりしか進んでいないというのに、この雪道では……」
 道外れの木陰に馬を繋ぎ、その鬣を撫でながら蛍は悔しげに呟いた。未だ遠くにある件の山を睨みつけるが、霧に隠れたそれはおぼろげな影にしか見えない。二人のいる場所はやや小高い丘になっており、木々が茂る坂道を下ればそのまま『央都』跡地の雪原へと出ることができる。直接その平原を横切ることができれば早く目的地に辿り着けるのだが、鉄忌と遭遇する危険度を考えればその選択は避けざるを得なかった。
「せめて日が射していれば楽に進めるんですけど……こちらにまで霧が広がってきていますし、この様子だとまた雪が降りだすのかもしれません」
 かじかむ手を擦りながら、かぐやもまた天を仰ぎ溜息をつく。彼女の言う通り、すでに昼下がりだというのに現れた雪雲は厚く、外套ごしでも辺りの空気はさらに冷ややかなものに感じられた。その寒さが呼び寄せているのか、蛍達がいる場所までが薄靄に包まれようとしているのだ。出立時に見かけた真昼の月はおろか、太陽の位置さえ分からない空は、それだけで心もとない気分にさせられるというのに。
 加えて、二人が乗ってきた馬は元々、ともえとなずなから拝借してきたものだ。いずれも上等な駿馬なのだが、それ以上の名馬を扱う卯乃花正隆と二藍皐弥ら一行ですら、大井山に辿り着くには二刻を要するという。これ以上天候が悪化すれば、残り半分の道のりを彼らと同じように進むのは難しいだろう。蛍達が焦るのも無理からぬことであった。
「こうしている間にも、久暁殿は……!」
「お気持ちは私も同じです、蛍さん。でも、もう少し休んでからでないと、いざという時にこの子達が持たないかもしれません」
 そう言ってかぐやは、雪の間から生えるわずかな草を食む馬の首をやさしく撫でた。うまく久暁を見つけられたとしても、万一閻王はおろか、鉄忌と遭遇すればそれこそ死に物狂いの逃走をする羽目になる。彼女はその事を懸念しているのだろう。
「辛いとは思いますが、今は耐えてください」
「承知しております、かぐや殿。焦ったところで、どうにもならぬ事ぐらい……」
 口ではそう言っても、歯噛みするような想いは中々鎮まってくれない。むしろ時が経つごとに強くなる不安に苛まれる。

「そういえば、かぐや殿。名馬を用いても二刻はかかるこの道のりを、閻王は自らの足で渡り歩いていたのであろうか? 隠れ生きる為とはいえ、大井山から『癒城』までは人家を襲うにしても距離がありすぎるのでは……?」
「閻王が『癒城』のような大きな街を襲うことは滅多になかったようです。大井山の近隣にも、わずかですが人里がありますし。それに、確か――」
 言いながら、かぐやは何かを思い出すように小首を傾げる。やがて思い出したのか、手袋をはめた両手がポンと打ち鳴らされた。
「そうそう、確か閻王が棲家としている野狂洞にはいくつもの出口があるんです。元はと言えば、あの洞窟は数百年前に奉家が鉱石を採掘するために掘らせた穴で、もう五十年以上も前に棄てられていた場所になるんですが、当時は大井山から『癒城』に近い真蔓山に至るまでの山々の中に、いくつもの坑道が作られたそうなんです。だから、その各所を拠点にしていれば神出鬼没で人里を襲えますし、追っ手の目から隠れるのも容易かったのでしょう」
「なるほど、まさに鬼の道という訳なのですか」
 納得したように相槌を打つ蛍だったが、その曇り顔は晴れるどころか、さらに険しさを強める。
「という事は……かぐや殿、もしやその野狂洞の坑道の中に、大井山の麓付近に出る道があるか御存知ではないか?」
 蛍が夢で見たあの光景が現実の出来事ならば、久暁と彼を追う閻王は大井山を徐々に下山し、麓へ向かっているという事になる。いや、あれから一刻も経過している事を考えれば、すでに久暁は閻王に捕らえられているのかもしれない。これから『央都』跡地を迂回し、山肌に沿うようにして大井山へと続く道を行くよりも、山々を貫く地中の道を通った方が、現場に早く到達できるのではないだろうかと彼女は考えたのだ。
「え? そ、そうですね、確かあったと思います。と言っても、私が知っているのは奉家の文献に記されている分だけになりますし、今も記録通りの道かどうかまでは」
 それに――と、かぐやは不安げな声で続けて述べた。
「あの坑道は閻王が捕らえられてから、大井山の出口一つを残して後は全てお師匠様によって塞がれたはずです。閻王も最低限の食糧確保を約束されてからは、人家を襲うといったことはしていないようですし。第一に、他の出口を塞がれた今となっては、彼ですら息をするのが難しくなる坑道の奥深くには足を踏み入れられないはずです。閻王は砂螺人なので、まだあそこを根城にできたようなものですけれど、仮に入れたとしても私達にはとても利用できるとは思えません」
「そうであったか……」
 かぐやの説得に、蛍は落胆するしかなかった。靄に隠された山は、正確な距離よりもはるか彼方にあるように見える。急ごうとする気に追い立てられ、心が落ち着かない。

「すまぬ、かぐや殿。馬鹿なことを申してしまった」
「そんなことありません。ひょっとしたら、他に良い近道を思いつくかもしれませんし」
 そう言うなり、かぐやは馬の鞍に括り付けてある袋から一切れの地図を取り出した。
「ここが目的の大井山、そして私達が今いる場所がここです。蛍さんが仰られたように、山中の地下をまっすぐ進むことができれば一番近いのですが、それは無理なので……この先の分かれ道を森に入ったら……」
 と、独り言を呟きながら思案していたかぐやが、不意にハッとしたように地図から顔を上げた。
「どうなされた、かぐや殿?」
「おかしいです、この道……お師匠様達が大井山に向かったならば、間違いなくこの道を通っていなければいけないのに、私達以外の足跡が一つも見当たらないんです。お師匠様達が通ってから二刻も経っているにしたって、今日はまだ雪は降っていないはずですし」
 言われてようやく、蛍もその異様さに気づいた。彼女達が『癒城』を出てしばらくの内は、間違いなく武士十家のものと思われる無数の足跡が続いていたというのに、今目の前にある山道には獣の足跡一つない。溶けかけの真っ白な雪が道を覆っていたのだ。寒さと焦りから、いつの間にか討伐隊の足跡が消えていたことに気づけていなかったらしい。
「では、八佗殿や武士十家の者達は皆、この道を通らなかったと……?」
「お師匠様が一緒にいるから、『央都』跡地を直接渡っていったのかもしれません」
「しかし、ならば麓までは二刻もかからぬはずでは? それに『昇陽』全土を監視しているという八佗殿の分身が、あの屋敷から出て一刻も経っているというのに、未だに我らの前に姿を現さないというのも何かおかしくはなかろうか?」
「……まさか、お師匠様は私達と最後に屋敷で会った時も、まだ何かを隠していたと?」
 鬼が棲む山を隠す霧。そこにいるはずの武士十家達、そして八佗の身に何が起こったのか。もしや自分達より先に八佗が閻王を捕らえ、久暁を救出しているかもという期待もあったが、これほど時間が経過していながら八佗が現れないということは、未だ問題は解決していないとみるべきだろう。それより何より、かぐやが述べていた八佗らしからぬ行動≠ニいうものが、二人の不安をさらに煽る。
「かぐや殿、これは最早、躊躇してはいられぬ事態なのかもしれぬ」
 蛍の固い声に、かぐやもまた頷く。
 二人の腹は決まった。危険は承知だが、どんな手を使ってでも、即刻大井山の麓に向かわなければならない。
 二人は休ませていた馬の手綱を引くと、緩やかな坂を慎重に降り、雪原の端に立った。
 そのまま馬に乗り、目前の大井山へと直線的に駆ける。未だ溶けやらぬ雪に隠された地を、鉄忌の出現率がもっとも高い『央都』跡地を、少女達はまっすぐ突っ切ることにしたのだ。
 幸いなことに、跡地に積もった雪はよく太陽に照らされたのか、馬の蹄が埋まるほどの深さしかなかった。このままでいけば、半刻と経たない内に大井山へと辿り着けるだろう。

 近付くにつれ姿が明瞭になるはず山は、色濃くなる一方の霧により、逆にますます遠ざかっていくようにも思えた。
 ――だが間違いない、この先には必ず彼がいる。
 そんな強い確信が、蛍の心を駆り立てていた。だが、心が騒ぐのは果たしてそのせいだけだろうか。
 霧の中に、得体の知れない気配が潜んでいる。
 いや、それは蛍には覚えのある気配だった。夢の中で遭遇した、死を凝縮したようなあの凶器。
 その形を思い出した瞬間、頭の芯が痺れ、ただでさえ白い視界がさらに白く見えた。

 ――この気配は鉄忌と同じだ。
 ――そうだ、不特定因子なのだ。
 ――ならば観測を。しかる後に破棄を。

「……さん、蛍さん!」
 馬の背で感じる向かい風とは違う、横薙ぎの冷たい突風に耳を打たれた瞬間、蛍の頭の痺れは吹き飛んだ。呼ぶ声に驚いて横をみれば、かぐやが切羽詰ったような表情でこちらを見ていた。
「……かぐや殿?」
 自分は先程、何を考えていたのだろう――そんな疑問を反芻する間もなく、かぐやが前方を指さし叫んだ。
「見てください、あれ!」

 反射的に前へと向き直った蛍の目に映ったものとは。
 先の突風に流され去っていく霧か、それによりようやく輪郭を見せた大井山か。
 それとも、わずか数百歩先にて大井山を背に佇む黒い影と、傍らに倒れ伏す赤茶けた髪の主なのか。
「あれは、まさか……!」
「久暁殿!?」





 霧がわずかに晴れ、鎖から大刀へと戻った血色の凶器を雪上に突き立てた時には、雪女≠フ姿はもうどこにも見当たらなかった。
「何のつもりか知らんが、気に食わんな」
 足元に落ちていた狐面を拾い上げながら、閻王が不快げに呟いた。面は雪女≠フ白い髪と一つになっている。ということは、あの妖しの姿は仮初のものだとでもいうのか――閻王がそんな疑問を抱いたかどうかは定かではないが、次の瞬間には鉄忌化した左腕が、白木で作られた面を粉々に砕く。
 先程まで山中にいたというのに、今彼らがいるのは紛れもなく『央都』跡地に広がる平原だった。大井山の麓まではそう離れていない場所のようだが、無論一瞬で移動できるような距離ではない。にも関わらず、閻王はこの現象に何の疑問も抱いてはいないようだった。
「これからという時に飛ばすとは、よほど焦らすのが好きな女とみえる。まぁ良い、ならばすぐ戻りたくなるようにしてやるまでだ」
 引き抜いた大刀の切っ先で雪を斬り裂きながら、閻王は横たわる久暁の元へと歩み寄った。もはや久暁に力は残されていないのか。微かに剣を握る手が動いたかと思ったが、それが翻ることはなく、代わりに鉄塊のような片足が背中へと振り下ろされた。
「ぐッ……!」
 背骨を折らんばかりに込められた力。重みと痛みから飛びそうになる意識を、綺羅乃剣を握ることでかろうじて繋ぎとめる。そんな久暁の足掻く様を、閻王は薄ら笑いを浮かべながら見下ろしていた。
「残念ながら霧にはもう期待できんようだな。鬼ごっこは楽しんだか? このままうち捨てて野たれ死なせても構わないのだが、もう少しだけ役に立ってみせろ」
 足を離すついでに再度踏みつけ、閻王は右手で久暁の髪を掴み上げた。苦痛を耐えるのもすでに限界であるはずなのに、雪で泥と血を洗われ、儚人≠フ証でもある紋様をくっきりと浮かび上がらせた表情にはまだ不屈の意思が残っている。重い瞼の下から覗く瞳から敵意の眼光が消えていないことを知り、閻王は幾分か気を良くした。
「ヤツの目的が貴様だというのは確定した。あとはヤツが貴様をどうしたいのかさえ分かれば、おびき寄せるのは容易い。それまではあの野狂洞で、俺の退屈しのぎにでもなってもらおうか。今回の一件で標持ち≠ノしては使えそうなヤツだと良く分かったからな。俺に一杯食わせた例の代償も含めて、貴様にはこれから想像もつかぬような生き地獄を味あわせてやる。人が味わえる苦痛のうち、何一つ知らぬものなど無くなるぞ」
 返答はなかった。髪を手離すなり、久暁の頭はまた雪の上へと突っ伏してしまう。
 右手には綺羅乃剣、手首が痣の色に染まった左手はもう利くまい。それでも両腕の筋肉に力が込められているのは確かだが、凍傷を負った足に動く気配はない。獣の目で久暁の状態を察知すると、閻王は血刃をゆるりと持ち上げた。
「どうした、もう足が使い物にならないのか? ならば俺が抱えて行ってやろう。運びやすいよう、両脚をぶった斬ってなぁ」
 言い終わるより先に、蠢く刃がぐにゃりと形を歪め、勢いよく振りかぶられる。

 ただし久暁の足めがけてではなく、背後から迫って来た一頭の騎馬へと。
 彼方から聞こえてきた蹄の音を、彼はとっくに察知していたのだ。

 しかし刃が馬ごと騎乗者を両断するより先に、乗っていた小柄な少女が馬の鞍を蹴り、空中へと跳び上がる。若い娘のものとは思えぬほどの力で蹴られた馬は驚き、思わずよろめいた。その動きがほんの少しでも遅れていれば、山吹なずなの愛馬は顔から真っ二つに両断されていただろう。
 攻撃を避けられても、閻王は相変わらず表情を崩さない。地表の雪を斬った血刃がまたもや形を変え、毒蛇を彷彿とさせる鎖となる。跳び上がった少女を背後から薙ぎ払おうと、鎖は宙を舞う。だが、空中で身体を反転させた少女の手刀が触れた途端、生きた鎖は本物の一刀でもくらったかのように切断されてしまった。
「何?」
 初めて閻王が予想外といった声を漏らした。力を失った鎖が地に落ちるよりも早く、黒づくめの少女――蛍は猫のような動きで雪上に着地する。次の瞬間には、彼女の足は隠れていた地面ごと雪を蹴散らし、閻王の元へと跳びかかっている。
「はぁッ!!」
 裂帛の気合と共に突き出された拳。黒い玉をはめた手甲の一撃を、閻王は鉄忌化した左腕一本で受け止めた。
「馬鹿な!?」
 今度は蛍が驚愕する番だった。鉄忌の外殻を潰すほどの威力を持つ一撃を、この男はその鉄忌化した腕一本だけで捕らえたのだ。足元の力で耐えた形跡すらない。見れば、鉤爪状になった相手の掌を、赤黒い何かが包み込んでいる。ドロドロした液体の塊のようなそれが緩衝材となり、攻撃を吸収していたのだ。
 まずい、と思った時にはすでに、蛍の身体は掴まれた腕一本で宙へと放り投げられていた。それでも八色の黒≠ニしての身体能力のなせる技か、地に落ちた少女は確実に受身を取り、すぐさま攻撃の体勢を取り戻す。

「久暁殿! しっかりなされよ!」
 彼女からの呼びかけに、久暁は思わずうつ伏せになっていた顔を上げた。
「……蛍、どうしてお前がここに?」
 その声は小さすぎて蛍には届いていない。先程までは意識があっても、憔悴しきった肉体に押し潰されるようにして全ての感覚は鈍化していた。ここにいるはずのない蛍の声に呼び覚まされ、その失いかけていた感覚が今また力を取り戻しかけているのを、久暁は実感した。そして気づく、ここがすでに大井山ではないことを。
「まさかこれは、『火燐楼』の時と同じ……」
 記憶に覚えのある奇怪な現象について思案する間もなく、久暁の視界は再び巨大な黒影に塞がれた。
「小娘、この屑の知り合いか」
 閻王の左手を包む塊の元へ、斬られた鎖の半身が引き寄せられるように近付いていく。それらが再び融けあい、大刀の形を取り戻すまでの間、蛍も閻王も互いを凝視しては一歩も動こうとはしなかった。
「貴様は何者だ。どうして生身の人間が俺の武器を破壊できる? いや待て、その気配には覚えがあるな……」
 探るような紅い視線をはね返さんと、蛍の表情が鋭さを増す。彼女にとって、閻王の武器を壊したのは、鉄忌を破壊するのと同じように行ったことにすぎない。何故この男がそれを訝しがるのかは分からないが、例え理由を知っていたとしても教える気にはならなかっただろう。
「そのような理由など知らぬ。大人しく退がり、久暁殿から離れよ!」
 恐れのない一言に、閻王の口元が弧を描く。それは獲物を嬲る行為の、開始を告げる合図だ。
「まぁ良い。一度ぶった斬ってみればハッキリすることだ。貴様の正体が何であるのか」
 禍々しく破顔した閻王の左手が動き、大刀が宙へと掲げられる。その構えを前にした途端、今更のように蛍は全身に鳥肌が――寒さからではなく、恐怖によって立つのを感じた。
 逃げろ、と久暁が声なき声で叫ぶ間もない。
 閻王は緩慢な動きを捨て、鬼の疾走をすべく地を蹴った。


「そこまでです閻王! これ以上の狼藉は許しません!」


 不意に聞こえた高らかな声がその第一歩を止めるなど、誰が予想しただろう。
 今にも駆け出さんばかりの閻王の足が、石化したかのようの動きを止めた。ぎらぎらと、忌々しさと憤りで燃える双眸が振り向いた先には、騎乗したままこちらへと向かってくる一人の娘の姿があった。
「か、かぐや殿……?」
 蛍もまた、見知ったはずの彼女の様子の違いに、思わず我が目を疑わずにはいられなかった。気が弱く、いつも右大臣の言動を気にしてはいるが、心根は素直で優しい少女。蛍が知るかぐやとは、そういう人間だった。
 だが、今のかぐやは何者をも寄せつけぬ、閻王の前ですら怯まぬほどの威風を備えていた。
「右大臣のかけしまじないがある限り、貴方は『昇陽』の今上帝である私の言葉には逆らえません。白巳女帝として命じます――今すぐ武器を収め、そこに控えなさい!」
 つい今朝方、影武者として現れた時と全く同じ覇気。
 しかし、今度は本物としか思えないほどの気迫だった。少なくとも、今蛍が見ているかぐやは、先日相克酒場で謁見した本物の白巳女帝≠謔閧燒{物然としている。
 ――いや、そもそも、あの時の白巳女帝は本当に本物だったのか?

 馬の上から見下ろす娘に対し、閻王は牙をむいて敵意をあらわにした。その裡に渦巻くのは、彼女の命令に抗えぬことからくる屈辱か、それとも背後からの襲撃者に抗えぬことからくる怒りなのか。

 振り上げられていた大刀が形を崩し、元の咒符となって雪上に散らばった瞬間。
 横たわっていた赤茶けた髪の主が起き上がり、鬼火の一閃が鉄の左腕を斬り払った。





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