<真昼の月下>



 それは短くも長い夢だった。

<その嬢ちゃんは生身で起動式を消失できる人間だ。どうやって干渉しているのかは知らねぇが、左大臣の力を削ぐ良い切り札になると思うんだがなぁ>
 飄々とした男の声が、薄暗く狭い部屋のいずこかで語りかけている。聞き覚えのあるその声の主を探そうとした蛍だったが、膝をつき、俯いた姿勢の身体は石にでもなったかのように堅く重く、視線すらも動かせない。自由なのは意識と五感のみ。自然と耳が捉える音声だけを頼りに、話し続ける何者かの正体を、蛍は記憶の中から引き出そうとした。
 ――そもそもここは何処で、今は何時なのだ?
 問いかけたところで、己の思うがままとならないのが夢というもの。ただし、夢にしてはやけに現実味のある光景だ。頬に触れる初春の空気の冷ややかさまで、はっきり感覚として伝わってくる。ひょっとすると、これは現実なのかもしれない。

<それで裏切り行為の埋め合わせをしようというの? 時間の無駄よ。私の本体≠ヘ早急に儚人≠転送すべきと訴えているわ。それに未だ健在とはいえ、左大臣の力はもう充分なまでに弱体化されている。今なら、剣の情報を取りこんだ貴方だけで討てるはずでしょう>
 男の言葉に応えたのは、美しい女の声だった。この甘く香るような声音には聞き覚えがある。ただし、以前に聞いた時は、これほど冷たい感情に彩られてはいなかった気がするのだが。
<本体≠チて、どっちもお前じゃねーか>
<私は私。枳≠ニいう名の分身、影にすぎない存在。封印≠ノ風穴を開け、目標を転送する為だけに私は在る。だからこそ、今回の貴方の妨害行為は許せない>
 怒気のこもった台詞と共に、草花を手折るような音がした途端。湧き上がった鬼気と殺気に、蛍は心臓を締めつけられそうになった。
 金属片が散らばる床の上に、ゴトリと何かが落ちる。蛍の視界の隅まで転がってきたそれは、墨色の長い髪を絡ませた、女と見紛うばかりに麗しい男の顔だった。意識だけで恐怖の絶叫を上げるも、やはり蛍の身体は微塵も動かない。
<おいおいおい! いくら何でもいきなり首斬るヤツがいるか!? 治らなかったらどーすんだよって、あぁ! 手足まで斬るか!? 俺の腕をそんなガラクタの中に埋めるなって、おーい!>
 身体と分かれても生き続ける首は、蛍の動転などお構いなしに加害者を非難する。騒ぐ男の声を掻き消そうとでもいうのか、女はわざとらしく鉄燈籠を手荒に扱い、耳障りな金属音を響かせる。
<国産み≠ナ発生した八百万の管理者≠焉A今や現存するのは起源である彼女≠除き、私の本体≠ニ貴方の二人のみ。本来ならば一刻の猶予もないというのに、貴方は二十七年間も計画を中断させただけでは飽き足らず、儚人≠左大臣の元に向かわせると言う。それでもし儚人≠ェ殺されでもしたら、また再度出現するまで待つつもり?>
 苦々しい表情を浮かべる頭を、白い繊手が拾い上げる。蛍の視界に女の姿は映らなかったが、彼女が内心、烈火のごとく憤っているのは明らかだった。
<こうしている間にも、私の本体≠ヘ体組織を記録子に還元されつつあるのよ。これからさらに、再出現を待つのに五百日以上も費やしてみなさい。儚人≠フ指標情報を吸収するための容量を確保できなくなるわ。全てが破綻するのよ>
 それに、と女は一層語気を強くした。
<私と私の本体≠ヘもう、うんざりなのよ。貴方と夫婦ごっこをするのも、人間のふりをし続けるのも。元々人間から作り変えられた神器≠ネらまだしも、私達のような管理者≠ェ今更人間の真似事をして何になるというの? 全くの無意味よ>
<無意味なんかじゃねぇ>

 その否定の言葉に苛立ちや怒りは含まれていなかった。あるのは確信的な自信と、相手を諭さんとする意志。だからであろうか、氷のごとく凍てついていた女の感情が、一瞬揺らぐ。
<根拠は?>
<それはアイツが――久暁が証明するさ>
<儚人≠イときに何ができると? 左大臣の元に向かわせたとしても、捻り殺されるだけでしょう>
<まぁ見てろって。んなに心配なら、限界だと判断した時点で転送しちまえばいい>
<すでに限界よ>
 女に譲歩の意思は全く見られない。それでも、首だけとなった男は諦めずに説得を続ける。
<アイツは自分の命に制限時間があることを知らない。どう足掻こうと三十年以上は生きられない、それが儚人≠セ。せめて残りの三年間くらい穏やかに生活させてやりたかったが、存在を知られた以上、どう隠そうが左大臣からは守りきれねぇ。そのくらい俺にだって分かってら>
 場を支配する威圧感に締めつけられた蛍の心臓が、その一瞬、ひときわ強く鼓動した。
 八佗から聞かされた、久暁の知らない儚人≠フ秘密。その名の由来でもある残酷な特質を、何故この男は知っているのか。

<それでも俺は、アイツの気がとことん済むまで待ってやりてぇんだよ。久暁が最後の一人≠ノなるなら尚更だ。アイツにだけは、他の連中が手に入れられなかった生きる意味≠チてヤツを見出させたいんだ>
<そうやって貴方は、また二十七年前と同じ事を言うのね>
<ま、面倒見すぎて失敗した今に言えた台詞じゃねぇけどな>
<どうして、それほどまでにあの儚人≠ノ固執するの?>
<アイツが気づかせてくれたからさ。俺達管理者≠焉A神器≠焉A儚人≠焉Aぜーんぶ同じ立場だってことにな。お前も――いや、冽も薄々それと勘付いているはずだぜ。 だからこの二十七年間、枳という人間≠ニして久暁と接してきたんじゃないのか? 強引に転送する機会はいくらでもあったはずだ。なのにお前はそうしようとしなかった。久暁を儚人≠ニして扱えば、自分が管理者≠ナあることを思い出しちまう。この泡沫の『都』にいる間だけは、俺もお前も本来の自分を忘れたかったんだよ>

 能天気な声音が紡ぐ言葉の数々を、蛍は半分も理解できずにいた。しかし、男の指摘を受けた途端、それまで刺のある反論をし続けていた女は急に押し黙ってしまった。
 沈黙する間、彼女の胸中にはどのような思惑が渦巻いていたのか。
<いいわ。そこまで言うのならば、貴方が約束を果たすまで、指標情報には手を出さないでいてあげる>
 次に口を開いた時、女は言葉に纏う刺を収め、代わりに小さくも恐ろしい毒針を会話に含ませた。
<ただしそれ以外での私のやり方には、一切口を挟まないでもらえるかしら>
<枳、何を企んでいやがる?>
<……私は一度だって、自分が管理者≠フ分身であるという事実から目を背けたりはしなかった。貴方とは違う。私が儚人≠ノ情を移しているというのならば、それは私の感情からでなく、貴方と一部意識を共有するせいで生じた単なる錯覚にすぎない――それを分からせたいだけよ。気に食わないなら一刻も早く、自分の責務を果たすことね>
<だからそれはどういう意味だ?>
 微かに女が笑う。例え見えなくとも、彼女がどのような笑顔を浮かべているのか、蛍には想像することができた。きっと『都』中で咲き誇る桜のように、淡く美しい表情なのだろう。そのはずなのに、

<たいした事じゃないわ。少し、貴方を苦しませてみたくなっただけ>

 一瞬、すさまじい悪寒が蛍を襲った。外側からだけではなく、身体の芯から凍えていくように感じられたそれは、むしろ恐怖に近い物だったのかもしれない。
 女の言う苦しみ≠ェ、何を指しているのか。
 それにより誰が利用されるのか。
 眼前の二人の会話を完全に理解することなどできなかったが、何故か、女が先程口にした言葉の意図だけは察知できた。
<ほぉ、面白いじゃねぇか。ならばお前も、気が済むまでやってみろよ>
 優しい女の声に秘められた残虐性に慄く蛍とは反対に、首だけとなった男は動揺一つ表さなかった。
<ただしこれだけは言っとく。久暁を甘く見るんじゃねぇ。アイツはお前が思っている以上に――>

 男の言葉を最後まで聞かない内に、蛍の意識は急速に沈んでいった。まるで忘れていた深い眠りを思い出したかのように、まどろむ感覚に全てを持っていかれる。
 何とかして逃れようともがいたものの、酔夢の底なし沼は否応なしに蛍の視界を閉ざす。
 
 そして眼前の光景は暗転し、一切が闇に包まれた。

 すでにあの男女の声は届かない。重力から切り離された身体は浮遊感に支配されるがまま、空とも海ともつかない空間を漂い続ける。
 時折、意識と感覚が断絶し、体感する時間すら曖昧になっていく。だがそれでも、蛍の自我だけは保たれていた。


 次に覚醒した時、視界に映ったのは無数の黒竹が群生する、いずこかの山中だった。
 この竹林に見覚えなど全くないはず。それなのに、蛍にはこれがどの山の、どの辺りの場所なのかが手に取るように分かった。自分がその地に存在している≠ニいう、強い確信だけがある。その場所の名前も景色も知らないというのに。
 先程と違い、身体の自由は利いた。だが、まるで幽霊にでもなったかのように、自分以外の物には一切触れられなかった。身を震わせる寒さだけが、みいるように伝わってくる。
 曇天の空は薄暗く、雪を被る木々の周囲には薄霧が漂う。一寸先が不鮮明な白さに隠された場はとても静謐であったが、やがてその沈黙も破られてしまう。

 湿った地面を蹴散らす音が近づく。檻のように居並ぶ竹の間から現われたのは、蛍の良く知る人物だった。
<久暁殿!?>
 思わず叫んだが、やはり声は届かない。それにしても、久暁のこの変わり果てた姿はどうしたことか。
 あの燃えるようだった赤銅色の髪は短く切り刻まれ、泥にまみれた今では篝火ほどの面影もない。乱れた着物も端々が破れ、紋様の羅列が浮かぶ浅黒い肌の上には、いくつもの裂傷と血塗れた跡があった。履物を失った足など、凍傷により、もはや切り傷の痛みすら感じていないだろう。闘志を失わぬ紅色の双眸と、手にした綺羅乃剣だけが、最後に見た姿の名残を留めている。
<どうした! この腕を、この凶器を、殺すのではなかったのかぁ!?>
 剣を構える久暁が後退した直後、哄笑と共に、彼方の黒竹が数本切り倒される音がした。
 ざわめく笹葉の悲鳴が止むよりも早く、霧の向こうより現われた赤黒い鎖が久暁へと襲いかかる。迎え討つのは鬼火を纏う綺羅乃剣。刃は動く凶器をたやすく断ち切り、力尽きたそれを叩き伏せた。だが、沈黙したかと思われた鎖は不意にどろりとした赤黒い液体と化し、さらに無数の鋭い針へと変形するや、勢いよく地を離れる。
 すかさず身を捩るも、飛来した針の幾つかは久暁の肌を切り裂いた。攻撃を読み違えた訳ではない。完全に避けきる事もできないほど、今の久暁は体力を失っているのだ。
 彼の相手が鉄忌でないことに驚いた蛍だったが、生きた針が戻っていった先に見えた黒い巨影は、果たして本当に人なのか。襤褸となりかけた異国の黒衣に身を包む、その初老の男が放つ鬼気はあまりにも禍々しい。幾筋もの皺を刻む浅黒い顔は愉悦の笑みを浮かべ、久暁と同じ紅色であるはずの瞳は、まるで異なる飢餓の意に彩られていた。
 何よりも異様なのは、露となった左腕だろう。遠目からでも分かるその金属質な光沢と、鋭い鉤爪を備えた腕は、鉄忌のそれと相違ないではないか。さらに、その左腕が握る奇怪な得物もまた、ただの赤黒い大刀ではなかった。刃から滴り落ちる血が、その直後には再び大刀の刀身へと吸い込まれていく。いや、よくよく注視してみれば、大刀そのものが赤黒い液体で構成されているらしい。まるで生き物のように脈動する刀身を凝視しているうちに、蛍の腹の底から吐き気がこみ上げてきた。その原因は、竹林の清涼な空気を塗り潰さんばかりに漂う、錆びた鉄臭さのせいだけではない。
 圧倒的なまでに強烈な死の臭い。その砂螺人の男は一体、これまでに何千の人間を殺めたというのか――

 黒竹に背を預ける久暁は、荒い息をしながら未だに閻王を睨みつけている。到底、闘う意志を捨てるつもりはないらしい。しかし再び駆け出した久暁はなぜか、閻王との距離を測りつつも、逃走同然に後退していく。
<霧が満ちるのを待つつもりか。場所の開けた麓へと俺を誘導し、視界が閉ざされる頃合いを見図り腕を切り落とす――貴様の目論見などそんな物だろう>
 閻王の予言を裏付けるように、辺りを漂う霧は徐々にその濃さを増していた。この様子ならば半刻と経たぬ内に、山は真白の闇に閉ざされるに違いない。
<この左腕しか狙えぬ貴様の攻撃など、先読みするまでもない。ましてや、これ以上の長期戦に耐えられるような身体か? いい加減に諦めろ。貴様を殺す訳ではなく、生き地獄を味合わせるだけだと言っているのだが>
 霧の向こうへと遠ざかる鬼火を目印に、閻王が嘲笑を投げかける。相手が足を止める気配はない。
<あくまで抗うか。しかしこれで腕や脚の一つ奪った所で、右大臣の奴に文句は言えまい>
<この、れ者め……!>
 禍々しい弧を描くその笑みを間近に見るなり、蛍は衝動的に拳を突き出していた。だが結局、拳だけでなく、身体全てが巨躯を虚しくすり抜けてしまう。
 勢い余って向こう側の雪上へと倒れこんだ瞬間、打ちつけた腕に痛みが走った。ということは、これは夢ではないのだろうか?
 では何故、傍観することしかできないのか。己の無力さに、蛍は地面を叩いた。
<せいぜい狩りの気分を損なわせるなよ>
 ――あの女をおびき寄せるまではな。
 二重に聞こえた声は、どちらも閻王のものだった。その違和感に顔を上げた蛍の耳朶を、枯れた低い声が、立て続けに突き刺していく。

 ――他者のために命を投げ出すなど、実に下らん。
 ――面倒な標持ち≠セ。遊び甲斐はあるが、存在が不愉快なのは『茫蕭』のと変わらんな。
 ――ああ、さっさとあの女を殺さなければ。貴様の狙いはあの標持ち≠セろう、何故まだ現れない。
 ――阿頼耶が先に逝ったのならば、なおさらこれ以上は待たせられん。
 ――愚かな右大臣が。己の求めるものがすぐ間近にあるというのに、気付くことのできない憐れな奴め。
 ――所詮は八佗も標持ち≠焉A天意≠ノ操られる道具に過ぎん。天意≠知った俺の敵ではない。

 どす黒く凝った感情を、剥き出しにした言葉の羅列。耳を塞いでも流れ込んでくるその声は、蛍の思考を掻き乱し、脳髄を締めつけるような苦痛までをも与えた。
<止めよ! これ以上話すな……!>

 その叫びが届いたのか。
 視界が一面白色に染められた途端に、凶賊の声が途絶えた。代わりに、視界がまたもや暗転する。
 五感を包み込んでいた霧が突然、吹きつける冷風へと変じたのを蛍は感じた。いや、身体を打つ雪の激しさからすれば、それは吹雪と呼ぶ方がふさわしい。
 灯り一つ無く暗いのは、これが夜だからなのか。吹き荒れる雪に視界を閉ざされれば、例え今が真昼であろうと、それは闇の中にいるのと大差ない。晩冬とは思えぬほどの勢いで荒れ狂う風雪は、傍観者である蛍にも容赦なく襲いかかる。

 ――寒い……寒いよ……

 あまりの猛威に耐えかね、蛍が雪に膝をついたその時。どこからともなく、まだ幼い子供の声が聞こえた。
 だが、それはありえないことだ。風の咆哮が支配するこの状況では、大人の大声ですら消されてしまうはず。それ以前に、こんな民家も何も見当たらない平地に、子供がいるなど考えられない。

 ―父様ごめんなさい、母様ごめんなさい。
 ――どうしよう、かぐやが死んじゃう……どうしよう。
 ――誰か助けて、助けてよ……
 ―もう二度と勝手なことしないから。だから早く……助けて……

 先程、閻王の言葉を聞いた時と同じだった。今にも消え入りそうな嘆きは、吹雪の唸り声に阻まれることなく、直接蛍の耳に響いてくる。
 その声にも、目の前の光景にも、蛍は覚えがない。なのに――どうしてこんなにも懐かしく、悲しい感情がこみ上げてくるのだ?

<そういう訳かぁ。道理で介入しやすいはずだぜ>
 蛍の混乱を停止させたのは、以前にも聞いたあの脳天気な男の声だった。彼の言葉もまた、吹雪をものともせずによく響く。しかしそれは子供のものと違い、まるで頭の中から語りかけているかのように感じられた。
<同調で電撃を受けた時は焦ったの何の。でも、おかげでよーやく正体が分かったぞ。潜伏して必要な時だけ操作するつもりだったが、それよりこのまま機能を回復させた方が好都合だな、うん>
 一人納得する誰かの声は蛍に語りかけているようでいて、全く彼女の言葉を求めてはいなかった。それまで傍観者でしかなかった自分を、さらに観察する者がいる――これはただの夢ではない。蛍が理解できたのはそれだけだった。
<何なのだ、一体何のことを言っている!?>
 無慈悲に冷たい雪に額を付け、蛍はひたすらこの茶番劇の終わりを乞うた。それが叶わないなら、せめてこの光景と紡がれる言葉の意味を誰か教えて欲しい、と。

 ――再構成前の記録の残留を確認。不適合、無意味、欠陥情報とみなす。

 唐突に響き渡った無機質な言語。錯乱する蛍は、すでにその言葉に耳を傾けることすらできないでいた。
<おっと、さっそく始めやがったか。この速度だと、複製の俺£度じゃ持ってあと数分って所か。まぁ、俺の本体も切羽つまってるみてぇだし、良い頃合いだ>
 姿を現さない道化がけらけらと笑うと、周囲の吹雪がその勢いを失っていった。むしろ万物の全てが白色に溶けるように薄らいでいく。それでも顔を上げない蛍だったが、軽薄な声は初めて、彼女に明確な言葉で囁いた。
<んじゃ、久暁をよろしく頼むぜ、嬢ちゃん>
 ――削除、実行。

 ほぼ同時に聞こえた二つの言葉。
 そうして、蛍が見た吹雪の光景は、彼女の記憶から完全に消失した。



 眠りから覚めても、蛍はそれがすぐに現実だと気付けなかった。視界に入る空はまだ青いというのに、天上には白い月が浮かんでいる。これでは今が夜なのか昼なのか判別できない。ならばまだ夢なのかと、ぼんやりした頭でそんなことを考えていた。
 現実だと分かったのは、横になった彼女の目の前で手をちらつかせる少年が話しかけてきたからだった。
「おい、大丈夫か?」
 尋ねる白戯は、どこか恐る恐るといった様子で蛍の顔を覗き込んでいた。その言葉でようやく我に返った蛍は、勢いよく上体を起こした。
「私はどれくらい眠っていたのだ!?」
「な、急にどうしたん――」
「気を失ってからどれくらい経ったのだ!?」
「ろ、六刻。もう未の刻になるけどよって、どうしたんだ。そんなに血相変えて」
 蛍が眠りについていた布団は、集会をひらいた講堂の片隅に敷かれていた。夢で見た山中の寒さが感覚として残っていたせいかもしれないが、肌に触れる空気は意識を失う前と比べ随分と暖かかった。庭先から射しこむ光も、朝より明らかに強い。
 気圧けおされ呆気に取られる白戯をよそに、蛍は布団から立ち上がるなり部屋から出て行こうとした。
「倒れてなどおれぬ! こうしている間にも、久暁殿が危うい!」
 衣服は講堂で倒れた時のままだが、今はいつもの黒装束に着替える間さえ惜しい。あの夢が夢でなく、現実を映したものならば、今頃久暁はあの悪鬼の化身ともいうべき男と戦っているに違いない。最悪の場合、すでに奴の手にかかっているかもしれないのだ。
「おい、待てよ! お前さっき倒れる寸前に、キロクがどーのサクジョがどーのって変なこと口走ってたけど、どういう意味だ。何か関係あるのか?」
 慌てて白戯が肩を掴み、問いかける。が、蛍は訝しげに眉根を寄せると、止める白戯の手を振り払った。
「何を訳の分からぬ事を申しておるのだ。それどころでは無いというのに……!」
「待ちたまえ」

 全く聞く耳を貸さない蛍の頭を冷やしたのは、彼女より先に襖を開き現れた八佗だった。さらにその後ろには蘇芳ともえと山吹なずな、さらには市女笠で顔を隠した女――白巳女帝まで佇んでいるではないか。
 どんなに頭に血が上っていようと、右大臣と今上帝の前では冷静にならざるをえない。彼らが姿を現すなり、興奮で朱に染まった蛍の顔から血の気が引いていく。反射的ともいうべき速さで彼女は土下座し、頭を垂れた。
「身体に大事は無かったようだね。ひとまず安心したよ」
「真に申し訳ありませぬ! 自分でも明確に覚えてはおらぬのですが、大切な集会で醜態を晒すなど、何とお詫び申し上げればよいものか……!」
 額を畳に擦りつける蛍を前にして、八佗はやはり、とでも言いたげな溜息をついた。
「ひとまず、面を上げたまえ。私はともかく、白巳女帝でない彼女に無礼を詫びる必要はないよ」
「え?」
 思わぬ言葉に、頭を上げた蛍の目が点になる。その言葉の意味を問うよりも早く、白巳女帝だとばかり思っていた人物が、被っていた市女笠を取り払う。垂れ衣の下から現れた素顔は――

「か、かぐや殿!?」
 自分と義姉妹の契りを交わした人物の顔を、見間違えるはずがない。白巳女帝の出で立ちをしてはいても、その女子はかぐや以外の何者でもない。頭に無数の疑問符を浮かべる蛍に対し、彼女は沈痛な面持ちで詫びた。
「蛍さん、今まで黙っていてごめんなさい。実は私――」
「影武者だよ」
 口ごもるかぐやが決定的な告白をする前に、八佗がその言葉を遮り、答を告げた。
「かぐやはまつり家の系譜の中でも、末端ともいうべき家に生まれた人間でね。本来ならば武士十家の本家よりも低い身分に位置するのだが、白巳女帝が今上帝である現在では、遠縁とはいえ彼女もれっきとした皇家に連なる者。そして年齢や面立ち、何より個々の人間が纏う気配において、一族の中で最も主上に近かったのが彼女だった。だから、私は幼少時から直々にかぐやを教育・指導してきたのだ――白巳女帝の影武者としてね。この事実を知るのは主上と個人的に親しい人物、いわば友と呼べる者だけだ。武士十家の重鎮、そしてつぶらい家でも知る者はそういない」
「そうであったのか……」
 それならば今回のような武士十家の集会に、姿を現せないのも頷ける。事情を知らない人間――特に円家寄りの者からすれば、かぐやは帝の血縁というだけで身分が繰り上がった者にすぎない。それが重要な会議に顔を出すなど、いくら八佗の直弟子とはいえ、何らかの背景事情があると睨まれかねない。かぐやは対『茫蕭』のための影武者であると同時に、味方の中の敵を欺くための影武者でもあるのだ。
「では何故あの時、かぐや殿は主上を装ってまでここに現れたのですか?」
 秘密を打ち明けてなお、かぐやは暗く沈んでおり、蛍の問いに答えようとはしなかった。それでも八佗は容赦なく、黒眼鏡ごしに鋭い視線を投げかける。
「かぐやが私に無断であのような行為をとったのは、混乱するであろう討論を収拾させ、久暁殿の救出を急がせる為だったのだよ。全く、余計な心配をかけさせて……結局、正体が明らかになられても困るので、倒れた君をここに運んだ後も、かぐやにはそのまま主上を演じてもらった。久暁殿の救出については卯乃花正隆殿、二藍皐弥殿の同意を得たので安心したまえ。すでに彼らは精鋭を率い、大井山に向けて出立している。私の分身≠燗ッ行しているので、状況もすぐに分かる」
「それで、いつごろ大井山に辿りつくのでしょうか?」
「出立したのが二刻前。積雪の具合と馬の体力を気遣い、早急にとはいかなかったが、もうまもなく麓近くに到着するよ。ただし、現在大井山では全域に濃霧が発生していてね。久暁殿や閻王を探す以前に、野狂洞へ辿り着くのにも難儀しそうだ」
 霧と聞いて、蛍の脳裏に先程の夢の光景が浮かび上がった。あれが正夢であるという確信がさらに強まったのは、言うまでもない。
「承知いたしました。そうとなれば一刻も早く、私も大井山へ向かいます」
「いや、君はここに残りたまえ」

 思わぬ八佗の言葉に、蛍は己の耳を疑った。彼女が久暁捜索に向かうことは、八佗も承知の上だったはずだ。
「何故ですか、八佗殿!? 私の具合ならばもはやお気遣いは無用です。それよりも、急がねば久暁殿の命が――」
「蛍殿、君はどうして自分が気を失ったのか、分かってはいまい」
 その指摘に蛍の口は閉ざされた。八佗の言うとおり、倒れたことは分かっていても、その直前に自分が何をしていたのか、全く覚えがないのだ。不安の色を顕にした蛍に対し、八佗は淡々と言葉を続けた。
「気を失う直前、私は君の記憶を再び覗かせてもらった。以前に左大臣殿から受けた記憶操作の起動式は確かに、私が解除したことで跡形もなくなっていたのだが、その代わり前回発見しなかった別の起動式の片鱗があってね。それは相当高度な術で、一見すれば何の異常もないよう、上手く隠蔽されていた。それもまた左大臣殿の手によるものかと初めは考えたが、前回とは比べ物にならないほど巧妙な構造をしたあの起動式は、おそらく左大臣殿でも扱えきれはしまい。それが何らかの原因で綻びが生じ、改ざんされていた記憶が一気に戻った。その情報量の負荷に耐え切れず、君は倒れてしまったという訳だ」
 先日の相克酒場にて、八佗は蛍に施された起動式がまだ残っているのではと危惧していた。今回の件は、その予想が的中したということなのだろう。
 しかしそれならば、あの時蛍の身体を走った電光はなんだったのか。その場に居合わせたかぐや達は八佗からの答を求めていたが、彼は推測すら語らなかった。まだ疑問の答を見つけていないのかもしれない。
「君の様子を見るに、今度こそ完全に起動式は解除されたと思いたいが……問題は、私にも左大臣殿にも介入不可能な起動式を操れる者が、この『昇陽』にいるはずがないということだ。ただ一つの例外を除いてね」
 あくまで冷静な八佗の声音が、徐々に剃刀のような鋭さを備えていく。いつの間にか自分の喉元にその刃を突きつけられているかのような緊迫感が、蛍の身体を拘束していた。
「蛍殿、君は私と八尺瓊以外に起動式を扱える者と出会っているのではないかね? それを我々に話さなかったのはおそらく、その人物に関する記憶を一切忘れさせられていたからだろう。だが、今なら明確に思い出せるはず。私の推理に間違いがなければ、おそらくその者は――『茫蕭』の手の者だ」

 もし八佗の金瞳が黒眼鏡に隠されていなければ、蛍は思考の自由すら奪われていたかもしれない。それほどまでに、八佗の問いかけはこれまでにない凄みを帯びていた。
「さあ、思い出してみたまえ」
 重ねて言われずとも、答はすぐに浮かんだ。
『都』にある、久暁の屋敷にて遭遇した者。
 女と見紛わんばかりの美貌を持つ者。
 焔を操り、血を流さぬ者。
 久暁が心から憎み、左大臣との接触を望むきっかけを作った者。
 記憶を操作されていたとはいえ、どうして今まで思い出せなかったのか。あれほどの美しさと、異様な能力を備えた存在だったというのに。
「まさかあの男、朱蜘蛛の燥一郎が……」
「誰だね、それは?」
 下都の遊郭『火燐楼』の惣名主・燥一郎――朱蜘蛛≠ニも呼ばれる男の素性とその力について、蛍は知り得る限りの情報を八佗に伝えた。下都の一勢力を率いる者としての表の顔と、久暁に関わる者だけにしか見せない、尋常ならざる能力者としての裏の顔。前者が朱蜘蛛≠ニいう名の仮面を被った姿だとしたら、後者こそが『茫蕭』の手先である、彼の素顔だというのか。
「久暁さんの幼馴染なのですか……」
 自分達が倒すべき敵の一人が久暁の友人と知るや、かぐや達の顔が曇った。
「そうか、だから彼は頑なに『央都』に戻りたがったのか。道理で口を割らない訳だ。おそらくは久暁殿も、その燥一郎という男が『茫蕭』に関係していると薄々感づいているに違いない。それを確かめるために戻るつもりだった、と……?」
 弟子達と同じく、八佗も眉間に深い皺を刻む。ただし、彼の場合はどこか釈然としない様子であった。
「真実を確かめたとして、久暁殿はその後どうするつもりでいるのか……いやそれよりも、『茫蕭』の次なる狙いは本当に儚人≠セったということか……しかしそれならば何故、二十七年間も手出ししなかったのだ……儚人≠フ寿命について、知らないはずがない……」
 一人思索にふける八佗の目には、すでに蛍も弟子達も見えていない。その表情がまるで別人のように思えたのは、黒眼鏡で目元が隠されているせいなのか。
「仕方がない。下策中の下策だが、彼の言う通りおびき寄せるより他ないか……」
「八佗殿?」
 決断の言葉はあまりにも小さな呟きであったので、八佗以外の誰にも聞こえてはいない。それでも蛍は、彼の様子に変化が生じたのを見逃さなかった。近寄る者を拒絶する冷淡さ――今の八佗は、久暁が常に纏っていた雰囲気と非常に似通った気配を漂わせていた。

 と、その時。
「話の途中ですまないが、捜索隊が麓に到着したらしい。あちらに意識を集中させたいので、私はしばらく席を外すよ。君達は蛍殿と共に、ここに待機していたまえ」
 そう言うなり、唐突に八佗は話を中断させてしまった。皐弥達に同行した彼の分身≠ゥら情報が入ったのだ。
「お待ち下さい! 私も大井山へ向かわせて下さい!」
 必死の思いで蛍は懇願したが、八佗は険しい面持ちを崩さない。
「その燥一郎という男が仕掛けた起動式の全てが解除されたと確信できるまで、君を動かす訳にはいかない。左大臣殿の起動式を解除した安心感を逆手に取り、自分の仕掛けた起動式を維持し続けるほどの巧妙な手口を使う者が、自身の存在を知られ黙っているとは考えにくい。それに、君らは対『茫蕭』の要なのだ。今回の件について言えば、閻王の所業の始末をつけるのは私の役目であって、君らが関わるべきことではない。辛いだろうが、堪えてくれないか」
 『癒城』を優先的に守護すべき武士十家のうち、二藍と卯乃花、二家の当主が大井山へ向かっているというのに、これ以上人員を動かせば『昇陽』の民に余計な不審を抱かせてしまう――八佗が危惧しているのはおそらく、そういうことなのだろう。
 二の句を次げなくなった少女に一瞥も投げかけないまま、八佗は無言で講堂から去っていった。後に残った者達が同情の視線を向ける先、蛍は一人歯噛みしながら拳を震わせていた。苛立ちの対象は八佗ではなく、自分自身である。

 またもや、己の記憶は改ざんされていた。朱蜘蛛の燥一郎≠フことを思い出せたとはいえ、彼の仕掛けた起動式という名のからくり糸を解けなかったがために、久暁は失踪したようなものだ。おそらく彼も、蛍の異常に気付いてはいなかったのだろう。
 だが、この『昇陽』で異能者としての燥一郎を知るのは蛍と久暁だけだ。互いの情報の齟齬にもっと早く気付いてさえいれば、『都』への帰還を切望する久暁の心中を察知し、単独行動を防ぐことができたのかもしれない。そう思い巡らすほどに、蛍の悔恨は尽きることがなかった。
 とはいえ、このまま大人しく状況の変化を待ってもいられない。あの夢が夢でなく、そう遠くない未来を告げる正夢だとしたら、到底武士十家ではあの鬼王に敵うまい。自分の力が『昇陽』の為に振るうべきものならば、今こそ率先して、自分が出向くべきではないのか――そんな考えが強くなるにつれ、反対に八佗からの命令が心を苛む。
 己の意志に従うこと、それは八佗を裏切ることでもある。しかもその自分の意志とやらは、まだあの燥一郎による操作を受けているかもしれないのだ。そうした思考にがんじがらめにされ何も出来ずにいる己に、蛍は腹が立って仕方がなかった。
「蛍さん、今の内に大井山へ向かいましょう!」
 横合いからかぐやが、そんな鶴の一声を発するまでは。

「ええ!?」
 白戯が上げた仰天の叫び声には、どうしてそうなるんだ、という心の声がありありと含まれていた。蛍に至っては、驚きのあまり硬直している。かぐやに付き添うなずなとともえの二人だけが、ああやっぱりとでも言いたげに肩をすくめていた。
「お師匠様はああ仰られましたけど、本来なら閻王の居場所が分からないなんてこと、あるはずがないんです。お師匠様ほどの力があれば、『昇陽』中に起動式による監視の網を張り巡らしているはず。それでも居場所が分からないということは、閻王か久暁さんのどちらか――あるいは両方が、お師匠様の起動式を打ち消す手段を持っているということになります。久暁さんが手にする綺羅乃剣が直接の原因ならば、そう仰ってしまえばすむことなのに、お師匠様はその理由について一切語らない。何かを隠しているとしか思えません」
 綺羅乃剣に匹敵するものと聞き、蛍はすぐさま夢で見た血濡れの武器と、鉄忌化した左腕を連想した。どのような呪術で生み出された物かは分からないが、あれはこの世にあるべきでない存在だ。閻王を使役する立場にある八佗があの凶器について触れないというのは、確かにおかしな話である。
「私はお師匠様を信頼しています。でも、久暁さんと蛍さんが現れてからのお師匠様の言動には、違和感を感じずにはいられないのです。今までだって裏表のない性格だとは言えませんでしたし、自分勝手なところは相変わらずです。けれどもそれはあくまで『昇陽』の、私達のことを思っての行動に違いありませんでした。それなのに、ここ数日のお師匠様は『昇陽』の為ではなく、まるで独りで何かと戦っているようなのです。今回の久暁さんの失踪、閻王の暗躍、お師匠様の独断専行――本当は、全部繋がっているんじゃないでしょうか。私はどうしても自分の目で、それを確かめなければいけないのです」
 幼い頃から師事してきた八佗を疑うなど、かぐや自身も望んではいないのだろう。証拠に、彼女の手は微かに震えている。しかし鳶色の瞳の力強さは綴られる言葉以上に、決意のほどを物語っていた。それはある意味、白巳女帝の影武者として育てられたからこそ会得できた、カリスマ性とでもいうべき力の表れであるのかもしれない。あの講堂で白巳女帝を演じていたかぐやの正体を見破れなかった蛍だが、目の前の彼女を見ていれば、それも納得できるような気がした。
「それではかぐや殿は、その事を伝えるためにわざわざ主上になりすましてまでここを訪れたと……?」
「いやその事なんだけどよ、本当はかぐやは――」

 そう言いかけた白戯の両脇から、ともえとなずなの二人が目にも止まらぬ速さで口を塞ぐ。怒りもがく小柄な少年を羽交い絞めにした女武者二人は、何事もなかったかのようにへらへらと笑い、話を促した。
「何でもないから、続けて続けて」
「私達はかぐやの味方だもの。お師匠様が他所に気を取られている今が好機なんでしょう? 気付かれないよう、なるべく時間稼ぎしてみせるから早く出発して。もたもたしていると日暮れになって、また明日まで待たなくちゃいけなくなるよ」
 そうなずなが急かすと、息苦しさに顔を赤くした白戯が異議ありとでも言うように、一層抵抗を強くした。
「白戯、金魚の糞みたいにかぐやにくっついているアンタがここにいないと、絶対怪しまれるじゃないの。誰が一緒に行かせますかっての」
「心配しなくても大丈夫。蛍さんがちゃーんと守ってくれるものね〜」
 少しずつ顔色が赤から蒼白へと変わりつつある白戯には目もくれず、ともえとなずな――そして誰よりもかぐやは、蛍の返答を待ち望んでいた。
 迷いはまだある。けれども昨夜、蛍は義姉妹となることを申し出た時に、はっきりとこう告げている。
 自らを信じ律するためにも、かぐやが持つ意志の、その心を学びたい――と。
「かぐや殿、私はまだ自分で自分を信用できぬ。それでも、行動を共にさせていただいてよろしいのか……?」
「困った時にはお互い様です。私だって、今は蛍さんの力が必要なんですから!」
 そう言いながら、唐突にかぐやは蛍の両手を力強く握った。安心させようというよりも、まるで幼子が庇護者を求めるような手つきに、堪らず蛍は苦笑した。これではどちらが義姉か分からない。
「ありがとう、かぐや殿。心から感謝いたす」
「お礼なんてそんな。私達、姉妹の契りを交わした仲じゃないですか」
 安心したせいか、かぐやも蛍も、我知らず顔をほころばせていた。
 そういえば以前、蛍もこうして手と手を取り合い、誰かを激励した覚えがある。あれは八尺瓊の屋敷の前で、久暁と別れた時だったか。それよりも前にも何かあった気がするのだが、今はそんな回想に浸っている場合ではない。

 開け放たれた障子の向こう、広がる蒼天に浮かぶ月を視界に捉える。まるでここでの自分は、真昼の夜を生きているかのようだ。『昇陽』に残った者達からすれば、その光景は当たり前の事なのだろうが、常夜を生きてきた蛍には、まやかしの夢の続きを見ているように思えた。
 真白の半月はすでに、西の空へと傾き始めている。すぐに太陽も同じように山々の向こうへと消え、心細い星明りのみが煌く暗闇が訪れるだろう。
「行こう、かぐや殿。真の夜が訪れる前に。私が私でいられる内に……」
 せめて、あの悪夢の続きが最悪とならぬよう。
 祈る蛍の意識の片隅で、忘れていた朱蜘蛛の笑い声がまた、微かに聞こえたような気がした。





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