<武士八家>



 久暁の失踪。
 その旨を知らせるべく、相克酒場へと戻った蛍達を出迎えたのは、傾いだ一軒家を吹き飛ばさんばかりの大喝だった。
「このようないかがわしき場所に二度と主上を誘うなと申し上げたはず! 貴殿は何を企てておるのだ!?」
 まるで虎でさえ脱兎のごとく逃げ出しそうな銅鑼声である。憤怒の叫びに蛍が目を丸くする一方で、
「まずい、あの声は……」
と、白戯が口をへの字に曲げる。どうやら声の主を知っているようだが、蛍がそれを問うよりも早く、白兎の外套を纏う少年は、険しい表情で二人に向き直った。
「かぐや、悪いが見つからないように外で隠れていろ。おい、お前」
 相変わらずな態度に蛍の眉が顰められるが、白戯の急いた口調はそんなことなどお構いなしである。
「中にいるオッサンが帰るまでかぐやと一緒にいろ。何があっても側から離れるんじゃないぞ。いいな!?」
 有無も言わせず、白戯は酒場の戸口へと駆け出して行く。蛍の気性からすればそのまま後を追い、事の詳細を問いたださずにはいられなかったが、
「とりあえず、裏手に回りましょうか」
 かぐやの提案に衝動を抑えられ、仕方なく店の裏手側にある藪の中に身を隠すこととなった。もっとも、義姉妹の契りを交わしたかぐやの言葉だからこそ従ったという訳ではない。轟く大音声を耳にしたかぐやが、やけに緊張していることに蛍も気付いたのだ。
 二人が茂みに隠れたのを確認するなり、白戯が勢いよく酒場へと踏みこむ。
「大体からして、貴殿といい御左大臣といい、我々武士を何だと思って――」
 白戯が戸を開いた途端、銅鑼声がピタリと止み、一瞬奇妙な静けさが漂った。
「し、白戯!? お主まで斯様な所に……!?」
 銅鑼声が裏返り、憤怒の気炎が驚愕へと一変する。その直後にぶつけられるであろう言葉から逃げるように、白戯の踵が返される。
「こら待て! 待たぬか白戯いいいいいいッ!」
 一際大きな声が木造の家屋を震わせたかと思うと、一目散に駆け出す白戯に続き、禿頭の中年男が戸口から飛び出す。小柄な体躯に、口元には八の字の髭。鎧直垂の裃を着込み、腰には卯乃花色の帯を巻かれた太刀を挿している。身なりからして彼も武士らしいが、それ以上観察する余裕もない。両目をカッと見開いた男は白戯の名を叫び、眠りにつく『癒城』の夜闇の中へと消え去ってしまう。
 その怒鳴り声が遠のくのも待たず、蛍は藪から身を乗り出した。
「かぐや殿、あの者は一体どなたか?」
「あの方は白戯のお父上、現卯乃花うのはな家当主の卯乃花正隆まさたか様です」
 二人の後を目で追う蛍からの問いかけに、身を潜めたままかぐやは答えた。どうしてこんな時に――という小さな呟きも添えられていたのだが、
「何と、あの御仁がかの卯乃花正隆殿であったのか!」
 名前を聞くなり目を丸くした蛍に、その言葉は聞こえなかったらしい。
 封印≠ウれた『都』で育ったとはいえ、蛍は消えた武士十家の話を養父達から良く聞いていた。中でも頻繁に話の種となっていたのが養父・浅葱善也よしなりの好敵手と目されていた卯乃花正隆だったのだ。
「婆娑羅衆%「伐隊を選任する際、どちらが先行するかで大揉めに揉めた話など、幾度となく耳にしておったが……」
 『都』に居た頃は、当の本人を目にすることになるとは夢にも思っていなかっただけに、蛍の感激は大きい。好敵手であった正隆も封印≠ナ死んだものと思っていた養父が知れば、さぞや喜ぶだろう。
「やれやれ、いつまで経っても扱いづらい御仁だ」
「あ、お師匠様!」
 不意に聞き覚えのある声がしたかと思えば、戸口から八佗が姿を現した。白戯と正隆が戻ってくる気配もない。かぐやと蛍は藪から抜け出し、異人の右大臣の元へと駆け寄った。
「白戯が一人だけで戻るはずは無い。その辺に隠れているのだろうとは思ったよ」
 帰還した二人を見るなり、八佗はそう述べた。
「白戯もたまには機転が利くようだ。おかげでようやく、正隆殿から解放された」
「一体、先の卯乃花殿は如何なされたのですか?」
 問いに答える代わりに、八佗は店の奥にて未だ杯を傾ける二藍皐弥へと呼びかけた。
「二藍殿。今回の件について、正隆殿の元に知らせが届いていなかったようだが、これはどういう事かね?」
「奥方のけいか殿に、確かにお伝えしたはずなのですがね。ひょっとしたら、あえて伏せられていたのかもしれませんな。奥方と違い、正隆殿は右大臣殿をひどく毛嫌いしていられるようですし」
 しかし面倒なことになるな――そう呟き、杯を空けた皐弥の表情が険しくなる。
「あの様子ではすぐにつぶらい家にも今宵の出来事が筒抜けになるかと。明朝には召集の理由を根掘り葉掘り訊かれるに違いない」
 蛍にも聞き覚えのある円家とは、茫蕭の禍∴ネ前に左大臣派の中核を担っていた貴族の事だ。彼らの大半は『都』に残留しているが、『昇陽』に残った者達もまだその影響力を失ってはいないらしい。加えて、円家と右大臣派であった奉家とは、当然のように折り合いが悪かったとも聞いている。白巳女帝は奉家からの系譜、その上こうして表立って八佗が動いているとなれば、二十七年間における円家の苛立ちは相当な物と見受けられた。
 だが、八佗に師事する白戯と違い、その父親が右大臣を敵視しているとは如何なる理由によるものなのか。白戯にも八佗を快く思っていない節は見られるが、先の正隆の場合は、明らかに不信感が強く表れていた。
 右大臣家が地方武官の統率を担っていたということもあり、もともと武士十家には右大臣寄りの人間が多い。一族揃って左大臣派を標榜していたのは、代々近衛を務めてきた黄櫨家くらいのものだったはずなのだが――
「正隆殿に限らず、今も残る武士十家の重鎮は、そんな下らない派閥争いが元で私を嫌悪しているのではない。茫蕭の禍=\―いや、むしろ婆娑羅衆≠フ襲来以後か。あれからというもの、相手が渡来人というだけで拒絶感を示す者は少なくない。ましてや、奇怪な力を持つ者を朝廷に幾千年も潜ませていたなど、考えただけでも虫唾が走るのだろう」
 自嘲するでもなく、八佗は蛍の疑問に対し、他人事のように答えた。誰にもその深淵を見通させはしないとでもいうのか、黒眼鏡ごしの金色の瞳はあくまで冷ややかである。
 国を守護し続けてきた八佗からすれば、異形の力を理由に忌み嫌われるなど、憤って当然の事ではないのだろうか――少なくとも、蛍には納得できなかった。左大臣こと八尺瓊は、八佗以上に『昇陽』唯一の術師という超越者の立場でもって政権に関わっていたというのに。
 何故、八佗は理不尽ともいえる非難を、甘んじて受けているのか――

「ところで、君達は久暁殿を探しに行ったのではなかったのかい? 肝心な彼の姿が見えないが」
 思い出したように八佗が二人の少女へと問いかけてきたため、蛍の思考はそこで中断された。慌てて、問われた方も本題を持ち出す。
「実は、久暁殿が……」
 外套と暗器である鏨を残し、忽然と姿を消したこと。その不自然な痕跡から察するに、何者かに拉致された可能性があること。
 持ち帰った久暁の持ち物を見せながら、蛍とかぐやは状況をありのままに語った。出会ったばかりの皐弥、ともえ、流、そして酒場の女将二人までもが驚きで目を丸くする中、八佗もまた、眉間に深い皺を刻む。
「綺羅乃剣を手にしていたのにも関わらず、か……」
 八佗が訝しむ要因には、蛍も同じく引っかかっていた。綺羅乃剣を持っている限り、久暁が鉄忌に敗れるとは思えない。失踪現場に剣が無かった事から、いずこかにて手放したという可能性も捨てきれないが、いつも肌身離さず持ち歩いていた様子からすれば、それも考えにくい仮説である。
 となれば、久暁は綺羅乃剣の力が効かない何者かの襲撃を受けたという事になる。
「久暁さんを襲ったのはおそらく……いえ、きっとあの人、閻王です」
「か、かぐや殿?」
 おもむろにかぐやが挙げた名前は、一同の顔色から血の気を引かせた。蛍だけは彼女がそう断言した事に対し戸惑っていたのだが、他の者の動揺には恐怖や敵意が見え隠れしている。あの八佗でさえ、強張った表情の上に冷や汗を浮かべていた。
「そうか、た≠フか。何時を?」
「分かりません。とても暗くて、不鮮明でしたから……でも、閻王が関わっているのは間違いないのです。そして、早くしないと久暁さんが危ないという事も。お師匠様、お師匠様から閻王を説得して下さい! でないと、久暁さんが……!」
「少し落ち着きたまえ」
 興奮するかぐやを八佗が諌める。酒場に戻る途中、かぐやは最悪の事態≠ニいう言葉を口にしていたが、彼女が想定した久暁の危機とやらがいかなる物なのか、蛍もそこまでは聞いていない。しかしかぐやの必死の訴えは、まるで閻王という男の手に落ちる事は、地獄へ堕ちるにも等しいと物語っているかのようだった。
「ちょっと待ちなよ店長さん――いいや、右大臣様。かぐやちゃんが閻王と言い切る根拠は何なのさ」
「君らが知らずとも良い事だ。これ以上の口出しは慎みたまえ」
 閻王と聞き、黙っていられなくなった緑鈴が口を挟むも、あえなく八佗に一蹴される。鉄忌襲撃の線が薄いとなれば、雪女≠ニ渡り合うほどの戦闘力を備え、悪行という悪行を凝り固めたような人間であると伝えられる閻王が拉致の容疑者として挙げられるのは、無理からぬ事と言えた。
「右大臣……」
 それまで臆し、黙り込んでいた白巳女帝が、かぐやの様子を見かねて声をかける。主に促され、八佗も意を決したようだった。
「……承知したよ、かぐや。夜が明けるまでは、私の分身が総力を持って久暁殿を捜そう。閻王の元にも向かうが、真実彼が久暁殿を攫ったとして、大人しくいつもの野狂洞に篭っているとは限らないし、簡単に久暁殿を引き渡すとも思えない。その場合に備え、武士十家から数名を探索に出すことにするが、それでも構わないかね?」
「それは、その……むしろ、そうお願いするつもりでしたので構わないのですけれど。どうか武士十家の皆さんを動かすのは、明け方になってからにしていただけませんか?」
 暗闇を恐れるかぐやの事情に、八佗も思い至ったのか。これまでは半ば強引に自らが決めた予定を進行させていた八佗も、今回ばかりは折れることにしたらしい。
「良いだろう。たまには君の判断に任せてみようではないか」
 その言葉に、かぐやはようやく安堵の息をついた。八佗に深々と礼をし、何度も感謝の言葉を繰り返す。だが、彼女の師はすでに次の行動へと移っている。
「さてと。かぐや、君はともえと一緒に主上を御殿へお送りしなさい。それから、蛍殿は私の屋敷に泊まりたまえ。明日は卯の刻限までに起床。ゆるりと休む暇はないが、構わないかね?」
「もとより承知」
 夜明けに再び久暁を探しに行くと、かぐやと約束したのだ。本来ならばわずかばかりの睡眠時間ですら惜しい所である。
「それと、明朝には武士十家の重鎮達を招集し、蛍殿にもその場に立ち会ってもらう。この度は密会だったが、明日は正式な朝議の一環であることを、肝に銘じておくように」
「では、我らの久暁殿捜索は、その後に行うのですか?」
 蛍の言葉に、八佗はすぐに応えなかった。重い口が開くと、苦々しげな声が溜息混じりに呟く。
「できればそう素直に事を運びたいのだが、その前に説明しなければいけない事が山ほど出来てしまった。正隆殿がここに来てしまったおかげでね」





 結局、夜明けになっても久暁は戻って来なかった。
 八佗は一晩中『癒城』と大井山の周辺を探索したそうだが、久暁はおろか、件の閻王の姿すら見かけなかったという。
 ようやく冬の夜空が明るみを帯びてくる卯の刻限。身体にはまだ重い疲労感が残っているというのに、蛍は予定より一刻も早く目覚めた。久暁の安否を思えば、到底深い眠りにはつけなかったのだ。
 ひやりとした床に正座し、手付かずの朝食の膳を前にしながら、蛍は失踪した久暁を探しに飛び出して行きたい衝動を必死で抑えていた。
「君やかぐやの気持ちはよく分かるが、手がかりが無い今は耐えることだ」
 そう促されてようやく、蛍は麦飯に箸をつけたくらいである。
 八佗の屋敷は『癒城』のほぼ中心にあったが、彼以外の者を住まわせてはいないらしい。少なくとも、蛍は案内されてから今に至るまで、八佗以外の誰とも接触していない。かぐやも見かけなかった。
 その分、屋敷が無駄にだだっ広く思える。通常の貴族宅とも異なり、八佗の屋敷では外門をくぐってすぐ目の前で、母屋の正面がポッカリと口を開けていた。その左右には渡殿わたどので繋がれた離れがあり、蛍が寝食に使ったのはこちらに当たる。見た所、離れが居住に用いられる場所であり、母屋はその家屋丸ごと一つが講堂として作られているようである。
 蛍の朝食は一膳の麦飯に豆腐の冷奴、あとは山菜の煮物に味噌汁という、簡素極まりない物だった。味が悪い訳ではないが、かぐやの作る食事とは超え難い差がある。給仕の者すら見かけなかったという事は、この朝食は八佗の手によるものなのか。
「朝食を終えたら、昨夜渡していた着物に着替え、講堂に来たまえ。あと半刻もすれば、武士十家の煩い輩がここに集まってくるだろう」
 自身は何も口にせず、さらに休むこともなく、八佗は用件だけを告げて母屋へと戻っていった。蛍も早々に食事を片付け、命じられた通りに服装を改める。
 しばらくの間にすっかり馴染んでしまった黒装束から、白に薄藍を混ぜた色合いの小袖と、浅葱色の裳袴もばかまを合わせたいでたちへと。女物の着物に袖を通したのは、久暁と初めて出逢った時――下都に潜入した時以来である。蛍が八色の黒≠ナあった事を、頑なに武士十家から隠そうとしている八佗の事。蛍を浅葱家の生き残りとして紹介するつもりであろう事は、充分に察知できた。

 未だ蛍には、浅葱家≠ノ戻る資格など無いという意識が残り続けている。けれども久暁救出の為には、己の立ち位置などに拘っている場合ではない。それに、今の蛍には心強い義姉の支えがある。もはや、自身の内の闇に臆してなどいられない。
 予定の刻限は近い。大勢の武士十家重鎮を前にしても、己は己の成すべき事を果たすまで――
 そう金色の朝日に誓い、蛍は意を決して講堂へと向かった。
 わずか数分後にその出鼻を挫かれる事になるなど、想像できるはずもなく――





「お師匠様……これで、全員なのですか?」
 困惑する流が否定を求めて問いかけるが、八佗は無言のまま黒眼鏡を押し上げ、掌で表情を隠してしまう。それでも、彼が沸々たる苛立ちを抑えているであろう事は容易に想像がついた。
 定刻となると、その場の気温はより一層低くなったかのように感じられた。空いた席に座るはずだった武士十家重鎮らは、待てども現れる気配がない。
 息苦しい沈黙が漂う中、蛍は視線だけで居並ぶ面々を確かめる。
 上座にいる八佗から順に、卯乃花家の正隆、白戯、そして白戯の母であるけいかという淑女。厳つい表情で八佗を睨む正隆と違い、妻のけいかは夫以上に落ちついた様子だ。一部の乱れもなく整えられた結髪の下、野菊のように楚々とした顔立ちは白戯に似ていた。
 その向かい側に居るのははなだ流と二藍皐弥。さらにその隣には皐弥の兄にして、これまた流の叔父にあたる縹堂兼どうけんという男がいた。皐弥とさして歳は離れていないのだが、がっしりとした体格の皐弥と比べ、堂兼は文人である為か全体的にひょろりと細い。伸ばした薄い顎鬚を撫でる彼もまた、この状況には渋い表情を浮かべていた。
 続く顔色の青い若者は、蘇芳家の当主である蘇芳和士かずしだ。病弱だとは聞いていたが、実際に面してみれば確かに、横で彼を支えるように座る姉のともえの方がはるかに当主然としている。元服してはいるようだが、弱々しい体躯は未だに十代前半といっても差し支えのないほどに幼く思える。
 そのともえの横に座る少女も初めて見る顔だった。蛍と同じ年頃かと思われる彼女は山吹家本家の長女で、なずなという名らしい。長い黒髪を後ろで二束にくくり上げ、いでたちはともえと同じく男装。という事は、彼女もまた山吹家の後継者として教育された者であるのかもしれない。かつての蛍と同じように――
 しかしどういう訳か、常に八佗の傍にいるはずであるかぐやは、この場に呼ばれていないようであった。武士十家の集いに顔を出せぬほど、低い身分の出身だったのだろうか。

 以上、蛍も含めて十一名。集った者は、たったのそれだけである。本来ならば各分家筋の当主および、隠居した長老衆に至るまでが一同に会さねば意味をなさない会合のはず。誰も口には出さなかったが、十中八九、これには円家の干渉があったのだろう。
「フン、斯様な集いに長老衆が出向く必要などない。後で儂が一言一句漏らさず伝えてくれるゆえ、昨夜の密会について納得のいく理由を説明していただこうか、御右大臣」
 八佗を毛嫌いしているはずの卯乃花家当主が定刻通りに現れたのは、どうやら監視のつもりだったらしい。急かす卯乃花正隆の陰で、白戯が「余計な真似しやがって……」と小さく悪態をついた。幸い、当の父親には聞こえなかったようだが、集った者のおよそ半数は白戯と同意見であっただろう。
 八佗はわずかな武士十家の者達を睥睨へいげいすると、ようやく口を開いた。
「昨夜、正隆殿に知らせが届かなかったのはひとえに手違いがあったゆえ。その件については……」
「回りくどい。儂らはそんな弁明を聞きに来たのではない。当初の予定を急に変え、夜更けであるにも関わらず主上を連れ出し、あまつさえ相克酒場などに連れ込むなど笑止千万! 今度という今度は徹底的に、貴殿のその腹の底、ぶちまけてもらおうか。のう、各々方!」
 堂々と呼びかけた割に、同意の相槌一つ返ってこない。代わりに挙手をしたのは縹堂兼だった。
「卯乃花殿が仰るように、昨夜の密会の詳細については私も知りたい所ですが。今はまず、そこに座る女子が何者であるかを教えていただきたいですな。見慣れぬ顔ですが、武士十家長老衆も集う予定であったこの度の会に立ち合わせるほどの、理由のある女子なのでしょうか?」
 堂兼の問いが終わるよりも早く、蛍へと一同の視線が集中する。予想より数こそ少ないが、蛍の手に汗を浮かばせるには充分な警戒心が込められていた。

「では最初に、彼女の紹介からすませよう。そこに座るのは浅葱家当主・浅葱善也が養女で、浅葱蛍殿という。彼女は二週間前に封印≠越え、『央都』からこの地に現れた者だ。昨夜の密会は、彼女ともう一人の『央都』から現れた人間を、主上と謁見させるために設けたのだよ」
 それはこの二十七年間、起こりえなかった事件である。すでに聞き知っていた八佗の直弟子達はともかく、正隆やけいか、堂兼や和士らの驚き様は著しかった。
「ざ、戯言を申すな! 御左大臣の封印≠破ることはできぬと、貴殿自身が長年我らに言い聞かせていたではないか!?」
「しかしこれは事実。彼女は嘘偽りなく『央都』からやって来たのだ。蛍殿、君の知る浅葱家の内情を語ってみせたまえ」
「承知いたしました」
 促され、蛍は浅葱本家での暮らしをありのままに語った。記憶もなく、行き倒れかけていた幼い自分を救ってくれた義理の両親のこと。嫡子のいない浅葱本家の養女として育てられたことも――ただし、自身が八色の黒≠ナあった事は、あらかじめ八佗に指示された通りに伏せていた。
「確かに、浅葱本家の内情によく通じておるようだな。善也も、その様子では本人に相違ない」
 それでも蛍の言に信憑性を認めたのか。あの卯乃花正隆が大きく相槌を打った。
「あらあら。珍しく素直にお認めになるのですね、貴方」
「あやつの事は、この儂が一番良く存じておるからな」
 意外そうな妻の言葉に、自慢気な答えが返される。二十七年を経ても、正隆と善也の好敵手としての腐れ縁じみた絆は健在のようである。
「ヤツが『央都』で健在と知ったからには、ますます夷狄などにこれ以上好き勝手させる訳にはいかぬな。して、善也の養女よ。他に『央都』で生き残った武士十家はおるのか?」
「封印≠ノ巻き込まれた浅葱、黄櫨こうろ東雲しののめの三家共に多くの一族を失いましたが、幸い今日まで存続しております。しかし……」
 下都と上都、その様相がかつてとは大きく変わってしまった事を蛍は教えた。常夜の世の下、混乱が収まった後、下都を支配したのは享楽の歓楽街であることを。
 そして、『央都』での武士十家は、下都の暴走を食い止めるための監視役にすぎないと。
「何と不甲斐ない! 善也や東雲家の刀聖は何をしておるのか!?」
 今度は一変して、正隆の顔が憤怒の朱色に染まった。それは上都にいる蛍の養父、善也自身が歯痒く思っていることである。左大臣から自治を黙認されている以上、武士十家が表立って下都に介入することはできない。帝の近衛である黄櫨家はともかく、浅葱家と東雲家が長年鬱憤をつのらせているのは確かだった。
 加えて――東雲家にはかつて、刀聖≠ニ称されるほどの剣豪である東雲佐京さきょうという男がいた。東雲家の当主であった佐京はその剣の腕と高潔な人格から武士十家の中でも一目おかれる存在であったのだが、残念なことに、彼は封印≠ノよって消滅――いわば死亡してしまったのだ。
 そして佐京≠フ名は生き残っていた息子が継ぎ、今は彼が二代目東雲佐京を名乗っているのだが、これがとんでもない放蕩息子なのだと、蛍は養父から聞いている。武士同士の集いには一切顔を見せず、あろうことか下都の『彩牡丹』に入り浸り、ひどい時には二月以上も邸宅に戻らなかった時もあったという。『彩牡丹』といえば下都唯一の男娼街。後継問題にまでは飛び火しないとしても、悪癖から足を洗うきっかけがないため余計に性質が悪い。
 無論、そんな醜聞をこの場の武士十家達にそのまま伝える訳にはいかない。あいまいに言葉を濁しつつ、もしこの先、東雲佐京と顔を合わせたならば手討ちにしてくれると、蛍は改めて心に誓った。

「しかし、『央都』の者達が今日まで生き延びていたとなると、少々厄介な事になりますな……」
 蛍の話から現状を把握すると、堂兼は苦い表情で八佗に向き直った。
「御右大臣、貴殿は茫蕭の禍≠ェ終結した後、封印≠ゥら解放された『央都』と民がそのまま『昇陽』に戻ってくるとお考えか?」
「時間のないまま強引に『央都』を転位させた封印℃桙ニ違い、その解放は比較的安定した状態で行われるはず。消失の怖れはまずないだろうね」
「となれば……遅かれ早かれ茫蕭の禍≠フ脅威が除かれ、『昇陽』が『央都』を取り戻す時。武士十家――いや、今は武士八家ですな――が白巳女帝を奉り、再びかつてと同じく恒久たる治世を築いていく必要が出てくるか……その理想図を実現させる難しさ、分からぬ御右大臣ではありますまい」
 二十七年間、忘却の酔いに浸っていた『都』と、戦い続けていた『昇陽』との間には大きな溝が生じるだろう。
 無断での新帝即位に反発するであろう貴族の存在。
 滅びた刈安家と千草家の所領を奪う、公家に対する武士の憤り。
 そのいずれをも、もはや信用しなくなった『都』の民。
 例え八尺瓊が健在であり、八佗と共に人知を超えた力でもって統制を図ろうとしても、元の『昇陽』に戻すことは不可能に近い。『昇陽』の民の多くはすでに、茫蕭の禍≠経験したことで、そうした人ならざる者達が扱う事象に対し根強い畏怖の感情を抱いてしまっている。
 今、彼らが八佗や八尺瓊にすがらざるを得ないのは、鉄忌や雪女≠フ存在があるからこそ。災いが去った後、その力でもって『都』や『昇陽』の民の生き方を捻じ曲げ、矯正しようとするのならば、今度は彼らこそが雪女≠ノ代わる脅威とみなされよう。
「もとより、我らのみならず『昇陽』の民はこれまで、両大臣家に頼りすぎておったのではないかと……そんな思いはありませぬか、各々方?」
 堂兼の問いかけには、八佗への批判も含まれている。不敬な発言と知っていてなお、八佗はそれを咎めようとはしなかった。
「しかし堂兼殿。御左大臣でなければ『昇陽』の末端に至るまでの国勢を把握することは難しかったでしょうし、実際、そのおかげでこれまで『昇陽』では天災・飢饉による被害が現れることもなかった。それに今も、御右大臣はその身を盾にすることで、鉄忌による被害を最小限に留めている。かつては八色の黒≠動かしていた為に、各地での不穏分子の蜂起も事前に防ぐことができた。それを思えば、両大臣家から某ら『昇陽』の民が受けていた恩恵はあまりにも大きいのでは?」
 堂兼の横から、皐弥が反論する。実の兄弟であるはずなのに、二人はまるきり赤の他人同士として接しているかのようだった。
「何をたわけたことを。そもそも我ら武士十家の働きがあってこそ、『昇陽』の平穏は保たれておったようなもの。八色の黒≠ネどという汚らわしい一党とて、作らずとも良かったのだ」
 堂兼の意見を待たずして、皐弥の言を正隆が真っ向から否定する。だが、それで引き下がる皐弥ではない。
「公家衆の番犬扱いのままだというのなら、某らとて『央都』の武士達と何ら変わらないのではありませぬか」
「皐弥殿! 貴殿は二藍家当主でありながら武士十家を愚弄するか!?」
「そのようなつもりで申したのではありませぬ。某はただ、これまでの両大臣家と公家衆、そして民との関わり方を我らが正しく理解していなければ、封印♂除後に我ら『昇陽』の武士と『央都』の武士とを利用して、公家衆同士が戦を起こしかねないのではないかと、それを危惧しておるのです」
「そのような事、万が一にもあるはずがなかろう!」
 皐弥と正隆の応酬は収まる気配を見せない。武士十家を番犬と例えた皐弥の意見に、蛍も初めは反感を抱いた。だが、堕落した常夜の『都』と、左大臣・八尺瓊辛の恐ろしさを知る者として、戦の予兆を完全に否定することはできない。
 そうなれば、蛍はどちらの武士として力を振るえばよいのか。
 そして、あの儚人≠ニ呼ばれる人間の生き場所は、そこにあるのだろうか。例え決別したとしても、久暁が下都を捨てられるはずがない。なぜなら下都の『火燐楼』には――

 そこではたと気付く。自分が忘れていた何かを。
 想起できない曖昧な記憶の存在を。
 久暁を八尺瓊の元へと向かわせた理由――『火燐楼』の主とその妻は、どんな人間だったのか。
 ――何故、思い出せない?

「一同、おやめなさい!」
 蛍の思考を止めたのは、講堂に響く女の声だった。聞き覚えのあるその声音に、喧々囂々と繰り広げられていた議論が静まりかえる。
 いつの間にか外へと繋がる講堂の障子が開かれ、廊下に白い人影が一つ佇んでいた。外の薄雪よりも白い袿に、素顔を隠す市女笠と垂れ衣。それでも、武士十家達には彼女が誰であるのか即座に判別がついたようだった。
「しゅ、主上!? 御身一人で出歩かれるなど……!」
 それまで激昂で赤くなっていた正隆の顔色から、血の気がすうっと引いていく。白巳女帝の登場に衝撃が走る中、八佗だけがただ一人、無表情で主を見据えていた。
「主上、私はこの度の会合に御前が足をお運びになる必要はないと、申し上げていたはずですが。何故まかり越されましたか?」
「武士十家が『昇陽』の剣であるならば、それを振るうべき者が剣の心を知らずして何とするのです。結果だけを知れば良いという問題ではないのではありませんか?」
 それに――と、
「実際、この目と耳で確かめて正解でした。斯様な諍いを生じさせるほどに私が……いえ、朝廷を担う者全てが、民と武士からの信頼を失っていると分かりましたから」
「いや、それは、主上がご懸念されるような話では……」
 泡を食う正隆らの言葉を遮るように、白巳女帝は堂内へと歩み入った。市女笠を外さぬまま、未だ緊張に震える声で宣言する。
「もし貴方がたが私を信じられず、右大臣も信じられず、この先々で迷うような事があれば構いません。私を切り捨てなさい。私への忠義に縛られる必要はありません。それが『昇陽』のため、ひいては民のためとなるならば、私はどのような事態も甘んじて受け入れましょう」
「何言ってんだよ、姫様!」
 呆気に取られる年長達を尻目に、勢いよく白戯が立ち上がった。
「俺達が姫様を見限るなんて事、ある訳ないだろ! 何のために皆が茫蕭≠ニ戦い続けていると思ってんだ!?」
「こら白戯、主上に対し何たる無礼を! 姫様と呼ぶのも止せと再三言い聞かせておろうが! もはや子供の時分とは違うのだぞ!」
 息子の言動には容赦しないのか。我に返った正隆がすかさず白戯の頭に拳骨を食らわせる。あまりの痛さに悶絶する白戯に、どう応えて良いものかと狼狽する白巳女帝だったが、
「主上、心中はお察しいたしますが、今はどうかお控え願えますか」
 冷たい言葉が彼女の口を固く閉ざす。いくら相手が主とはいえ、予期せぬ乱入を許す八佗ではない。のみならず、彼を怒らせた本当の理由は別にあった。
「長年、御前に仕え、お育てしてきたのは私にございますが、自己犠牲の精神まで教えたつもりはありません。そのようなお考えは、ただの逃避です」
 それに――と、八佗は何か意を決したかのように続けた。

「武士十家の者達が危惧せずとも、元々私は茫蕭の禍≠ェ終結し次第、この国を去るつもりです」
「お師匠様!?」
「右大臣……」
 突然飛び出した八佗の発言に、直弟子達が思わず叫ぶ。白巳女帝に至っては、完全に二の句を次げないでいた。
「誤解しないで頂きたい。これは私という障害を除くことで『昇陽』を安定させようという親切心からではない。茫蕭の禍¥I結と同時に私の役目は終わる。それだけの理由です」
 淡々と語る八佗の金色の瞳に翳りはない。彼が本気なのは確かだった。

 しかし、その額には冷汗が浮かんでいる。会合が始まって以来、常に全体の意見に耳を傾けていたはずの八佗だが、この口論が繰り広げられていたわずかな間に、何があったのか。無表情の裏では、わずかに恐怖と憔悴の残滓が見え隠れしていた。
 まるでここではないどこかで、死の影でも見たかのように。

「八尺瓊については少々厄介だが、おそらく近い内に、そんな杞憂をしている暇もなくなるだろう。主上と一部の者にはすでに話してあることだが、おそらく八尺瓊辛は何らかの形で、とうに茫蕭≠フ手に落ちたものと思われる。ある人物の証言と、ここ数日における鉄忌の行動の変化が、それを物語っているのでね」
「そのある人物というのが、昨夜の密会にいたという、もう一人の『央都』から来た者なのでしょうか?」
 弱々しい声で問いかけてきたのは、ともえの弟である和士だ。彼は議論には一切口を挟まず、代わりに一部始終を筆記していた。おそらく、そうでもしなければ身体の弱い彼ではこの勢いについていく事ができないのだろう。
「話を戻せば、御右大臣は蛍殿とそのもう一人の来訪者を主上にお目通りさせるため、昨夜の密会を設けたそうですが。『央都』の現状を知る重要な機会に、なぜ武士十家の重鎮を招かず、極秘裏の会合という形を取ったのです? それに、そのもう一人とやらは今どこに?」
「昨夜の会合の最中に席を外し、一人になった所を拉致されたのだ。攫ったのは十中八九、閻王と思われる」
 八佗の答に現れた名は、ようやく温もりを帯びてきた早朝の空気を、たちどころに極寒の夜の気配へと変じさせる。そう錯覚するほどに、年長者である堂兼と正隆、そしてけいかの硬直は長かった。
「閻王……あの非道鬼畜の悪鬼が」
 ようやく声を絞り出した正隆の双眸には、卯乃花家の棟梁らしくもない明確な敵意と殺意が表れていた。彼だけではなく、表面上は感情を抑えているように見える堂兼やけいかの顔色にも、同様の嫌悪感が漂っている。
「ならば、即刻救い出すべきであろう。なぜそちらを優先せなんだ!?」
「その証人が異国人との混血であることを、後で非難されても困る。昨夜の出来事も含め、あらかじめ説明しておかなければならない事が多すぎるのだよ」
 誰かさんのせいでね――という皮肉は胸の内に留める。そんな八佗の心中などいざ知らず、
「異国人なのか……」
「半分は、だが。助けるのが嫌になったのかい?」
「わ、儂がそのような小さき理由で二の足を踏むか! ならば即刻、あの悪鬼を縛り上げてくれようぞ!」
 正隆の意気はますます盛んになっていた。引き止めなければ、そのまま単身で野狂洞へ乗り込みかねない。反対に、若年である皐弥やともえ、八佗の直弟子達は躊躇している。
 今は良い。しかし、久暁を無事に救出できたとしても、次には閻王に向けるものと変わらない蔑視をこの年長者たちが抱くのではないか、と。
「各々方が協力する気になって頂けたのは嬉しいが、詳細が掴めるまで、例え発見したとしても今は閻王を下手に刺激しない方が良い。懲罰を承知で拉致を行い、姿をくらましたからには、何かしらの策を講じている可能性がある」
 若者達の間で懸念がつのっていると知りながら、八佗は久暁救出について話を進めていく。
「大人数よりも、ここは少数精鋭で向かうべきだ。そこで――」
 この中では久暁のことを最もよく知り、鉄忌に対処できる蛍を捜索隊に参加させる。その旨を伝えようとした、その時。

「おい、どうしたお前。顔色が悪いぞ」
 不意に、白戯が蛍に呼びかける。彼の言う通り、俯いた蛍の顔色は蒼白となっていた。
 白巳女帝が現れた前後から様子がおかしいことに、八佗も気付いてはいた。しかしいつから、このように頭を抱え、苦しげに目元を歪めていたのか。その苦悶の表情は二週間前の、八尺瓊の起動式を解除した後のそれとよく似ていた。
「おい、悪いものでも食ったのか?」
 見るに耐えかねた白戯が傍に近づく。それでも蛍は首を横に振り、声音だけは気丈に振舞おうとした。
「大した事ではない。ただ、今何かを、思い出しかけ――」

 言い終わらぬ内に、異変が蛍を襲った。

 身体が大きく反り返り、双眸が白目をむく。
「蛍さん!?」
 誰かの、聞き覚えのある声が少女の名を呼んだ。しかし返事の代わりに蛍から発せられたのは、白い雷光。
「な、何だよこれ……!?」
 呆気にとられているのは白戯だけではない。八佗の黒眼鏡にも、蛍の身を這うように現われては消える雷の火花が映っている。
 腰を抜かす弟子を横合いから突き飛ばすと、八佗は蛍の肩を揺さぶった。雷光はその手の上でも走ったが、痛みは全く感じられない。
「これは、起動式によるものではないというのか? まさか……」
 八佗の指が蛍の額に触れ、金色の瞳が閉ざされる。それでも、何も見ていない鳶色の瞳は、未だに虚空を眺め続けている。

「サイコウセイマエノキロクノザンリュウヲカクニン。フテキゴウ、ムイミ、ケッカンジョウホウトミナス」
 八佗の調査が原因を突き止めるよりも先に、蛍らしからぬ無機質な声が彼女の口からこぼれ出る。それは『昇陽』の言語でありながら、全く違う、どこかの異国の言葉であるかのように遠い響きをしていた。

「サクジョ、ジッコウ」

 謎の宣言が下された直後、蛍の視界と意識は、再び夜に似た暗闇の中へと沈んでいった。





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