<業負いし左腕>



 雪だけでなく、枯れ落ちた笹葉が積もる斜面はひどく滑りやすい。幾度も足を取られかけながら、長身は竹林を疾駆する。
 ざわざわと鳴る音は周囲の黒竹が騒ぐ音のみにあらず。
 空を赤黒く染め、閻王の元へと飛来した咒符は、差し出された黒い左腕をたちまちの内に包み込んだ。その渦が鎮まっていったかと思うと、群れの中から四五枚、弾き出された紙片があった。
 笹葉を切り落とし、竹の節を貫きながら獲物を追跡する凶器。それが音を立てて久暁を追う物の正体だった。

 不意に後ろ髪を強く引かれ、久暁の足が止められる。振り向いた視線の先にあったのは、己の髪に絡みつき、一本の黒竹と接着させている奇妙な粘質の物体だった。よく見れば、一部にはあの咒符の切れ端が付着している。いや、この場合は咒符が溶解し、変化したということなのか。
「くッ……!」
 焦りの色を浮かべた久暁が髪を強く引けども、それはしっかりと獲物を捕らえて放さない。にかわのように強固な粘着力だった。
「動いたらどうするか言ったはずだな。覚悟はできているか」
 そんな久暁の窮地を嘲ける声がこだまする。
 密集する竹が生み出す、幽かなる真昼の闇。薄雪が太陽の仄明かりを受け、より白さを際立たせる空間の先――彼方に見えるは影法師。群生する竹に阻まれ、遠くから歩み寄るその姿を全て把握することはできないが、彼が凶器を携えているのは確かだった。
 でなくば、彼が歩むと同時に、真白の雪に赤黒い斑紋が描かれていくはずがない。
「あれは、何だ……?」
 遠方の影を視野に捉え、久暁の心臓が一寸、ひときわ大きな鼓動を打った。
 閻王の左手は今、あの大鉈とよく似た形状の得物を握っていた。先ほど八佗と議論していた時、彼は武器らしきものなど何も手にしていなかったはずだというのに。
 突然現れた武器はまるで虐殺を終えた直後のように、すでに血塗れと化していた。ただし、滴り落ちているのは誰の血でもない。
「右大臣は貴様を救わんぞ。すでに奴はこの界隈から姿を消した。貴様に件の話を聞かれたとはまだ知らんだろうが、知るも知らずも関係ない。この鉄忌の血潮より造り出した血刃の前では、起動式により作り変えられ、傀儡と化した奴の体は格好の餌食となる。あれだけ長らく生き恥を晒していれば、なおさら無駄死になどしたくはあるまい」
 淡々と語る閻王が一歩踏み出すその度に、赤黒い大鉈そのものが一瞬形を崩し、脈動にも似た波紋を浮かべる。身じろぎする刃から落ちた液体は、雪を点々と赤く染めておきながら、閻王の足が過ぎ去りかけるとたちまち時を逆行させたかのように、再びおのずから刃へと還っていく。
 それと同質の物を、久暁は知っていた。閻王の言葉が裏付けたように、真実その禍々しい武器は、洞窟内に溜め込まれていたあの血溜まり――鉄忌の体液から作られたものらしかった。しかし、鉄忌の体液が様々な形状に変化し体組織を構成できるのは、あくまでも鉄忌の内部にあるからこそではないのか。咒符や大鉈への変形を促し、なおかつ自在に操るという行為が、なぜ人間である閻王に可能なのか。

 噴出する疑問への解答を、久暁の直感は導き出さなかった。今はただ、脱出の際に入手した短刀を懐から取り出し、残る後ろ髪を根元から掴み上げる。そのまま下からすくい上げるように刃を走らせ、捕らえられていた髪を全て切り捨てる。
 はらはらと雪に落ちる赤銅色の毛には目もくれず、解放された久暁は再び獣道を蹴った。つい先刻までくらい篝火を背負っていたかのようだった後ろ姿は、今や遠目から見れば薄闇に溶け込んでしまいそうなほどに小さく思えた。その背へと、さらに低い声が追い討ちをかける。
「逃げるか、だろうなぁ。それしか貴様の生き延びる術はない。例え抗おうと、本能が生存率の高い未来を選択させる。それが標持ち≠ニいう生き物だ。所詮は貴様も、その弱い生き物の一人にすぎんという事か」
 緩慢に歩む閻王の姿はまだ遠くにあるが、その言葉はやけにハッキリと、久暁の耳に刻みつけられた。唐突に足が止まり、血色の瞳が背後へと視線を投げかける。手負いの獣にしては恐怖心よりも敵意が強く表れている双眸に、閻王の口元が深く弧を描く。
 だが、その愉しみはなおも背を向け走り出した久暁により、直ちに消えうせることとなった。
「……こんなくずが阿頼耶の子だと? こんな脆弱な人間が?」
 竹林に紛れ、遠ざかっていく獲物を視線で追い続けながら、閻王は失望に満ちた溜息をついた。
「淘汰してやる」
 宣言するなり、血固めの大鉈がまたもや紙片の渦へと変わる。
 短くなった髪の下、あらわとなったうなじを直に撫でた、ゾクリという気配。それが冷気ではなく殺意だと判断するや否や、久暁はとっさに地に伏せた。

 直後。
 横たわる長身の上を、嵐が通り過ぎていった。

 先程はまだ障害物を避けつつ飛行していた咒符だが、今度は違う。無数の凶器が笹葉を散り散りに切り刻み、居並ぶ黒竹を瞬時に切り倒す。その様は、いなごの群れが飛来しながら稲穂を食い倒していく様子にも似ていた。
 生きた紙片の跳梁が終わると共に、散らされた葉と両断された竹そのものが束となって、久暁を押し潰しにかかる。細切れにされた葉と雪をまともに被りながらも、久暁はすぐさま立ち上がり、間隙を縫ってこの障害物を回避した。
 倒れた竹はたわんだ音を響かせ、折り重なり山となる。その上へと足を伸ばしかけた久暁だったが――
 肌を粟立たせる威圧感に思わず振り向けば、あの巨影がすでに間近にまで迫っているではないか。
「早すぎる……!」
 驚愕するのも無理はない。つい最前まで、周辺一帯では竹が次々に倒れこんでいたのだ。しかもこの斜面の土はひどく滑りやすい。いくら砂螺人とはいえ、あの距離を一直線に駆け抜けるのは容易でないはずだった。
 しかし、閻王はそれを可能にした。地面から垂直に伸びる竹の切り口を足場にし、跳躍を重ねて久暁の元へと詰め寄ったのだ。先の咒符は、はなからこうする為に放ったものだったのか。地面の悪条件や、行く手を阻んでいた竹林はもはや関係ない。
 一本の竹の上に片足で降り立った閻王の左手から、赤い線が放たれる。咒符から大鉈へ、大鉈から咒符へと形を変化させた凶器は、今また一筋の鎖となって久暁の脳天へと襲いかかった。
 対する久暁の右袖口からも、黒い蛇に似た鎖が放たれる。ジャラリという、馴染みのある金属音が敵を威嚇する。
 二筋の鎖の一方は直線を、もう一方は弧を描く。衝突は、久暁の操る鎖が赤い鎖を絡め取る形で膠着状態へと移った。相手の体勢を崩すべく、腕一本の力に支えられた静かな攻防が繰り広げられる。
 もともと鉄鎖術は足場の悪い砂漠でも戦えるよう、砂螺人が考案した武術である。下手に身動きが取れぬ状態を前提としたこの武術は、使用者が窮地にあればあるほど、使い方によってはより効果を発揮する技だと言える。両者の内、それを確実に理解していたのは、巨躯を片足で支え続けている閻王の方だった。
 相手の不利を予測していた久暁だったが、絡み合う赤い鎖が散り散りに砕け散るなり、勢い余った身体が後方へと傾く。
 前へと滑る足に力を込め、転倒そのものは防いだ。だが、その隙を逃す閻王ではない。
 四散し、液化した鎖の破片が凝り集まり、今度は幾本もの針と化す。ヒュッという鋭い吐息が閻王の唇から発せられると、宙に浮かぶ針達は一斉に久暁の元へと飛んだ。体勢を崩した焦りから、判断に狂いが生じる。結果、満足に避けきれず、久暁は右肩と右脚を針に貫かれた。
 一点を火で炙られるような痛みが、たちどころに傷口周辺へと広がっていく。それでもなお鎖を振るおうとした久暁の顔面を、間髪入れず鉤爪のような掌が押さえ込む。
 飛びかかった黒影は獲物の視界を奪い、捕らえた頭を地に叩きつけた。
「いッ……!」
 苦鳴を漏らすことさえできない、強烈な痛み。
 揺れる視界が定まるのも待たず、血刃を手にした鬼人は、横たわる身体を片足で踏みつけた。蔑むような視線はそのままに、足下の久暁へと冷笑が投げかけられる。
「この玩具の面白い使い方を教えてやろうか?」
 そう言うと、血濡れの大刀がまた形を失い、閻王の左腕を全て包み込んだ。一見すれば赤い手袋を装着しているかのような見た目だったものが、じきに硬質の質感を備えていく。一分も経たぬ内に、閻王の左腕には禍々しい刃の五指を供えた手甲が形成されていた。
「さて、この玩具が生きているという事は察知しているな。この刃を貴様の脆弱な身体に突き刺し、挿入した刃先を体内で溶解させればどうなると思う?」
 問いかけながら、屈み込んだ閻王の五本の刃が、紋様を浮かべた肌を撫でる。赤い刃は鉄忌の体液と同じく、ひどく冷たかった。
「こいつらは常に、動力となる餌を求めている。餌となる最たる物は熱と光。それは鉄忌として活動している状態においては眼球部分にて生成・蓄積され、そこから一定量の餌を与えられると同時に、こいつらは活動を操作される事となる。そして、鉄忌はその辺にいる獣共が造り変えられて生まれた存在だ。つまり奴らの餌となる熱と光の源は、元はといえば動物が体内で生成していたものと同質の力だとも考えられる。人間とて、その例外ではない。だからこそ鉄忌は人を襲うのだ……どうだ、体内からあらゆる器官を貪られる感覚、味わってみるか?」
 それとも、と閻王が呟くと、不意に刃が形を歪ませる。
「あらかじめ溶解させたコイツを、口から直接流し込んでやるのも一興かもしれんな。それこそ、溢れるくらいに……」
 どちらにしようかと、閻王は愉しげに思索を練っている。命を握られた久暁は今や身じろぎ一つしないまま、息を殺すことしかできないでいた。
 しかし――

「チッ……大人しく従え、このちりどもが」
 先ほど歪んだ五指の刃が、激しく身を震わせた。閻王の顔にたちまち苛立ちの色が表れる。
 まだ完全には凶器を支配できていなかったのか。逡巡した一瞬の隙に、赤黒い手甲はドロリとした液状に戻り、閻王の腕から雪の上へと滑り落ちていった。この好機に、久暁の双眸が火を取り戻す。
 刃を失ってなお獲物の喉笛を掴もうとした閻王だったが、その目により早く雪が投げつけられる。常人よりも強靭な肉体を持つ閻王とはいえ、鍛えようのない眼球は人並みの急所となる。
 血に飢える瞳が閉ざされた刹那の内に、久暁は腹部を踏みつける足の首へと短刀を突き立てる。厚手の布となめし革に阻まれ、鈍い刃は半ばまで沈まずに止まった。だが、腱を狙う一撃を警戒してか、黒い右脚が獲物から離れる。
 久暁は身を捩り、すぐさま閻王の足下から逃れた。これほど激しい攻防を繰り広げているというのに、地に押し倒されたことで、冷えた身体はより鮮明にあの文様を肌に浮かび上がらせている。それはまた、雪に濡れた着物が体温を奪っていくせいもあるのだろう。
「全く、貴様の往生際の悪さにだけは感心させられるな」
 言いながら閻王は、危うい所で止まった足首の短刀を引き抜いた。
「フン、なるほど。標持ち≠ネだけはある。こと生存を賭けた勘と洞察力においては、純粋な砂螺人以上の直感力を持ち合わせているのかもしれんな。もっとも、その程度では無力と変わらんが」
 語る閻王の左手では、すでにあの凶器が元の大鉈の形を取り戻しつつあった。
 冷たい空気を肺に送りこみ、久暁は次の手に備え、思考を覚醒させる。あの変幻自在の武器が鉄忌の体液から作られたものならば、綺羅乃剣でなければまともには立ち合えまい。しかし、肝心の剣は閻王の手中にある。

 もはや打つ手は無いと、死の覚悟を決めるべきなのか。
 否。久暁の狙いは初めから別にある。正確には、逃げる背へと閻王が嘲りの声を投げかけたその時からだが。
 逃走のための闘争――久暁の意志はすでに、その一点のみに向けられていた。そうでなければ、『都』へは戻れない。
 閻王はあの凶器をまだ完全には扱えていないらしい。先程のように使い手の意思に反するか、それでなくとも変化中の時ならば隙が見出せよう。
 ――こいつらは常に、動力となる餌を求めている。餌とはすなわち熱と光。
 不意に、閻王の言葉が脳裏に蘇る。着物の左たもとに手を伸ばし、残る武器の感触を確かめる。
 ――勝機はまだ残されている。
「どうした、もう逃げないのか?」
 この期に及んで手元を探る久暁の様子に、何かを予期したのか。ようやく大鉈となった武器が、またもや姿を変えていく。
 形を成すのは咒符か、鎖か。もしくは針か、はたまた手甲か。
 完成を待たずして、久暁は後方へと下がった。直後、後を追うように凶器が金属音を奏で、宙を舞う。
 閻王が次に選んだ武器は鎖だった。ただし、空を切り裂いた蛇の威嚇音は二重となっている。赤と黒との二条の線。片方は左手から放たれた例の凶器、もう片方は右手が握る通常の鎖。それは閻王が常日頃から愛用している物だ。
 だが、予期せぬ隠し技を前にしていながら、久暁は冷静そのものだった。むしろその一手が咒符や針で無かったことを――閻王の手から武器が離れなかったことを、感謝していたほどに。
 襲いかかる鎖の軌道を予測し、寸での所でその攻撃から逃げる。ただの鉄鎖は難なく避けられても、鉄忌から作られた武器はそうもいかない。生きた鎖は雪を薙ぎ払ってもなお、久暁を追い続けた。追尾してくる鎖を止めるべく、再び久暁も自らの鎖を放つ。
 いや、その真の標的は閻王の方だった。眼前に迫る赤い鎖には目もくれず、右手に持っていた鎖を全て投げつける。案の定、その攻撃は閻王に届くよりも先に、踵を返した赤い鉄鎖によって打ち落とされる。だが、久暁が求めていたのはこの一瞬――閻王の注意がそらされるこの瞬間に他ならなかった。

 左袖のたもとを引きちぎり、隠していた物を雪の上にばら撒く。雪に上手く受け止められた為、ビー玉ほどの大きさをした球体には傷一つ付いていない。それが鉄忌の眼球だと閻王が悟った時には、久暁の両手が雪ごと球体を掴み取り、勢い良く翻っている。
 投擲されたのは二塊の雪玉だった。右手からはまっすぐ閻王を狙って飛ぶ物が――そして傷ついた左手からは、標的よりも若干ズレた方向へと緩やかに飛んでいく雪玉が放たれた。
 果たして、鉄忌の眼球はいずれに含まれているのか。確実に狙いをつけたものか、それとも裏をかいて手負いの左手が投げたものか。無論、両方ともハズレ、もしくは当たりである場合も考えられる。
 ――下らない児戯だ。
 閻王はその攻撃を心中で嘲笑った。並みの人間ならば、どちらの雪玉に鉄忌の眼球が含まれているのか、という迷いから隙を生じさせ、確実に当てられるであろう。だが閻王ならば、隙を突かれたとはいえこの程度の同時攻撃は容易く回避できる。
 投げる寸前での久暁の動作、雪玉の速さ――あらゆる条件が真偽の判断材料となる。雪で覆い隠そうが、閻王の目には透けて見えるも同然。鉄忌の眼球を仕込んであるのは左手が放った方の雪玉に違いない。
 確信するなり、真正面から来た雪玉を鎖で払い除け、閻王は突進する。久暁の本命であった雪玉は紙一重でかわされ、虚しく背後の竹の中へと消えてしまった――かと思われたが。

 攻撃の真偽に気をとられ、閻王は見逃していた。雪玉を放った後、久暁の右手が立て続けに鏃のような物を投げていたことを。
 気付けなかったのは、単に隙をついたからだけではない。
 極々小さな鏃は、閻王にかわされた方の雪玉の陰に隠れ、その後を追っていたのだ。
 自分の身体をかすめた違和感に、巨躯の進撃が止まる。
 視界の端にて捉えた鏃の正体。そして、一歩も退かぬ獲物の様から会心の意思を嗅ぎ取るや、老獪な紅い瞳が大きく見開かれた。
 驚愕からではなく、衝撃と屈辱により。

 黒い鏃――その鉄忌の外殻の破片は、雪玉に隠されていた眼球を過たず打った。
 瞬間、蒼天と竹林が生み出した幽玄の薄闇は、地上の雪にも劣らぬ真白の爆発に飲み込まれた。
 いや、爆発と言うよりも、それは雷光そのものだった。

 冷気を切り裂く光が、二人の紅い瞳を焼く。
 鞭を激しく打ちつけるような音が二人の耳を貫き、続けて熱風が肌を撫でる。
 刹那の事とはいえ、全ての感覚が奪われるほどの威力。その光の爆発が、あのたった一つの眼球から生じるなどと、仕掛けた久暁本人にも俄かには信じられなかった。ある程度の威力は予想し、破裂する直前に目を閉ざしてはいたが、それでも久暁の視界が闇色から元の状態に戻るまでには相当の時間を要した。
 もっとも、至近距離で直撃を受けた閻王の被害など、久暁の比ではない。
 久暁が視界を閉ざした後に、何が起きたのか――雷光の破裂が背後で起きたため、彼が光を直視することは無かった。しかし放出された光を求め、赤い鎖がおのずと動いた事が災いとなる。
 雷光が現れ、消えるのと同時に、閻王の身体を青白い火花が駆け巡った。鎖とそれを持つ左手を伝って、雷光が彼の体内にまで流れ込んでしまったのだ。
「おおおおおおおおおおおッ!!」
 咆哮を上げる黒い巨影はがくがくと痙攣し、白目をむいて仰向けに倒れた。その一部始終を久暁は直視しなかったが、周囲が静けさを取り戻した様子から、閻王が大打撃を受けたという察しはついた。鼻をつく焦げた臭いからして、彼の衣服も一部焼けたらしい。

 視覚が完全に回復するまでには、まだ少し時間がかかる。だが、そこは『都』において鉄燈籠の光を避けるために、常日頃から両目を閉ざしていた久暁の事。満足に視界が効かずとも、直感力を頼りに閻王の元へと歩み寄る。
 触れられるほどの距離に近付いても、倒れた閻王はピクリとも動かなかった。
 警戒しながら手探りで黒衣を調べ、銀筒の触感を確認する。しかし、焼け焦げた衣の隙間から覗く閻王の身体に触れた途端、剣を握る手が硬直した。
 閻王の右半身にはまだ温もりが残っているのだが、例の武器を操っていた左腕から先、胸元にかけてまでが恐ろしいほどに冷たかったのだ。
「まさか……」
 殺してしまったのか――そんな予感が、久暁の胸中を昏く染めた。死して間もない鉄忌の眼球が、あれほどの威力を持つものだとは知らなかった。とはいえ先程の攻撃は、相当の打撃を閻王に与えるのを承知の上で仕掛けたものだった。閻王の過去の悪行と、自分にした仕打ち、そして今この時の生死を賭けた戦いの事を思えば、眼球を破裂させることに躊躇はなかった。
 では何故、これほどまでに不安と罪悪感がこみ上げてくるのか。
 久暁は人間を殺したことがない。斬ったことはあるが、殺したことはなかった。自分に人として生きる資格があるのかも分からないのに、他人を殺すなどあってはならないことだと言い聞かせてきた。利宋の元にいた時も、『火燐楼』にいた時も、誰に頼まれようと妖物以外を殺す気になどなれなかった。唯一、燥一郎を斬る決意をした時以外は――
「閻王、死んだのか……?」
 手に触れる体温と、霞む視界に映る姿だけでは判断できない。剣を持つ右手を恐る恐る、しわの刻まれた口元へと寄せる。すると、微かではあったが呼吸が感じられた。
 生存を確認し、久暁は思わず安堵の息をつく。それはただ、殺さずに済んだという安心感から出たものではないのだろう。罪人であり、敵になり、否定されようと、彼が自分の父親かもしれないというおそれがあったからこその安堵であったのかもしれない。
 だが、いつまでもここでじっとしている訳にはいかない。閻王が負傷したとなれば、八佗が舞い戻ってくる可能性は高い。
 閻王をこのまま放置するのは気がかりだったが、事態は一刻を争う。この山から逃れるべく、未練を断ち切り久暁が立ち上がろうとした、まさにその時。

 硬く冷たい力が、久暁の右腕を掴んだ。
 驚いた久暁の、回復しかけた目に映った物。それは一見すれば、あの赤黒い血濡れの手甲に似ていた。だが、あくまでも武器として装着していた例の手甲と違い、その鉄の腕は鉄忌の腕そのものと変わらない。
「殺し損なっていながら安堵するとは、ますますもって貴様は愚かだな」
 地の底を震わすような声音が、真下から久暁を嗤う。直後、それまで身動き一つしなかった閻王の上体が、撥ねるように起き上がった。
「ああ、今の攻撃は上出来だったぞ。この俺の読みを、わずかとはいえ上回るとは」
 左半身の顔にはわずかに火傷ができていたが、狂光を宿す紅い双眸と、弧を描く口元には何一つ損傷の影響は表れていなかった。まるで、何事もなかったかのように。
 あの光の爆発が閻王に打撃を与えたのは確かなはずだった。それは彼の焼け焦げた衣服が証明している。しかし、黒衣と手袋の破れ目から覗く左半身をはっきりと認識した久暁は、今度こそ言葉を失った。
「だが、残念だったな。あの程度の雷ではこの左腕がすべて捕食し、肉までは届かん」
 閻王はゆるりと立ち上がると、捕らえた右腕ごと、自身の左腕を見せつけるように高々と掲げた。
 その掌と腕、そして肩は完全に鉄と化していた。それに胸元の、ちょうど心臓があるであろう位置を境目にして、外殻と浅黒い肌が融合している。いや、鉄忌化しかかっていると表現する方が正しいだろう。
「何だ、その腕は!?」
 剣を手にしたまま手首を捻り上げられ、久暁の顔は苦痛に歪んだ。それでもなお、閻王の異形化を問い詰めずにはいられなかった。
「これか。あの鉄忌の血を弄っている内に食われたらしい。今でもじわじわと、隙あらば俺を鉄忌に作り変えようとしている。もっとも、こんな形で役に立ったのならば、悪くはなかったな」
 事もなげに閻王は述べたが、思えば奇妙な点は初めから多々あったのだ。
 どうして以前は右手にしていたはずの凶器を、今回は左手で操っていたのか。
 人の身で、変幻自在に鉄忌の体液を扱うことができたのか。
 そして幾度も左手から感じた、凶器そのものにも似た感覚――
 あの凶器はすでに、閻王の一部も同然だったのだ。
「八佗はこの事を……」
「知っているに決まっているだろう。だからこの武器を俺以外の誰にも触らせず、存在をひた隠しにしてきたのだ。さて、愚問に付き合わされるのもここまでにしてもらおうか」
 言うなり、鉄の手が剣を手放そうとしない腕をさらに締めつける。痛みに呻く久暁の喉元を右手で捕らえ、閻王はさらに続けた。
「そんなガラクタのために投げ出すほど安い命など欲しくはないが、この俺をめた代償は払ってもらうぞ。貴様から全てを絞り出してでもな。さあ、貴様にとっての貴きものとは何だ? それは『都』にあるのだろう?」

 『都』という言葉を耳にした途端、久暁の目に鋭さが戻る。その反応は閻王の予想を確信に変えた。
「財などでは無いな。女か、友か、はたまた両方か。何にせよ、命を賭してまで『都』に帰りたがる理由があるのは確か。それを奪い尽くせば貴様は死んだも同然だ。壊す価値もない奴にはそれが一番マシな始末の付け方だ」
「何、だと……」
「俺があの女を殺し、茫蕭の禍≠終結させてしまえば、次に掃除されるのは『都』だ。別事に囚われているあの右大臣にとっては、茫蕭の禍′繧フ『昇陽』など知った事ではなかろうが、他の武士や公家どもならば間違いなく、野放しとなっていた『都』を邪魔に思うはずだ。最悪の場合、戦を仕掛けかねん。さてそうなれば、『都』の人間が何百人、何千人死ぬだろうなぁ」
 閻王の口調は愉悦に酔っていた。最悪な未来を予言され、久暁の剣を握る手にはいっそうの力がこめられる。
「戯言だ……!」
「そう、無論これは可能性の一つに過ぎん。だが、結果がいかなるものになろうと、必ずやこの左腕はいずれ、貴様が守る者の血を食らうことになるだろう。この閻王の直感が、その未来に相違はないと告げているからにはな」
 その機が訪れるまで、せいぜいこの標持ち≠ナ無聊を慰めるか、どうするか。
 いっそ、コイツの身体も鉄忌化するのか試してみよう――そんな事を考えていた閻王の耳に、微かな声が聞こえた。
「……ない」
「何だと?」
 聞き返したその時。閻王の眼前に、銀色の刃と白緑色の炎が現れた。それも、今にも眼球を貫かんばかりの位置に。
「アイツらに、手は出させない!」
 首を絞められながらも、久暁は渾身の叫びと共に、右手首の動きだけで綺羅乃剣を突き出した。刃は閻王の鼻先を掠めただけに終わったが、彼が身体を後退させる際に、久暁の戒めは全て解かれた。綺羅乃剣は化生の者しか斬れないという事を、閻王は知らなかったのだ。
 ハッタリを悟り、閻王が苛立ちの色を浮かべる。対して、綺羅乃剣をようやく我が手に取り戻した久暁は、異形と化した閻王の左腕と、他でもない閻王自身に、並みならぬ眼光を飛ばしていた。
「アイツらの真意が何か、俺に近付いたのは利用するためだけだったのか。全てを知るまで、俺はこれ以上お前に囚われる訳にも、お前にアイツらを奪われる訳にもいかない! 閻王!」
 白緑色の鬼火が剣の上で舞う。白昼に揺らめく炎は、太陽の光を受けてもなおその色彩を失わない。例えそれを手にする鬼子が、赤銅色の婆娑羅髪を失い、残り火だけを灯し続ける人≠フ姿に戻ったとしても。
「お前の左腕と武器は、俺が殺す」
 綺羅乃剣を向けられると同時に、放たれた宣言。それを聞くや否や、閻王の左手にあの血刃が蘇る。
「良いだろう。ならばまず、その可能性から奪い取ってやる!」

 未だ覆い茂る竹林の檻の中で、二つの鬼剣は衝突した。
 その光景を、遠く彼方にて眺める者がいるとも知らずに――

 野狂洞と呼ばれる洞窟の入り口に腰掛けながら、その白い女は楽しそうに一部始終を見物していた。
 時折、膝の上に乗せた鼠の鉄忌がせわしなくガチガチと歯を打ち鳴らすのだが、その度に細い指が鉄忌の歯を寸断し、黙らせる。
 鉄忌への蔑みの表情を、狐面で覆い隠した女。だが、遠くにて揺れる赤銅色の髪の主を見つめる目は、まるで我が子を慈しむかのように穏やかであった。





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