<疑惑の浄玻璃>



 岩を削る音は一つだけではなかった。背後から聞こえる音は断続的に、合奏のごとく重なりあいながら耳に届く。しかもそれらは徐々に久暁の元へと近付きつつあった。
 ぞわりと、馴染みある気配――形はあれど魂の無いモノの蠢く気配が、久暁の背筋を撫でる。異変はそれだけではない。閻王が去ってからただの紙切れに戻っていた視界一面の赤い咒符が、今また微かにその身を震わせていた。ざわざわという音だけならば先程よりも弱々しい。だが、表面にある紋様が紅色の燐光を明滅させる様子は、明らかに先のとは異なっていた。洞内の咒符という咒符が篝火の瞬きにも似た光を発し、視界は松明があった時よりも鮮明になった。
 削岩音がすぐ傍で聞こえるほどに近付く。神経を張りつめる久暁の肩へと、砕かれた岩が降りかかってきた。やはり、何かが岩盤を掘り進んでいるのだ。
 ひときわ大きな破片が落ち、反射的に久暁がその方向へと視線を投げかける。

 耳元辺りの位置に開いた穴、そこから突き出た小さな顔は、鉄の皮膚で覆われていた。暗がりならばただの鼠に見えたかもしれないが、妖しげな咒符の光を鈍く反射するその姿はまさしく、鉄忌に他ならなかった。しかも、無数の削岩音が予告していたように、久暁が背にする壁の至る所からは続々と小さな穴が開きつつある。
 丸腰の上に、手足を拘束されている現状を久暁は呪った。これまで散々鉄忌を斬り捨ててきた自分が、こんな所で雑魚に命を奪われるというのか。いくら小型とはいえ鉄忌に変わりは無い。カチカチと打ち鳴らしている歯でもって喉笛に喰らいつき、風穴を開けることくらい容易いはずだ。
 鼠型の鉄忌は穴から身を乗り出し、久暁の肩に冷たい手を乗せようとした。しかし、実際に触れたのはそれよりもさらに冷ややかな、分解した外殻と体液だった。
「何、だと……?」
 久暁が息を呑んだ刹那の間に、その黒光りする身体は真っ二つに断ち切られていた。鉄忌を隠すように広がっていた久暁の赤銅色の髪までもが、一掴み巻き添えとなって切り取られ、地に落ちて赤黒く染まった。
 頬を掠めて飛来した凶器は剃刀のように薄く、幅があり、濡れてなくとも鉄忌の体液と似た色合いをしていた。加えて、未だに消えやらぬ燐光。振動する紙切れは意思を持つというのか。岩盤から立て続けに鼠が顔を覗かせるなり、付近の地面や壁に貼り付いていた咒符が浮き上がり、凶刃と化して化け物へと襲いかかる。久暁の存在などお構いなしだ。
 鋼を断つ音があがる度に体液がぶちまけられ、地面に血溜まりを作っていく。飛来してくる燐光を、久暁は身を捩りながら紙一重でかわしていった。もっとも、直感力を行使しても捉えきれぬ速さと数ゆえに、咒符が掠めていく久暁の肌には幾筋もの裂傷が刻まれる。赤銅色の髪も少しずつ切り落とされ、ついに後ろ髪以外は耳元を隠す程度の長さとなった。

 そうして一体何匹の鉄忌が破壊されたのだろう。体温の低下から紋様を浮かべた顔へと、乾くことのない血が上から行水のごとく降り注いだのを最後に、咒符の攻撃は止んだ。もはや振動もせず、鉄を断つ金属音もしない。鼠共が一匹残らず消えた代わりに、洞内は再び静寂を取り戻したのだ。
 事態が収拾した頃になってようやく、腕を岩盤に繋ぎ留めていた鎖が切断されていることに久暁は気付いた。丁度その位置では、鉄忌を両断した咒符が刃の状態のまま、元の紙切れに戻っていた。
 鉄忌がなぜ現れたのか。こうもあっさり鉄忌を屠った咒符の正体は何なのか。
 疑問は湧くばかりだが、思索をめぐらしている余裕はない。久暁は手首を拘束していた鎖を解くと、すぐさま両脚も戒めから解放した。これで身体は自由になったが、手を動かせば痣から激痛が走る。まだかろうじて右手の動きは健在であることを確かめると、乱れた着物を簡単に直し、脚を拘束していた鎖をわずかな武器として両腕に巻きつける。さらに、辺りに散らばった鉄忌の残骸の中から手ごろな鉄片と、小さな玻璃玉の眼球をいくつか拾い集め、懐に隠す。そうして態勢を整えるなり、手の平を壁に滑らせながら久暁は洞内を駆け出した。

 咒符の燐光が消えたため、狭い道は先も見通せぬほど暗く、依然として寒い。だが、元々暗闇の世界に生まれ育った身にはその程度の障害など恐れるに値しない。問題は閻王の存在、唯一つにつきる。
 微かな空気の流れを頼りに、気配を隠しながら久暁は進んだ。ところが、その疾走が不意に遅くなる。外から流れ込む冷風に混じる、異様な臭いを嗅ぎ取ったからだ。先程まで散々浴びていた鉄忌の体液の臭いに似ている。出口に近付いたのは確かなはずだが、前方に見える仄明かりは松明の色をしていた。誰の気配も無いことを確かめ、久暁はその空間へと踏み込んだ。

 真っ先に目についたのは、乱雑に放り出された幾つもの鉄の塊。見覚えのある顎や手足の形からして鉄忌の外殻に違いないが、細かな鉄片を組み合わせた不恰好な鉄筒の塊は閃鉄筒の試作品らしかった。
――あの武器は閻王が作っていたのか。
 一つ手に取れば、内部の構造を見た訳でもないのに大まかな設計図が頭の中で組み立てられる。鉄灯篭を作る時と同じだ。おそらくは閻王も、どの部品がどういう仕組みで作用するかなど考えもせず、勘だけで閃鉄筒を組み立てているのだろう。
 残念ながら、ここにある閃鉄筒は全て失敗作として廃棄されたものらしく、まともに使用できそうな物は無かった。すぐ傍らにはあの大鉈も放り出されていたが、腕を痛めた久暁に扱えるような重量ではない。
 他に目に付くのは、皮を剥がした状態で吊り下げられた獣肉。燻製となった肉塊に突き立てられた無数の短刀。水を湛えた甕。薄汚れた衣類の山。そして、また別の奥へと続くのであろう暗い通路が数本と、外の明かりが射し込む出口への道が一本。例の鉄臭さは、暗闇の道の一つから流れ出ている。
 血錆の浮いた短刀を一つ、武器として盗み取ると、久暁は異臭の正体を確かめるべく暗がりを覗きこんだ。わずかな光を頼りに、眼前の光景を把握した瞬間、忘れかけていた吐き気がまた込み上げてきた。
 六畳ほどの広さをしたその場所は溜池のように浸水していたのだが、あるのはただの水ではなく、血の池さながらに赤黒い液体だった。水面は例の咒符によって埋め尽くされている。これが久暁の予想通り、全て鉄忌の体液だったとしても、何の為にこれほどの量を溜め込んでいるのか。しかも久暁の感覚が捉えた気配からして、この血の池はそれ自体が生き物同然に、自ら水面下で流動しているようだった。
 ここで考えても埒が明かない。血溜まりから目を逸らすと、久暁は再び脱出への道を駆け出した。
 先の読み通り、薄明かりの見えた通路は確かに出口へ通ずるものだった。無骨な岩がぽかりと開けた口の外に、蒼穹と白雪の色を垣間見た瞬間、思わず安堵の息が漏れた。洞窟の外は竹林に覆われていたが、檻のように並ぶ黒竹の隙間からも、空の蒼さは確認できたのだ。
 冷えた大地から半長靴ごしに素足に伝わる冷たさにも動じることなく、久暁は竹林の中へと分け入った。ここが『癒城』からどれだけ離れているのかは分からない。山中であるのは確かだが、把握できるのは太陽の位置と方角くらいのもの。せめて竹林を抜けさえすれば民家くらい見えないだろうかと考え、急ぎ足で斜面を駆け下りる。
 笹葉から滑り落ちる薄雪を被りながら、ようやく監獄の出口に辿り着いたと思ったその時。久暁の目は民家ではなく、ある二つの色彩を捉えた。

 一つは、雪原の何処に居ようと注意を惹く真紅と染まった髪。目元を黒眼鏡で隠すその人物は間違いなく八佗だ。対するもう一人の人間――久暁の位置からは後姿だけしか確認できないが、これも見紛うはずがない。七尺ほどもある黒尽くめの巨躯など、閻王以外には考えられなかった。
 八佗は早くも、久暁の失踪と閻王との関連性に気付いたというのか。何にせよこれは好機だった。八佗に助けを求めれば、さしもの閻王といえど手出しはできまい。
 冷え切った空気に喉を痛めてはいたが、ありったけの声でもって久暁は八佗の名を叫ぼうとした。が、その名が口から飛び出ようという直前に、久暁の唇はピタリと閉ざされた。
 遠方に見える黒尽くめの影。その手にある物が太陽の光を反射し、紅の目を突き刺したのだ。

 銀光の元は綺羅乃剣だった。

 それを前にして、八佗の面持ちに叱責の色が表れていないのは何故なのか。閻王が剣を手にしていれば、本来の持ち主の身に何かあったと推測するのは容易いはず。不安と不審がない混ぜとなった険しい瞳を向けたまま、気取られぬよう、久暁は二人の会話が聞こえる距離にまで接近した。

「ところで、彼は何か話したのかい? 尋問に暴行など用いてはいないだろうね?」
「それは安心しろ。まだ尋問などしていないからな」
 あくまで冷静な八佗の問いかけに対し、閻王の答には嘲笑が含まれていた。それの意味する所を察知し、八佗の眉間に縦皺が刻まれた。
「君という人間は……」
「俺は拉致と尋問に関する指図しか受けていない。文句があるなら代わりにやれ。二度と貴様の王≠ノ顔向けできなくなっても構わないというのであればな。自分では話にならんからと俺を使っておいて、いまさら善人気取りか」
「もとよりこの国を訪れた初めから、『昇陽』皇家に内心背信し続けている身だ。自分が善人だとは思っていないよ。しかし、それとこれとは話が別だ。どうして手を出したのかね?」
「あの標持ち≠ヘ雪女≠ニ接触していた。中身が腐りかけている女など欲しくはないが、それでも俺には奴を殺さなくてはならない理由がある。先に目をつけたのも俺だ。自分の物に手を出した馬鹿を制裁して何が悪い」
「……毎度のことながら、君の思考回路は理解しがたいな」
 思わず、八佗は額に手をあてて嘆息した。ほんの百数歩ほど離れた位置から、憎悪に満ちた目を向けられていることになど気付いてもいない。相手を射殺しかねない眼光を飛ばしているのは無論、久暁だ。

 閻王に自分を捕らえさせたのは八佗だった。あれだけ自らは味方だと主張していた者が、酒場で対話を拒否した直後に、この仕打ちを考えたというのか。これが裏切りでなければ何だというのか。八尺瓊や閻王と対峙した時と同じ、どす黒い炎が胸の内で燃え盛り始めたのを久暁は感じていた。叶うことならば、今すぐにでも飛び出して八佗に殴りかかってやりたい。だが、それを実行に移せなかったのは現状の無力さのせいだけではなかった。
 出会うなり敵対した八尺瓊や閻王と違い、この二週間、久暁は八佗の様々な一面を見てきた。不遜ではあったが、久暁と蛍を助けようと尽力する意志は本物だった。こうも容易く暴力的手段に移すような人物だとは思えない――そんな甘さが、まだかろうじて久暁の怒りに制止をかけていたのだ。
「俺から言わせてもらえば、どうしてそこまであの標持ち≠ノこだわるのかが理解できないが」
 頭を抱えた八佗に、閻王はなおも挑発的な言葉を重ねた。腹を立てた訳ではないが、八佗の顔がたちどころに正面へと向き直る。
「あの八尺瓊が二十七年間も存在を見逃していたなどと、にわかには信じ難くてね。綺羅乃剣により、監視に用いていた起動式に何らかの狂いが生じていたとも考えられるが、それだけで隠し通せるような年月ではない。誰か協力者でもいて、今もまた『都』に戻り、その人物と接触を試みようとしているのではないかと思ったのだが」
 ああそうだ、と八佗はおもむろに用件を思い出したかのように、閻王が手にしていた綺羅乃剣を指差した。

「ところで、二十七年ぶりに手にしたその『昇陽』の至宝だが、君にも扱えそうな代物なのかい?」
 やはり久暁から引き離した後は、閻王に使わせるつもりだったらしい。閻王は質問に応える代わりに、意外な言葉を口にした。
「ほう、これはあの時禁裏から奪った物だったのか。別物かと思っていたが」
「それはどういう意味かね?」
 これには思わず、久暁も身を乗り出した。一層目を凝らして確認してはみたが、綺羅乃剣は久暁が初めて手にした時のままの姿をしている。かつて金輪翁が所持していた時期もあったが、彼も久暁と同じく、完成された金工の造形に手を加えるような人間ではない。さしもの閻王も、二十七年という歳月の間に記憶があやふやとなっているのか、と思われたが。
「見た目は同じでも中身がまるで違う。芯にあった妙な気配が消えている」
「機能はどうだい? あの儚人≠ヘそれを文字通り剣として用い、内から生成される炎――正確には起動式を強制的に削除する起動式が具象化したもののようだが、それでもって鉄忌を屠っていた。長年、ただの象徴かと思っていたが、まさかあのような代物だったとは。婆娑羅衆≠ェ盗んだ時からそのような武器だったのかい?」
「さて、元々俺はこんな物に興味など無かったからな。これを盗む話を持ちかけてきたのは『天』から加わった手下の一人で、そいつはやけに剣を欲しがっていた。俺にとっては剣など、女を攫うために禁裏を襲うついででしかなかったので、奪った後は早々と奴にくれてやった。だからどんな代物だったかなど、俺が知るはずが無い。気付いた時には阿頼耶が奪い去り、元の持ち主も姿を消していたからな」
 綺羅乃剣は先程の久暁と同じく、閻王の興味を惹くような存在ではなかったということか。幾筋もの毛彫りが施された銀筒を弄ぶ手つきは、実にぞんざいなものだった。
「……その人間は何故、剣を欲しがっていたのか。門外不出の異質な神器≠ナある綺羅乃剣をただの異国人が、八尺瓊と私の居る禁裏に踏み入ってまで欲しがるとは」
 閻王の何気ない言葉に、八佗の表情が曇る。一方、かつての敵対者はその深慮を冷ややかに笑い飛ばした。

「相変わらず一々下らんことに拘泥する。そんなもの、奴が『茫蕭』と関わりを持っていたからに決まっているだろう」
「確かなのかね?」
「奴は『天』から加わったとはいえ、天人でないのは明らかだった。顔面に火傷を負い、布で覆い隠すことによって誤魔化してはいたが、俺に嘘は通用せん。火傷の古さがちょうど『茫蕭』滅亡の時期と重なる上に、言葉に訛りが残っていた。それに――」
 フッと、閻王の弧月形の嗤いが深くなった。相手を嬲る時に必ず見せる、彼の癖だ。
「この剣が手元に無かったからこそ、貴様が心底嫌っている左大臣とやらは封印≠ニいう手段を取らざるを得なかった、とは考えられんのか。鉄忌のみならず、貴様らのような化生の類をも斬る武器だ。これさえあれば、どんな外敵だろうと排除できる自信があった。ゆえに、世界中で戦火の火種が芽吹かんとするこの時代においても、『昇陽』だけは侵略を受けず、数千年もの間のうのうと閉鎖的な環境の中で停滞していた。その絶対的な牙を抜くという目的でもなければ、こんな玩具を『茫蕭』が欲しがりはしないはずだ。違うか?」
「それは少々疑問だね。国家の滅亡から紛争や国同士の戦争が起きるのは、神器≠フ消失による王≠フ統治力低下が最たる原因だ。国家の安定、ひいては国民の恒久的平和を実現するべく働くことを最優先とする我々神器≠ェ、矢面に立って他国を攻めるよう扇動するなどありえない。初めから剣にあのような力が備わっていたとしても、行使する機会などない」
 八佗の言わんとすることは、久暁にも理解できた。彼の言葉が確かならば、『茫蕭』の者が綺羅乃剣を欲しがる理由はなくなるはず。だが、閻王は剣を欲しがっていた者を茫蕭人と断言した。それにあの八尺瓊も、綺羅乃剣が久暁の手元にあると知るや否や、接触を試みて取り戻そうとした。ところが、『茫蕭』との繋がりを予想した枳と燥一郎に関しては、綺羅乃剣を久暁から離し、八尺瓊の元に戻しても構わないといった様子であった。
 考えられる仮説は一つ。禁裏から盗み、阿頼耶に奪われるまでの間に、『茫蕭』の者が綺羅乃剣に何かをした。それを八尺瓊や八佗は知る由もなかったが、元々剣がただの象徴でしかないと思っていた八佗と違い、八尺瓊は綺羅乃剣を必要としていた。
 その必要としていた理由が、武器としての剣ではなく、『茫蕭』の狙いと同じ所にあったとしたら。

「まさか……」
 燥一郎達の存在を知らない八佗は、それでも疑問の答に辿り着くことができたのか。黒眼鏡ごしでも分かるほど大きく見開かれた目が、中空を見つめたまま固まる。
「そうか、綺羅乃剣もアレの一部だったということか! 私としたことが、何と愚かな……!」
 血を吐くかのような叱責には、これまで他人に向けてきたものとは比べ物にならないほどの憤怒が込められていた。わなわなと震える両手が頭を押さえ、紅潮した顔までをも掻き毟らんばかりに髪をかき回す。勢いに振り落とされた黒眼鏡が雪に埋もれても、拾い上げようともしない。狂人さながらの昂ぶり様は、八佗を全くの別人へと変えていた。
 閻王は沈黙したままその暴走を見守っている。口元の弧は消えていない。彼は八佗の悔恨の理由までは知らなかったが、自分がどういう言葉をかければ八佗が答えに辿り着き、絶望するかを読んだのだ。
 しばらくすると自責による怒りも収まったのか、八佗は不意に動きを止めた。興奮により息はまだ充分に整っていないが、金色の瞳は彼が我に返ったことを告げていた。
「閻王、間違いなく綺羅乃剣は、君がかつて手にしたものと変わっているのだね?」
 もう一度、確認を求める強い声が問いかける。
「そうだ。すでにこの剣の中核にあった気配――そうだな、貴様の気配と似ているということは起動式とやらなのかもしれんが、それは消え失せている」
「やはり、奪われた後ということか……」
 千五百年以上も生きてきたはずだというのに、わずかに俯く中年の右大臣の顔つきは、たった数分の間に十も歳をとったかのように疲弊していた。しかし意志が折れることはなかったらしい。頭を振って意識を切り替えると、雪にまみれた黒眼鏡を拾い上げ、再びかけ直す。
「ひとまずそれは預けておくよ。君の直感力ならば、わずかでも起動式の残滓を読み解く≠アとができるかもしれない」
 そう述べる様子はすっかり日頃の八佗の態度に戻っていた。と同時に、閻王からは笑みが消える。代わりに目元が退屈さを訴え始めた。
「それで貴様はこれからどうするつもりだ?」
「茫蕭の禍≠終結させ、八尺瓊に例の存在を直接問いただす計画に変わりはない。ただし早急に雪女≠捕らえ、剣から奪ったであろう情報を渡してもらわなければならなくなった。その為にも――」
 黒手袋をはめた指先がスイッと持ち上がり、遥か彼方を指す。その先に見えるのは遠くそびえる山々だが、八佗が指し示しているのは手前の広大な盆地のようだった。朝の陽射しに照らされた山が黒い地肌を見せる一方で、その広野はまだ一面の雪に覆われていた。誰一人として、住むことも横切ることも許してはいないかのように。
「昨夜、大量の鉄忌が『央都』跡地を埋め尽くし、機能を停止させていた。だが、翌朝にはその全てが消え失せ、ただの雪原が広がるばかりとなっている。鉄忌はどこに消えたのか……地に潜ったか、封印≠突破し『央都』へと向かったか、あるいはいずれでもないのか、それを君に調べてもらいたい。あの武器を使って」

 八佗がそう言った直後、久暁の全身が震え上がった。消えかけていた文様がまた浮き出てくるほど長時間、薄着で寒空の下に立っていたせいではない。
 久暁を襲ったのは恐怖だ。八佗を挑発した時でさえ、燻るだけだった閻王の内にある鬼気――それが今、急激に再燃したのを久暁は感じた。
 愉しげに、これ以上ないほど愉しげに閻王が笑っている。威嚇の嗤いではない。声を上げて喜ぶ、高らかな哄笑。にも関わらず、紅色の瞳は屠殺されるのを待つ獣の絶望感と似ているのだ。彼は決死を迫られていながら、その状況を愉しんでいた。
「使えば、まず手始めに貴様を殺すかもしれんぞ」
「君にとっての私は、数多に存在する砂礫と大差ない者達と同類だ。壊す価値など無いのだろう?」
「そうでもない。貴様の目論見には存外興味がある。それを壊すのも一興だ」
 閻王にとって、壊すということは奪うことと同義だ。自らが持たぬ物を得るか、もしくは誰の物にもならぬよう完全に消し去るか。いずれにせよ代わり本来の持ち主には喪失を与える。八佗の計画を邪魔することで彼は何かを得、自分以外の何者にもそれを分け与えようとしないつもりらしかった。八佗がこれを快く思うはずがない。

「制限時間付きの神器≠フ活動――まるで人の世の変革を前提としているかのようなこの世界の理。もしそれが真に操作されているものだとしたら、根源となる起動式が存在するはず。その発見と解明、そして修正こそが私に課せられた最大の使命。ようやくこの国に辿り着き、片鱗に近付いたのだ。これ以上は誰にも邪魔されたくない。ましてや『茫蕭』が剣の秘密に到達した以上、彼らの狙いも明らかとなった。『茫蕭』に先手を取られ、彼女らの手によって修正されることなど、あってはならない」
 ――操作、だと?
 思わず久暁は胸中で呟いた。先の八佗の発言は理解の範疇を超えている。
 制限時間付きとは、神器≠ェいずれ消失し、それにより国が混乱するということを指しているのだと思われたが、それがあらかじめ定められているとはどういう意味なのか。この世界には八尺瓊の封印≠凌駕するような、強大な起動式が働いているとでもいうのだろうか。
 馬鹿げた話だと、普通の人間ならばそう思う所だ。しかし、同じように信じられずにいる反面、久暁の勘はその事実を肯定していた。そう考えた方が、八佗や八尺瓊、燥一郎や枳、そして儚人≠ナある自分自身の存在理由が見つかるような気がしたのだ。
「君があの武器でもって私を殺そうとするならば、常々言っているように、その前に君を拘束し、武士十家による裁きを与えるまでだ。自らが見下す者に嬲り殺しにされるなど、君には死そのもの以上に耐え難いことだろう?」
「本心からこの国に仕えてもいない奴が、良くほざく」
「私は私の主がため働いているにすぎない。目的を果たす為ならば、例え仮初めの主であれ、千五百年だろうと尾を振り続けてみせるよ」
 八佗の言う主が、白巳女帝でないのはこれまでの会話で明らかだった。彼の祖国は『茫蕭』とは比べ物にならぬほど、遥か昔に滅びたはずだというのに。
 一瞬、久暁は目の前にいる八佗が本当に自分の知る八佗と同一人物なのかと疑った。彼は自分自身の分身を幾人も生み出せる。その中の一人が乱心しただけで、一連の会話は八佗の本心では無い――そんな真実の方がよほどマシだった。

「その気概を褒める代わりに、一つ良いことを教えてやる。雪女≠フ狙いは標持ち≠セ」
 久暁の脳裏に、あの夜出会った白い女の記憶が蘇った。彼女が自分に何をしようとしていたのかは知らないが、あの遭遇は偶然では無かったというのか。断言する閻王と違い、八佗は疑わしさに眉をひそめた。
「それはどういう意味かね。まさか儚人≠ワでもがアレの一部だとでも? 確かに一部意識が調整されているようだが、神器≠竍王≠フような精神領域の融合までは見られない。起動式を扱えない者からはどんな方法を用いた所で、根源の起動式には辿り着けないはずだ」
「ごちゃごちゃと貴様らしい物言いだな。信じられなければ今から証明してやる。姿を見られぬよう、せいぜい物陰から見物でもしていろ。下手に口を出せば、うっかり巻き添えに殺してしまうかもしれんぞ」
 嘲りと共に、閻王の左手が虚空を掴むように前へと掲げられる。どういう訳か、緩慢な手の動きを見るなり、八佗の顔色は蒼白と化した。
「待ちたまえ! 今ここであの武器を使うつもりか!?」
「造らせた上に、つい先程使用する許可を与えたのは貴様だ」
 自業自得だとでも言いたげにせせら笑うと、閻王は勢い良く指を打ち鳴らした。
 指のぶつかり合う音とは思えぬほど甲高く鋭い響きが、久暁の耳元にまで走り伝わる。
 無数の羽音にも似た雑音が背後から迫ってきたのは、その直後のことだった。

 風の吹かぬ竹林の中を、ざわざわという音が駆け抜ける。
 黒竹の隙間から覗く蒼天を、唐突に曇らせた影の群れ。位置からして、あの閻王のねぐら辺りから立ち昇っているらしい。遠目には蝙蝠の群れのようにも見えたが、久暁の知る限り、あの洞窟内に蝙蝠は一匹も生息していなかったはずだ。
 音が大きくなるにつれ、群れは数を増しながら接近してくる。逆光により黒い雲霞うんかのように見えていた一群は、個々の形が分かるまでに近付いた途端、その色を赤黒い色彩に変じた。竹林を掻い潜りながら飛来する物の正体は、あの無数の咒符だった。
「いつの間に、あれだけの数を扱えるように――」
 一個の生物と化したかのように、幾筋もの流れに分かれ、また一つに戻るのを繰り返す咒符の集合体。圧倒的な数を前にして、さすがの八佗も息を呑む。刃の鋭さを備えた凶器が自分を目がけて飛来しているのだと悟ると、赤い髪の渡来人はたちどころに姿を消した。
「そうだ、逃げろ逃げろ。負け犬のようになぁ」
 空高く舞い上がる血色の群れを手招くように、左腕をさしのべる閻王。彼だけが、この異変に何一つ動じることのない主導者として存在していた。
 標的を失った咒符が次に餌食と定めるものとは。
 鬼の王から笑みが消え、紅の双眸が自分を凝視する視線を捉える。

「さてと……勘付かれていないとでも思ったか、屑が」
 その言葉を聞くよりも早く、久暁は踵を返し走り出していた。






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