<鬼の王>



 真白の雪ですら漆黒に染まる夜闇の中、八佗はその光景をただ静かに、それでもいくばくかの混乱を抱えながら凝視していた。常日頃かけているはずの黒眼鏡は取り外されている。覆いを取り払われた金色の魔眼は提灯の灯りを受け、より一層炯々けいけいたる光を宿していた。
 見据える先にあるのは、二十七年前まで『央都』が広がっていた平原だ。ここ数日の降雪により一面の雪原と化しているはずの大地はしかし、墨で塗り潰されたかのごとく黒かった。

 決して、それは夜のせいではない。
 満ちているのは宵闇の帳ではなく、死だ。

 八佗の立つ場所から遥かに離れた丘の上にも、同じ提灯の火が小さく揺らめいている。円を描くように平原を囲む八つの火の持ち主は、全て八佗自身だ。どの八佗も同じ光景を目にし、それが幻惑でないことを確認した。共有された意識は空気中を走る光のごとく『昇陽』全土の八佗へと飛来し、映像化された情報を受信させる。主の最も近くに控える八佗にも、すでに届いていることだろう。
 しかし、彼らは誰一人として、眼前で繰り広げられている現象の理由を導き出せないでいた。
「一体どういうつもりなのか……」
 これまでの二十七年間、何ら変わり映えすることの無かった『央都』跡地に起きた異変。何者の仕業であるのかはおおよそ予想がつくが、その意図が皆目検討もつかない。貴重な駒を無駄に廃棄するのはただの愚か者だ。彼女≠ェ愚者であるはずはない。それでも、目の前の状況は八佗の理解の範疇を超えていた。
 分かることはただ一つ。二十七年目にして何かが、本格的に始まったということのみ。
 胎動の元となったのは左大臣か、それとも彼の鬼札か――いずれにせよ、これは『昇陽』にとっては忌々しき事態かもしれないが、彼の本来の目的を遂げるにはまたとない好機でもあった。
「まだアレを使うのは早いと思っていたが、致し方ない」
 両の瞼が金色の瞳を閉ざす。鉄忌の血を吸った手袋の平が合わせられると、伸びやかな声が異国の言葉を紡いだ。昇陽人には聞き取れない音を響かせるその呪文は、祈りの言葉だった。何かに詫び、誓い、救いを求める悲痛さを湛えた声音に対し、八佗の表情は光明の兆しを見出したという狂喜を抑えるべく、務めているようにも見えた。

 長い祈りの時が終わり、赤い影が全て消失する。それでもまだ、新たに現れた一頭が雪原の白を塗り潰し、最期の咆哮を上げた。
 雄叫びの主は鉄忌だった。その周囲にも、そのまた周囲にも、そのさらに周囲にも――狐狸に狼、鹿に熊と、多種多様な姿をした鉄忌で雪原は埋め尽くされていた。
 五体満足な物が大半だが、一部は半身を断たれ、鋭利な切り口と伽藍洞の中身を晒している。見覚えのある残骸はこの日の昼間に八佗と久暁、そして蛍の手により斃された鉄忌の成れの果てだ。別の鉄忌がここまで引きずり、打ち捨てたのか。だが、その運んできた鉄忌までもが機能を停止し、物言わぬ鉄塊と化しているのはいかなる訳か。
 時折木霊する遠吠えと、打ち鳴り響く金属音とが蠢く平原に、粉雪が舞い降りる。その量と時間はわずかなものでしかなかったが、温もりを知らぬ鉄忌達の表皮を白く彩るにはそれでも充分事足りた。
 禍々しさを隠された残骸の広野は、まるでそれ自体が広大な『央都』の墓標にも見えた。





 ざらつく岩盤にもたれかけ、冷ややかな空気に身を浸してからどれほどの時が流れたのだろう。頭に皮袋を被せられ、視界を塞がれた久暁の感覚ではもう幾日も経過したように思えたが、実際はたった一晩の出来事であったのかもしれない。その間、頭上に釘打たれた鎖に吊り上げられる形で両手首は拘束され、岩肌に投げ出された両脚も、それぞれが杭に留められた鎖によって固定されていた。
 隠し持っていた武器は全て奪われたらしい。全身をくまなく調べられた証拠に、上半身の着物は全て引き剥がされ、真横に投げ出されている。下穿きの類も無く、黒い袴だけがかろうじて衣服の名残を留めていた。今身体を拘束している鎖は紛れも無く、自分が常に護身用兼武器として備えていたものであるし、一つに束ねていたはずの赤銅色の婆娑羅髪がざんばらとなっているからには、御丁寧にあの折れている簪まで奪っていったとみえる。一見すればただの銀筒にしか見えないはずの綺羅乃剣が消えていることからしても、捕獲者――閻王の警戒は慎重すぎるほどに徹底していた。
 ここがどのような場所なのか、久暁はまだ確かめてすらいない。あの雪原で閻王の手にかかり意識を失い、気付いた時にはすでにこの有様となっていたのだ。しかも久暁が目を覚ますなり、それを悟った閻王が、子供の拳ほどの大きさをした何かを口に押し込んできた。
「それはまだ未使用の鉄忌の眼球だ。少しでも顎を動かし歯を当てれば、貴様の頭が吹き飛ぶぞ」
 相手の声音と、一瞬鼻をついた鉄忌の体液の臭いから、それは真だと直感した。以来、身動き一つ取れぬ状態で放置された訳だが、拘束と危険物を抱えさせられたことによる恐怖よりも、唾を飲めぬがゆえの喉の渇きと、体温の低下による衰弱が何よりも自身を苛む。剥き出しの上半身を強制的に起き上がらせた姿勢のまま、久暁は一睡もせずに、沈黙と暗闇と苦痛の時が終わるのを待っていた。

 唇からだらしなく流れ出ていく涎が膝元に溜まる頃合になって、ようやく戻って来た閻王は久暁の口腔から鉄忌の眼球を取り出した。解放され、激しく咳き込む久暁にも構わず、続けて湯気を立ち上らせる木製の皿が口元に寄せられる。
 煮えた米と猪肉、それと茸類の臭いから察するに、中身は粥か。いつもの久暁ならば二日三日の空腹でも辛抱できただろうが、死の危険を回避した安心感と寒さ、それに体力の低下が加わったことで、慎重さは完全に麻痺していた。
 見えない粥に勢いよく喰らいつこうとした途端、あと僅かという距離までそれは遠ざけられた。無論、皿を持つ閻王がわざと口元から離したのだ。
「ほら、どうした。遠慮せずに食べろ」
 久暁の頭に被せられた皮袋が取り払われる。薄暗い中、白髪混じりの口髭から覗く口元には、愉悦の笑みが浮かんでいた。なぶられているのだと分かってはいても、拘束された身では、相手に射殺すような視線を返すので精一杯だった。
「要らんのならもう二度と飯はやらん。今すぐ血抜きし、解体してやっても良いのだが?」
 むしろその方が好ましいと言いたげな口ぶりだった。これ以上、久暁に選択の余地は残されていない。嫌悪感に苛まれながらも舌を伸ばし、かろうじて届く距離にある粥を掬い取り、嚥下する。
 二口、三口と食べ進める間、閻王はそれ以上皿を遠ざけようとはしなかった。消えていく粥を見つめる険しい表情からは、あの不吉な嗤いがすでに失せている。その理由を久暁が知ることになったのは、まさに食べ終わった直後。不意に臓腑を突き上げるような吐き気が襲いかかり、思わず身体を屈めた時だった。
「やはり効かんか」
 内臓を丸ごと吐き出したいと思うほどの不快感をこらえる久暁を尻目に、閻王は空になった皿を放り捨てると失望の声をあげた。
「今お前に食わせた飯の中には、その名の通りになるという意味合いから仲間内で娼婦茸と呼んでいた毒茸の汁を入れてあったのだが、無意味だったようだな」
 重い溜息をつくと、黒い皮手袋をはめた大きな手が久暁の髪を掴み、強引に顔を上げさせる。本人が気付かずとも、体温が下がった全身にはうっすらと細かい紋様の羅列が表れていた。
「わざわざ運んだというのにしるし持ち≠フ標があるとは。身体の作りも間違いなければ、娼婦茸も効かん上に反応も同じ。貴様らは相変わらず、面白みのない連中だ。性欲処理の役にも立たん……ああ、吐けば全て舐め取ってもらうぞ。上にしろ下にしろ、汚物を出せば自分の身に返ると思え」
 歯を食いしばり、怨嗟の念を向ける久暁の眼光からは何も感じ取らなかったのか。言うだけ言うと髪から手を離し、巨躯の男は立ち上がった。
 状況からして、閻王が久暁の身体の特徴を知ったことは十二分に考えられた。身体の秘密を知られただけでも久暁には恥辱に値する。加えて、先の閻王の言動はそれ以上に神経を逆撫でさせた。もし例の毒茸が効いていたらどうするつもりだったのかなど、考えただけでもおぞましい。
 久暁が捕えられているこの場所は、どうやら何処かの石窟らしかった。閻王が持ち込んだ松明一つしか灯りがないので、正確に全体を把握できた訳ではないが、今居るのは小部屋ほどの広さの空間だった。左右には暗い道が伸びている。岩壁に横木が組まれているのを見る限り、かつては坑道であったのかもしれない。しかし如何なる理由があるのか、その横木、岩壁、地面に至るまでのすべての物に、文字らしき紋様を記された赤い咒符じゅふがびっしりと貼りつけられている。空間そのものが赤く染まったかとも思えるその光景は、かつて絵画で見た地獄のそれとよく似ていた。
 奇怪な場所ではあったが、今の久暁にその咒符の意味を解明しようという気は起きなかった。
「知っているのか、儚人≠フことを」
 先程の閻王の物言いは、明らかに事情を熟知している者のそれだった。標持ち≠ニは即ち儚人≠フことを指しているのだろう。
「それがこの国での呼び名か。どうでも良いことだが」
 疑問を一蹴する閻王の面持ちは、一層憮然としていた。話を聞く気は毛頭ないらしい。
「徒労だ。全くの骨折り損だ。標持ち≠ナは家畜にもならん。そのままくたばれ」
 暴言だけを残し、巨躯は黒頭巾を翻らせ、悠然と暗い道へと戻って行こうとする。吐き気が完全に引くのも待たず、反射的に久暁は身を乗り出して叫んだ。
「待て! お前が出会ったという儚人=\―標持ち≠ヘ、本当に俺と同じような身体をしていたのか!?」
 手足を繋ぎ留める鎖が忌まわしい。喧しい音までもが声を打ち消そうとする。閻王の歩みは止まらない。
「お前とそいつとの間に何があったのか教えろ。いや、教えてくれ!」
 その懇願に閻王は静止した。相変わらず振り向きはしなかったが、低い声が久暁の叫びに応えた。
「知ってどうするというのだ? 貴様自身とは何の関わりも無いことだろう。この状況で下らんことを訊く奴だ」
「関わりは無くとも理由ならある。俺はお前の言う標持ち≠ニ同じ身体をしているのかもしれないが、俺はその当人そのものではない。一緒にされるなど御免だ」
 とっさにそう言ったものの、実の所、八尺瓊や八佗から自分以外にも儚人≠ェ居たのだと聞かされた時から、久暁は常に気にかけていた。その者達が本当に自分と同じような存在だったのかと。もしそうであるならば、彼らがどのような人生を送っていたのか、自分は知る必要があると。明確な根拠はないが、そうするべきだと久暁の直感力は告げていた。
 ほう、と声が上がった。ようやく振り向いた閻王の双眸には、微かだが嬉々とした感情が表れていた。
「少しは愉しめるか」
 小さく呟くと、閻王はあの俊敏さを隠した緩慢な動きで、再び久暁の前へと近づいてきた。上半身しか起き上がらせていない久暁からすれば、立ちはだかるその姿は黒い絶壁のごとく見えた。

「俺が貴様以外の標持ち≠見たのは一度きり。東の大陸、滅びる数年前の『茫蕭』に居た時のことだ。俺は今の貴様より、わずかに若かった」
「『茫蕭』、だと……」
 久暁の脳裏に、あの儚人≠フ伝承が蘇る。八佗はただの迷信だと断言したが、滅亡する前の『茫蕭』に標持ち=\―つまり儚人≠ェ存在し、婆娑羅衆≠ニ関わりがあったなど、何か符合めいたものを感じずにはいられない。不気味ですらあった。
「『茫蕭』はただ草原が広がるだけの退屈な国だった。襲う価値も無いと判断し、さっさと隣国の『天』に向かうつもりだったが、本物の標持ち≠ェその地に居ると聞き、俺の気は変わった」
 滅びる前の『茫蕭』には国家と呼べるようなものはなく、独立した部族が同じ宗教観の元、共存関係を築いていたという。その共存関係を保つ鍵が標持ち≠ナあった。
「標持ち≠ェ生まれれば、各々の族長に神≠ゥらの啓示が下る。そうなれば必ず標持ち≠見つけ出し、神≠ヨの供物としなければならない。さもなくば災厄が訪れる。そんな信仰が、『茫蕭』の部族同士を団結させていた。もっとも、こんな話は大陸中にいくらでも似たようなものがあったが」
「供物というのはどういう意味だ。殺すのか?」
「いや、違う。そいつが自然死を遂げるまで幽閉しておくのだ。誰にも命を奪えんようただ閉じ込め、寿命が尽きるまで世話をする、それだけだ。国によっては標持ち≠禍の象徴とみなし、災厄を斃すという名目で肉体を打ちのめすそうだが、それでも直接殺すことはどこの土地でも禁じられていた。理由までは知らん。民からすれば、自害でもするなりして、異端者にはとっとと消えてもらいたかっただろうがな」
 自害という部分を、一段と閻王は強調した。その言葉を耳にした久暁の面持ちに影がさすと、あらかじめ知っていたかのように。
「そう、貴様ら標持ち≠フ人間はどんなに自らが望もうとも、自分自身で命を絶つことは出来ない。自傷を試みた所で、意志とは無関係に身体が制止をかけるのだろう? 酒や煙草、それにこの娼婦茸のように致死性の毒を持たぬ物ですら、身に障るというだけで御丁寧に拒絶する体質だ。閉じ込めれば、後は勝手に自然死するのを待つしかない……どうした、まるで身に覚えでも有るかのような顔をして」
 嘲りの問いに、久暁は答えなかった。一寸脳裏に蘇ったのは、あの朱蜘蛛事件の折りの、燥一郎との決闘にまつわる記憶であった。閻王が事情を知るはずは無いが、久暁の顔色の変化から何かを見透かしたのか。ただそれだけで、獣の眼はそれ以上追及する気を起こさなかった。
「他にも標持ち≠ノついての伝承は様々だが、俺の興味を惹いたのはただ一つ。男でも女でも無い生き物という点だ」
 不意に、視線が久暁の身体を探るように移動する。心臓の動きをも見透かそうとする眼光からは、ただ顔を逸らすことでしか逃れられない。そして閻王の語りはお構いなしに続いていく。
「両性具有ならばまだしも、無性の人間が自然に生まれるなど、種保存の為に生きる生物としての摂理からは完全に外れている。そんな人間が何を望み、何の為に存在しているのか俺は知りたくなった。だから婆娑羅衆≠フ連中にそいつを攫わせ、直接訊いてはみたが、返ってきたのはつまらん回答だけだった。考えてみれば、生まれた時から十七年間も供物として生きている人形同然の存在が、その生き方に疑問を差し挟めるはずがない。その時点でもう飽きかけたが、せめてもの無聊の慰めにと思い、俺は手下共に続けて命じてやった」
「……何を?」
 尋ねる前からすでに不吉な予感はしていた。想像通りにして最も認めがたい、最悪の答が返ってくると。
 閻王の口元が、あの心底愉しげな弧月の嗤いへと形を変えた。
「期限は定めん。その標持ち≠がらせることが出来れば褒美をやる、と。貴様と違い、顔だけならばそこそこ美味そうだったからな。殺すなという条件付きで手下共の好きなようにさせていた。中にはうっかり腕やら脚やらを折る馬鹿もいたが、連中の奮闘ぶりはなかなかに見物だったぞ。しかし喚きこそすれ、そいつは遂に標持ち∴ネ外の何者にもならなかった。終いにはボロ屑のようになっていたが、改めて問い直すと奴はようやくこう応えた」
 ――お前は何を望み、何の為に生きているのか。
 ――好きで生きてなどいない。
 切れた唇で息も絶え絶えに呟く当人の首には、陵辱に使われたとおぼしき荒縄が巻きついていた。そのまま何かに端を巻きつけ、体重をかければ命を絶つことも出来たはずだが、試みようとした形跡があるだけで標持ち≠ヘまだ生きながらえていた。
「結局、そいつにとっては供物としての生活も、婆娑羅衆≠ノ捕えられた七日七晩も、救いの無い世界であることに変わりなかった。生きながらえる為に寄る辺とするものも無い。ゆえにその終焉こそを望むと――それだけ分かればもう充分だった。縊り殺すのを前提に俺が最後に奴を犯したが、気付いた時には舌を引き抜かれ、標持ち≠ヘ絶命していた。どうだ、これで満足か?」

 返答は唾の形をとっていた。無表情で頬を拭う閻王を、憎悪の火を宿らせた双眸が凝視する。
「この、外道が!」
 まさに血を吐くがごとくの、殺意をも含んだ罵倒だった。悪徳で栄える遊里の犠牲者を救いきれず、しかもその者らを自分の都合のために見捨てようとまでした己に他人を外道呼ばわりする資格など無いとしても、久暁は叫ばずにはいられなかった。
 黙したまま、凶賊の頭だった初老の男は、右手に付いた唾をちらりと一瞥した。
 次の瞬間、その手が拳となって久暁の頬を殴りつける。
 鈍い音と共に痛みが走るが、その時にはすでに反対側からも裏拳が飛んできていた。
 二撃、三撃、四撃と、立て続けに頬を打つ音が響く。左右からの攻撃が止むと、今度は再び頭が押さえつけられる。正面に向き直る隙も与られはしない。
 黒い右手は、捕えた頭を背後の岩壁へと叩きつけた。
「あ、がッ……」
 声なき声を上げ、久暁の身体は沈んだ。もっとも両腕を吊り上げられているので、横になることはできない。胸の裡に凝り固まっていた憎悪は衝撃で砕け散った。頭の中は痛みで掻き回され、口腔ではジワリと鉄の味が広がる。唇付近から伝わってくるぬるりとした感触からして、鼻からも血が滴り落ちているようだった。
「おっと、いかん。あまりにも月並みな罵倒に幻滅して、つい手が出てしまった」
 閻王の黒い皮手袋からも、付着した血が垂れ落ちていく。その汚れを久暁の顔に擦り付け、隈取したかのような面を見下ろす黒影に、詫びる様子は欠片も無かった。
「確かに、貴様はあの標持ち≠ニ違い、人並みに信念を持ち合わせているようだな。だがしかし、俺が本当に貴様の父親だというのならば、その血にはこの外道の血が流れているということだ。加えて、貴様が真実あの女の産んだ子であるならば、子殺しという非道の血までもが身体中を駆け巡っていることになる。貴様は己の信念にかけて、それを肯定することが出来るのかな」
「子殺しだと……?」
 母親の過去の片鱗を耳にし、久暁の意識は苦痛の渦から引き戻された。一方、阿頼耶の話題に触れた途端、閻王からは嗤いが消えた。
「そう言えば、あの女はまだ生きているのか?」
 顔を赤く染めた久暁は無言のままだったが、沈黙の意味は理解されたらしい。
「死んだのか」
と、落胆の溜息が漏れ出る。
「あの女はかつて対峙した『天』と『羽州はす』との戦並みに俺を満足させてくれた。三千を超える兵士の屍で塚を築き、千八百を超える女を抱き殺しても、奴と謀り合いをするほどの快楽には至らなかったというのに。やはり探し出して止めを刺しておくべきだった。俺の手にかかることなく逝くなど、さぞや不本意な死に様だったろう」
 独り謡うように悔恨と不満を並べ立てる閻王の物言いには、下都の悪党でさえ持ち合わせている情愛の感情が微塵も感じられなかった。有るのは触れるものをことごとく鋳溶かすほどに圧倒的な、岩漿がんしょうのように煮え滾る我欲だけだ。
 この男は違う――婆娑羅衆≠フ旗印であり、砂螺人でありながら、閻王は久暁の知るどの残党の人間とも、抱える価値観が違い過ぎていた。生きる為に奪うのではなく、奪う為に生きていると言っても過言ではなかろう。
 その志向が二十七年を経た現在でも根強く残っていることが、さらに久暁を戦慄させた。今や閻王は手足となる部下を持たず、雪女≠ニ強制的に戦わされている囚人同然の立場であるはず。それなのにこの男は――

「閻王、お前は婆娑羅衆≠ェ壊滅した今でも、他者から奪い、壊すことでしか生きられないというのか」
 久暁の問いに、閻王は牙を剥いて答えた。
「許せんか。だが集団であろうと個であろうと俺自身の意志に変わりは無い。婆娑羅衆≠ナあった頃は、俺の生き方が他の連中にとっても都合が良かったという、ただそれだけのことだ」
 この言葉が事実ならば、閻王は婆娑羅衆≠ノおいても、自身を異端とみなしていたということになる。亡くなった金輪翁は久暁の両親について、その詳細を最期まで語ろうとしなかった。利宋や相克酒場の緑鈴も、未だに首領には恐怖心を抱いていた。
 その理由が今なら分かる。彼らは閻王の人となりを理解してはいても、同類の鬼≠ノは成れなかったのだ。
「けれども、婆娑羅衆≠フ始祖達は元々、子孫を残す為に『砂螺』から出奔したのだと聞いている。お前や、お前以外の砂螺人に、その意志は残っていなかったとッ……!」
 不意に言葉が途切れる。全てを言い終わらぬうちに、久暁の口は塞がれていた。
 閻王の左手が顎を鷲掴みにし、無理矢理天を仰がせる。両頬に力が加えられ、唇がわずかに開くと、その隙間へとすかさず二本の黒い指が侵入してきた。
「子孫を残す? 俺がそんな顔も知らぬ先祖の妄執の為に婆娑羅衆≠率いていたとでも思っていたのか」
 微かに怒気の混じった声音が気だるげに喋る。口の中に入り込んだ指は、柔らかい舌を捕え、挟みこんでいた。触れるのは同じ人間の身体の一部であるはずなのに、それは刃物を当てられるのと同じ感覚を久暁に伝えた。
「俺には寄る辺とするような国も故郷も、神≠キらもない。この身には無数の民族の血が混じり合い、形だけの装束をもって自分は砂螺人であると定義付けるような存在だ。しかし、それ故に俺は自らを形作るこの世のもの全てが愛おしい。情欲をそそられるほどにな。そして俺は対象を欲しがると同時に、ぶち壊したいという衝動にも駆られる。それが俺特有の物なのか、砂螺人としての性なのかなど知ったことか」
 左手を久暁の口に挿し込んだまま、閻王はその傍らにしゃがみこんだ。怖れと敵意に彩られた視線を難なく無視し、耳元へと囁きかける。
「ただ、万物の所有と破壊を望む、この幸福と絶望の矛盾した行動原理を持つ理由があるとすれば、それは持たざる者としての嫉妬と孤独のせいなのかもしれん。持たぬが故に羨望を抱き、愛し、憎む。孤独であるが故に欲しがり、しかし同一化を厭い壊す。それでも残るものがあるならば、それこそがこの俺の、飽く無き苦楽の煉獄を終わらせることが出来るものなのだろう。あの女は実に、その条件にふさわしかった――」
 揺るがぬ意志を揺さぶり、穿つように、久暁の耳朶を打つ低い声は鑿と化して意識を刻んでいく。
「しかし貴様には愛し、壊すほどの価値などない。己の無力を嘆きながら、ここで独り死んで逝け。それがこれから、貴様が味わうであろう地獄だ」

 そう告げた直後、舌を挟む手が勢い良く引き抜かれる。現れた指の中に赤い舌は無い。大きく息を吐く久暁を尻目に、閻王は周囲を険しい目で睥睨していた。
 彼が睨みつけているのは、ありとあらゆる物に貼りつけられている赤い咒符だ。先程までただ文字が記されているだけであったはずのそれらは今、生物のように紋様を蠢かせ、カサカサという音を立てて震動していた。初めは微かな物音であっても、たちまちの内にその震動音は洞内に響き渡り、耳障りな騒音と化す。
「奴が来たか。面倒な」
 この現象には慣れているのか。閻王は動じることなく立ち上がると、
「声を立てるな。髪一筋も動かすな。さもなくば貴様にもあの標持ち≠フ後を追わせてやる」
 そう言い残し、震える咒符を足蹴にしながら、暗い道の向こうへ早々と消えていった。閻王が姿を消すなり、その場の咒符は紋様を制止させ、またピクリとも動かなくなる。足音が遠ざかるにつれ、彼方から反響してくる咒符の蠢きも途絶えていく。

 十も数えぬ内に、足音と紙のこすれる音は完全に失せた。それを確信すると、すぐさま久暁は渾身の力を込めて両腕の鎖を引いた。
 まだ痛みも吐き気も残っている。それでもこんな所に、あの男の元に捕えられたままでいる訳にはいかない。
 いずれ時が経てば、自分が帰還しないことに危惧を抱いた八佗達が捜索を始めるだろう。それは閻王とて承知のはず。にも関わらず、堂々とこのように卑劣な行いをするからには、八佗達に悟られる前に久暁を始末する気でいるのは間違いない。暇潰し程度に殺され終わるなど、あってなるものか。久暁には果たさなければならない目的があるのだ。
 鎖は幾重にも腕に巻かれており、それを固定する釘も壁と一体化したかのように堅牢だった。何度も鎖を引き、壁に打ちつけまでしても、束縛が緩む気配は無い。代わりに打たれた手首には紫色の痣が作られる。すでに負傷により不調となった左腕など、利き腕を庇ってより多くの打撃を受けた為、今では痛みがあるだけで感覚はほぼ失われていた。
 自らが傷つくだけだと判断した瞬間、鎖を引く手から急に力が抜ける。それは閻王が指摘した通りの、自傷を強制的に制止する儚人≠フ本能のせいであったのかもしれない。
 吊られた姿勢のまま、久暁は静かに岩壁へともたれかかった。手足は動かずとも、赤く染まった顔は悔しさに牙を立てている。
 ――これ以上続ければ、もはや二度とたがねは握れまい。
 確実に束縛から解放されるならば、躊躇いなく再び腕に力を入れただろう。しかし久暁には直感力が備わっている。不可能だと、状況分析をふまえた結果を冷静に告げる直感力が。
 それでも脱出を諦めぬ意志だけは捨てまいと、久暁は瞑想し、思索を巡らせる。

 自らの鼓動だけが聞こえていた闇の中。
 何かが岩を削る音を、砂螺人特有の聴力が捉えたのはその時だった。




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