<誰が為に>



「例外はない。これは事実だ」
 断言する八佗の言葉は、非情なまでに冷徹だった。
 彼が話をする間、席を立った者はいなかった。皆、理解の範疇を超えた八佗の語りに耳を傾けるので精一杯だったからだ。
「しかし、それではあまりにも久暁殿が……」
 思わず呟いた蛍のみならず、絶句する一同の顔には狼狽の色が見てとれた。話題の当人である久暁がこの場に居なかったことを、誰もが感謝したくらいである。
「憐れかね? その憐れみは、彼の生死が本人の意のままにならぬことに対してなのかい?」
 思い違いをしてもらっては困る――と、ただ一人、この困惑を招いた者だけが淡々と戒めのような言葉を連ねていく。
「私が彼の境遇を憐れみ、戦いから遠ざけていると思ったのならばそれは違う。人が背負う業はその当人だけの物だ。何人とも比べられるものではない」
「それでは何故、彼には秘密でこのような重大な話を?」
 堪りかねたように、白巳女帝が疑問を投げかける。誰しも自分の命に関わる話など聞いて気持ちの良いものではない――先刻八佗はそう述べたが、先程の話が真であるならば、同情以外に他人が彼に与えられるものは無いのではないか。

「彼女に、蛍殿に聞いて欲しかったからですよ。久暁殿からすれば、この『昇陽』で生きるという事は一時の夢幻に等しい。しかし蛍殿。君の場合はそうもいかない。茫蕭の禍≠ェ続く限り、君の居場所はこの『昇陽』となる。共にこの地に現れた身とはいえ、その因縁は重ならぬということだけは理解してもらいたい」
 そう言い、八佗が控えていた緑鈴に目配せすると、彼女は一度店の奥に引き返し、赤子ほどの大きさの箱を両手に抱え戻ってきた。受け取った八佗が箱の封を剥がし、蓋を開くと、中には浅葱色の柄紐を巻いた一振りの脇差があった。それは正式な浅葱家の者でなければ帯刀を許されぬ刀だ。

「さて、話を本題に移そう。蛍殿の八色の黒≠ニしての任務は久暁殿を上都に連れて行くことであり、それ以降の行動は左大臣殿の思惑から外れた自発的な物であったと聞いている」
「フン、まるで子供の使いではないですか」
 嘲りの小声が蛍の耳を突き刺す。八色の黒≠ニしての矜持を失わぬしじまにとって、蛍が八尺瓊から与えられた使命は癇に障るものであったらしい。
「せめて第七家当主の末那まな様と後継ぎのくきの様が封印≠ナ消失せず今も健在であれば、こんな紛い物の黒が生まれることはなかったのに」
 そう毒づく彼女を視線で嗜め、八佗は話を続けた。
「左大臣殿の命を脅かしたのは確かに赦しがたいことだが、罪人の血を引きながらも『央都』の生存に尽力した久暁殿を公の詮議なく、かの迷信を盲目的に信奉したが為に抹殺しようとした彼の越権行為は、『昇陽』の為とはいえとても正気の沙汰とは思えない。その愚行を止めようとした蛍殿の働きを咎めるのは、果たして正しきことと言えますかな?」
 反語に近い言葉だったが、白巳女帝は八佗の問いかけにすぐには答えなかった。しばらく考え込んだ後、反対に彼へと質問を投げかける。
「左大臣を傷つけたことによる、『央都』への影響はどうなります? 鉄忌の活動の異変は、左大臣が敵の手中に落ちた為と貴方は考えていたのでは無かったのですか?」
「仮に左大臣殿が本当に『茫蕭』の手中に落ちているとしても、封印≠ェ未だ維持されているのを見る限り、その命までは失われていないはず。それに鉄忌の異変についての考察も、所詮は推測の域を出ません。他に理由があるのかもしれませんが……今はこちらの話を先に済ませましょう」
 逸れかかった話の筋を戻し、八佗はさらに言葉を続けた。
「私個人の意見を言わせてもらいますと、蛍殿の行いに対する酌量の余地は充分にあるものと思われます。それに先刻の雪原での働き。私はわずかにしか垣間見ませんでしたが、本当に鉄忌を生身で潰せるとは驚きましたよ」
「鉄忌を素手で? 信じられないな」
 疑問の声をあげたのは皐弥だったが、それは他の武士十家および、白巳女帝とて同じ気持ちであっただろう。それを払拭するかのように、八佗が一つの仮説を挙げる。
「鉄忌が一定以上の重量を備えた打撃に弱いのはすでに検証済みだが、人の身でそれだけの威力を出すのは普通なら不可能だ。だが、蛍殿の身体機能自体は常人とほとんど変わらない。差があるとすれば脳――幼い頃からの記憶喪失に由来する何か、かもしれないね」
「それは一体……?」
 これには蛍自身が身をのり出した。成長するに伴い自然と身についたこの怪力が、浅葱家に拾われる以前の記憶がないことと関係しているのではないかと、これまでに考えたことなどなかったのだ。
「記憶喪失の原因までは私の知る所ではないが、その力との関係性についてなら憶測は立てられる。まだ力の仕組みに関しても確証が無いので詳しくは話せないが、我が起動式の介入をもってしても回復しない記憶があるならば、左大臣殿が他に何か手を下している可能性は充分にありえる。起動式とは事の理を解読し、読み取ったその理を組み替え、真理を操作する術だが、ゆえにより複雑な構造を持つ起動式を解くのには時間がかかる。悪いが、蛍殿の記憶を調べるにはもっと綻びが生じるのを待つしかない」
 言われて蛍は幼い頃の記憶を辿ってみようとしたが、いつもと同じく、それは浅葱の養父と出逢った所で途切れてしまう。『火燐楼』での出来事や、左大臣と争っていた間の出来事がすでに明確には思い出せなくなっているように、時間が経過するにつれ記憶は薄れていくものだが、それ以前の過去に関しては初めから存在していないかのごとく、常に虚ろで不気味だった。
 ――そういえば、『都』での出来事について、自分は何か大切なことを伝え忘れている気がするのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ふと浮かんだ疑問に内心蛍は首を捻ったが、霞がかったような記憶を丹念に辿る暇は無かった。

「以上の点から考慮するに、蛍殿の浅葱家への復縁に異論は無いということでよろしいですね、主上」
 我に返ってみれば、当事者の蛍がぼうっと考えごとをしている間に、早々と八佗が採決を進めていた。白巳女帝が認可の意を示すと、もはや解決したといわんばかりにその口元には微笑が浮かんでいる。
「まだ頭の固い連中に事の次第を説明しなければならないので、名実共にとはいかないが。とにかく、これで君は八色の黒≠ゥら浅葱家の武士に戻れる訳だ。おめでとう、蛍殿」
「や、その……」
 とんとん拍子に話が運ぶ一方で、蛍の面持ちは沈んでいた。白巳女帝との謁見を望んだのは、利用された立場とはいえ、自分がしでかした過ちを懺悔し償わなければ、浅葱の人間に戻ることなど到底赦されないと考えていたからだ。その目的が叶ったというのに、蛍の胸中のわだかまりは消えようとしなかった。
「何か問題でもあるのかね、蛍殿?」
「いえ、ただ、本当に私などが武士十家に戻って良いものなのかと……」
「先の話で充分に資格はあるものと私は考えたのだが、何を戸惑うのかい?」
 おそらく迷いの原因はそういうことではない。『都』にいた頃は、どんな立場であろうと自分は最善を尽くすまでと考えていた。それが浅葱家の為であり、ひいては『都』の為であると。今ここで浅葱家に戻ったとしても、『昇陽』のために拳を揮うことを厭いはしないだろう。
 けれども、もし、先の八佗の推測が正しければ――自分が生涯信じて疑うことの無かった信念すらも操作されたものだったとしたら、いずれまた、あの左大臣の屋敷での出来事のように自分はおかしくなってしまうかもしれない。
 その危険性を八佗は承知しているはずだ。にも関わらず、それを公言せずに蛍の復縁を押し進める理由といえば――

「待って下さい、お師匠様。私は納得できません」
 蛍が八佗の言葉に応えるよりも先に、異論の声をあげた者がいた。
「何に納得がいかないのか、話せる自信があるのなら話してみたまえ、かぐや」
 その目が黒眼鏡に覆われていようとも、横槍を入れてきた愛弟子に対する苛立ちは手に取るように伝わってきた。彼の眼光を直視せずに済んだとはいえ、正面から向き合うかぐやの声は緊張で震えている。
「蛍さんが浅葱家に戻ることに反対はしません。けれどもお師匠様は、生身で鉄忌と戦える蛍さんを浅葱家という義務で縛って、体よく利用しようとしているだけなのではありませんか? それでは蛍さんを八色の黒≠ノ任じた左大臣と同じです」
 言いながら、かぐやの主張は徐々に尻すぼみとなっていった。無言で仁王立ちする師の威圧感は、胸を押しつぶすかのように強大だった。様子を見てとった白巳女帝や皐弥が八佗を止めようとしたがそれも遅い。
「浅葱家という義務で縛っている? 当たり前だ。武士十家であるということは即ち、国に仕える義務を負うということだ。『央都』と違い、ここでは口を咥えて民心の腐敗を傍観しているような武士は要らない。それに、蛍殿を浅葱に戻しておかなければ、残る公家衆や他の武士十家の当主達にこれから紹介し、『央都』の現状を伝えねばならないという時になってどう彼女の素性を説明するつもりかね? 八色の黒≠セということを知れば、それだけで話を聞こうとしない頭の固い連中はいくらでもいるのだよ。かぐや――」
 ここで一旦言葉を止めると、八佗はかぐやにだけ聞こえるよう、不意に彼女の耳元で囁いた。
「武士十家でもない君をこの場に同席させているのは、君にはいずれ私の代わりに国を支えてもらわなければならないからだ。私に反論するのならば私的な感情論で動くのではなく、明確な根拠を示し、公的な損益を考えた上で行動したまえ」
「ですが、先の久暁さんの件にしても……」
 言いかけた言葉を自分自身で仕舞いこむ。それ以上、かぐやが八佗に対して意見することは出来なかった。

「申し訳ありません」
 深々と頭を下げるかぐやであったが、師はすでに彼女の方を見てはいなかった。なぜか視線を彼方へと投げかけ、かぐやに向けていたもの以上に強張った表情でその先を睨みつけている。不思議に思った白巳女帝は、恐る恐る声をかけた。
「どうしました、右大臣?」
「失礼を……『央都』跡を偵察していた私≠ェ妙なものを見つけたらしく。一瞬、意識をあちらに向けておりました」
 八佗の応答は平静なものだったが、黒眼鏡の奥の双眸は険しさを増していた。一体、彼の分身は何を目撃したというのか。
「妙なもの?」
「それについては後ほどご説明いたします」
 危急の事態ではないのか。白巳女帝を落ち着かせるかのように、八佗はその話題を後へと追いやった。一方、偵察という言葉を聞くなり、かぐやがハッとした表情で武士十家達の方を振り向いた。
「そう言えば、久暁さんの帰り、遅くありませんか?」
「確かに、出て行ってからもうしばらく経つな」
 正確な時は分からないが、一刻近くは経過しているはずだった。すでに降雪は止んでいるようだが、夜風に当たりに行ったにしては戻るのが遅すぎる。
「……私、外を見てきます」
「じゃあ俺も行くよ」
 かぐやが外套を羽織ると、誰に言われるでもなく白戯が席を立った。長々と続く八佗の話に辟易していた彼にとって、かぐやの提案は渡りに船だったらしい。了解も得ず、今にも飛び出していきそうな二人を止めるのは諦めたのか。八佗はその代わりに、
「万が一鉄忌が現れでもしたら、君らだけでは心許ない。蛍殿、君も一緒についていきたまえ」
と、蛍に同行を促した。
「ですが、まだお話の途中では――」
「話は後回しにできる。今は久暁殿の安否を確かめるのが先決だ」
「了解しました」
 一度頷き、蛍も外套をその身に羽織る。外へ出る間際に、重ねて八佗は注意を呼びかけた。
「先程の儚人≠ノついての話だが、くれぐれも本人には悟られぬように。ただでさえ彼は勘が良いからね」
 その会話を最後に、宵闇を隔てる戸が音を立てて閉められる。
 主となる者の手に渡ることのなかった浅葱の脇差は再び、蓋を閉められた箱の中でしばしの眠りにつくこととなった。





 表へ出た途端、冬の夜風が蛍達の身体を震わせた。夜半もとうに過ぎていれば、警戒の篝火と相克酒場だけを残し、武家屋敷と民家の入り混じる『癒城』の街はすでに宵闇へと沈んでいる。各々が提灯を手にしているとはいえ、わずかな星明りしか照らす物のない雪原は、先も見通せぬほどに暗かった。
「久暁さーん! 何処にいるのですかー!」
「久暁殿ー!」
 静寂を破るかぐやと蛍の声も、街にまで届いては困るので自然と控えざるをえない。一方、白戯は二人から四、五歩ほど離れて先行し、危険なものが潜んでいないか探っていた。
 久暁の風貌と性格からして、街に向かったとは考えにくい。とすれば、相克酒場から街外れのさらに外、山林に入る道が隠れるこの雪原へと足を運んだということか。
「おい、二人とも。まさかこの先にまで進むつもりか?」
 酒場の灯りが相当遠ざかったところで、白戯が警告した。暗闇の彼方を見ようと、かぐやが提灯を高く掲げる。
「それなら一旦、この辺りを探索してみましょうか」
「かぐやも無茶するなよ。こんな夜中に雪道を歩いて大丈夫なのか?」
「ええ、まだお師匠様達の居場所が分かるもの」
 そう言いつつ、かぐやは不安そうに酒場の方向を一瞥した。しかしすぐに意を決したらしく、くるぶしまで沈むほどに積もった雪を、輪かんじきで踏み固めながら前進していく。
「やれやれ、いつものかぐやに戻ったみたいだな」
「そうであるな」
 初めて意見が一致したことに、蛍と白戯は共に奇妙なものを感じていた。酒場では口を挟まなかったが、八佗に真っ向から反論したかぐやを二人とも案じていたのだ。
「しかし、かぐや殿が八佗殿にあそこまで反論するのは初めて見たな」
「そうなんだよなぁ。アイツが金目野郎に対して強気に出るなんて久々だ。普段、あんなに怒ることすら滅多にないんだぜ」
「別に怒ってなんかいません。お師匠様の自分勝手さにちょっと呆れていただけです」
 不意にかけられた柔らかな声の主は、先程歩いて行ったはずのかぐやだった。蛍達の会話は筒抜けだったらしい。
「急に戻ってくるなり話しかけるなよ。どうしたんだ?」
「すぐそこに、まだ新しい人の足跡があったの。輪かんじきの跡ではなかったから、ひょっとしたら久暁さんの物かも」
 積雪がわずかだったこともあり、足場の悪さよりも歩幅が制限されることを嫌った久暁は輪かんじきを付けていなかった。同様の理由で蛍も履物を半長靴にしていたのだが、それを除けば、あの酒場に集った者は皆雪上に適した履物をしていたはずだ。他にこんな刻限に街の外へ出る人間がいるはずもなく、かぐやの見立ては確信的と言えた。報告するなり彼女は、足跡を追いかけようと踵を返す。
「落ち着けよ、かぐや。そこまで心配しなくても、アイツは綺羅乃剣を持っているんだろう? 焦ることないって」
「そうであれば良いのだけれど……」
 手がかりを見つけたことで気が逸っているのか。いつも通りの彼女に戻ったかと思えば、今度は白戯を宥める立場であるはずのかぐやが白戯に説得されている。出逢って間もない蛍の目から見ても、どうにも今日のかぐやは様子がおかしい。特にある人物が絡むと。
「どうしてかぐや殿はそれほどまでに、久暁殿を気にかけておられるのだ?」
「え?」

 軽い質問のつもりで蛍は訊いたのだが、先の焦燥感はどこへやら、途端にかぐやの表情は鳩が豆鉄砲を食ったかのようになった。しどろもどろに次げる言葉を探していたが、それが落ち着くと、
「ああ、それはその……久暁さんを見ていると、閻王のことを思い浮かべてしまって」
と、正直な返答が返ってきた。
 蛍は遠巻きにしかあの黒い異人を見ていないが、かぐやが言うからにはその顔はやはり、よほど久暁と似ているのだろう。それは即ち、久暁が望まずとも脅威の幻影を『昇陽』の民に与えているということか、と考えた蛍だったが、
「い、いいえ! 違うんです! そうじゃなくて!」
 かぐやはその予想を激しく否定した。どういう意味かと首を捻る蛍だったが、その理由はさらに意外な物だった。

「あの人、閻王は……私の命の恩人なのです」

 浅葱家に居た時分、婆娑羅衆≠ェ行った暴虐の悉くを聞かされ、そうした悪を討つことこそが使命と教えられ育った蛍にとって、命の恩人≠ニいう言葉がこれほど遠い響きに思えたのは初めてだった。かぐやが嘘をつくとは思えないが、それでも俄かには信じがたい。しかも告白を聞いた瞬間、寒さのせいで血の気が引いていた白戯の顔色が、憤りの朱色へと変わっている。
「まだそんなこと言っていたのかよ。かぐやはアイツのことを勘違いしているだけだ」
 これまでにも白戯は婆娑羅衆≠ノ対し嫌悪感を露にしていたが、先のかぐやの言葉には一層強い反発を示していた。
「けれど、私は実際にあの人に助けてもらって――」
「どうせ俺は何の力にもなれなかったよ」
 その自責の感情が何を意味しているのか。途端に俯いてしまったかぐやから白戯は視線を逸らし、彼女が戻って来た方向を指さした。
「足跡は向こうに続いているんだな。俺が先に様子を見てくるから、かぐやはここで待っていろ。オイお前、かぐやに何かあったら承知しないからな」
 蛍の意見も制止も届く前に、白戯は白兎の毛皮を翻し駆け出して行ってしまう。自分をお前呼ばわりした白戯の態度は蛍の癪に障ったが、かぐやの様子を見ると、今から追いかけてまた投げ飛ばす気にもなれなかった。
「一体、あやつは何を怒っているのだ?」
 傍で立ち尽くしているかぐやから、すぐに返事は返ってこなかった。訊くべきではなかったかと一寸後悔したが、それでもかぐやは話す決心をしたようだった。

「……以前、私に姉がいたという話はしましたっけ?」
「うむ、聞いていたと思うのだが。確か名は――」
「あさひ、です。私とは年子でした」
 それが白戯の反応と、かぐやの命の恩人とやらにどう関係しているのか。分からぬままに、蛍は相槌を打つ。
「それが如何したのだ?」
「私が産まれてから幾年も経たない内に両親が他界してしまったので、私と姉さんはお師匠様の元で育てられたんです。言葉が話せるようになった頃から読み書き算盤を教えられ、走れるようになった頃から武術を叩き込まれてきました。お師匠様はあの通り、飴よりも鞭を重視する人でしたから、私はもう、毎日が怖くて怖くて……それでしょっちゅう、姉さんに言っていたんです」
 ――父様と母様に逢いたい。
 夜毎にそう言い泣きじゃくる妹を見かね、姉のあさひはついにある冬の夜、かぐやを連れて八佗の屋敷を抜け出した。同じ日に、修行の名目で屋敷に放り込まれていた白戯が物音を聞きつけ、跡をつけていたとは知らずに。
 真冬の雪原を宛てもなく、子供三人がさ迷い歩くなど無謀だ。しかし幼いあさひはそれが自覚できず、かぐやはかぐやで姉に任せておけば全てが上手くいくと信じていた。ましてや、年上の二人組についていくのが単に好きだった白戯が、そのことに気付くはずもなく。
 『癒城』の外に出た辺りでまず、歩き疲れた白戯が二人からはぐれた。
 その後さらに不運なことに、夜中の吹雪が子供たちを襲った。
「あの年の冬は今年よりもずっと寒くて、雪も多かったんです。これ以上進むのは無理だと思っても、もう帰り道も分からない状態で。そのまま二人揃って動けなくなった時に初めて私、死んでしまうかもしれないと思ったんです。死んでしまえば父様と母様に逢えるとも考えられませんでした。ひたすら寒いのと怖いのとで、私は泣くこともできなくなっていて、姉さんが自分の上着を私に被せていたことにも気付けなかったんです」
 かぐやが気付いた時にはもうすでに、あさひは目覚めぬ眠りにつき、静かになっていた。灯りも失い、何も見えぬ暗闇の中、ただ風雪の身体に当たる感覚だけが止むことなく襲ってくる。あさひが何も言わなくなった頃から、かぐやの恐怖心は消えていた。非常に朦朧としていた為か、彼女自身もそれ以上のことは思い出せないのだという。
 ただ、完全に意識が途切れる寸前、誰かが自分の身体を抱え上げたのだけは覚えていた。
「それが、あの男――閻王であったと?」
「彼は封印≠フ時からそれまでずっと、『央都』跡地の北東にある大井山の野狂洞やきょうどうに潜み、生きのびていたんです。存在を知られないよう、天候の悪い時を選んでは街の近くに現れ、その度に人家の家畜を襲い、食糧として盗んでいたんだそうです。特に冬は山の獣が減りますし。その頃はまだ他の残党も身を隠していたので、彼は十四年間、独力で生きていたことになるんです」
 おそらくその夜も吹雪に紛れ、人家に近づくつもりだったのだろう。彼からすれば、雪原に倒れる姉妹は非常時の食糧と同等であったのかもしれない。二人を抱えたまま尚も獲物を探し、『癒城』に潜入しようとした彼だったが、予想に反し、子供達がいなくなったことで『癒城』は悪天候の夜にも関わらず、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。武士十家のみならず、分身を総動員させ探索に取りかかっていた八佗によりとうとう閻王は捕らわれたのだが、結果的に彼は、姉妹を『癒城』に送り届けることとなったのである。
「なるほど。しかし、その件だけが理由で婆娑羅衆≠フ残党が死罪を免れたとは思えぬのだが……」
「本当はその後で、閻王が鉄忌の構造を把握できると分かったことが大きかったのだと思います。閻王の直感力は、どんなに複雑に隠蔽されたものでも容易くその本質を暴いてしまうほどに強力だったんです」
 あの閃鉄筒も、婆娑羅衆≠ェ東の大陸よりもたらした異国の武器を原型に八佗が設計し、閻王が作製したものだという。それまで鉄忌を屠れる人間が八佗一人だけだったことを考えれば、閻王の過去に無理矢理目を瞑ってでも、閃鉄筒で防御手段を増やしたかったのだ。八佗の茫蕭の禍¥I結に対する執念は、この頃からすでに強かったとみえる。
「閻王本人は助けたつもりなど欠片もないのでしょう。でも、あの時彼に見つけられていなければ、姉さんだけでなく私も凍えて死んでいたはずです」
 本来の目的がどうであれ、かぐやにとって閻王が命の恩人であることに変わりはない。それ以降、閻王の姿を見ることは無かったが、八佗が彼にどのような命を下したのかは聞いていた。大罪人とはいえ、あの雪原で目にしたような死闘を以後十三年間も続けていたのかと思うと、その原因を作ったものとして、かぐやはいたたまれない感情を抱かずにはいられなかった。
「私は、この茫蕭の禍≠終わらせたいんです。その為にも、私のせいで亡くなってしまった姉さんの分も合わせて、お師匠様や皆の期待に応えられるだけの力をつけなければいけない。でも……」

 そう言いながらかぐやの顔は次第に俯き、長い髪に表情が隠されてしまう。決心が本気であるのは間違いない。しかし、
「これまでに、戦いや施政に関してお師匠様から満足な評価を頂いたことは無いんです。さっきの酒場でのやり取りの様に、私はいつも思慮の浅いことを言っては怒られてしまって。本当に、情けない……」
「そんなことは無かろう!」
 強い否定に驚いたかぐやが顔を上げれば、眉間に皺を寄せた蛍がキッと自分を睨んでいた。
「実際、かぐや殿は亡き姉上や八佗殿、それに『昇陽』の者を援けるために努力を惜しまなかったのであろう。それに、今も閃鉄筒を手にしている。命を賭す覚悟を決めておるということだ、それは。何を恥じることがあろうか!」
「す、すみません! すみません!」
 反射的に謝ったかぐやの様子に、今度は蛍が戸惑う。自分でも知らずの内に口調がきつくなっていたらしい。
「いや、謝ってもらいたい訳ではなくて……その、かぐや殿がその勇ましさと慈悲深い心を失うことなく、今日まで在り続けているのを私は尊敬しておるのだ。胸を張って然るべきことだ」
「そんなこと、ありませんよ……」
 かぐやは相変わらず自信の無い応えを返したが、蛍の気持ちは限りなく本心からのものだ。自分もかぐやも、誰かの為に成すべきことを成すという、似たような想いを抱えここに在る。だが蛍には、八色の黒≠ノなりきれず、浅葱に戻ることも逡巡していた己が、ひどく恥ずかしいもののように思えた。
「うむ、決めた」
 おもむろに蛍は姿勢を正し、かぐやを真正面から見据える。

「かぐや殿、もしそなたが迷惑でなければ、私と義姉妹になって頂きたい」
「え……?」
 かぐやが固まったのは寒さのせいではない。蛍の申し出があまりにも予想外だったので、自分の耳を疑っていたからだ。もっとも、蛍の方はそんなかぐやの胸中に気付いていないらしく、
「正直に言えば、私はこの地に居続けることが不安であった。もし八佗殿の見立て通り、私の意志が作られしものだとしたら、敵を斃すことしか能のない今の私では、また久暁殿の時の様に自分を抑えられぬかもしれぬ。だから、私は自分には無い、かぐや殿の持つ意志のその心を学びたいのだ。私の意志から生じたものではなく、かぐや殿から受け継いだ意志であれば、きっと何があっても我が身に残り続けてくれるはずだ」
と、言うなり雪上に座り込み、頭を下げた。かぐやが慌てて立つように促すと素直に立ち上がったが、真摯な眼差しだけは変わらないでいた。その熱意に押されたのか、かぐやはしばらく考えた末に「分かりました」と了解の意を示した。その言葉を聞くなり、蛍の顔が満面の笑みを浮かべる。
「ありがたき幸せ! 感謝いたす、かぐや殿!」
「でも、本当に良いんですか? 義姉妹になると、一つ上の私が義姉になってしまいますけど」
「年上が義姉になるのは当然であろう。別に問題はないと思うのだが」
 どうしてそのようなことを気にするのかと首を傾げる蛍に、かぐやは思わず肩を揺らして笑った。
「何だか、可笑しな感じです」
「どうして?」
「私は、自分よりも蛍さんの方が芯も強くて、年上みたいに感じていたものでしたから」
「そんなことは無かろう。かぐや殿の方が落ち着きもあり、よほど大人びている」
 歳の差が一つ違いというだけに、見た目の年齢差では二人に大きな違いはない。それでも年上には違いないという蛍に推される形で、かぐやは義姉の立場となった。
「それでは今後ともよろしくお願いしますね、蛍さん」
「任されよ、義姉上あねうえ
「あの、できれば呼び方は今まで通りでお願いできますか?」
 この『昇陽』に来て以来の、充実感にも似た気合が蛍の全身に漲る。そんな彼女を微笑ましく見つめていたかぐやだったが、
「おーい二人共、こっちに来てくれ!」
 突如、彼方から白戯の切羽詰った声が聞こえてきた。

 暗闇に揺れる提灯の光を視界に捉えると、蛍とかぐやは笑みを消し、すぐさま彼の元へと駆け寄った。
 白戯の佇む場所に近づくにつれ、彼の足元にある物が、灯りにより姿を明確にしていく。雪の他はまばらに覗く枯れ草しかないこの場において不自然な、しかし見覚えのある黒い布地と無数の細長い金属片がそこには落ちていた。
「これは久暁殿のたがねか? それに外套と、羽織り……」
「手持ちの暗器を捨てるってのもおかしいが、何で上着まで?」
 疑問符を浮かべる白戯や蛍と違い、かぐやは顔を曇らせ、提灯を持つ手を震わせていた。
「捨てたのではなく、恐らく捨てられたんです。下手に攻撃などできないように、隠し持っている武器を調べられたのでしょう」
「って、誰にだ?」
 白戯に問われても、かぐやはそれ以上の推測を述べようとはしなかった。一方、提灯で周辺を見回していた蛍は、また新たな足跡を発見していた。
「この足跡、久暁殿のものとは違うな。何者のだ?」
「コイツもまだ新しい。追跡すれば何か分かるかもしれない」
 その白戯の言葉に頷き、蛍が先に進もうとしたその時。
「いけません!」
 かぐやが蛍の外套を押さえ、声を張り上げて彼女を引き止めた。どうして止めるのかと問おうとした蛍だったが、すでに仄灯りとなった提灯に照らされたかぐやの顔色は、悲愴なまでに青ざめていた。
「これ以上夜中に街から離れるのは危険です。お願いですから、せめて夜明けまで待って下さい」
「けれども、夜明けまでにまた雪が降ってしまえば、せっかくの手がかりが……」
 そこまで言いかけて、蛍はかぐやの姉の話を思い出した。さらに白戯の方を見れば、あの彼が先に進むのを止めるよう、懇願するかのように両手を合わせている。先程白戯がかぐやの先行を案じていたのは、彼女が十三年前の事件以来、自身であれ他人であれ、夜の雪原を渡ることに極端なまでの恐怖心を抱いていたからだったのだ。
 事情を察し、蛍は外套を握るかぐやの手に自分の手を重ねた。
「ならば、かぐや殿は私が守ろう。鉄忌が現れればこの手で薙ぎ払ってくれるし、暗闇など怖るるに足らぬ。何せ、私は常夜の『都』で育ったのだからな。心配は御無用!」
 自信満々な様子の蛍を、どうしてお前がそこまで言うのかと、歯痒そうに白戯が睨む。だが、かぐやはその言葉にいくばくか落ち着いたようだった。蛍の外套を掴む手が緩む。
「でも、お願いですから、探すのは空がもう少し明るくなってからにして下さい。武士十家の皆さんやお師匠様にも協力してもらえば、最悪の事態だけは避けられるはずです。どうか、どうか……」
 ここまで頼まれては仕方ない。蛍達は一度酒場に引き返し、夜明け前に探索を再開することに決めた。それでもかぐやにとっては厳しい条件だったが、今回に限っては蛍の言葉もあり、安心できたらしい。
 ただ、かぐやの言葉には一つ、引っかかるものがあった。
「ところでかぐや殿、先程申しておられた最悪の事態とは?」
 雪を踏み固めながら、かぐやは遥か東の空を眺めている。それは夜明けを渇望しているというよりも、そこにある何かを指し示すかのような視線だった。
「久暁さんがもう、帰ってこられないかもしれないということです……」




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