<災厄の導き手>



 突如肌を切り裂いた銀の刃は、その輝きのごとく冷たかったか。それとも緑白色の炎により熱を帯びているのか。人外の化生のものしか斬れないはずの剣は、八佗の頬にうっすらと朱線を作り、皮一枚を傷つけた所で動きを止めていた。睨む久暁から殺気は感じられなかったが、周囲の武士十家、そして黒のしじまの手は瞬く間に自分達の得物を掴んでいる。
「おいおい赤髪の兄さん。何を考えてかは知らないが、主上の御前で刃を見せるのだけは止めてくれないか。事と次第によっては、俺達はアンタを斬らなければいけなくなる」
 やんわりと久暁を説得するのは、背負った大太刀に手をかけた姿勢で静止している皐弥だ。彼は久暁へ注意が集まる中、ただ一人しじまの殺意に視線を投げかけ、今にも包丁を投げつけかねない彼女を牽制していた。
「……手荒な真似をしたのは、心から詫びる」
 周りに気圧されるまでもなく、久暁は大人しく綺羅乃剣を仕舞った。不意打ち以外に八佗を傷つける方法などなかったのだ。当の八佗は久暁が何らかの行動を起こすことを見越していたかのように微動もせず、いつもの悪態一つすら吐かなかった。黒い皮手袋をはめた指で傷をなぞれば、初めからそんなものなど無かったかのように、痩せた頬につけられた朱線は消えていた。
「その血は本物か?」
「まともな人間だったころの名残だよ。もうこれくらいしか残っていないがね」
「永遠に生きる人間などいない」
「そうさ。私とて死ぬ時は死ぬ。正確には言えば、いつかは消えるというべきだが」
 自嘲気味に応えながらも、八佗は自身が人であることを頑なに肯定しているように思えた。綺羅乃剣で傷つくからには、おおよそ常人と呼ばれる存在ではあるまいに。
 では蛍はどうなのだろう。彼女は自分が剣で傷つくことを知らないし、久暁もそれは誰にも告げていなかった。この場で追求することは容易いが、蛍本人を前にして問うべき事ではなかろう。剣に不可解な原因があるとしても、それが明らかにされるまで奇異の目を向けられるのは蛍なのだ。
 そもそも何が、どこまでが真実なのか。
 八佗が語る知識を全て信用してもいいのだろうか。
 つのる困惑が頭をかき乱そうとする久暁の様子を見て取り、八佗は満を持したかのように己の目的を口にした。
「もう理解しているのではないのかね? この『昇陽』で最も戦闘力を有するのは私だが、それでも雪女≠斃すことは叶わない。綺羅乃剣を扱える君ならばそれが可能だという訳だ。だが君にそれを強いるのは酷である。だから君の意志次第では剣を預かり、我々だけで全てを片付けようと考えているのだよ。雪女≠ヘ人間を傷つけられないから鉄忌を手足に使う。鉄忌も雪女≠燗jれるその剣さえあれば――さらには鉄忌ともまともに渡り合える君が我らについてくれれば、心強いことこの上ない」
 それは彼のみではなく、ここに集った『昇陽』の者の総意でもあったのだろう。かぐや達の真摯な表情からしても、八佗が本気で現在の『昇陽』を憂いているのは間違いない。しかし、綺羅乃剣をめぐる言葉に触れた途端、久暁の獣の双眸には懐疑の影が差していた。
「初めて逢った時、この剣は自分たちには何の価値も無い物だと言っていたはず。今更になってどういう風の吹き回しだ」
「先にも述べた通り、私が『昇陽』の神器≠ニなったのはおよそ千五百年前。その間、綺羅乃剣が象徴としての神器∴ネ外の目的で使われたことは一度もないし、神器≠ニいえど、私や左大臣殿のような者とは全く性質が違う。飾りだと思っていたのは本気だよ。あの雪原で初めて刃を目にするまでは、ね……あれほどの威力を持つ剣が手元になければ、左大臣殿が封印≠ネどという切羽詰った手段を取るはずだよ」
 剣が必要と言えば、久暁の態度が硬化するのは承知の上であった。だが、本当に久暁が求められているのは戦う意志の有無である。八佗がこうまでして回りくどい話をしながら説いたのには、一つの懸念があった為だ。
 剣を捨てるか、己が手に取るか。手にする方を選んだ場合、それは心強い味方となるだろう。けれども、久暁には武士十家の者のように『昇陽』という国に対する忠誠心がなく、加えて彼の素性を考慮すれば、現状に思わぬ不和を招きかねない。八佗としては、久暁が剣を手放してくれる方が最善の手段であった。久暁がこだわっている儚人≠ヨの疑問を氷解させれば話は通じるものと思い、ここまで話を漕ぎつけたのである。
 ところが、
「……返答は待って欲しい」
 久暁の反応は依然として頑ななままだった。
「決めかねるのは『央都』への帰還を諦めていないからかね? 茫蕭の禍≠ウえ終結してしまえば封印≠煢除される。そうなれば『央都』に残してきた者達とも会えるだろう。問題はないはずだ」
 そう付け加えても、久暁の表情から迷いが晴れる様子はない。黒眼鏡ごしの八佗の目が、わずかに険しさを纏う。
「どうして君が『央都』にこだわるのか、何をそう頑なに黙秘しているのか……そろそろ教えてくれてもいい頃合だと思うのだが。それに、君が儚人≠ナある事を左大臣殿がつきとめるのに二十七年もかかった理由も、私としては非常に興味がある」
「右大臣……」
 棘のある言葉を白巳女帝が窘める。失礼を、と八佗が詫びた所で、ようやく久暁からの答えが返ってきた。
「『都』にやり残してきた事がある。それを終わらせなければ自分を納得させられないだけだ」
「嘘です」
 間髪入れず鋭い声を上げたのは、意外な人物だった。
「久暁さん、貴方は嘘をついている」
「おい、かぐや……!」
 傍らの白戯が止めるのも聞かず、かぐやは久暁の前へと歩み出た。濃い鳶色の瞳が頭二つ分も上にある獣の眼を見据えると、微かに震える声で彼女は続けた。
「ここ二週間での生活と、あの鉄忌との戦いを見ていて分かったんです。久暁さんは自分の身を第一に慮るような人じゃないと。誰か大切な人を庇い、護らなくてはいけないから、『央都』へ帰りたがっているのではありませんか。私達ではその力にはなれないの――」
 次の台詞を言う前に、かぐやの口は凄みを増した紅の双眸によって閉じられてしまった。苛立ちとも怒りともとれない、煮えたぎる火のような眼差しを久暁が彼女に見せたのは、これが初めてだった。身をすくめたかぐやを庇うように、白戯が彼女の前に立つ。
 敵意を込めた視線に真っ向から見据えられ、自分の軽率さに気付いたのか。久暁は目を逸らすと、鋼のように硬くなった声音で呟いた。
「お前達には関係のないことだ。だから教える必要もない」
「関係あるかどうかは我々が判断することだ」
「……やけに高圧的だな」
 そう言うなり、久暁は八佗と白巳女帝、そしてかぐや達に背を向けた。一方、とりつく島もない様子に半ば諦めたのか、八佗も大きな溜息をついている。
「左大臣が俺の存在に気付いた理由を知りたいなら、蛍に訊いてくれ。操られていた時の記憶が戻っているならば、俺と左大臣との会話も覚えているはずだ。そうだな?」
「た、確かに覚えてはいるが。しかし久暁殿……」
「少し、一人にしてくれないか」
 蛍の呼びかけにも振り向くことなく、赤銅色の髪は酒場から外へと歩み出で、そのままぴしゃりと戸が閉められる。慌てて後を追おうとした蛍だったが、今度は彼女の背に引き止める言葉がかけられた。
「待ちたまえ、蛍殿。君に関する話はまだ始めてもいないのだよ」
「ですが……」
 なおも飛び出していきかねない蛍に、八佗は続けて「かえって好都合だ」と付け加えた。
「君が久暁殿と共に封印≠越えて現れたのも何かの縁かもしれない。少し君には知っておいてもらいたい事がある」
 儚人≠ノ関してだが――と、おもむろに八佗の声が重みを増した。
「本人を前にしては語りづらいのでね。彼に伝えた内容以外にも、儚人≠ノはまだ特異な点があるのだよ……これから話す秘密は決して本人には伝えないように。誰しも、自分の命に関わる話など聞いて気持ちの良いものではないからね」





 夜の帳では小さな光点が無数に瞬き、一番強い真白の月光は今日、その姿を現してはいない。『都』の月はただの不気味な光球だったが、『昇陽』の夜空に浮かぶ本来の月はなんとも優しい色をしていた。一目眺めて血の上った頭を冷やそうと考えていた久暁だったが、残念ながら満点の星空を仰ぎ見ながら嘆息するだけに終わってしまった。風が止み、静けさも増した冷ややかな空気の中で佇むには、星々の針のような光は例え束になろうと温もりにはほど遠い。『癒城』の外れだけあって家々の灯も遠く、もと来た道を振り返ればあの酒場の灯りですら小さく感じる。
 足の赴くまま歩き続ける内に、いつの間にか久暁は街の外にまで辿り着いていた。薄く積もった一面の雪景色の中、久暁ただ一人が生ける者として存在しているかのように、他には何の影も見当たらない。
「ただの人間、か……」
 八佗が語るまでもなく、それはすでに自覚している事であった。『都』へ戻る手段も見出せず、こうして空を見上げるしかない無力なる者が、自分自身すら許せぬ者が、誰の救いになれよう。
 もし本当に枳と燥一郎が『茫蕭』と関わりのある者ならば、このまま二人の存在を黙秘し続ければ『昇陽』の者達への敵対行為となるかもしれない。必ずしも鉄忌に対し善戦しているとは言い難い彼らが、自分の力を欲しているのは痛いほど理解できた。そして、歯が立たぬ『茫蕭』の雪女≠、綺羅乃剣を持つ久暁に討たせようという八佗の魂胆。その裏にある『昇陽』の為という意志も汲み取れた。
 だが万一、彼らと共に鉄忌を斃し続けたその先にあの二人が現れたとして、久暁は剣を振るえるのか。恐らくは不可能だ。例え彼らにとって自分は道具でしかなかったとしても、あの『都』で過ごした時間を全て犠牲にし、心を鬼にしてまで、彼らを自分の手で殺すことなど出来るはずがない。

 両の目に焼きついた、あの微笑を思い出す。『都』から消え去る直前に目撃した、月を背にしていた時のものではなく、『火燐楼』から去る直前に投げかけられた優しい笑みを。
 冷えきった闇夜の只中にあっても、あの一時を思い出しさえすれば、身体の芯に火が灯るような心地がした。記憶の中の声が幻だろうと、今は構わない。
「ふふふ――」
 そんな事を考えていた矢先だった。空耳ではない。確かに鈴を鳴らすような女の笑い声がした。
 それもすぐ間近で。
 反射的に踵を返した瞬間、眼窩に冷たい吐息がかかった。

 真っ先に視界に映ったのは、目元から鼻にかけてを覆う白狐の面。それと、その下で孤を描く薄紅色の唇だった。宙に浮き上がる身体は真白の着物に包まれていながら、あられもなく白い肌を胸元まで曝け出している。夜風に靡く白銀の髪は雪上に届くほど長く、蜘蛛の糸のごとく細く、一本一本が意思を持つかのように久暁の黒い着物に絡みついてくる。
「お前は……!?」
 瞠目する久暁からはすでに、言葉が失われていた。雪上で初めて垣間見た時は得体の知れぬ威圧感に気圧され、同時に死闘の目まぐるしさに心を奪われていたため気付いていなかった。
 この雪女≠フ、怖しいほどの美しさに。
 いつ現れたのかと考える余地もない。今や久暁の視線と思考は、完全に彼女の虜となっていた。
 ひたりと、凍てつく両手が久暁の頬に触れる。相手が何者か悟った所で抗う術はない。背けようとする顔も、綺羅乃剣を掴もうとする右手も、まるで氷と化したかのようだった。八尺瓊との対峙でかけられた術と似ているが、あの刺すような冷気の痛みはない。身体中が凍りつき、にもかかわらず意識だけは朧のように曖昧となっていく。
 瞼が落ちるまでもなく暗くなる視界の中、唇を重ねようと近づく狐面の奥にある目だけは、やけにはっきりと見えていた。
 見知らぬ目――そのはずが、何故かとても良く知る目と似ている。
 不意にこみ上げた懐かしさが、久暁から最後の抵抗する意思をも奪い去る。
 しかし、二人の唇が重なることはなかった。

 冷たい接吻が与えられる代わりに、次の瞬間、久暁の身体は勢い良く突き飛ばされていた。シャリンと足首に連ねた鈴を鳴り響かせ、空中で一回転する雪女=B彼女と久暁が立っていた位置を薙いだのは、鈍い銀光を備えた大刀だった。大振りの鉈に似たその凶器は獲物を追い、さらに上空めがけて振り上げられる。
 逃げる雪女≠ヘ迫る刃を素足で蹴り返し、軽やかに地面へと降り立った。口元は悔しげに唇を噛んでいる。顔の上半分は狐面に隠されているが、彼女の怒りは手に取るように分かった。そんな凄まじいまでの鬼気を叩きつけられていながら、背後からの襲撃者たる男はただ愉しそうに不吉な嗤いを浮かべている。
 一方、雪にまみれながら倒れていた久暁は、金縛りが解けたのを確認するや否や、すぐさま立ち上がり剣を抜いた。鬼火を生み出す刃に照らされ、雪女≠ゥらスッと怒りの色が消える。そのまま久暁が一歩踏み出すと同時に、彼女の身体は再び宙へと浮かび上がった。
 夜の暗闇に白い衣と髪をはためかせながら、魔性を漂わせる女は遠く東の空へと消えていく。つかの間の死闘の後、残されたのは長身の影二つだけとなった。

 剣の刃を仕舞い、久暁は恐る恐る眼前に佇む黒い背へと視線を投げかけた。そこに居るのは黒い鬼神。雪原で雪女≠ニ死闘を繰り広げていた砂螺人の男だ。腰まで届く長さの黒頭巾に縫いつけてある白糸の紋様は、金輪翁から昔聞いた、砂螺人の部族を区別する為の紋章に違いない。ゆったりとした厚手の長袍ごしでも、隆々たる体躯がよく分かる。自分以外の砂螺人を見るのは二人目だが、この男は久暁が幼少期に仰ぎ見ていた金輪翁よりもはるかに巨大に感じられた。実際、身長六尺の久暁よりも頭一つ分突き抜けている。正確な背丈はゆうに七尺はあるだろう。
 雪女≠ェ消え去った方角を睨みつけながら、獣と血と漆黒の臭いを纏う男は舌打ちをした。先程までの嵐のごとき激しさが嘘のように、緩慢な動作で大刀を右肩に据えると、ゆるりと久暁の方へと振り向く。
 全く同じ紅色の獣の双眸が、そこにはあった。ただし久暁と違い、その男の瞳には積年の間に積み重ねられた老獪さと、飢餓にあえぐ獣だけが持つ凶光が宿っている。婆娑羅髪の下からでもその鋭さは久暁の目を射抜き、威圧感でもってその場に身体を縫いとめている。衣服の染料でさらに黒く染め上げられた浅黒い肌。彫の深い顔を走る皹に似た皺と、口元を覆う白髪交じりの髭。面差しは確かに久暁と似ていた。
 ザクザクと雪を踏み鳴らしながら、男――閻王は久暁の元へと真正面から近づいていく。肩に大刀を担いだまま、手を伸ばせば余裕で触れられるほどの位置にまで辿り着いても、双方の目線は逸れなかった。久暁の場合は逸らせなかったと言う方が正しかったかもしれないが。
「本当に婆娑羅衆≠フ元首領なのか……?」
 乾いた声を絞り出すように、久暁が最初の一声を発した。閻王の表情はピクリとも動かなかったが、空いている左手が差し出されたかと思うと、それを久暁の赤銅色の頭の上へと乗せた。やはり黒い手袋をはめた左手の重さと、その鉄のような硬さに久暁が気を取られた――その一瞬の隙に。

 無防備な首の付け根へと、鬼神の牙は突き立てられていた。

「ッあ、あぁぁぁぁぁ!?」
 痛みを感じた瞬間、久暁の思考は雪よりもなお真っ白く染まっていた。何が起きたのかとっさに理解できなかったのはそのせいなのか。あるいは予想だにしなかった現実を現実と認識したくなかったからか。
 叫び抗おうと、頭を押さえつける左手は鉤のように離れない。黒い獣性の塊を首筋に喰らいつかせたまま、その重みで久暁は後方へと転倒した。雪の下の地面が柔らかかったため衝撃は軽かったが、犬歯が皮を喰い破るブツリという嫌な音が、すぐ近くの耳元まで届いた。
 倒れたことで体勢が崩れたせいか、閻王は喰いつくのを止めてすぐさま跳ね起きた。解放されたとはいえ、久暁は左の首筋を押さえ、横たわったまま痛みに喘いでいる。乱れた赤銅色の髪の隙間から覗くうなじまでもが、赤い血で汚れていた。
 再び緩慢な動作で立ち上がると、閻王は倒れた拍子に手放した大刀を拾い上げた。その髭に囲まれた口の端から、こぼれた赤い血が滑り落ちていく。
「脂が少なすぎる」
 雪上で悶絶する久暁の頭を足蹴にすると、黒衣の男はそう呟いた。
「筋肉ばかりで喰えたものではない。だが……」
 苦々しげな顔つきが一変して、満足気に口元を歪める。顎へと達し滴り落ちようとしていた血を親指で拭い取ると、閻王は伸ばした舌で全て舐め取った。
「酒や薬の臭いがしない血を口にしたのは久々だ。これだけは褒めてやろう」
 足元を見もせず、低く錆びた声は謡うように呟いている。渾身の力でもって久暁は足下から逃れようとしたが、獲物のわずかな動きを察知するなり、硬い靴底が顔を地にめり込まそうと重みを加えてきた。
「この時期は下らん鉄屑共がうろつくせいで獣が姿を現さん。かといって昇陽人にはとうの昔に飽きている。あの死人のような女しかこの飢えの足しになるものはいないと思っていたが、とんだ拾い物があった。昇陽人でなければあの男も文句はないだろう」
 そこまで言うと、ようやく閻王は久暁の頭から足を退けた。痛む首筋を押さえたまま、久暁はすぐに最悪の相手から離れようとした。が、あの鈍重な動きのどこに瞬発力を隠しているのか。手負いの久暁よりもはるかに早く、閻王の手が赤銅色の髪を掴み上げていた。
「それで、貴様は金剛の子か? この国にいた砂螺人はヤツと俺だけのはずだからな」
 苦鳴を漏らす獲物には欠片も興味を示さず、黒衣の男は問いかけた。金剛とは封印∴ネ前までの金輪翁の称名。それを知るという事はすなわち、間違いなく閻王は婆娑羅衆の元頭目その人なのだ。
 信じたくはない。信じたくはなかったが――
「俺の父親はお前だ!」
 今では自分自身が最も否定したい事実を、血を吐く思いで久暁は告げた。途端に、針のように細い瞳孔がさらに収縮し、嘲笑も消えてしまう。その言葉は初めて、この凶暴な男から人らしき感情を引き出した。
「母親は誰だ?」
「……阿頼耶」
 ほう、と抑揚のない返事だけが返ってきた。すでに答を予期していたのか、もしくは記憶を辿っていたのかは分からないが、聞き覚えのある名前が出た事で少しは久暁の話を聞く気が起きたらしい。
「あの女か。生まれたのはいつだ?」
「『央都』が封印≠ウれた直後と聞いている」
 金輪翁から伝え聞いた話を偽りなく答えたものの、髪を掴みあげる手が緩む気配はない。逆に閻王の口が再び不吉な孤を描く。危険を察知した所で逃れられるはずもなく、次の瞬間、久暁は顔面を雪上へと叩きつけられていた。
「寝言は寝てから言え。確かに俺が抱いた千八百七十三人の女の中で殺さなかったのはアイツだけだが、俺を殺し損ねたあの女が逃げて以来、奴と俺とは一度も逢っていない。それこそ封印℃桙ノはすでに、奴が消えてから一年半も経過している。どうやれば俺が奴に種を仕込めるのというのだ?」
 息の根を止めんばかりに、必死でもがく久暁の頭を地面に押しつけながら閻王はそう吐き捨てた。怒気のこもった声には、失望の色も入り混じっている。自分に血縁がいた事をこの男は一瞬でも喜んだというのか。むしろその失望は、遊びを中断された子供が引き起こす癇癪に似ていた。
「戯言で命乞いをするならもっとマシなものにしろ……逃がすつもりは毛頭ないが」
 久暁を押さえつけていた手が離れると、今度は雪を払いのけ、大刀が脳天めがけて振り下ろされる。だが、そのわずかな隙をつき、寸での所で久暁が身体を転がしたため、大鉈は雪と地面を両断しただけに終わった。
 咳き込み、ふらつく足で久暁が立ち上がる。すでに両手には鏨の爪が携えられていたが、顔は雪と土にまみれ、紅の双眸からは戦意の火が消失していた。それでも避けられたのは意外だったらしく、閻王は続けて凶器を振るおうとはしなかった。
「フン、勘は見事なものだ。砂螺人としての直感力は本物らしい」
 賞賛は本物だったが、閻王の表情からあの不吉な嗤いは消えていない。顎に手をあて、何かを企むかのように考え込んだかと思うと、すぐさま指を打ち鳴らし喜色を浮かべた。
「ならば、そうだな……あまり気乗りはしないが、憂さ晴らし程度にはなるだろう。貴様を飼ってやる」
 予想外の宣言に、久暁の思考は一時完全に停止した。それに構うことなく、大刀を担ぐ閻王は徐々に、投擲の間合いへと近づいていく。
「愛玩用と家畜のどちらが良い? ああ、貴様に決めてもらう訳じゃあない。まずは全身の皮を剥ぐ。それから眼を潰し、口を裂き、耳と鼻を削ぎ落としてやる。両手両足を千切って跪かせ、それでもなお喰らいつく事ができれば上出来だ。頬擦りの一つでもくれてやる。愛玩用に決定だ。それすら耐えられないようならば、とっととバラして喰う」
 まるで料理人が手順を説明するような口調で謡われる言葉は、耳を疑うことなく、久暁の目の前にいる男の口から出たものだった。自分に良く似た赤髪の人間が驚き呆れているのを奇妙に思ったのか、閻王は続けてこうも言った。
「家畜は殺して喰うに決まっているだろう。どうしたその目は? 何を驚く?」
 その一言で久暁の意は決した。右手が翻り、放たれた鏨が閻王へと襲いかかる。すでに彼は投擲可能範囲を半ばまで踏み込んでいたが、巨躯へと飛んだ凶器は、盾となった大鉈に悉く弾かれた。すべてが雪の上へと落ちきる前に、今度は漆黒の暴威が地を蹴った。鉄忌をも超える速度で迫る閻王めがけ、久暁の左手が第二の鏨を放つ。
 が、手放す瞬間、左腕に走った痛みが目標を誤らせた。
 ――こんな時に!?
 時間差で相手の脚へと突き立つはずであった鏨は、またもあっけなく大刀に払い落とされてしまった。今度は後退する隙も与えず、雪を蹴散らし迫る黒影から伸びた片腕が、ついに久暁の首を捕えた。
「勘で対処するまでもない。さっきの攻撃は嘗めているのか」
 六尺ある久暁の長身がやすやすと持ち上げられる。足は地から離れ、締め上げられた意識が次第に朦朧としてくる。すでに周囲が暗いのか、自分の視界から光が失われているのかも判別がつかなくなっていた。それでも、久暁は掠れる声で、狂気を纏う男に語りかけた。黒衣の男は微塵も力を緩めず、なおかつ鬱陶しげに応えた。
「どうしてこんな事を、だと? 決まっている」
 ――貴様が脆弱なる者だからだ。
 嘲るようにそう告げたのは、今もなお利宋や緑鈴が恐怖する婆娑羅衆≠フ爪牙そのものの形であった。




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