<偽り>



 静まりかえったのはほんの数分。急に吹いた夜風がこの小さな酒場を揺らし、呆然とする久暁の耳にびょうびょうという音を打ちつけた、わずかな間だ。
 自分が何に対して動揺しているのか、初めの内は久暁自身にも分からなかった。真っ先に理解したのは、この地の人々が自分の姿を見るたびに示した怪訝な反応の理由であった。『都』に残る婆娑羅衆≠フ恐怖は、いわば爪痕のようなものだった。だが、この地にはまだ爪牙そのものが残っていたのだ。
 緑鈴や利宋らのような残党はもともと、数多くいた末端の人間に過ぎない。婆娑羅衆%熾狽ノおける力階級は単純なもので、多くの手足を数名の隊長が動かし、絶対にして唯一の頭脳が全てを統括していたという。すなわち、真に婆娑羅衆≠婆娑羅衆≠スらしめていたのは頭目であり、彼が存在し続ける限り婆娑羅衆≠烽ワた人々の中に存在し続けているのである。
 その脅威の面影を背負い、久暁は今日まで生きてきた。
 いや、この瞬間までと言った方が正しいのか。
 もとより生まれた時から肉親など無かった身。どのような人間だったのか知りたいという欲求はあったが、人界から離れた黒狗山の闇の中で幼少期を過ごす内に、既にこの世にない人間へ向ける感情はひどく希薄なものとなっていた。さらにその感情をかろうじて繋ぎ止めていたのが、様々な人間の口から断片的に語られる逸話を綴り合わせた記録――つまり、己が生まれるに至った由縁だ。そのせいか、久暁には両親に対する恨み言や畏怖を、まるで我が事のように思い生きてきた節さえあった。
 それが今は、何かを剥ぎ取られたかのような心許なさを感じる。
 鉄忌との遭遇時、彼方から現れた黒づくめの男――あれは久暁がこれまで甘んじて背負ってきた幻影などとは比較にもならないほど色濃く、巨大で、強烈だった。彼が真実婆娑羅衆≠フ元首領だとしても納得はいく。だが、自分の父親だと悟った途端、拭いようもない違和感が襲ってきた。
 理由は簡単。己以外の全てを絶するかのような鬼気を宿す男に、相対するはおろか、相似するような存在すらもあるとは思えなかったからだ。それが例え、血縁という形であっても――

 風が止み、久暁が我に返るよりも先に静寂を打ち破ったのは、不意に開かれた酒場の戸と外から飛び込んできた声だった。
「どうも〜、遅くなりました〜」
 顔を覗かせたのは二十代半ばという年頃の女だった。化粧っ気はないが、充分な色気を備えている厚い唇。長い黒髪を一括りに結わえてある以外、彼女は皐弥と同じく武士の軽装をしているのだが、着物ごしでもその豊満な胸元の形が良く分かった。右目の下に一つある黒子の色香にしても、外套の下から覗く無粋な刀の柄とは到底不釣合いな物のように思えたが、刀を差している以上、正真正銘彼女もまた武士十家の一人に違いない。刀に巻かれた蘇芳すおう色の帯からして、おそらくは蘇芳家の者だろう。
 詫びる言葉のわりに悪びれた様子のない女だったが、見慣れない顔がある上に、有無を言わせぬほど張り詰めた場の雰囲気に驚いたのか。二重瞼をぱちくりとさせながら、彼女は辺りを気まずそうに見回した。
「どうしたの、この一触即発といった空気は。もしかして遅れてきたから怒っています?」
「大丈夫。まだ許容範囲だ、ともえ殿」
 へらへらと皐弥が笑いながら手を振ると、ともえと呼ばれた女武士も安心したように微笑み返す。一方、彼女が到着するやいなや、八佗の表情からは日頃の不遜さが消えうせていた。
「ご苦労。主上のご様子は?」
「姫様は元気ですよ。ここに辿り着くまでにも、妙なものを視たりはしていませんし」
 ですよね――と、ともえはおもむろに外にいる誰かに話しかけた。そのままスルリと戸を開けば、女武士のすぐ傍らにはもう一人、市女笠を被る娘の姿があった。
 紫紺の単の上に白い袿。顔は笠から垂れ下がる垂れ衣に隠れている。にも関わらず、それまで陽気でいた皐弥がふいに意気を潜め、すぐさま地に片膝を付き頭を下げた。倣うようにして流や白戯にかぐや、論争の火花を散らしていた二人の女将までもが同じように敬礼の姿勢をとる。
「そこの二人、頭が高いよ」
 周囲の反応と、ただ一人悠然と佇む八佗がそう忠告したことでようやく相手が何者かを察した久暁と蛍もまた、地に膝をつける。すると、凛として、それでいてあどけない声が市女笠の下から八佗を責めた。
「右大臣、ここは宮中などではなく、ましてやこれは密談です。礼儀を尽くす必要はありません。この時、この酒場においては、皆同じ客人として対等な立場であることを願います」
 そう言い一同に立ち上がるよう促す声は、まだ少女のように若々しかった。この人物こそが、青辰帝亡き今では、正統な『昇陽』の最高権力者である白巳はくし女帝なのだという。今年で十九と聞いていたが、その印象は想像以上に幼く感じられた。
 対等でありたいと述べたものの、白巳女帝が身につけた市女笠を取り去り、素顔を見せる気配はない。
「顔は見せないのか」
 矛盾を指摘するかのような久暁の言葉にも、白巳女帝は揺るぎのない毅然とした態度を保ったまま答えた。
「お察し下さい。『昇陽』の民の旗印となるからには、私にも矜持というものがあるのです。今はまだ貴方がたを見極めるべき時なればこそ」
「いや、すまない。無礼な事を訊いた……以前、左大臣と謁見した時のことを思い出してな」
 顔を見せぬ者との問答はこれが二度目だ。高い身分の者が気軽に素顔を晒さないのは承知しているが、不意に蘇ったあの死闘の記憶が、心身の痛みまでをも呼び起こそうとする。
 一方、そんな久暁の胸の内に構うことなく、談義は始まろうとしていた。
「それでは改めて……初めまして、『央都』からの客人よ。私がこの国の統治を任されし者、今代の帝です。このような若輩の小娘がと驚かれたことでしょう。ですが、すぐには信じられずともこれだけは信じていただきたい。我々が貴方がたの味方であることを。ここに集めたのは皆、私が特に信頼を置いている臣下、友、そして婆娑羅衆≠ニ八色の黒≠サれぞれに縁がある者達。ゆえに、今は互いに肝胆相照らし、忌憚や偽りなき意見を述べていただきたいのです」
 そう最初に告げると、垂れ衣ごしの視線は久暁と蛍を見据えた。
「『都』からこの地へと現れ、さぞや戸惑われた事と存じます。私がこうして貴方がたを招き、自らも赴いた理由はただ一つ。貴方がたそれぞれの希望を直に伺うために他なりません。これまで右大臣を通して伝えてきたように、我が意としては、可能な限り貴方がたが望む身の振り方を考慮したいと思っております。しかし……」
と、白巳女帝はわずかに言い淀んだ。
「すでに聞き知っている事とは思いますが、封印≠謔闢十七年が経ち、それでもなお茫蕭の禍≠ヘ終結の気配を見せておりません。その間、我々は生き残った国中の者達と連携をとりつつ、時折さまよい現れる鉄忌を討ちつつ生きながらえておりますが、それもいつまで続くかは分かりません。加えて鉄忌を討つ手段にも限りがあり、対抗できる武器を扱える者も極めて少数です。ゆえに、私個人の希望としては、鉄忌を倒す術を持つ貴方がたには共に戦って頂ければと、願っております。当然、これは勅命などではなく、最終的な判断は貴方がたの意志に任せます」
 一国の王が初対面の寄る辺なき者に頼み事をするという事態が、どれほどの重みを持つか。それを知らぬほど白巳女帝が未熟であるとは思えなかった。久暁と蛍にもその真意は汲み取れる。

「一つ訊くが、お前達はどうやって鉄忌を斃しているのだ?」
「鉄忌の残骸から組み立てた閃鉄筒せんてつとう≠ニいう武器がある」
 疑問に答えたのは八佗だった。そのままかぐやに目配せすると、師の意を察知したのか、彼女の袖の中から黒鉄の筒がにょきと顔を出した。
 大人の親指ほどの口径を持つ長い筒の片側に、細かい金属部品を組み合わせた塊が取り付けられている。一見すると不恰好な鎚のようだが、どうやらそれは塊の部分を手に持ち、筒の先端を鉄忌に向けるものらしかった。さらに、懐を探っていたかぐやのもう片方の手が開かれると、そこには玻璃とも水晶ともつかない、ビー玉のような透明の球体がいくつも転がっていた。
 一目見て、久暁の目の色が変わったのも無理はない。それは鉄燈籠を作る者なら嫌でも見慣れている、鉄忌の眼球に他ならなかったからだ。
「ほう、鉄燈籠も鉄忌の残骸から作っていたと聞いたが、さすがは製作者。初見で大方の仕組みは理解したようだね」
 八佗の言葉には珍しく心からの賞賛が込められていたが、久暁は険しい表情のままだ。
「これは鉄忌の眼球を撃ち出して攻撃する武器だな」
「その通り。弱体化していない鉄忌の残骸には、瞬間的とはいえ、活動する鉄忌の外殻を破るだけの力が残されている。そこで、特に力が強い眼球部分を礫として撃ち出す、という訳だ」
 久暁が鉄忌の眼球に残るエネルギーを鉄燈籠の核としたように、八佗達はそれを対鉄忌用の武器とした。確かに、人の武器では歯が立たぬ鉄忌でも、同質の力をぶつければ相殺し破損する事も可能だろう。
「ただし、欠点も非常に多い。回収できる眼球の数がそもそも少なく、一度に一撃しか与えられないのだから、扱う者には必中にして必殺が求められる。最も効果的なのは鉄忌の眼球を狙い撃ちし、体液の流動・固化運動を支配している中枢部分を破壊することだが、失敗すれば僅かな破損などたちどころに修復されてしまう」
「なるほど、それではあの弱体化していない鉄忌と不意に出逢えば、確実に死人が出るな」
「仰る通りです。他に鉄忌を斃す術としては、圧倒的な質量の物――大岩などをぶつけ、修復不可能なまでに鉄の外殻を潰すしかありません。その為、鉄忌の出現に対しては国中に右大臣の分身を配置し、最大限の警戒網を敷いています。彼だけが我々の中で唯一、生身で鉄忌に対抗できる人物ですから」
 右大臣に寄せた信頼に、傍でやりとりを眺めていた白戯が一瞬面白くなさそうな表情を浮かべた。けれども、白巳女帝の言葉は紛れもない事実であろう。彼の鉄忌を葬るその手段までは目撃していない久暁と蛍であったが、無尽蔵に自身を複製できる八佗ならば、『昇陽』中のあらゆる場所で鉄忌が現れようとも即座に始末できよう。その成果は二十七年の間に深紅と染まった彼の髪を見ても明らかだ。しかし、それだけの力でもって盾となりながら、弟子や武士十家に閃鉄筒を与えているのは何故なのか。
「私が前面に出れば、雪女≠ワでもが現れる恐れがあるからだよ」
 問題点への指摘を予測していたかのように、八佗は自ら答を示した。
「貴重な手駒である鉄忌を見つけ次第潰す私の存在は、彼女からすれば歯痒いことこの上ないはず。それに、彼女も私も直接人間を殺すことは出来ないが、互いに相手を人間≠セとは認識していない。だから私に関してのみ、彼女は容赦なく殺意を向けるであろうし、あの左大臣殿が逃走手段を取らざるえなかったほどの相手と戦えば、私は確実に死ぬだろう。おかげで私は充分に立ち回ることが出来ない、つまりはそういう事さ」
「あの女は『茫蕭』の手の者なのか?」
「手の者どころか、首謀者だと私は睨んでいる。茫蕭の禍≠ヘ戦争ではなく、災厄のようなものだ。何者かが既に無き国『茫蕭』の名を掲げ、『昇陽』に混乱を招いた。ある意味、婆娑羅衆≠ノよる蹂躙と似ているよ」
「正体はアンタと同じ神器≠ゥ?」
 その問いに対し、八佗は苦々しげに眉根を寄せた。けれども、どうやら同じと言われて気分を害したのとは違うようだった。
「起動式を扱うからには私と同質かもしれない。だが、あれを神器≠ニ断定するには行動に不可解な点が多すぎる。王権の象徴であり、国家を守護する道具にすぎない神器≠ェ、単体で他国を襲うなどありえないのだよ」
 つまり、八佗でさえ相手の正体を図りかねているのだという。師匠の言葉を補うように、かぐやが慌てて説明に加わった。
「相手が何のために『昇陽』を襲ったのかも、未だに把握できてはいないのです。ただ、『央都』にその目的があることだけは確かなようです。そうですよね、お師匠様」
「この国を本気で制圧したいのならば、いつまでも篭城するちっぽけな土地に構うことなく、ここにいる国の王をさっさと潰し征服すれば良いだけの事。しかし、はぐれた鉄忌が人里に迷い込み人家を襲うことは稀にあれど、敵は頑なに二十七年間も『央都』に鉄忌を送り込み続けている。明らかに狙いは『央都』にある――はずですが」
 ちらりと久暁を一瞥し、致し方ないと言いたげな視線を投げかけた後に、ようやく八佗は重い口を開いた。
「こちらに向かう道中で襲ってきた鉄忌の数、そして統制の取れた動きは明らかに計画的なものでした。雪女≠ェ現れた事といい、あれは妙な襲撃だったとしか思えません。私も油断していましたよ。人里から離れた『央都』跡地付近だったとはいえ、あれほどの数を一度に差し向けてくるとは。おかげで監視地点にいた私≠ェ一人、もう少しで雪女に消される所でした」
「それは……お師匠様、お身体は大丈夫なのですか?」
「危うい所で統合して難は逃れた。見ての通り、私は五体満足だよ」
 ホッと安堵するかぐやと違い、八佗の報告を聞いた白巳女帝の声は幾分か強張っていた。
「では、今後『茫蕭』の矛先は我々にも容赦なく向けられる恐れがあると?」
「という事になりますかな。あくまでもまだ推測の域を出ませんが」
「やれやれ、面倒な事になったな」
 困ったように頭を掻く皐弥のみならず、武士十家の面々には沈痛の色がありありと差していた。確定的ではないといえ、あの時のように鉄忌が群れとなって押し寄せた場合、彼らだけでは勝ち目がないのは明らかだった。
「しかし、今になって何故そのような……」
「あの時は私がついていた為、鉄忌の大群を差し向けられたものと思いましたが……この新たな鉄忌を生産し難い時期に『央都』への攻撃を止め、我らを狙ったとなればおそらく、『央都』への攻撃が一段落ついたから、と考えるべきかもしれません。そこの久暁殿と蛍殿から聞いた話によれば、左大臣殿が深手を負った後に、彼らはこちらへ現れたとの事。その直前に鉄忌が現れたとも聞いております。最悪の場合、左大臣殿はすでに『茫蕭』の手にかかったのかも」
「そんな……!?」
 悲痛な叫びを上げたのは蛍だった。八尺瓊に傷を負わせたのは誰であろう、彼女に他ならないのだ。しかし、暗示によって操られていた蛍に罪はない。少なくとも、ただ一人の目撃者である久暁はそう信じている。
 もし八佗の予想が的中しているのならば、あの時鉄忌を率い、上空で微笑んでいた女も『茫蕭』と関わりがあるのだろうか。そして、左大臣の暗示を跳ねのけ、彼を傷つけたさらなる蛍への暗示。それをかけた者が果たして誰か――己の直感力に頼らずとも、久暁の脳裏にはすでにあの焔に彩られた美貌が浮かんでいる。
 ――お前達は最初から、左大臣が狙いだったのか?
 自分が彼らにとってどういう存在だったのか。道具、手駒、そんな言葉ばかりが頭の中を支配する。彼らの真意を知ろうとせず、自分と他人は分かり合えないものと、己一人の世界に留まっていた自らの愚さはすでに悟っている。だが、その彼らの真意が、自分に向けられていた感情全てが虚構であったなどとは思いたくもない。

 行き場のない感情を反芻してる内にふと、一つの気がかりが久暁の記憶に蘇った。
「八佗、あの雪原で襲ってきた鉄忌だが、お前ではなく俺を狙ったとは考えられないのか?」
 雪原で感じた視線は確かに、紋様の浮かんだ久暁の手へと注がれていた。そして直後に現れた白と黒の恐怖の影――どちらが視線の主かは分からないが、あれが鉄忌の襲撃と無関係だとは思えない。しかし、赤髪の中年は即座に首を横に振った。
「左大臣殿が君の命を狙う理由なら分かるが、『茫蕭』の者が君を殺して得られる利点があるとは思えない。いや待て、ふうむ……」
 否定しておきながら、八佗は何か考え込んでいるようであった。業を煮やした久暁が重ねて問う。
「ならば左大臣は俺を殺そうとした理由とは何だ?」
「迷信のせいさ。儚人≠ェ現れた国は滅ぶなどという、世界中に流布しているものの確証など何一つない、下らない妄想のね」
「……何だよそれ」
 国が滅ぶと聞き、皆一様に驚きを通り越して呆然となってしまっていた。当事者であるはずの久暁ですら、事の大きさに二の句が告げずにいる。
「だから迷信だと言っただろう。君らの耳は阿呆かね。『昇陽』の民間においてこの伝承がないのはおそらく、儚人≠フ出現率が非常に低かったからだろう。けれども、滅亡した国々に儚人≠ェ出現した例は多々あるが、私が知る限り、国の衰退に直接関与した例は一度だってない。にも関わらず、どこの国でも指導者達はこぞってこの迷信を妄信し、儚人≠見つけては捕え幽閉するか、もしくは殺そうとする。実に馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるような口調には、いつもの平静な八佗らしくもない渾身の怒りが込められていた。単に左大臣だけを非難している言葉とは思えなかった。
「あの、お師匠様。その儚人≠チて何の事ですか? 久暁さんと関係があるのですか?」
 おそるおそる問いかけたかぐやの声で、知らず熱くなっていた事に気付いたのか。八佗は一つ咳払いをすると、黙って黒眼鏡を押し上げた。その際わずかに金色の瞳が自分の顔色をうかがったのを、久暁の双眸はしかと捉えていた。
 しばらく間を置いた後、八佗はかぐやの質問とはまるで無関係な事を口にした。
「ここ数百年の間に、世界でどれほど多くの戦が起きていると思う?」
 唐突な話題転換に戸惑う一同の回答を待たず、八佗は一人語り続ける。
「こんな閉鎖された国で生きてきた君らが想像するのは難しいかもしれないが。私は『昇陽』に辿り着くまでに世界中を渡り歩き、この目で見てきたのだよ。幾つもの国が戦乱の果てに滅び、国を失った民が流民となって各地を放浪する様を。私が生まれ育ち神器≠ニして初めて仕えた国も、今からおよそ二千五百年前に民草もろとも消えて終焉を迎えた」
 事もなげな様子で語る八佗であったが、彼の詳しい素性を初めて聞く久暁と蛍はすでに、話の本題よりも彼が生きてきた年月の長さに気を取られていた。
「に、二千五百年……!?」
 常人ならばせいぜい、八十年か九十年が平均的な寿命の限界である。二千五百年という歳月など、誰にも想像がつくはずがない。ただ一人、実際にその年月を生きてきたという八佗一人を除いては。
「『昇陽』に漂着し、この国の神器≠ニなったのがおよそ千五百年前だが、それはさておき。先に述べた迷信が迷信であるという根拠はそのまま、私が実際に確認したから言い切れる事なのだよ。国の滅亡と儚人≠フ出現に関連性はない。儚人≠ヘ必ず世界に一人は存在し、今代の者が死ねば何処かの地にて次代の儚人≠ェ生まれる――そういう種類の人間なのだよ。儚人≠ェ居なくとも滅びた国はいくらでもあるし、二千五百年の間に数えきれぬほどの儚人≠ニも出逢った。彼らは身体的に少々特異な点がある以外は、常人と変わらないただの人間なのだよ」
 黒眼鏡に隠された金色の瞳は過去に何を見届け、そして今また何を見定めようというのか。自らの見解を言い終えた直後、彼の視界のすみで鬼火が揺らめいた。




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