<消えぬ面影>



 新たに現れた鉄忌の軍勢、その数四十六。
 遠目でも黒光りする外殻がはっきりと見える。雪を駆け散らす重量感に満ちた足音よりも、四肢の節々がぶつかりあい奏でる金属音の方がはるかに騒々しく、禍々しい。
 対して、一人この群れの目前に立ち塞がった八佗は静かなものだった。後方からは弟子達の声や、鋼を断つ音が絶え間なく聞こえている。もとより弟子達には鉄忌に対抗するすべを授けてはいるが、どうやら彼らの出番が巡ってくる様子はないらしい。扱う者が弱体化していない鉄忌の動きについていけなければ、必殺の武器とておもちゃ同然だ。その点、手負いにも関わらず、例の赤鬼の戦闘力は八佗が考えていた以上に高かった。
 ――儚人≠轤オくもないことだ。
 そう思うと同時に、
 ――あるいは砂螺さら人の血のせいか。
 と、意識をさらに後方、さらに彼方へと向ける。脳裏に浮かぶのは黒と白の色彩がぶつかりあう光景だ。どちらも相手を殺す事は叶わぬゆえ、ただいたずらに大刀が振り下ろされ、相手がそれを避けるといった応酬が繰り返されている。一見無意味に思える行為だが、今は雪女≠ノ鉄忌を操る暇を与えぬ事こそが肝要なのだ。無事に逃げおおせるためにも、これ以上鉄忌を呼び寄せられるのは御免である。
「それにしても……」
 数が多い。これまでに十を超える数の鉄忌が一度に襲ってきた例はない。
「もはや『央都』に用はないのか、それとも他に企てがあるのか」
 明確な目的までは図りかねるが、厄介な問題が生じたのは確かだった。
 独り言を呟いている間にも、鉄忌の大群は白紙に広がる墨汁のように雪原を塗り潰していく。何を考えてか、それらに対し八佗はおもむろに背を向けた。あまりにも無防備である。まるでさも襲って下さいと言わんばかりに、悠然と弟子達の元へと歩き出した赤い姿めがけて、黒い雪崩は猛然と突進していく。

 しかし、八佗の耳朶を打つ轟音は突如として、鬼哭の咆哮にとって代わられた。
 咆哮というよりも、聞く者によっては悲鳴に近かったかもしれない。冷気を震わす遠吠えが上がると同時に、鋼を断つ音がその叫びを断末魔へと変えていた。
 不可解な死の叫びは、一つ木霊するとたちまちの内に群れ全体に拡大する。

 背後で繰り広げられる鉄忌共の狂乱には何の反応も示さぬまま、八佗は立ちつくす弟子二人の傍に辿り着いた。
 かぐやと白戯の顔色は青ざめている。無論、寒さのせいではない。
 突如この場に現れし二つの人影が、彼らを恐怖で縛りつけていたからだ。少し離れた前方でも、久暁と蛍が硬直したように目を瞠っている。八佗以外の誰もがその二人に魂を奪われていた。
 白糸で紋様を縫いつけた黒頭巾の長い裾がひるがえる度に、蹴り散らされた雪の飛沫が宙を舞う。白づくめの女が着物の袖でそれを払えば、すぐさま鉈に似た大振りの蛮刀が脚を薙ごうとする。女は軽々と跳躍し、必殺の一刀を回避した。裾から白磁のような素足をさらけ出し、空中で一転し降り立ったところへ、間髪をいれずまた黒づくめの男が斬りかかる。
 女は一切手を出さず、男の攻撃をかわすことに専念している。振り回される鉈が止まる気配はない。それゆえに、誰もこの二者の世界に立ち入ることが出来なかった。声一つ漏らす事も許されない。永遠に続くかと思われるこの攻防が終わった時に起きるであろう何かが、皆一様に怖ろしいのだ。
 ただ一人、八佗だけがそんな恐怖とは無関係だった。
「何をぼさっと眺めているのかね」
「あ、お師匠様! ご無事で――」
 言いかけたかぐやの唇が止まったのは、八佗が先程まで佇んでいた場所にて散乱する鉄忌の残骸を目にしたからだ。雪原を蹂躙していた獣の群れは一体残らず寸刻みにされ、流れ出た体液が赤黒い絨毯のように広がりつつあった。はたと気付けば、八佗の赤い髪や袍の所々が返り血で染まっている。ここまで歩いてきただけだというのに、どうして彼が鉄忌の血を浴びているのか。
「何やっていたんだよ、アンタ。雪女≠ニあの男がこんな近くに来てるじゃないか!」
 壮絶な有様にかぐやが言葉を失っている間にも、白戯が八佗へと詰め寄る。しかし、冷ややかな指摘を突きつけられたのは白戯達の方だった。
「当然、彼女が近づいていると分かったから彼も呼んだまで。彼女以外に誰が私の警戒網を突破できるというのか。それよりも、逃げるべき時に彼らを放って突っ立っているとは……君らは何年私に師事しているのかね」
 言われて白戯とかぐやが失態を悟った時にはすでに、八佗は久暁と蛍の元へと向かっている。後を追い、師と共に駆けつけたかぐや達であったが、三人の接近に気付いたのは蛍だけだった。八佗が肩を揺さぶって我に返すまで、久暁は目前の戯れめいた死闘をひたすら凝視していた。
「久暁殿?」
「あ、いや……」
 しどろもどろに応える様子からして、遠方で相争う二人がまだ気にかかっているのは明らかだった。だが、今は八佗から説明している暇などない。
「どうやら無事だったようだね、大変よろしい。動けるのならば今の内にとっとと逃げるように」
「八佗、あいつらは一体……」
「それは無事生き延びられたなら、後でゆっくり話してさしあげるよ、っと」

 不意に、色眼鏡ごしの金色の瞳がちらりと右に寄る。鋭さを増した視線の先には、第三の黒い雪崩の到来があった。今はまだ砂粒ほどの大きさにしか見えないが、どうやら時間稼ぎはここまでが限度だったらしい。
「仕方ない、初めからこうすべきだったということか」
 冷えて動きの鈍った身体で立ち上がろうとした久暁を抑え、八佗は黒手袋をはめた指を軽く打ち鳴らす。直後、久暁達の視界を奪うかのような雪山が、忽然と目の前に出現していた。
 いや、久暁の身長の二倍はあろうかというその塊の正体は、全身を白い長毛で覆われた一頭の巨獣だった。顔も何もかもが白くフサフサした毛に隠れているので全体像は掴みにくいが、口らしき箇所からはこれまた白く長い牙が左右から三本ずつ伸びており、顔の中央からは太い尾のようなものが垂れ下がっている。その特徴は、白戯が語っていたあるものの姿と一致していた。ならばこの巨獣こそが、八佗の操る式≠ネのだろう。すでに八尺瓊の式≠ニ対峙している久暁と蛍の目には怖ろしい物と映らなかったが、奇妙な獣であることに違いはない。当たり前というか、白戯だけはこの巨獣を一目見た瞬間、心底嫌そうな表情を浮かべていた。
「ちょっ、結局コイツが出てくるのかよ!?」
「そもそも君が駄々をこねたから、こんな面倒臭い事態に遭遇したのだろう。文句を言わずに乗った乗った」
 八佗の言葉に反応したのか、巨獣は自ら脚を屈め、姿勢を低くした。まだ文句を言い続ける白戯をなだめながらかぐや達が先に乗り、蛍も長い毛を頼りによじ登る。だが、久暁はまだ戦い続けるあの二人が気にかかっていた。こちらを縛りつけるような視線はまだ感じられる。それに――
「男の方は砂螺人、だな?」
「後で説明すると言ったはずだよ。私に二度も同じ事を言わせないでもらいたい」
 いつも以上に峻厳さを備えた八佗の言葉に、久暁は引き下がらざるを得なかった。
 他の者が式≠フ背に乗ったのを確かめると、『昇陽』の神器≠名乗る男はその後方へと回り込んだ。まるで鉄忌を前にして自らを盾とするかのように毅然と立つその背に、今度は久暁が制止を呼びかける番だった。
「まさか、一人であの数を相手にするつもりか?」
「弱っている君よりは効率が良い。そうそう、万一道中で群れからはぐれた鉄忌と遭遇しても、決して下手に動かないように。落ちても拾う暇などないよ」
 久暁と蛍は、先ほど八佗がどのようにして鉄忌の群れを屠ったのかを知らない。そして今、次から次へと不測の事態が起きたせいもあり、もはや八佗は口で説明するのが相当おっくうになっていた。
無相ムゾウ、遠慮はいらない。『癒城』に居るしじまの元まで、全力疾走で駆けよ」

 そう命令した直後、新しい鉄忌の群れの前に立ちはだかったはずの八佗が、動き出した巨獣の背にも現れたのを久暁達は目撃した。
「せめて操縦くらいはしないと困るからね」
 悠長に呟きながら巨獣を操るのも八佗、足止めの為に残ったのも八佗である。
 何もかも全く同じ八佗が、二人存在している。
 さらに、一つ瞬きをすれば赤い影は四人に増え、鉄忌が五歩近づく間に十人となった。
 最後に垣間見た八佗の姿が鉄忌とほぼ同数に見えたのは、巨獣の動く勢いと地鳴りに頭を揺さぶられたせいではあるまい。もっとも、確かめる前に八佗達の姿は視界から消えてしまう。

 ただ、雪原を過ぎ去る間際、あの誰のものともつかない視線の主がにやりと笑った気がした。





 封印≠謔闖ュし前、それこそ『昇陽』が鎖国政策をとる以前まで、『癒城』は国内外の貿易の中継地点的役割を持つ場所であった。それが二十七年の間に、残された昇陽人達によって要の砦とされたのには二つの理由がある。

 一つには、資源の確保が容易だった事。鉄忌達は東沿岸地方から『央都』までを一直線に攻め寄せてきた為、西側の地域の被害はほとんどと言っていいほど無かった。今でも東側は鉄忌の出現率が高く、危険とされている。ゆえに、棲家を無くした多くの者が西側へと移り住み、『癒城』でも流民の数が増えたのだが、物資を運ぶためのルートが確保されていた事が『癒城』とその近隣の街にとっては大きな幸いとなった。混乱の最中、そうしていち早く周辺地域と協力態勢を築いた『癒城』の働きに、右大臣家や武士十家は目をつけたのである。

 二つ目には、『癒城』が白巳女帝の生誕地だから、という理由がある。
 白巳はくし女帝の母は青辰帝の女御であったが、生家のまつり家と左大臣家との折り合いが悪くなったのを機に内裏を退出、還御した。さらにその後、当時猛威を振るっていた婆娑羅衆≠巡る問題により奉家はますます立場を危うくし、遂には『癒城』へ都落ちする羽目となった。それから茫蕭の禍≠ェ起きるまで、母御前はかつての華やかな日々が幻の如くに思えるような、質素な生活を続けていたという。内裏にいた頃、真実彼女が青辰帝とどれほどの絆を築いていたかは分からないが、皇室ゆかりの者だけが知る『癒城』の隠し湯ですら、彼女の短いようで長かった寂寥の日々を癒せはしなかったのだろう。
 封印′縺A僅かに残った卯乃花家の武士に守られながら『癒城』へと辿り着いた帝と再会した時、二人の胸中にはどのような想いが巡ったのか。後に白巳女帝が誕生し、先帝と女御は相次ぐようにして崩御したが、右大臣家がわざわざ祀り上げずとも、残された『昇陽』の民は彼女の生い立ちを巡る物語に感涙し、守りの力となることを誓ったのであった。


 さて、対『茫蕭』の砦とはいえ、貿易地としての名残を留める『癒城』には宿場街が広がり、様々な市や店が立ち並んでいる。その中に一軒だけ、『癒城』の片隅とも言えるような街外れで、取り残されたように佇む酒場があった。
 店を切り盛りしているのは二人の女将。この二人の仲があまりにも悪く、口を開けばたちまち刃傷沙汰へと発展しかねないことから人々はここを相克酒場≠ニ呼び、決して近づこうとはしなかった。そのため、すぐにでも潰れかねないほど経営は逼迫しているはずだが、ここは潰れも繁盛もせず、なぜか依然として佇んでいた。ただの酒場と思っている人間には不思議なことと思えたかもしれないが、要は訪れる客、二人の女将、店主のいずれをとっても、ただの酒場ではなかったというだけの話である。

 そして今夜もまた、二人の女将は互いの喉元に凶器を突きつけあっていた。片や包丁、片や竹串である。
「全く、武士十家と言ったところでこの子らとは長い付き合いじゃない。何が悪いのよ」
 包丁を手にしているのは、しっとりとした声音に反しどこか粗雑さが見え隠れする口調の女将。右目には四十路前後の女には似つかわしくない眼帯が当てられている。
「だからって、気安く接して良い立場だと思っているの? 自分の身の上を忘れてはいないでしょうね」
 対して、低く乾いた声音で棘のある言葉を紡ぐのは、竹串を手にした方の女将だ。眼帯をつけた女将よりも歳は若干上らしく、肩までの長さに切り揃えられた髪から覗く両耳には、縦に斬りつけられたような傷痕があった。
「さーて、私はこの店を任されている女将ですけど。他に何か?」
と、眼帯の女将が茶化すように応えれば、
「フン、やはり所詮は学のない異国人のようね」
 竹串を弄えながらもう一人の女将が毒づく。初めは本気にしていない風情だった眼帯の女将が、この一言に眉を微かに吊り上げた。
「おやおや、何か今聞き捨てならない台詞が聞こえた気がするんだけど」
「気のせいでしょう」
「だったらすぐにその耳の穴を広げて、もっと良く聞こえるようにしてあげようか? 無音しじまという名前だけあって、さぞかし難聴なんでしょうねぇ」
「図に乗るなと何度言ったら分かるのかしら。八佗殿からの命さえなければ、お前のような汚らわしい異国人はすぐにでも消してあげるのに」
「言ってくれるじゃないの。同じ昇陽人からも除け者にされている女のくせに」
 口論が続くにつれ、我慢の限界を待ちわびる互いの得物がジリジリと喉笛に迫りつつある。食事する二人の客の存在など、すでにどちらも眼中にないようであった。

「お師匠様が居ないので長引きそうですね。大丈夫でしょうか?」
「せめてかぐやちゃんが居ればな。まぁ、いつもの事だから心配はいらんと思うが」
 師の到着を待つ流は、内心ハラハラしながら二人の様子を伺っていた。対して、傍らの大太刀を背負った壮年の男は呑気なものだ。この状況で、呆れながらまだ酒を呷っている。
皐弥たかみ叔父さん、本当にお師匠様は今日中にこちらに着くと仰ったんですか?」
「ああ、何でも非常事態が起きたそうだ。明日到着のはずが、いきなりこんな夜中に呼び出すとは。どんなマズイ状況に陥ったんだろうなぁ、あの右大臣殿らしくもない」
 流が叔父と呼んだ相手は、武士十家の一つ、二藍ふたあい家の当主で名を二藍皐弥という。縹家当主である流の父とは実の兄弟だが、封印≠ノよる消失で跡目を失った二藍家がよしみの深かった縹家から四男の皐弥を養子にもらい、家督を相続させたのである。本人は非常に豪放磊落な性格であり、市井との交わりにも好んで加わるような人物だったので、流にとっては頼りになる存在であった。
「やれやれ、心配しなくても右大臣殿がついているなら、卯乃花の坊っちゃんもかぐやちゃんも無事だろうよ」
「ええ、そうだと思うんですけど……」
 そう叔父に諭されても、流の不安は拭えないようであった。奢りだと言われ差し出された焼き鳥にも、一向に手がつけられていない。ちなみに、この焼き鳥を出す際に二人を呼び捨てた事が、女将達の口論の火種となったのだが。
 流の心配も二人の女将の睨み合いも、皐弥が案じたほどには長引かなかった。

 不意に、卓上の杯に湛えられた酒が微弱な波紋を生じたかと思うと、全員の身体を揺さぶる振動が足元から伝わってきたのだ。
「……地震か?」
 温泉が湧くだけあって、『癒城』周辺では偶に弱い地震が起きる。だが、次第に強くなっていく振動に、やがて地を割るかのごとき轟音が伴うと、どうもこれは地震ではないと誰もが感づいた。小さな酒場を軋ませる振動は、どうどうという重い音が間近に迫ったところで忽然と止んだ。だが、安心する間もなく、今度は甲高い獣の咆哮が一同の耳をつんざく。
「な、何だい何だい何だいッ!?」
 ようやく我に返った二人の女将が、血相を変えて飛び出していく。どうしたものかと逡巡する流であったが、
「どうやら着いたらしいな」
と、やはりどっかと座ったまま酒を飲んでいた叔父の一言に、彼もまた酒場から外へと駆け出す。店の入り口をくぐった途端に待ち受けていたのは、この酒場と同じ大きさはあろうかという白い巨獣の姿だった。
「ちょっと店長さん困るわよ。店の近くでそんなデカイ図体した奴に歩かれちゃ」
 眼帯をした女将が巨獣の頭に座る男に文句をぶつけている。店長と呼ばれた赤い髪の男は、紛れもなく流達が待っていた師こと右大臣・八佗であった。
「すまないが、非常事態だったものでね」
 まるで苦情などどこ吹く風という様子で、八佗は黒眼鏡を押し上げる。その背後ではかぐやと白戯、そして見知らぬ娘が巨獣の長い毛に必死の形相でしがみついたまま、目をぐるぐると回していた。ただ、赤銅色の長い髪と浅黒い肌を持つ異様な人物だけはこちらに背を向けていたので、どういう状態にあるのか分からなかった。
「あいつらは誰? アンタの同類か何か?」
「……異国人ですか?」
 真っ先に目を惹く異貌の長身に、二人の女将も訝しげな素振りをみせた。特に、耳に傷痕を持つ女将の方はすでに、敵意を露にしていたと言ってもいい。彼女達の反応は予想済みだったのか、八佗は落ち着き払ったまま、
「確かに、一人は半分だけ異国人だが。まぁ、中に入ってから説明するよ」
と軽く答えるなり、四つ脚を折り曲げた巨獣の背中から滑るようにして降り立った。
「師匠、ご無事でしたか!」
 ようやく現れた師に対し、流は慌てて会釈をした。ただし、視線はずっと巨獣の背の上で呻いている白戯達の方を気にしている。
「流がここにいるという事は、皐弥殿も揃っているようだね。うむ、よろしい。それにしても君達、いつまでものびていては困るよ。さっさと降りたまえ」
 八佗が巨獣の背に向かって呆れたように呼びかけるが、逃走を開始してからここに辿り着くまでの約五刻の間に、一体どのような暴走を経験したのか。かぐや達は弱々しい返事を返しただけで、起き上がりそうにない。ただ一人、赤銅色の髪をした者だけがいち早く、その場から地上へと飛び降りた。

「おや、君は平気なのか」
「そうでもない。少し、気分が悪い」
 本人の言う通り、雪を踏みしめながら立ち上がった久暁の顔色はやや青ざめているようであった。もっとも、それは目の前にある小さな店が酒場だと悟ったせいであったかもしれないが。
 一方、久暁の顔を見た流は、その獣の瞳孔をした紅い双眸に一瞬身体がすくんだのを感じた。初めて異形を見た恐ろしさからではない。その双眸に覚えがあったからこそ、恐れが蘇ってきたのだ。
 それは流以外の者にとっても同様だったらしい。初めはただ胡乱な視線を投げかけるだけであった眼帯の女将が、久暁と顔を合わせた直後。いつも明るく気丈な彼女の表情が、亡霊でも見たかのように強張った。久暁の方でも、彼女の眼帯に何か連想するものがあったのか。
「『天』の名残……まさか……」
 問いかけようとしたものの、眼帯の女将が逃げるようにして店に引っ込んでしまったので、それは失敗に終わった。もう一人の女将はと言えば、あれほど明確だった敵意が今度は殺気じみたものへと変わっていた。
「しじま、中にいる皐弥殿を呼んでくれたまえ。この不肖の弟子共を運ばなければならないのでね。ああそれと、分かっているだろうが、私の命無しでの始末は絶対禁止だ」
 しじまと呼ばれた女将は無言で会釈すると、久暁に殺意のこもった一瞥を投げかけつつ店の中へと戻っていった。入れ替わるようにして壮年の武士らしき風体の男が現れたが、こちらは久暁を一目見て「ほう」とだけ呟くと、さっさと白戯とかぐやを担いで戻ってしまった。
「ま、彼は肝が据わっているからね」
 そう言う八佗の後に続き、久暁もまた、吐き気と眩暈でフラフラとなった蛍を背負い、酒場へと足を踏み入れた。

 八佗が与えた酔い止め薬が効いたのか、弱っていた三人は半刻も経てば元の顔色を取り戻していた。回復するなり、白戯は流を相手に八佗の式≠ノ対する不満を述べていたが、尊敬する二藍家の皐弥が居ると知った途端、頭から上がっていた湯気は急に冷めてしまった。
「どうしたんだ卯乃花の坊っちゃん。右大臣殿はそこにいるんだから、不満があるなら堂々と言えばいいじゃないか」
「ぼ、坊っちゃんは止めてくれって言っているだろう。というか、何で二藍の叔父貴までここにいるんだよ」
「それはやっぱり、お師匠様がお呼びになったからじゃないかな?」
 かぐやの言葉に、そうそうと皐弥は相槌を打った。その手にはまた新しく注文した銚子が握られている。
「今日の夕刻前だったか。右大臣殿が某の元に現れ、明日の予定を今夜に前倒ししろと仰ってな。それからはもう、十家古株の爺さん婆さんを説得するのに奔走してなぁ――っと、右大臣殿の術の事は聞いているのかね?」
「それならばつい先刻、この目で拝見した次第」
 緊張した面持ちで問いに答えた蛍だが、『都』にて八尺瓊の操る術の奇怪さを味わっていなければ、容易には信じえぬ事であったろう。

 『昇陽』のもう一人の術師であった右大臣家・八佗が得手とする術は、己自身を無尽蔵に複製するというものであったのだ。しかも、その有効範囲は――『都』のみを除き――この国内であればどこにでも出現させることが可能なのだという。八尺瓊も木偶でくのような一族を己が分身と呼び、僕としていたが、あれは本人が述べていたように不完全なものだった。今回の件で八佗が用いた起動式はその完全なる形。個が個にして全が個となるわざであった。すなわち、複製された時点で全ての八佗は一個人の八佗と同一存在であり、生ずると同時に真偽の定義は消失する。
 封印∴ネ前までは、彼一人が右大臣家≠フ全てを偽装していたのだ。実際は、彼が唯一にして永遠の右大臣であった訳である。それは即ち、同じ術を扱う八尺瓊もまた名を変え姿を変え、一族という擬態をとりながら永遠に左大臣を務めてきた、という仮説をも導き出す。
 巨獣の式≠ェ疾駆する最中、八佗はそれを久暁達に教えた。八尺瓊が極秘としてきた左大臣家と右大臣家の秘密を、今の『昇陽』の者達は皆承知しているという事も――

 蛍の顔が曇った事から、その心中の混乱を察したのか。皐弥はおもむろに話題を変えた。
「それにしても、右大臣殿から話を聞いた時には驚いたものだが。本当に『央都』から来たのかね?」
「はい、そのようです」
「そうかそうか、あちらでも人は生きておったのだな。しかもお嬢さんは浅葱の者ときた。あの一族がそう簡単にくたばるはずがないと信じていたからな。いや〜良かった」
 武士十家の同胞として皐弥は蛍を歓迎しているようであったが、一時的だったとはいえ、八色の黒≠ニなっていた蛍の心は晴れない。正式に赦しをもらうまで、彼女は大手を振って浅葱を名乗るつもりは無いようであった。
「して、そちらの赤髪の兄さんはどういった素性の者で?」
 ちらりと動いた皐弥の視線の先には、一人離れて席に着く久暁の姿がある。話題の主役が久暁に代わった途端、和気藹々あいあいとしていた空気は唐突にしんとなった。奥で様子を伺っていた二人の女将も、厳しい表情で彼を凝視している。重い空気を払拭するように久暁の元へと行きかけた蛍だったが、彼女よりも先に皐弥が動いた。銚子と杯を手にし、大太刀を背負ったまま久暁の前へと座る。
「酒は結構だ」
 皐弥がまだ何も言わぬ内から久暁は手を掲げ、断りの意を示した。
「何だ、飲めないのか?」
 意外そうに皐弥は呟いた。『都』の酒や酔香に比べ、『昇陽』の酒の芳香は苦しい物ではなかったが、久暁にとっては身体を蝕むものに相違ないようであった。
「なら、無理強いはしないが」
 断られた割に、皐弥に残念がっている様子は無かった。差し出そうとした杯の酒を、そのまま自分が飲み干してしまう。
「名は?」
「……阿頼耶=斬月=久暁」

 何気ないやり取り。ただ名乗っただけだというのに、二人の女将の狼狽する様子はただ事ではなかった。眼帯の女将はよろめく足で二三歩後退し、耳に傷痕を持つ女将は一段と憤怒の色を浮かべていた。
「まずは話を聞こうじゃないか、女将さんよ」
 そう皐弥がたしなめていなければ、一人は確実に血気に逸っていたかもしれない。白戯や流、そしてかぐやも彼女達との付き合いは長いが、女将同士の諍い以外でこれほど荒れる様子を見るのは初めてだった。
 幾分か落ち着きを取り戻したのか、眼帯をした女将はようやく久暁に話しかけた。
「……父親の名は? 砂螺人なんだろう?」
「婆娑羅衆%ェ目であったことと、称名を三十七個持っていたとしか知らない」
「違うね、あの男の称名は三十八個だ」
 間髪入れず眼帯の女将が訂正する。一方、それまで陽気に接していた皐弥が、幾分か鋭さを増した目で久暁を注視していた。以前、彼の父が婆娑羅衆≠フ関係者だと聞いていたはずの白戯とかぐやも、頭目≠ニいう言葉には何かただならぬ驚きを見せていた。
「お師匠様、つまりそれは……」
「そういう厄介な事情があるので、主上の元にのこのこと連れて行く訳にはいかないのだよ。近衛の連中にいらぬ荒波を立てられたくないのでね。よって主上には自らここに出向いてもらうことにした」
 それに――と、八佗は二人の女将を指して付け加えた。
「言い遅れたが、察しの通りそちらの天人は元婆娑羅衆≠フ緑鈴りょくれい。もう一人は元八色の黒¢謫家の当主で、名をしじまという。本来婆娑羅衆≠ヘ極刑確実だが、少し事情により恩赦があってね。死刑を免ずる代わりにこうして密会所の管理を任せている。しじまは監視役、と言った所だよ」
 眼帯をつけた女が利宋と同じく、婆娑羅衆℃Q入時に天人の習慣であった義眼を抜いた人間であろう事は久暁も予想していた。しかし、もう一人の女将が元八色の黒≠ニ聞くなり、思わず立ち上がっていた。考えてみれば、封印≠ナ消失したはずの武士十家が『昇陽』で生きのびていたならば、同じく消えた八色の黒≠ェ生きのびていてもおかしくはない。

「殺されかけといて追うなと言っていたから、怪しいとは思っていたけど。ガキができていたなら納得だわ。けれど、あのお頭が……」
 昔の仲間というだけあって、緑鈴は久暁の名と僅かな会話だけで、全てを把握したらしい。語る言葉には何故か、恐怖にも似た感情が混じっている。
「つまり、あの女はやはり死んでいなかったと……八色の黒≠フ面汚しめ。お前もお前よ。阿頼耶を名乗ることがどういう意味を持つのか、解かっているの?」
 緑鈴と違い、しじまの怒りは久暁の母親に向けてのものだった。本来、阿頼耶≠ヘ第八家の当主が世襲する名で、いわば八色の黒≠フ宗主に等しい。彼女が婆娑羅衆≠ニ八色の黒≠ニの闘争に関わっていたのならば、宗主の裏切り行為は、今なおもって赦しがたい所業なのだろう。
「元々私はあの女が気に食わなかったのよ。第八家に生まれ、宗主にふさわしい力を持ちながら、あの女には八色の黒≠ニしての使命感が欠片も有りはしなかった。それどころか仲間を殺し、行方をくらまし……おかげで私達は封印′繧ノ離散し、もはや同士と呼べる者は五名しか存在しない。それを、よくも堂々と阿頼耶などと名乗れたものね……!」
「そこまでだ、しじま」
 さすがに見かねたのか、八佗が制止を呼びかける。しじまはまだ怒りが収まらぬようであったが、唇を噛みしめながら店の奥へと消えていった。久暁はその間、微塵も動かずに彼女の憤りを受け止めていた。そこにはかつて、蛍が下都から離れる際に垣間見た表情と、同じ面持ちがあった。

「……顔が似ているから初めは驚いたけど、アンタ、中身は全く親に似ていないね」
 幾分落ち着いたのか、改めて話しかけてきた緑鈴は苦笑を浮かべていた。
「よく言われる。俺は両方の顔すら知らないが」
「『央都』で生き残ったのは誰だい?」
「母親は俺が生まれた時に死んだ。俺を育てたのは金輪翁だが、両親がどんな人間だったか教えてもらう前に死んでしまった。他に生き残りは、利宋に軒葉、それと百舌公の鳴滝。皆、昔の事に触れられるのは嫌がっていたな」
「金輪翁……ああ、さては金剛こんごうの爺さんね。利宋の馬鹿も生きてたのかい。けれど、当然だろうね。あの二人を語るなんて、怖ろしくて誰にもできはしないよ……」
 いつもの調子を取り戻したらしい緑鈴だったが、しばらく沈黙した後、意を決したように隻眼が八佗の方へと向いた。

「一つ訊かせてくれる、店長さん。アンタは彼をどうするつもりなのさ?」
 八佗は表情を隠すかのように黒眼鏡を一旦押し上げると、どうにもこうにも、と応えた。
「主上の御判断と彼の意志次第なので、今は何とも言えないね。鉄忌と戦うには申し分ない力量だが、久暁殿が戦いを望まぬのなら無理強いはしないつもりだ。君のように正体を隠し、我々の力となりつつ静かに暮らしていけば良い」
「無理です。この国にあって、婆娑羅衆≠フ縁者に平穏など与えられる訳がありません」
 八佗の言葉を否定したのは、奥から戻ってきたしじまだった。彼女の言葉に、元婆娑羅衆≠セった緑鈴が不快感を露にしたのは言うまでもない。
「八佗殿のお考えはあまりにも楽観的かと思われます。彼を見ればすぐにでも閻王えんおうとの関係は疑われますし、そうなればいくら主上から厳命があったとしても、納得せぬ者は現れるでしょう。庇うだけの必要性を示さねば、それこそ不和の元と成りかねません」
「じゃあ何、父親と同じ目に会わそうっての? 聞いた話だと、捨て駒同然で鉄忌や雪女≠ニ戦わせているらしいけど、血が繋がっているってだけでどうして――」
 先の口論を思い出したかのごとく火花を散らし始めた相克酒場の女将達だったが、その応酬はたちどころに鎮火することとなった。
 肌を焼くような威圧感で我に返り、その出所を恐る恐る振り向いてみれば。
 見開かれた紅い双眸の奥で、昏い火が揺らめいていた。
「今、何と言った?」
「君もあの雪原で見たではないか」
 衝撃のあまり虚ろとなった声で問いかければ、今更とでも言いたげな八佗からの返答があった。それは本来、先の雪原で与えられるはずだった答でもあった。

「閻王≠ヘ主上から恩赦を賜った際に与えられた、あの男の三十八番目の称名だ。彼が婆娑羅衆≠フ元頭目その人だよ」




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