<遭遇>



 右も左も分からぬような一日が終わり、それから数日間は穏やかな日々が続いた。
 山育ちだけあって久暁の回復は早く、三日目には自力で起き上がれるようになった。床に就いていた頃から鏨を指で弄んでは投擲するといった鍛錬を始めていたが、本格的に身体を動かせるようになるや否や、毎日欠かさず行っていた日課の鍛錬も再開した。
 まだ夜が明けきらぬ内から剣の演舞を始め、太陽が顔を覗かせると、今度は庭の木々に板切れをくくりつけた的に鏨を飛ばす。日が高くなり、全ての板が原型を留めぬほど穿たれた頃になってようやく休憩をしたかと思えば、半刻もたたずに腰を上げる。それから昼飯までには蛍と白戯に協力を仰ぎ、自分の背後から二人同時に小石を投擲させ、直感で危機を察知・回避する鍛錬を行う。回復したばかりの頃はいくつか石を喰らっていたが、それも十日目となれば一つも掠らなくなっている。白戯と蛍の投石パターンを見切ったせいもあるが、治療後の経過の順調さが何よりもその動きの鋭さを物語っていた。
 一方で、最も深刻な左腕の負傷はというと。傷はほぼ塞がったものの、八佗が告げた通り、指先の動き――特に人さし指の動作がまるで別人の指のように鈍い。鏨を握れば、いっそう感覚の違いを痛感する。それでも元の動きを少しでも取り戻すべく何度も投擲の鍛錬を繰り返し、雪が積もればそれを丸く固め、溶けきらぬ内に彫刻を施すといった細かい作業も欠かさず行っていた。

 かぐやが昼飯の膳を運んで来ると、いつも松木に立てかけられた板きれには無数の鏨が突き刺さり、それをやった張本人は縁側に腰かけ、黙々と雪玉を削っている。完成した彫刻は握り拳ほどの大きさをした雪玉の内部をくり抜き、中に花鳥風水の意匠を彫り込んである。雪が溶けきるまでに作られる彫刻は、おおよそ七つか六つ。利き腕でない左手だけでそれだけ彫れるようになるまでには、よほどの研鑽を積まねばなるまい。
「久暁さんって、凄いですね」
 賞賛を受けても、久暁の面持ちには影が差している。物になる程度には回復したが、鏨を投擲するにも彫り物をするにも、手首と腕の動作のみに頼らざるを得ない。指先で細かい修正がかけられない以上、前ほど自在かつ精密に操れはしないのだ。
「それでも、これだけ綺麗なものを作れるのは凄いです。私なんて、お料理くらいしか取柄がありませんから」
 そう笑うかぐやから無言で目を逸らし、久暁は膳の前に座った。
 かぐやの好意を素直に受け取れない――というのもあるが、一番の理由は彼女が好意的に接してくる度に、傍らの白戯が火を吹かんばかりの目でこちらを睨むからだ。久暁の鍛錬には文句を言いつつも付き合っている彼だが、かぐやが現れると途端に、まるで影のように彼女の後ろを付いていく。この屋敷にいるのは久暁達の監視とかぐやの護衛の為らしいが、それにしても警戒が過ぎるのではないか。
 しかし、久暁の疑問にも白戯の態度にも気付いていないのか、かぐやだけは毎日楽しそうに食事を持って来るのであった。
「蛍さーん、御飯の用意が出来ていますよー」
「分かった。馳走になろう……あ、いや、いただきます」
 穴だらけになった板切れを集める手を休め、蛍も座敷に上がる。白戯に口調が爺臭いと指摘されたのがよほど嫌だったのか、ここ最近の蛍は上都風だった口調を久暁達と同じ下都風に改めるよう努めていた。原因となった白戯とは相変わらず似た者気質で反発し合っているのか、未だに打ち解けた様子はないのだが。
「今日のおかずは皆さんの好きな食べ物で揃えてみたんですよ。白戯の好きな納豆に、蛍さんが好きだと仰っていたワカメ入りの卵焼きです」
 会心の出来栄えであったのか、かぐやは満面の笑みを浮かべている。その笑顔とは裏腹に、互いの好物を目の当たりにした白戯と蛍の間に流れる空気は険悪そのものだった。
「ま、豆が腐っておる……」
「緑色の……玉子焼……」
 食すべきかと葛藤する二人をよそに、黙々と箸を進める久暁にはどちらの料理も美味に思えたのだが。
「あと、久暁さんにはこれを」
 そう言うと、かぐやは持参した急須の中身を茶碗に注ぐ。湯気を立てるそれは薄緑色の茶だった。
「特に好きな食べ物はないと仰っていたので、どうしようか迷いましたけど。以前、お茶を飲んだことがないとお聞きしたので、お師匠様にお願いして葉っぱを分けて頂きました。美味しいので、ぜひ召し上がって下さい」
 久暁は目礼して碗を手に取り、一口飲み干すとホッと息をついた。美味い、という一言だけしか感想は述べられなかったが、それだけで充分、かぐやには礼代わりとなったらしい。
 今回に限らず、彼女の用意する料理はいつも、『都』で口にしていたものとは比べ物にならぬほど美味であった。それは料理の腕の問題よりも、素材の違いなのかもしれない。久暁が少食であったのには、寝食を惜しんでいたという理由も勿論ある。だが実の所、最たる理由は差し出される食事のことごとくが、口にしただけで気分が悪くなるものばかりだったからだ。燥一郎の手料理のごとく殺人的という訳ではなかったが、酒の臭いをかいだ時と同じような不快感が常につきまとう。それが『都』における、久暁の食生活だった
 初めてこの地の料理を食べた時、『都』の食物との違いに驚いたことを覚えている。『都』の食事に抵抗感を持っていなかった蛍でも、それは漠然とだが感じ取れていたらしい。
 それにしても、今回はいつも以上に奮発してある気がした。
「ところで、なぜ今日の昼食は斯様に……いや、このように皆の好物ばかりなのですか?」
 同じ疑問を抱いたのか、蛍が先に質問をした。
「ああ、それは――」

 かぐやが答えようとしたその時、庭の砂利を踏む音がした。久暁が察知した数秒後に他の者も音に気付いたが、すでに訪問者は一同の前に現れている。
「お食事中のところを申し訳ないが、この後すぐに『癒城』へ向けて出発する。準備をしておきたまえ」
 残雪が白く輝く景色の中、ただ一人だけ色鮮やかな赤い袍を纏う男。右大臣の八佗は皆と顔を合わせるなり、そう告げた。
「と、いう訳なんです。お世話させて頂くのが今日でお仕舞いになると、次はいつ皆さんに御馳走できるか分からないので……」
 久暁の耳に、ひそひそと蛍に耳打ちするかぐやの声が聴こえてきた。残念そうな言葉の割に、声には相手の気持ちを解そうとする柔らかさがあった。八佗の訪問に対し、真っ先に緊張の色を表したのが蛍であっただけに気を遣ったのだろう。
「それは即ち――」
「主上に御拝謁賜る、という事だ。まだ迷っているのかね、蛍殿?」
 問いかけながら、ずかずかと八佗は縁側から座敷に上がってきた。屋内でも黒い色眼鏡を外さないので、その奥にある金色の瞳が何を物語っているのかまでは把握できない。しかし、感情の読めぬ固い表情を前にしたところで、蛍の心はとうに決まっていたらしい。
「いえ、お目通りを願う心に変わりはありません。ただしその後の件については、まだはっきりとは……」
「主上とお会いしてからでも遅くはない。道すがら考えておいてくれたまえ。久暁殿はいかがかな?」
「他に選択の余地もない」
 久暁の返答はいたって簡潔なものだった。蛍がどんな申し入れを受けようとしているのかを、久暁は知らない。これまでに尋ねようとしなかったのは、それはあくまで蛍の問題だと割り切っていたからだ。久暁には久暁で、『都』に戻る手段を探すという目的がある。
 八佗自身は久暁をどうするつもりなのか。この十日間は久暁と蛍にとっては傷を癒す以上に、『昇陽』を知るための時間でもあった。一番初めに宣言した通り、八佗は一日十問までしか質問を受け付けなかったので、訊きたい事を全て訊き出すまでの間に、日々の時間は刻々と過ぎていった。それでも、おかげで基本的な情報――例えば現在の『昇陽』の状況や、鉄忌の詳細な生態などを知り得たのは有り難かった。だが神器≠スる己の事や儚人≠ノついては、やはり適当にはぐらかしてばかりでまともに答えた例がない。久暁の今後の身の振り方についても黙秘しているのは、それらの秘密と関係があるせいなのか。
 今になっても全てを語る気は毛頭ないらしく、大陸渡来の右大臣は満足したように相槌を打った。
「よろしい。およそ一日半はかかるので、途中で布岸の屋敷に宿泊する。鉄忌の出現率が高い地域を横断する上にこの時期だ。かぐやに白戯、それと君達も警戒は怠らぬように」
「はい」
「分かってるっての」

 八佗が懸念する時期とは、まだ雪の降りしきる晩冬のことではなく、鉄忌の出現する期間のことを指している。八佗から聞き出した情報によれば、『都』と違い、この地の鉄忌は秋から冬の間にしか現れないという。理由は不明だが、八佗は鉄忌の数に問題があるせいではないかと仮説を立てている。野生の動物が鉄忌化することで鉄忌は数を増やしているのだが、鉄忌化に必要な経過時間は夏から秋にかけてまでと長期的である。その間に多くの野生動物は繁殖期を迎え、数を増やす。一方で鉄忌化が始まった動物は、早期発見・駆除が為されない限り、夏の終わりと共に鉄忌となってしまう。その為、秋頃は最も多くの鉄忌が誕生しているはずなのだが、何故か敵はそれらを直接『昇陽』の民には仕掛けて来ないのだという。
 『都』では、二色の月の満ち欠けが鉄忌の出現率の目安となっていた。より紅の面が広い日にのみ、鉄忌は現れる――それが二十七年間の常であった。そう久暁から話を聞くなり、八佗ははたと手を打ち、
「なるほど、敵の目的はあくまでも『央都』。冬にこの近辺を鉄忌が徘徊するのはあちら側の戦力に余裕があるせいかと思っていたが、どうやら勘違いしていたようだ。この地で遭遇する鉄忌どもは皆、単に鉄忌化を完了し、主の元へ向かう途中だったのか」
と、納得していた。月の色の変化は封印≠フ強度の目安でもある。限られている封印%ヒ破の機会により大勢の鉄忌を送り込むためにも、この地に残る民を襲う暇などないのだろう。

「この一帯は鉄忌が多いのか?」
 最後の飯一口を食べ終わり、久暁が尋ねた。八佗から返された綺羅乃剣は懐に忍ばせてある。左手の不調は相変わらず心配だが、相手が鉄忌ならば片腕だけでも対処できるはず。万一鉄忌と遭遇すれば、自分が剣となって排除せねばなるまい――そんな久暁の意志を嗅ぎとったのか、八佗は諭すように答えた。
「何事もなければそう出くわすものでもないよ。鉄忌が徘徊する時期もそろそろ終わる。と言ったところで、一遇が必死に繋がることに変わりはないのだから、要注意という訳だ」
 そこで、と八佗が指を打ち鳴らそうとした瞬間、何が起きたのか白戯の顔色が青ざめた。
「待った! ちょっと待てよ師匠。まさかアイツらに乗って『癒城』まで行くつもりじゃないだろうな?」
 敬意の欠片もない物言いは八佗の眉間にうっすらと縦皺を作ったが、そんなやり取りには慣れているらしく、すぐに平然とした態度へと戻った。
「当然だ。それが現時点では最も安全かつ、時間的にも効率が良いからね」
「反対! 俺はぜぇぇぇぇぇったいに反対!」
 灰色がかった黒髪を振り乱し、納豆の糸を引く箸を己が師に突きつけるほどに、白戯の抵抗は激しかった。八佗が何をしようとしているのか分からない久暁と蛍からすれば、尋常でない怯え方のように思えた。
「人に箸先を向けるのはよしたまえ。あと、そこまで言うならば君は留守番となるが?」
「誰が行かないって言ったんだ。ただ俺はあんな猛獣に乗るくらいなら喜んで歩く! かぐやもそう思うだろ!?」
「え?」
 不意に同意を求められ、かぐやは目を丸くした。救いを求めるように視線を動かせば、皆の目が自分に集中している。
「ええと、私はお師匠様の式″Dきだけどな。だってほら、可愛いでしょう?」
「騙されている。かぐやは騙されているんだ。よく考えてみろよ。アイツらはあんな太い牙が口から六本も伸びてるんだぞ。俺が十歳の時、顔から生えた蛇で俺の身体を締め上げて、その牙の生えた口で齧ろうとしたんだ!」
「そ、それは確か、白戯がお師匠様に命じられた七式の修練をサボったから、お仕置きで少し驚かされただけだったような……それに、あれは蛇じゃなくて鼻なんだけど……」
 説得するかぐやの傍ら、その通りと八佗が相槌を打つ。

 一方で、式≠ニ聞いた久暁と蛍の胸の内には新たな疑問が湧いている。『昇陽』に存在する術師は、左大臣家の直系のみ。それは『都』で生きてきた二人のみならず、『昇陽』の民にとっては封印∴ネ前からの承知の事実であるはずだった。
 しかし、青辰帝の消失が『都』で隠蔽されていたのを思えば、右大臣家の真実が同様に隠されていたとしてもおかしくない。八佗の方も、そんな久暁達の戸惑いに気付いたのか。
「得意分野ではないので、左大臣殿と比べればかなり見劣りしてしまうがね。大陸にいた頃から八佗は――もっとも、かつては違う名だが――起動式を扱えていたのだよ。しかし、一国に二人も術師が居ては、力に魅せられた無知なる人間達の権力抗争を招きかねないのに加え、大陸人という事もあって自粛していたのだ。そんな私の苦労も知らずに左大臣殿が大きな顔をしているのには、毎日腸が煮えくり返る思いだったよ、全く」
 そう愚痴る八佗だが、封印∴ネ前の右大臣派は左大臣派と比べてはるかに数が少なかったという。今にして思えば、術の有無より何より、この不遜な性格に原因があったのではなかろうか。そう久暁と蛍は思わずにいられなかった。
 ふと、久暁の脳裏に式≠ニの死闘の記憶が蘇る。異形の鳥人に、木偶人形のような人間を無数に操っていた左大臣・八尺瓊辛。それらを生み出すのみならず、彼は一つの街を丸ごとこの『昇陽』から、世界から隔離・消滅させている。全てが本当に一人の力によるものならば、果たしてそれだけ人間を超越する力を持つものを人間と認識して良いものなのか。
「八佗、お前は人間か?」
 唐突に久暁の口から飛び出た問いかけは、暗に敵か味方かを尋ねているようでもあった。
「久暁殿……」
 不躾な問いの真意を蛍が訊くよりも先に、八佗がそれを制止した。
「君が人間の基準を何に定めているかは知らないが、私的な見解を述べさせてもらえれば人間だよ。まだ、かろうじてね。それで、私の式≠ヘ呼んでも構わないのかね?」
 これまでの質問に答えた時と同じく、八佗は淡々と語った。ここで詮議すべき問題ではないと、黒眼鏡ごしの目に威嚇された気がする。

 ならば仕方ない――久暁は未だに八佗の提案に反対し続ける白戯を横目に、
「……俺も式≠ノ関しては良い思いをしていない。それと、出来るならば自分の足でこの地を歩かせてくれないか。今回限りでも構わないから」
と、申し出た。八佗はひどく残念そうな溜息をついたが、不思議と誰からも異論は出てこなかった。





 昼下がりに仕度を終え、八佗が率いる五人組は屋敷から出発した。皆一様に防寒用の薄手の毛皮の上に外套を羽織り、黒塗りの笠を被って歩き続ける。八佗の屋敷は山林寄りの場所に建てられていたためか、しばらく歩けど他の人間の姿はおろか、小屋一軒すら見当たらない。開けてはいるものの、まばらに生える木々が彼方の視界を遮るこの土地は、八佗が語る以上に道行きの危険性を示しているのかもしれない。
今は雪雲もほとんど消え去り、冴え冴えとした青空から温かな太陽が覗いている。それでも空気は冷たく、溶けかけた雪の上を踏み歩く脚はじりじりと寒かった。
 もっとも、それは久暁が時折立ち止まり、その度に温まった身体が冷えていくのを感じているせいなのかもしれない。
「久暁殿、また空を見ているのか?」
 先を歩いていた蛍が傍に寄って来たが、最後尾を行く久暁が偶に立ち止まるのは疲れのせいではないと、彼女も承知している。

 封印≠フ影響を受けていない本来の空は様々な色を持つと分かって以来、久暁はよくじっと佇んでは空を眺めている。澄み渡るような晴れの青。粉雪を呼ぶ灰色の雲。日中は目もくらむ眩さで輝く太陽が地平線へ沈みゆく一時の、焔にも似た焼けるような緋の色は、ここには居ない誰かを連想させるのであまり好きにはなれなかった。けれども、常夜であった『都』の夜空と違い、斑模様を浮かべる白い月と無数の星が輝く『昇陽』の夜空には心惹かれるものがあった。年配の者達から話にだけは聞いていた本当の夜空を、まさかこの目で見る事になるとは思わなかったが、灯りも要らぬほどに優しく明るい、閑かな夜は想像以上の美しさであった。日々形を変える月の満ち欠けも面白く、あの二つ面の紛い物の月とは全く違う。
 何より、宵闇が少しずつ明るみを帯び、深い紺碧から微かな紅へとうつろう夜空の切れ端から現れる太陽が、閃光のように光を放つ瞬間は、最も久暁の心を捕えて離さなかった。それこそが己の成名に含んだ暁≠ニいうものであったのだが、字が読めず、単に意匠だけでその言葉を選んだ久暁にとっては、これまた奇妙な偶然のように思えたのであった。
 今は空よりも、白粉を被ったような雪景色の山々を眺めていたい久暁だが、呼ばれて我に返ってみれば、八佗とその弟子二人は蛍よりもずっと先を歩いている。
「ああ済まない。行こうか、蛍……それと、もう殿付けで呼ぶ必要はないぞ」
「いや、私はこう呼ぶ方が性にあっているから」
「分かった、好きなように呼べ」
 上都風の口調を改めるのならば、いっそ武家風の物言いも直せば良いと久暁は考えるのだが、十数年の間に培ってきた益荒男ぶりはそう簡単には曲げられないらしい。

 と、おもむろにかぐやが蛍の名を呼んだ。「すぐに参る」と応え、走っていく蛍の背を見送りながら久暁も歩くのを再開する。かぐやと蛍は育った環境がまるで異なっているにも関わらず、すんなりとうち解けているようだった。同い歳で武士十家である白戯よりも、一つ年上のかぐやと意気投合したのは意外だったが、それもかぐやのおっとりした包容力が蛍の不器用な所をすんなりと受け入れているからなのかもしれない。実際、いつもは年上である事を気にかけているはずの蛍が、気の緩みから有無を言わせぬ強引さを見せたとしても、かぐやはそれを無闇に否定しようとはしない。聞くところによると、彼女は物心つかない内に両親を亡くし、それから間もなくして一つ年上の姉も夭折したという。相手が蛍にしても白戯にしても、彼らの気の済むようにさせて成り行きを見守ろうとするのは、若年でありながらそうした苦難を耐えてきたからか。
 今もまた、駆けつけた蛍と白戯が睨みあいを始めたが、二人を宥めつつも無理に止める気はないらしい。決して日和見をしている訳ではなく、この二人ならば大丈夫だという妙な信頼がかぐやにはあるのだろう。
「やれやれ……若い者同士、楽しそうで何よりですね」
 いつの間にこちらまで戻って来たのか。蛍達のやり取りを眺めていた久暁の傍らを、赤い袍を纏う男が歩いていた。
「ああしていれば、歳相応の娘にしか見えないな」
「浅葱家から八色の黒≠ニなるならば、相当の覚悟が必要だったろうね。ましてや、拾われ子ではなおさら、重責もあったはず」
 久暁の視線の行方から、誰の事を言っているのかはすぐに分かったらしい。蛍の身の上はすでに本人から聞いているのか、八佗の口調には同情の念が籠もっていた。
「『癒城』で主上から恩赦を賜れば、八色の黒≠ゥら再び浅葱家へ戻る事も叶う。晴れて浅葱の姓を名乗れるようになれば、公私の葛藤に囚われることも無くなり、苦悩も減ると思うのだが」
「……それが、アイツが『癒城』に向かう理由か」
 ようやく久暁は彼女が抱える問題を知った。『都』に戻れないという話が真実なら、この地で正式な武士十家の一員として生きていく方が、蛍にとっては幸いかもしれない。それを逡巡しているのはおそらく、一度八色の黒≠ノ身を置いたという事実は変わらないからであろう。武士十家の中でも公明正大を第一に掲げる浅葱家の人間からすれば、恩赦というだけで許すことはできまい。
「ならば、俺は『癒城』で何を求められるのだ?」
「さて、君の身の振り方は君自身に決めてもらわねば。私は君が道を見つけやすいように、手助けするだけさ」
 例えば、と八佗は続けて語る。
「君が綺羅乃剣を手放したくないというのならば、『都』に居た頃のように、今後も鉄忌を狩る者としてあり続けるか。これまでの過去を一切捨て、『癒城』で戦と無縁の日々を送るのも良い。この地で生きたければ人道に背かぬこと。その最低限を遵守するならば、君は今、限りなく自由な身の上なのだよ。私としては、君がこれ以上鉄忌だの『都』だのに関わらない事を祈るが」
 冬の風よりも冷たい気配が、久暁の首筋を撫でた。『都』への帰還を諦めていないのだと、この男は感づいている。
「どうしてそれほどまでに、俺を怪異から遠ざけたがる。俺が儚人≠ニやらだからか?」
「自惚れてもらっては困るな。死ななくても良い人間を守るのは当然の義務だ」
 明らかに、強者から弱者へと向けられた言葉。しかし、久暁はそれに憤りを感じてはいない。死ななくても良い人間≠ニ言い放つ壮年の右大臣の口元に、自嘲的な笑みが微かに表れたのを見たからだ。まるで、その守るべき人間の中に自分は含まれていないのだと、声なき声で呟くかのように。
 八佗の胸中を僅かに垣間見た、と思ったのもつかの間。

 急に彼の歩みが止まった。
 日頃は常に涼しげな表情が瞬く間に、見る者を凍てつかせるような険しいものへと変わる。
「おのれ、迂闊ッ……!」
 血を吐くような怒声は八佗自身に向けられていた。訊ねずとも、久暁には何が起きているのか容易に知れた。あまりにも馴染み深い、無数の鐘を打ち鳴らすような騒々しい足音が耳朶に届いたからだ。
「かぐや、白戯、蛍殿。すぐに迎撃の準備をしたまえ。酉の方角より鉄忌二十五体が接近、およそ二十秒後に我々と接触する!」
 八佗の警告に三人は互いの背を預けるように体勢を変え、示された方角を見据える。
 その直後、あの鉄の獣達が群れをなして木々の間から躍り出た。白い大地を踏みにじる脅威の姿は、二つ面の月下で相対したものよりも、鈍い光沢の輝きを増している。それは一層恐ろしいようでいて、久暁からすれば鉄忌らしからぬ姿に思えた。
「久暁殿、貴方はあの子らの援護を」
 八佗が頼むよりも早く、久暁は鉄忌に向かい疾走している。黒い外套が風を受けて黒煙のごとくはためく様は、その上に広がる赤銅色の髪が火を放ったかのようだった。
 蛍達の傍らを過ぎ、鉄忌の群れと対峙する。外套の下の右手から銀色の両刃が生まれ、駆ける脚を止めることなく、最初の一薙ぎが空を斬った。
 銀の刃から生まれるのは淡緑色の炎。それは剣の軌道に従い、一筋の閃光と化して雪上を飛ぶ。触れた鉄忌はことごとく両断され、赤黒い体液を雪原にまき散らし停止する――はずだった。

「こいつら、『都』に現れる奴とは違う……!?」
 鉄のガラクタと化したのはほんの二、三体だけであった。脚や顎、尾を寸断された鉄忌達は停止どころか疾駆し続けている。しかも驚くべきことに、断たれた箇所から流れ出た体液が凝固したかと思うと、あっという間に元通りの外殻を形成しているのだ。久暁の動揺に気付いたのか、後方からかぐやの声がした。
「久暁さん! 封印≠突破する前の鉄忌は弱体化していないので、僅かな損傷ではすぐに自己回復してしまうんです!」
 『都』に現れた鉄忌は外殻を破壊され、体液が流出すれば活動を停止していた。だが本来の鉄忌は、多少の損傷ならば体液がすぐに新しい外殻を生み出すものであったようだ。
「な、何でもっと早く分からなかったんだよ!?」
 白戯の悪態は彼の師に向けられたものだ。先の正確な鉄忌の状況把握から、八佗が鉄忌の出現を察知できるのは間違いない。だが、白戯の焦りようから見るに、今回はそれが不十分であったのか。
「待って白戯。お師匠様はおそらく……」
 かぐやが師を弁護しようとした矢先。一人離れている八佗の元へと、はるか未の方角から黒い群れが迫りつつある。その数は、先の一群の二倍ほどもあるように思えた。
「いかん! 八佗殿が危ない!」
 血相を変えた蛍が、助太刀に向かおうとする。だがどういう訳か、かぐやが渾身の力を込めてその腕を掴み、引き止めた。
「何故止める!?」
「大丈夫です、お師匠様は強い人ですから。それよりも久暁さんは……」
 そう言い、先駆けていった長身の姿を探すかぐやの視線の先で、白戯が立ちすくんだまま目を瞠っている。彼が見るものをかぐやと蛍も視界に捉えたが、そこに映ったのは、あの出逢った頃の手負いの獣ではない。鉄の悪鬼を屠る赤鬼だった。

 雪上を走る一条の鬼火。それは綺羅乃剣に貫かれた鎖が、あの淡緑色の炎を纏ったものだ。久暁が剣を振れば、鎖の蛇がじゃらりと鳴いて宙で舞う。すでに久暁の右手からは、葬り去った鉄忌の冷たい返り血が滴り落ちていた。
 鬼火の鎖に前足を断たれた狼型の鉄忌が一体、赤黒い体液を垂れ流しながら久暁に飛びかかってくる。鉄忌の足は空中で再生され、より鋭利な爪が肉を裂こうと突き出される。さらに背後からは、針山にも似た姿の猪が突進してきている。その鉄の牙は、子供の腕ほども長さがあった。
 久暁は振り向きもせず、鎖を絡めた剣で目前の狼を顔面から叩き斬った。直後、剣の刃が光ごと消失したかと思うと、銀色の柄が手中で逆手に持ち変えられる。再び現れた焔の両刃は寸での所で猪の喉元を貫き、そのまま横薙ぎに首を刎ねる。勢いは止まらず、剣尖は積雪を穿つ。次に跳ね上がった時には、再び剣先に捕えられた鎖が、鉄忌の四肢を断ち斬っている。
「凄い……」
 思わず白戯の口から漏れた言葉は、剣技に対してのみではない。深くないとはいえ、雪上で足をとられることなく自在に動くのは難しいはずだ。しかし、山育ちの久暁からすれば、足場の悪さはさしたる問題ではなかった。むしろ久暁の邪魔となるのは雪に反射される太陽の光だ。常夜で生きてきた久暁の目に、日の光は強すぎる。現に今も、じわじわと両目に痛みが広がりつつある。加えて、これまでに浴びた鉄忌の体液が体温を奪っているのだ。

 やがて猛攻にも限界が訪れたのか、残り二体というところで片膝から力が抜けた。鉄の身体を持つとはいえ、その隙を見逃す鉄忌ではない。
 しかし、久暁を襲うよりも早く、二体の鉄忌は折り重なって吹き飛んだ。雪を散らし駆けつけた蛍が、久暁に気を取られた鉄忌を横合いから蹴り上げたのだ。小石同然に飛ばされた鉄の獣は、地に落ちるなり片方がもう片方を下敷きにして立ち上がったが、蛍はその位置も読んでいた。小さな身体が滑るように雪上を走り、黒い手甲が鉄忌の胴を叩きつける。突き破られはしなかったものの、強固な外殻は激しく陥没し、よろめいたところで蛍の足がとどめとばかりに顔を踏み潰す。最後の一撃は下敷きにされていた鉄忌までをも、諸共に圧死させてしまった。
「済まない、蛍」
「そなたが謝る必要はなかろう。当然の事をしたまでよ」
 それを聞いた久暁の口元がフッと綻んだ。よほど必死だったのか、蛍の口調が元に戻っていたのだ。当人はそれにさっぱり気付いていないらしく、不意の微笑を前にして、
「な、何をこんな時に笑っておるのだ!? 気持ち悪いのう」
と、顔を赤くして憤慨した。確かに、今は一刻も早く八佗の元へ加勢に行かなければなるまい。そう思い立ち上がった所で、おもむろに、
「久暁殿、その右手はどうなされた」
 蛍が不思議そうに、鉄忌の体液に濡れた剣を持つ手を指して訊ねた。寒さで体温の下がった右手には、あの奇妙な紋様が浮き出ていた。以前に蛍も目にしているはずなのだが、その時の彼女は左大臣の暗示にかかっていたので、これが初見となっているのだ。
「ああ、これは――」
 気にするほどのものではない、と言おうとしたその時。

 ――誰かが、自分を見ている。

 蛍とは違う何者かが、何処からかこの右手を凝視しているのを久暁は感じ取った。それにはあまりにも強い執着が宿っており、見つめられているだけで石と化し、その場に縛られているような気分にさせられる。
「如何した久暁殿。顔色が優れぬが、傷痕が障るのか?」
 蛍の声に構わず、久暁は気配の出所らしき辺りを見渡した。
 辰の方角に一本、山林へと至る細い獣道が白い平野を横切るように走っている。その周辺にいるのは、腹を空かせた野狐一匹くらいのものだった。

 だが、そのさらに遠くには――山の岩肌を上から駆け下りてくる二つの人影がある。

「あれは……?」
 呟いたところで、蛍の視力では彼らの姿を確認する事はできないだろう。一人は全身が黒尽くめで、もう一人は髪も含めて全てが白尽くめの女だった。雪上を激しく動く二つの人影は少しづつこちらに近付いているようだった。距離が近くなるにつれ、何をしているのかも明瞭になっていく。
 おおよそのいでたちが分かるほど接近した頃になって、ようやく久暁は、二人が戦いを繰り広げている事に気がついた。黒尽くめは長身からして男だろう。片手に握った大きな鉈状の武器を振るっている。白尽くめの女は何も持たぬ素手だが、黒尽くめの攻撃を踊りでも踊るかのように軽々と回避している。その素顔は狐の面に覆われているので分からない。
「奴らは、誰だ?」
 鉄忌の出現にも関わらず闘争を続ける二者に、久暁は微かな恐怖感を抱いた。互いしか眼中に無いようでいて、久暁に注がれるあの視線には一向に揺るぎがないのだ。
 凝視していたのはどちらか、あるいは両方なのか。
 数分と経たずして、両者は獣道まで辿り着いた。いや、辿り着いてしまった。

 彼らの姿を一目見て、傍を歩いていた狐は脱兎のごとく逃走した。それが最も賢明な判断だろう。白い髪の女が浮かべた冷たい微笑みと、黒尽くめの男の禍々しい紅の双眸を己が眼に焼きつけて、久暁はようやく、自分が最悪≠ニ出逢ってしまった事を悟った。

 雪花の女王と黒風の鬼人。
 果たして、いずれがこの死地の支配者であるのか。




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