<再起の灯>



 八佗の言葉が一つの真実を告げているのは間違いない。二十七年間、取り残された者達がその存在を主張できず、常夜に押し込められた者達が過去から目を背けざるをえなかった事が、何よりの証拠だ。
 久暁は決して魯鈍ではない。だが、それでも納得がいかなかった。
「鉄忌は――奴らは封印≠破り『都』に現れていた。奴らが封印≠破れるのならば、方法がないはずは……」
「鉄忌は自力で封印≠破ってなどいない。あれらにそんな力はないのだよ。元々野生の動物だからね」
 八佗曰く、茫蕭の禍∴ネ来、人間以外の何の変哲もない動物に変化が現れ始めたという。それがいわゆる鉄忌化だ。
 鉄忌化が始まった動物は次第に毛や爪、皮膚といった体表組織が硬質化していき、遂には一個の銅像のごとく姿を変える。そこからさらに歳月が過ぎると、彫像のようなそれらが元の生物同然に動き出す。苔むした薄殻を振り払い、黒い金属質の身体が現れると、覚醒を待ちわびていた爪や牙、時には尾や四肢の全体がより適した凶器の姿へと変形する。こうして新しい鉄忌が生まれるのだ。
「おそらく、一時的に休眠状態になるのは体内の変化を完了させるためだろう。まるで芋虫がさなぎとなるように。知っているかね? 蛹が蝶へと変わるには、まず芋虫だったころの体内器官を一度溶解させなければいけないのだ。鉄忌の場合、それが彼らを内部から動かす体液となる、という訳だ」
「ならばどうして封印≠ェ破られる?」
「さて、本日分の君からの質問はもう終了している。これ以上話を引き伸ばして良いほど私も暇じゃない。夕刻になれば世話をする者を連れて来るので、それまで少し眠っていたまえ」
 八佗は話を終えると、引き止めようとした久暁にはもはや目もくれず、部屋から立ち去ってしまった。
 果たして、彼は本当に信用できるのだろうか。言動に裏表は感じられないが、何かを隠しているのは確かだった。鉄忌が『都』に現れる限り、封印≠破る手段がないとは言い切れないはず。八尺瓊の件もあり、久暁の内に不審感が蘇ってきた。思えば、今は武器を一切奪われ、身体も満足に動かせない状態にある。それで八佗が八尺瓊と同類でないという保証もありはしない。

 起き上がろうとすると、背中にズキズキと痛みが走る。仕方なく久暁はじっと横になっていたが、到底眠りつけるはずがなかった。
 『都』の冬よりも寒さが身に沁みる。黒狗山や上都の冷気とは全く違う。おそらく、何もかもが澱み纏わりつくような『都』と違い、ここの気は澄みきっているからそう感じるに違いない。
 けれども、久暁はその空気に馴染めずにいた。目を閉じてみたところで、尽きる事のない後悔がただひたすら、我が身を苛むばかりであった。

 迷走し、誤った道を選び続けた結果がこの様だというのに。何様のつもりで、あの場所に戻るのを望むのか。人として人と交わり生きる事も、修羅に身を委ねる事もできなかった半端者が舞い戻ったとして何になる。
 求めていたのは存在意義などではなかった。だがもう遅すぎる。
 改竄しようのない過去を悔やむのが、どれだけ無駄な行為かも知っている。それでも、久暁を罵る自身の声は止みはしない。
 いっそ全てが酩酊する街に毒されたせいで見た夢幻であったならば――そんな逃避的な考えがよぎった時が、最も自分を憎悪した瞬間だった。あれが夢だというならば、自らの生きてきた時間と関わってきた者達を全否定する事になる。それだけは決して許さない。
 むしろ、自分の中に作り上げていた都合のいい彼らの虚像こそが夢幻だ。そんな偶像を疑わず、彼らの内にある真実に目を向けようとしなかった。これを最大の過ちと言わずして何とする。結局、彼らが見せようとする顔しか、久暁は知らなかった。それが全てだと思い、自分から求めようとはしなかった。知ったところでいずれは分かり合えない、自分と他人は違いすぎるのだから――それが久暁の抱いていた愚かな信仰だった。
 過去はやり直せない。その代わり、過ちを正す事はできる。
 これから進む道の為に。
 研ぎ直された刃のごとく、久暁の双眸が鋭さを取り戻す。
 これからの事。そう、まだあの者達について、明らかにしなければならない謎がある。
 左大臣がどうして自分を殺そうとしたのか。
 どこまで燥一郎の意図が働いていたのか。
 何故あの時、枳が鉄忌を率いていたのか。
 彼らは人か、否か。
 答を得るにはもう一度、彼らに会う必要がある。

 しかし、そこまで考えて久暁の思考は再び、はたと立ち止まった。
 彼らの正体を確かめるのは何の為だ?
 儚人≠ニ呼ばれる存在について明らかにする為か。
 枳の願いに応えられなかったのは久暁が儚人≠セったから。八尺瓊は久暁が儚人≠セから殺そうとした。そうなると知っていたから、燥一郎もまた久暁を引き止めようとしたに違いない。
 全ての発端は儚人≠ニいう存在に起因している、というのであれば、その謎を明らかにする事にも意味はあるはずだ。
 だが、何かが違う。そう囁くのは久暁の直感力だ。
 八尺瓊らの正体を掴み、儚人≠ニいう存在の謎を解明したとして、何が変わるというのか。
 それは久暁が本当に望むものではないはずだ。


 気付けばいつの間にか、射し込む光が赤みを帯びていた。ずいぶん弱々しくなったそれが、金輪翁から聞いていた夕焼け≠フ光なのかもしれない。結局、久暁は一睡もせずにいたのだ。
 複数人の足音が近づいてきたかと思うと、斜陽の光とよく似た色をした髪の男が再び姿を現した。
「おや、起きていたのかね」
「……元々、寝食を忘れがちな性分だからな。俺の武器はどこだ?」
 顔を合わせるなり突き刺すような言葉をかけられ、八佗は機嫌を損ねたらしい。黒い色眼鏡ごしでも目が笑っていないのが容易に想像できた。
「今日はもう、君からの質問は――」
「返せ。アレは俺のものだ」
 久暁が身につけている武器は複数あるが、アレと呼ぶものが何であるか、八佗にもすぐに見当がついたらしい。ついたからこそ、余計に眉間の皺が深く刻まれる。
「……勿論、君の持ち物はお返しする。だが、あの銀筒が何なのか、分かって言っているのかね?」
「『昇陽』の至宝と聞いている。左大臣があれを取り戻そうとしたからには、今は右大臣であるお前が持っているんだろう。だが、俺にとっては親の形見だ。だから返せ」
 親の形見と聞いて、ふむふむと八佗は深く頷いた。
「阿頼耶……砂螺人……はぁ、そういう事か」
 得心したとばかりに相槌を打っているが、金色の目は一段と険しくなったように思える。
 元々八色の黒≠ヘ右大臣家が管理していたという。ならば綺羅乃剣の紛失にまつわる事件と、久暁の母親の名から、八佗が久暁の身の上を察知するのは容易いはずだ。けれども、
「ま、構わないか。明日にでも他の武器と一緒にお返ししよう」
と、八佗の反応はやはりあっさりとしたものだった。
「良いのか。八尺瓊は俺に奪われて怒っていたぞ」
「覚えていないだろうが、ここに運び込まれるまで君はずっとアレを握り締めていた。それだけ必要とするものならば主上にもお分かりいただけるだろう。正直に言うと、左大臣殿にとっては必要なものでも、我々にとっては大した価値もないものだ。神器≠ニはいえ、あれは本当にただの飾りだからね。しかし、顔を会わせるなり武器を求めるとは。そんなに私が信用できないかね」
 八佗の落ち着き様は、かえって久暁を居たたまれなくさせた。
「そういう訳じゃない。身につけていないと落ち着かないだけだ」
「武器を手にしていなければ落ち着かないような立場にあったという訳かい? やれやれ、あちら側も中々、一筋縄ではいかない環境にあるようだ。もしくは君の両親のせいか。ひとまず、それらについてはまた後ほど話を聞かせてもらうとしよう」
 呑気に呟く八佗だったが、ふと久暁は先程の足音が気になった。
「足音が二人分多かったな。誰か来ているのか?」
「言っただろう。君らの世話をする者を連れてきたのだ。私も日々忙しく、この家には下働きもいないからいささか心配でね。こういうのは信頼できる適任者に任せた方が良い……ああ、来たね」

 折り良く部屋に入って来たのは、蛍と同い歳位の娘と少年だった。
 大人びた娘の方は品のある整った顔立ちをしており、真っ直ぐに伸びる、しなやかな黒髪が印象的だった。すすき模様がちりぢりに描かれた薄黄色の小袖。おっとりとした雰囲気を漂わせているのに、長い睫毛まつげに縁取られ、ぱっちりと見開いた鳶色の瞳からは、不思議な意志の強さを感じさせられる。
 もう一人の少年の方は、彼女よりも幾分か年下だろうか。娘よりも背が低く小柄だが、堂々と構えているように見えるのは腰に差した刀のせいだけではあるまい。その表情は幼さを残しながらも、簡単には屈せぬ気骨を備えていた。首筋まで伸びる灰色がかった黒髪。白兎の毛皮をつないで作られた外套を着込み、揃いの色の鉢巻を額に巻いている。
 そして何故か、娘と違い少年は顔にありありと不快の色を浮かべていた。視線の先にいるのは他でもない、久暁だ。

「失礼します、お師匠様……」
 そう言ってやって来た娘もまた、久暁と目を合わすなり動きを止めた。大きな目をさらに大きく見開いて、穴が開くほど横になっている異貌の者を凝視していたが、
「何をそんなにじろじろと見ているのかね? 失礼だろう」
 八佗の一声が彼女を正気に戻した。
「す、すみません」
「早くこちらに来なさい。久暁殿、こちらの娘の名はかぐや。今日からしばらくの間、君達の世話をする子だ。それと、そこの態度の悪い若造が卯乃花白戯という者で、名前で分かると思うが、半人前とはいえ武士十家の人間だ。彼はかぐやのおまけみたいなものだから、好きなようにこき使ってくれて構わない」
「な、何言ってんだ、この陰険右大臣!」
 白戯と呼ばれた少年は憤然としたが、存在を無き者にするかのように、八佗は彼を黙殺した。
「かぐや、こちらがもう一人、世話を任せる阿頼耶=斬月=久暁殿だ。彼もまたこちら側に来て日が浅い。何かと力になってあげなさい」
「はい……あの、お師匠様。その、あの子の意識が戻りました」
 かぐやがいうあの子とは蛍の事だ。それを聞き、八佗が珍しく微笑んだ。
「それは好都合。では、もう一度ここが何処であるか、説きに行くとしよう。かぐやは私に代わり久暁殿の話し相手になって差し上げなさい。言っておくが……白戯はなるべく口を挟まないように。君が話に加わると久暁殿が混乱する」
 また白戯が眉を吊り上げたが、言い返そうとする前に八佗は退出してしまった。本人の言う通り、忙しい人間である。

 かなり薄暗くなった部屋に残るのは寝たきりの久暁と、初対面の若者達のみとなった。部屋の灯りが無いのに気付いたのか、かぐやはスッと部屋の片隅にあった燭台を引き寄せ、火打石で火を点けた。揺らめく炎と、何のてらいもなく火を扱うかぐやの姿が、この『昇陽』における鉄燈籠の存在の有無を如実に物語っていた。
「点けない方が良かったでしょうか?」
 久暁の憂いた様子に、かぐやが申し訳なさそうに萎縮する。
「いや、ありがとう……こちらでは当たり前のように火を使うんだな」
「え?」
 何でもないと付け足し、無意識に顔を背けた。だが、数分も経たぬ内に、注がれる視線が気になって二人の方を向かずにはいられなくなる。見れば案の定、かぐやが相変わらず畏怖と好奇心を混ぜ合わせたような目でこちらを凝視していた。壁にもたれたまま微動だにしない白戯も――こちらはこちらで妙に刺々しい視線を投げかけてくる。
 それにしても、この武士十家の少年は何故ここにいるのだろう。
「俺の外見が気味悪いか?」
「あ、いえ、その髪の色はお師匠様と同じ理由なのかな、と思っただけなんですけど……」
 それは意外な情報だった。てっきり八佗の髪色は渡来人の家系のせいだと思っていたのだ。
「アイツも、鉄忌の血を浴びてあんな色になったのか」
「はい。私が小さい頃は黒髪をしていらしたのですけど、気付いた時には段々と赤くなっていって。三年前には久暁さんと同じ位の色合いになっていたのが、今ではあの通り真っ赤です。でも、私は綺麗な色だと思います。お師匠様の髪も、久暁さんの髪も」
 つまり、八佗もまた鉄忌を倒す術を持っているという事か。
 褒められて素直に喜ぶ殊勝さくらい、久暁も持ち合わせている。しかし、今の彼はぎこちない笑みでしか、かぐやに感謝の念を伝えられかった。かつて同じような言葉を枳からもかけられた経験があったからだ。
 この娘と話していると、彼女を思い出す――言葉使いや仕草などは全く違うが、久暁に向ける優しさが似通っている。娘がまだ恐る恐る応対しているのがせめてもの救いだった。
 すると、かぐやは続けて尋ねてきた。
「あの、久暁さんは婆娑羅衆≠ニ関わりがあるお方なのでしょうか?」
 火の光を受ける獣の瞳に、くらい影がよぎった。
「す、すみません! こんな質問して……」
 それに気付いたのか。かぐやは慌てて謝り、いっそう恐縮してしまった。久暁には怒るつもりなどなかったので、その反応はむしろ娘が気の毒に思えるほどであった。
「やはり、砂螺人を見るとそう思うか?」
「ご、ごめんなさい、本当に」
「構わない。事実だからな」
 かぐやが顔を上げると同時に、背後に控えていた白戯がいきなり片膝を立てた。
「それじゃあ……」
「俺の父親は婆娑羅衆≠ノいた砂螺人だ。母親は昇陽人だったが、御覧の通りその血は片鱗も表れなかったらしい」
 自嘲気味な告白にかぐやはどう言葉をかけたものか迷っていたが、急にその腕が引かれた。久暁の身の上を知った途端、白戯が血相を変えていた。
「かぐや、帰るぞ」
「え……?」
 腕を掴まれたまま目を白黒させるかぐやと違い、年下の少年は今はっきりと、久暁に敵意を向けていた。
「武士十家として、罪人の子は信用できないという訳か?」
「ただでさえ跡地に倒れてた正体不明の奴だってのに、婆娑羅衆≠フ関係者だというなら余計に信用なんかできるかよ」
 こんな年若い者にまで、婆娑羅衆≠ヘ怨敵として伝えられているのか。それを否定する気など久暁にはないが、蔑視とも畏怖とも違う、明らかに敵を拒むかのような視線が癇に障った。

 ところが、一触即発となりかけた睨み合いを中断させたのは、家中に響き渡るけたたましい足音だった。
「な、何だこの音……?」
 ドスドスドスドスと、床を蹴破りかねない勢いのある音が久暁達のいる部屋へと近づき、次の瞬間には襖が真ん中から盛大に開かれる――その激しさのあまり天井からはらはらと埃が舞い落ちたが、仁王立ちとなった黒づくめの娘の目にはそんな些細なものなど、全く映ってはいなかった。
 紛れも無く、現れたのは浅葱蛍だった。その姿を確認し、久暁は自分でも気付かない内にほっと安堵していた。
「目が覚めたのか、ほた……」
「そなた、一体何をしでかした?」
 しかし、柳眉を逆立てる蛍の口から飛び出したのは、臓腑に叩きつけるかのような厳しい言葉だった。一瞬にして、久暁の脳内を疑問符が埋め尽くす。
「とぼけるでない! 御左大臣に何をした? そうでなくば私とそなたのみがこのような場所に現れるはずがなかろう!」
「まさかお前……」
 久暁が唖然とするのも無理はない。あの死闘を、蛍は一切覚えていないらしかった。
「ここが何処かは、御右大臣から聞いた。理由もなく我らが封印≠フ外に出るはずはなく、御左大臣以外に斯様な真似ができようはずがない。そなたと御左大臣との会談で何が起こり、何故私までもがここにいるのか、きっちりと納得のいく説明をしてみせよ!」
 動けない久暁の代わりに蛍の前に立ちはだかったのは白戯だった。当然、久暁を庇った訳ではなく、蛍の剣幕を黙って見過ごすほど無関心でいられなかっただけだ。
「余所者のくせに、お前いきなり入って来るなり怒鳴り散らしてるんだ。頭冷やせよ」
「しばし待たれよ! 私は久暁殿と話をしておるのだ」
「……何だ、この生き物。話が通じないって」
 かける言葉すら見つからなくてうろたえるかぐやに、白戯が肩をすくめて言う。すると、行く手を阻む少年に、蛍が先に痺れをきらした。
「言っておろう。邪魔をするでない、わっぱ!」
「わ、わっぱぁ〜?」
 その言葉を聞いた途端、白戯の顔がたちまち赤く染まっていった。
「俺はこれでも今年で十八だ!」
「なんと、私と同い歳だと申すのか!?」
 信じられないとばかりに蛍が叫んだ。小柄な白戯は彼女と並んでも、若干目線が低かった。蛍に悪気はなかったが、それが白戯の堪忍袋の尾を切ってしまったらしい。
「馬鹿にするな! お前だって爺臭い喋り方しているくせに!」
「じっ、じじくさい、となっ!?」
 今度は蛍が言葉を失う番だった。受けた衝撃は、興奮で赤くなった顔が一転して白へと変わるほど大きかったらしい。
 子どもの喧嘩じみた口論を聞きながら、悠々と戻って来るなり八佗は溜息をついた。
「やれやれ、さすがは似た者同士と呼ばれた浅葱家と卯乃花家の人間。初対面でここまで衝突するかね」
「浅葱家だぁ?」
 消えたはずの武士十家の名に、白戯が反応する。
「そういう事だ。だからつまらない諍いは止めたまえ。蛍殿も分かったね?」
「爺臭い……」
 例の白戯の一言にどれだけの破壊力があったのか。わなわなと拳を震わせる蛍に、八佗の言葉は届いていないようであった。そして――
「了見の狭い己が基準で、他人を悪し様に罵るとは……許しがたき性根!」
 その手が白戯の襟首を掴み上げ、

「天・誅!」
「のあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 木霊する叫びと、吹き飛ぶ木板の騒音が重なり合う。
 両腕で放り投げられた白戯は、ぶち当たった戸板ごと庭へと転がり落ちた。慌てて駆け寄るかぐやと、さすがに度肝を抜かれたのか呆然とする八佗と違い、久暁はただ、いつかどこかで見た覚えのあるやりとりの再現に軽く頭痛がしていた。
「……蛍、お前は自分の欠点を指摘される度にこんな事をしているのか」
「なっ!? そんな訳があるか! 私はその、つまり、人の短所を小馬鹿にする輩が嫌いなだけなのだ!」
 まるで反射的に弁解しているようだったが、という事はつまり、
「……言葉使い、気にしていたのか」
「ち、違っ、これは『昇陽』古来よりの上都言葉であるぞ! 誇らしく思うならまだしも、恥ずかしいなどと!?」
 実を言えば、取り残された『昇陽』で上都言葉を使っている人間は、武士十家の中でも隠居している老人ぐらいのもの。二人にとっては知る由もなかった事だが、それが当たり前だと思っていた白戯のかの発言は正直な意見だったと言える。

「ええい、そんな事はどうでも良い! とにかく事の次第を話せというに!」
 疑惑の目から逃れようとする一心で、蛍は話を本題に戻した。けれども、そのように問い詰めたところで、彼女もまたその場に居合わせた一人ではないか。それどころか久暁を助け、八尺瓊と敵対し、さらに致命的な傷を負わせたのも蛍に他ならない。
 それを全て忘れ去っている――そんな事が有りえるとしたら。
「暗示、というやつのせいか?」
 八尺瓊は蛍が乱入した時から、彼女が操られていると言っていた。しかし、やはり蛍は怪訝な顔をするばかりだ。
 暗示をかけられ、操られていたという自覚すら蛍にないのならば。あの時、彼女が久暁にかけた言葉は全て、偽りの幻にすぎなかったというのか。
 と、それまで様子を見守っていた八佗が不意に、二人の間に割って入った。
「なるほど、暗示か」
「御右大臣」
 かしこまる蛍を制し、八佗は続けて言った。
「八佗で結構。私は右大臣と呼ばれるのが嫌いだと教えただろう? どうやら君の昏睡の原因は脳の負担にあったらしい。左大臣殿の仕業だね。都合の悪い記憶を隠蔽して後始末とは、たいした念の入れようだ。失礼」
 八佗は黒い皮手袋をはめた人さし指で、蛍の額にトンと触れた。
「ああ、やはり。起動式の残滓がある。少し意識が飛ぶが、我慢したまえ」
 その言葉に久暁が奇妙な不安を覚えた直後。
 八佗の指から電流でも走ったかのように、蛍の身体が一瞬、激しく痙攣した。
「うぁ……頭が……」
「これで消えていた記憶は戻ったはずだ」
 頭を抱えふらつく蛍を八佗が支える。彼の言動から、久暁は先程感じた不安の正体に気付いた。
「まさか、お前も術を使えるのか?」
 八尺瓊や燥一郎と同じく、この渡来人の男も人外の術を扱えたのだ。しかし、すでに久暁の問いに答える気のない八佗は、完全にその呟きを無視していた。答は近くにあるのに届かない。そんな苛立ちを感じはしたが、今は蛍の無事を確かめるのが先だった。
「大丈夫か、しっかりしろ」
 痛む身体を少しでも蛍の方に近づける。意識を取り戻した蛍は悪い夢から覚めたようにぼうっとしていたが、しばらくして――
「わ、私は何という事を……」
 細い肩から力が抜け、いかなる時でも毅然としていた両目から涙が溢れ出た。その理由を悟り、久暁はまた己を罵った。
 一連の行動が蛍の意にそぐわぬものであったとしたら、全てを知った時、最も傷つくのは誰か。
 他でもない。蛍は八尺瓊を傷つけ、危うく久暁もその手にかけるところだったのだ。
 どうして八佗を止めなかったのか。彼の行動を読めなかったとはいえ、何をしようとしているのか、尋ねていれば必ず止めていただろうに。久暁からすれば、誤解されたまま蛍に恨まれ続ける方が余程マシだった。
「お前のせいじゃない。お前にそうするよう仕向けた奴が悪いんだ。だから、泣く必要はない」
「しかし、私はそなたにもあの様な仕打ちを……」
 左腕の痛みが蘇ってくる。だが、殺されかけた時も、こうしている今現在も、蛍に対し怒りを抱く事はなかった。
「生きていただけでも幸運だ。それに、あの後お前が左大臣を攻撃していなければ、俺はとっくに死んでいた」
 とは言え、そのいずれの行動も蛍の意思ではなかったのだ。かける言葉の虚しさが、久暁自身の胸の内で反響する。蛍は首を横に振り、
「意思はあったのだ。だが、何かこうしなければならないという衝動に突き動かされ、それに従うままに身体が動いておった。何の疑問も抱かずに……今にして思えば、何故あのような行動をとったのか全く分からぬのだ。自分のとった行動は一挙手一動、思い出せるというのに」
「それが起動式により刷り込まれた暗示の仕業だ」
 蛍の混乱を鎮めようと、八佗が説明した。
「あの左大臣殿に人の意思を捻じ曲げるほどの起動式が扱えたとは驚きだがね」
 いつの間にか、中に戻って来た白戯とかぐやも、事の成り行きをじっと見守っていた。白戯は蛍に放り投げられたせいで額に大きなコブができており、よほど蛍に投げられたのが悔しかったのか、一層不満の色を露にしていた。だが、それも今ではバツが悪そうに、黙っている事しかできない。

 頼りないが、それでも灯火の瞬きは温かい。照らされた今の紅い瞳からは、あのくらい影が消えていた。
「蛍。左大臣の屋敷で、俺にかけた言葉は覚えているか?」
「覚えておるが……」
「操られていたとしても、あの時の自分の行動を今はどう思っている?」
 問われて、蛍はしばらく沈黙した。
「そなたと御左大臣を傷つけたのは万死に値する」
 だが、と言葉を続ける蛍の顔は、幾分か盛壮さを取り戻していた。
「御左大臣からそなたを守ろうとした事は、正しき道であった、と信じたい」
「ならば、それで良いじゃないか」
 気休めではなく、心の底から蛍に安心してもらいたかったのか。いつかの時のようにぎこちなくだが、語りかける久暁は微かに笑みを浮かべていた。彼が己の為でなく、他人の為にしか笑えぬ人間だと、『火燐楼』で同じような微笑を垣間見た時に蛍は察知している。
 そんな笑みを浮かべさせたという悔しさが、娘の内に火を灯した。
「色々すまなかった。あと、ありがとう、久暁殿」
「……感謝されるような事はしていない」
 礼を言った途端、久暁の笑みが消えていく。けれども、蛍の声はすっかり元の芯の強さを取り戻していた。

「ところで、これから我らはどうしたものか」
 立ち直ってしまえば蛍の切り替えは早い。すでに『都』に戻る手段はないと聞かされているのだろう。
「その件についてだが、私から一つ提案がある」
 事の収拾を見計らっていた八佗が、おもむろに口を開いた。
「二人とも、こちらの生活に馴染むには時間がかかるだろうが、久暁殿が動けるようになり次第、この家を出て『癒城ゆしろ』へと移ってもらおうと思うのだが、どうかね?」
「どこだそこは?」
「そこは何処なのですか?」
 久暁と蛍の質問は同時だった。八佗は軽く咳払いをすると、
「ここは『央都』跡地に最も近い私の別宅だ。位置的にはかつての赤猿山あかざるやまの麓にあたる。『癒城』はここから北西に向かった先、白雉山しろきじやまが消えて生じた平地を横切っていくと辿り着く、西沿岸地方にある街だ」
と、蛍の質問に答えた。
「そして向かう理由だが、一つには、『癒城』こそが我々の本拠地だからだ。私がついているとはいえ、いつまでも鉄忌が出現しやすい山野に留まってはいられない。そしてもう一つの理由には、君達を主上の元へと連れて行くためだ」
 八佗が誰の事を指しているのか、初めは二人とも気付かなかった。しかし、右大臣である八佗が主上と呼ぶ人間は、唯一人しか考えられない。
「まさか、帝に……?」
「そうだよ。正しくは白巳はくし女帝といい、十八代前の黄亥こうい女帝以来、歴代では七人目の女性の帝にあらせられる」
「ま、待たれよ!」
 思わず八佗の話を遮ったのは、上都で育った蛍だ。
「八佗殿にお尋ねする。今代の帝は未だに青辰せいしんの御方、しかも『都』にて永らく床に臥せっておられるはずでは――」
 それを聞き、八佗は盛大に大きな溜息をついた。
「まさか君達に限らず『央都』の人間は皆、あの左大臣殿の言う事を鵜呑みにしていたのかね。先帝こと青辰帝は封印≠フ折りに、こちら側に取り残された者達の中の一人だ。さらに言えば、八年前に崩御されている。今代の白巳女帝は先帝の忘れ形見なのだよ」
 久暁は山で生まれ育ち、下都の空気を吸って暮らしていた人間であるので、上都出身の蛍ほど衝撃を受けた訳ではなかったが、それでもこの事実には瞠目せずにはいられなかった。
「まぁ、君達程度が左大臣殿の隠蔽工作を見破るのは難しいだろうし、先帝の不在を隠した左大臣殿の判断もやむをえなかっただろう。あの当時、先帝にお世継ぎたる御子はおらず、それで帝までいないとなれば民の怒りはどうなっていた事やら。だから私は反対したというのに……と、話が長くなってしまった。とにかくそういう理由だが、了解してもらえたかね? 主上に拝謁したからといって、君達が光明を見出せるとは限らない。ただ、可能な限り擁護すると言ったからには、私からも一つ拠り所を提供したいと思うのだよ。如何かな、蛍殿?」
 どういう訳か、八佗は蛍にのみ問いかけた。思えば、この部屋に怒鳴りこんで来る前に、蛍はこの右大臣と何を話していたのだろうか。
「承知いたしました。それならば私も、お上にお目通り願いとうございます」
 蛍の返事は即答だった。一つの迷いもない、ハッキリとした口調だった。
「よろしい。ただ問題は、この時期にこれだけの距離を行くにはなるべく体力を回復しておいてもらわなければ困るのでね。蛍殿はもう大事ないと思うが、久暁殿を連れて行くにはまだ二週間ほどかかる。今は養生と、この地の状況を知る事に専念するように。重ね重ね言っておくが、『央都』の封印≠破る手段などない。武器を手にしたからといって跡地に向かおうなどと、ゆめゆめ考えぬように」
 最後に刺した釘は、もちろん久暁に向けたものだ。それから、と八佗はかぐやと白戯の方を見た。
「かぐやは問題ないとして。白戯、君はくれぐれも悶着を起こさないように。おまけとはいえ、自分から申し出た役目くらいは完璧にこなしたまえ」
 背筋を正して頷くかぐやと違い、白戯の仏頂面はまだ当分晴れそうにはなかった。




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