<昇陽>



 ひらひらと視界を横切る緋桜の美しさですら、憎悪の火を宿した久暁を鎮める事はできなかった。
 この木はいずれ『白梅廊』に植えられる事になっている。『都』が暴徒で溢れかえったかつての危機を乗り切ったこの緋桜ならば、居場所を変えられたとしてもずっと、この瞬間を覚えたまま咲き続けてくれるだろう。
 
「どうしても斬るってのか?」
「ああ、貴様だけはこの手で殺す」

 そのために、人目につかない山中を選んだ。

「頭を冷やせよ久暁。お前、人を斬った事なんてねぇだろ。本気で俺を斬れると思ってんのか?」
「斬ってみせる」

 いつもなら鉄燈籠を彫っている手はこの時。
 牽制の為にしか帯刀しないはずの刀を、抜き身の状態で握っていた。  

「止めとけ止めとけ。俺を殺して楽になれると本気で信じている訳じゃねぇだろう」
「お前がのうのうと生きている今よりはずっとマシだ」

 たった一人の女を巡る愛憎が、ここまで人を鬼へと変えるのか。

「仕方ねぇなぁ……それじゃ、一回くらい練習台として死んでみるかぁ」

 意味不明な言葉に意味を求める方がどうかしている。
 結局、話し合いは成り立たず。
 振るわれた刀が一振りのみなら、宙を舞った首もまた一つだけ。
 それで終わってしまえばどれだけ良かったか。

 起き上がった首なしの身体が、分かれた頭を元の位置に戻すなど。
 そんな馬鹿げた事さえ起きなければ。

「だから止めとけって言ったろ」

 微笑みと共に差し出された手から逃れるように、久暁は一目散に駆け出した。
 それが初めて、彼が人を斬った時であり。
 決して自分≠殺せないと悟った時でもあった。





 久暁が意識を取り戻したのは見知らぬ屋敷の中での事だった。手当てを施された傷口は丁寧に布で覆われ、おかげで幾分か痛みは和らいでいた。それでも身体を動かすと、左腕から鈍い痛みが伝わってくる。
 起き上がるのを諦めて、久暁はぐるりと瞳だけを動かした。部屋に射しこむ薄明かりは鉄燈籠のものとも火の灯りとも異なる優しい色をしている。けれども布団の外の空気は冷ややかで、一息ごとに頭が刺激された。

「二日と経たずに覚醒するとは、なんともしぶとい命をお持ちだ」
 少しずつ感覚を取り戻していく久暁の耳元で、誰かの声がした。紅い瞳をそちらへ向けると、すぐ傍らの畳の上に正座した男が、表情を隠すように色眼鏡を押し上げた。
 その中年の痩せた男は、随分と異様な風貌をしている。彼岸花のように真っ赤な髪。濃緋色の袍。そして黒い色眼鏡。まだ夢をみているのかと思わず久暁が目を疑うほど、『昇陽』の常識からかけ離れた姿だ。
「私の声が分かるかね?」
「ああ……」
 相手が何者かは知らないが、おそらく自分を助けたのは彼に違いない。まだ血の臭いが残る声で、久暁は返事をした。
「口も利けるとなれば尚更よろしい。そうそう簡単には死ねない性質らしいね、君は」
 ある意味当然だが、と小さな呟きが聞こえた気がしたが、まだ朦朧とする久暁の意識には残らなかった。目の前の男には訊きたい事が山ほどあるのだが、その問いがまとまらないほど久暁は消耗していた。

 赤髪の男は一旦久暁の前から消えると、程なくしてまた戻ってきた。
「もう一人の娘さんの方は意識が戻るまでしばらくかかりそうだ。君に比べれば外傷は大した事ないのだが、いかんせん精神的な疲労が激しいようでね。原因が分からない以上、今は自然に回復するのを待つしかない」
 彼が言っているのは蛍の事だろうか。確か彼女と久暁は気を失う直前まで、八尺瓊と死闘を繰り広げていたはずだった。それが何故、このような見知らぬ屋敷で、異様な男に介抱されているのか。
「君もまだ身体を動かすのは無理だ。全身傷だらけだったからね。刺し貫かれた上に骨にひびまで入った左腕。裂傷多数、一部内臓にも損傷が見られた。おまけにあんな場所で倒れていたものだから体温まで低下。もう少し発見が遅ければ確実にあの世逝きだっただろう。まぁ、私でなければ発見した所で助けられはしなかったかもしれないが。ただし――」
 饒舌に語っていた男が、急に言葉を濁した。
「左腕だが、君が気を失っている間に手を尽くして治療したものの傷が酷くてね。残念ながら完治とはいかなかった。傷が癒えても肘から先が麻痺して動かしにくくなると思うが、その後遺症は私の力では治しようがないのだよ。訓練次第ではある程度回復するかもしれないが……すまないね」
 鈍っていた思考が急に回転を早め、同時に鋭く冷たい痛みが心臓を貫いた気がする。試しに左腕を動かそうとしたが、治療を受けたばかりのそれは動きを止められ、意のままには操れない。これが治りきったとしても、男の言う事が本当なら――もはや鉄燈籠は作れないかもしれない。
 久暁は意識が遠くなる前に、自ら瞳を閉じた。これが八尺瓊に、左大臣に逆らった報いだというのか。
 それでも気力で踏み止まる。赤髪の男の話はまだ続いているのだ。

「それと手術をするのに衣服は全て脱がせてもらったよ。あれだけ血に汚れボロボロになってしまえば使い物になどなるまいが、一応誤解の無いように伝えておこうかと」
 教えられてようやく久暁は、自分の着物がただの白い長襦袢に変わっているのに気付いた。それまで絶望の色に染まりかけていた獣の眼に昏い火が灯ったのを、赤髪の男は見逃さなかった。
「不都合でもあったかね?」
「お前がやったのか」
「そうだが」
「……見たな」
 久暁は自力で起き上がれないほどの痛手を負っているはずだった。しかし不意に布団から右手が飛び出たかと思うと、鷲の爪に似た指が男の袍の胸元を掴み、服ごと彼を引き寄せた。一体、傷ついた身体のどこにこれほどの力が残されていたのか。
「見たんだな!?」
 叫んだ所で反動が返ってきたのか。久暁の顔が苦痛に歪み、再び布団の上に沈む。袍を掴んでいた手も自然と力を失い、だらりと畳の上に横たわった。
 一方、赤髪の男は袍にできた皺を几帳面に直すと、久暁の反応はさも当然だと言わんばかりに涼しい声で言った。
「動けば折角の治療が台無しになるではないか。我が身が大切なら、怪我人は怪我人らしく横になっていたまえ。心配せずとも、君の身体を見たのは私一人だけだ。見たところで儚人≠ネど長年の間に見飽きている。もっとも君ほど齢を重ねたものは珍しく、この私もさすがに驚かされたがね」
 目を覚ました痛みにうなされながらも、久暁は男を睨みつけた。久暁が無性と知っても驚かず、しかも八尺瓊が口にした不可解な言葉まで熟知しているらしいこの者は、一体何者なのか。

「やれやれ、不吉な眼だ。だが君は少なくとも狂人ではないから信用できる。回復が早いのは良い事だが、まずは落ち着いて自分の置かれている現状を把握すべきだね。ひとまず、微力ながら可能な範囲で私が疑問に答えていこう」
 ただし、と男は続けた。
「怪我人には安静にしてもらわなければ困るので、一日限定十問までとさせていただく」
 勝手に話を進め、「遠慮なく」と言うなり男は唐突に押し黙った。久暁からすればなんとなく肩透かしをくらった気分だ。その代わり、渦巻いていた疑念と敵意がスッと鎮まっていく。この色眼鏡で表情を隠した男は口を開けば皮肉ばかりが飛び出すが、少なくとも敵ではなさそうだ。そう思える、滑稽なまでの生真面目さが垣間見えた。

「お前は八尺瓊の関係者か?」
 少し安心して最初の疑問を口にした途端、男はたちまち眉間に皺をよせ、侮蔑と嫌悪を織り交ぜたような視線を久暁に投げかけた。
「……今回は大目に見るが、以後は私の前でかの左大臣殿の名を出さない方が良い。私は人の忠告に耳を貸さないあの年寄りがこの世で二番目に大嫌いでね」
 大体誰のせいで自分がこんな煩わしい目にあっているのか、と一人愚痴をこぼし始めた男をようよう止めて、久暁は続けて尋ねた。
「ならばお前は何者だ」
「ただの神器≠セが、何か問題でも?」
 それは八尺瓊が自身を指して言った言葉ではなかったか。久暁は益々、この男の正体を知りたくなった。
「神器≠ニいうのは……」
「神器≠ヘ神器≠セ。選ばれた王≠フ証明であり、王≠フ権威を維持する為に存在する。他に定義が必要かね?」
 尋ねる前に一方的な、それも全く答えになっていない解答で押しきられ、仕方なく久暁は質問を切り替えた。

「お前の名前は?」
「先に自分から名乗るのが礼儀ではないのかい?」
 確かにそうだと、久暁はまず自分の名を告げた。
「阿頼耶=斬月=久暁、か……」
 はぁ、へぇと、興味深そうに相槌を打つ男だったが、一人だけ何かに納得している姿はどこか不気味だった。久暁としては自分の名前を面白がられているようで、たいそう気分が悪い。
 しばらくしてようやく本来の話題を思い出したのか、
「ああ、私の名前だが」
と我に返り、男は八佗やた≠ニ名乗った。
「ヤタ……八咫やた?」
 それは久暁のみならず、『昇陽』の者なら誰もが知っているはずの言葉だった。
「八咫は消滅した右大臣家の姓ではないのか」
 違う違う、と男は手を振った。
「八咫≠ナはなく八佗≠セよ」
 そう言い、彼は指で字を空書きする。字の読めない久暁に二文字目の意味までは理解できなかったが。
「元々私は八咫という名前が嫌いでね。茫蕭の禍∴ネ後は改名させていただいた」
「それでは、お前は本当に右大臣家の人間なのか?」
「右大臣家≠ニいうのも本来誤りだが、まぁその通りだよ。ところで、今の質問ですでに六問目が終わった訳だが、君は私の事を尋ねてばかりで己の置かれている状況を全く把握していないではないか。馬鹿か君は」
 丁寧に接したかと思えば、次の瞬間には人を見下した態度を取る。どうやらこの男の本質は後者らしいと、久暁はこの短い応酬で確信した。そしてもう一つ、彼の容貌についての疑問も氷解した。右大臣家は、数百年前に大陸から『昇陽』へと渡ってきた渡来人の末裔だと伝えられている。ならば、この異様な容姿にも納得がいく。

 だが、本当に彼が封印≠ナ消滅したはずの右大臣家の人間だとして、どうして久暁達を助けたのか。
 そもそも消えたはずの右大臣家の人間が何故生きているのか。
 一つ答が浮かんだが、それは到底ありえない。けれども、久暁はその仮説を証明せずにはいられなかった。
「一体、ここは何処なんだ?」
「ここ? 気付かなかったのかね」
 言いながら、八佗は光が微かに射し込む壁の羽目板に手をかけた。まるでその問いを待ち望んでいたかのように勢いよく羽目板が開かれ、切窓から幾筋もの光の帯が飛び込んできた。
 久暁がこれほど強い光を目にしたのは、生まれて初めてだった。月明かりとも鉄燈籠の灯りとも、綺羅乃剣の鬼火とも違う、まさしくあまねく全てを照らす為にある光。暖かな色は火の色に似ているが、畏れすら感じるこの光に、久暁は激しい不安を覚えた。
「おや、もう昼になるようだね」
 八佗はそう呟くと、今度は反対側の、閉めきっていた戸板に手をかけた。
「寒いからあまり開けたくはないのだが」
と言いつつ、黒手袋をはめた手がまた勢いよく戸板を開ける。

 庭石と砂利を敷いただけの簡素な庭は一面、ここ数日降った雪で覆われていた。
 どこもかしこも光を受けてさらに真白く輝き、部屋に流れ込む空気まで白く染まっているようだった。
 屋根の端からかすかに覗く、青い色彩は何なのか。
 確かめようと久暁が身体を動かしたその時、雪の白さに跳ね返された針のような光が、久暁の瞳を貫いた。
 
「うわッ!」
 思わず目を布団に押しつけた久暁の反応に驚いたのか、八佗は眉を顰めそそくさと戸板を閉めてしまった。
「いやいや、済まない。まさかそれほど驚くとは思ってもみなかった」
 ゆっくりと顔を上げた久暁だったが、紅い目は見開かれたまま戸板の向こうを凝視していた。
「な、何ださっきのは?」
「何って、春の芽吹きを待つさえざえとした晩冬の午後の景色だが」
「馬鹿な。今はもう春の初め、桜が咲き誇る季節のはずだ。晩冬のはずがない」
 そう、現に『都』ではすでに桜が花盛りではなかったか。例え尋常ならざる冷気に包まれた黒狗山であっても、雪が降る季節はとうに過ぎているはずだ。さらに――
「屋根の端から覗いていた青いのは……」
「空に決まっているよ。まだ太陽は天高く昇っているのだからね」
 さも当然とばかりに、八佗は告げた。それが本当ならば、あの空はまるで、久暁が金輪翁や利宋の話づてに思い描いていた、かつての『昇陽』の光景そのままではないか。
 つまり、ここは――
「……嘘だ」
「嘘ではない。初めまして『央都』の方々。置き去りにされた『昇陽』へようこそ」
 金色の瞳を覗かせる男は、謡うようにそう告げた。

 身体中の傷の痛みが、あの酔夢のような世界も今いるこの現実も、全て嘘ではない事を教えてくれる。それでも久暁は、この目に見えているものこそが夢ではないのかとまだ疑い続けていた。
「どうやら『央都』は随分こちらと様子が違ってしまったらしいが、それでも私は君達を歓迎し、可能な限り支えよう。回復するまでに、少しずつこちらの環境にも慣れていけば良い。私も君達には是非、あちら側の話を聞きたく思っているのでね」
 淀みなく語る八佗だったが、久暁はまだ事態が飲み込みきれていない。
「どういう事だ……」
「訊きたい気持ちは分かるが、それは私にも答えようがない。封印≠維持しているのは左大臣殿で、私の範疇ではないからね。一つ考えられる仮説がないこともないが……まぁ、次の機会でよいだろう。今から語っていては怪我人の身体に障る」
と言うと、八佗は手袋をはめた指を順に折っていき、全て折り終えると満足したように頷いた。
「ちょうど先程のが本日最後の質問になったか。よろしい。起き抜けに鬱になるような事実を教えた事については、私としても非常に心苦しいのでね。ひどく混乱し落ち込むであろう君に、私からのちょっとした励ましの言葉でも送るとしよう」
 久暁としては到底尋ね足りないのだが、目の前の男はさっさと会話を切り上げると、有無を言わさず次の話へと移った。立ち上がったまま、黒い色眼鏡ごしの金目がいっそう険しくなる。
「さて、少しは自分の置かれている環境が理解できたはずだが、もう少々補足させていただく。君と連れの娘さんが封印≠ウれたはずの『央都』から来た事を知っているのは、今のところ私と私の主のみ。いずれ傷も癒え自由に動けるようになれば『昇陽』の他の人々とも出会うだろうが、ひとつ肝に銘じて欲しい事がある」
 一つ大きな咳払いをして、痩せた男は言葉を続けた。
「これから君達には『央都』での価値観を捨て、なるべく早く『昇陽』の暮らしに順応していく努力をしてもらいたい。と言うのも、『昇陽』は未だに『茫蕭』と睨みあっている状態でね。基本的に一定の範囲にしか現れないとはいえ、油断すれば鉄忌の蹂躙により甚大な被害を被ってしまう。それももう二十七年目だ。こんな時に『央都』から来ただのと要らぬ騒ぎを起こされては、大いに困るのだよ。もっとも君の場合は見た目がそれだから、ひと悶着起こさない方が難しいとは思うが、そこは私が傍について擁護してさしあげよう。だから――」

 覚悟を決めたまえ――そう言った台詞には、今までに含まれていた侮蔑の色が一切消え失せていた。

「何故ならば、どうせ『央都』に戻る事は不可能なのだからね」

 決定的な言葉が、久暁の脳裏に焼きつけられる。
 何度も、何度も、言い聞かせるかのように。

「我々の力で左大臣殿の封印≠外側から破るなど、まず無理なのだ」




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