<幕間>



 先帝が若くして崩御した時、「主を失った」と父や祖父は悲嘆にくれたらしい。しかし卯乃花うのはな家の跡継ぎという立場に生まれた白戯しらぎのみならず、彼と同年代の若者達にはその実感がいまいち湧かなかった。物心ついた時分から変わり果てた『昇陽』の現状に直面していたせいかもしれないが、主と仰ぐ人物がすでに別にいた、という理由の方が大きかったのだろう。
 白戯は今年で十八歳になる、まだまだ意気盛んな若者だ。そして何より主というのがまだ十九と、彼と変わらず若かった。そのせいか白戯はこの主に共感する所が多く、一族の人間や師にどれほど諌められようと、主の多少無茶な願いに嬉々として従ったのであった。
 例えば、最低でも月に一度、主は『央都』跡地を眺めに雲霧くもぎり丘を訪れる。かつて『昇陽』最大の街があった場所は、大地の表面を削り取ったかのような平地と化した。その上に雪が降ると白銀の地平線が描かれ、大層美しい景色が生まれるのである。
 だが、残念ながらこの地は最も鉄忌が多く跳梁し、かつさらに恐ろしい魔が彷徨う異界に近しい場所。情緒に浸る暇も与えられない。本来よほどの理由がない限り、跡地周辺に近寄るのは禁じられているのである。
 それでも白戯や彼の仲間は主に付き従い、何度もこの地へ足を運んでいた。皆どこかで、古臭い身内の空気から離れたいと思っていたのかもしれない。

 今日もまた。どうせいつものようにすぐ戻りさえすれば小言をくらって終わりだと、白戯は半ば行楽気分で主と共に、明け方の跡地視察に同伴した。着いた時にはすでに太陽が天高く昇っていたが、まだこの季節ではかすかな温もりにしかならない。春が来ればこの丘も一面の桜模様になるのだが、その時期が訪れるにはもう少しかかる。
 目的地の高台手前で、主は一人の付き添いだけを連れて進み、待機を命じられた白戯とはなだ家次男のながれは、とりとめのない雑談をしながら主達の帰りを待っていた。
 いい加減暇を潰すのにも飽きた白戯が、なんとなく眼下の平地を見下ろしたその時。
 禁じられた地に倒れ伏す者がいるなど、誰が予想しただろう。

「だから、ここは師匠を呼ぶべきだ。危険すぎる」
「そうやってもたついている間にあいつらが死んだらどうするんだ」
 遭難者らしき人間を目にした途端、反射的に白戯は救出しに飛び出そうとした。流に引き止められなければ身に纏う白兎毛の外套がいとうを翻し、本物の兎さながらに丘を駆け下りて行くところだ。
「とにかく助けに行かないと」
「まっ、待て待て待て! あの場所がどうして立ち入り禁止なのか分かっているのか」
 眼鏡をかけた顔を真っ赤にしながら、流は必死で食い下がった。歳こそ二つ上だが、幼い頃から武術より学問としての戦術を学んできた流にとって、未だ修行中の身であれ、一人の武芸者たる白戯を力づくで止めるのは難しい。もちろん流とてあの者達を救いたい事に変わりはない。だが一時の感情で軽率に足を踏み入れるには、この『央都』の跡地はあまりにも鉄忌の出現率が高すぎるのである。
 せめて師が現れさえしてくれれば。この地を五体満足で進める存在など、師ただ一人しか思い浮かばない。流の説得は白戯の右耳から左耳へと素通りしていくばかりで、彼の幼さが残る黒い瞳は終始、眼下の雪原に向けられていた。
「ヤバイ場所だってのは俺が一番良く知っている。だから先頭に立って行こうってんじゃないか。あの金目野郎に、俺達だけでも大丈夫だって所を見せつけてやるよ」
「待て、俺達って……」
 尋ねるよりも早く、流の首筋がぐっと何かに引かれ、身体が傾いた。よく見れば自分の襟巻が、白戯の手にしっかりと握られているではないか。
「こらッ、どうして僕の襟巻を引いていく! 絞まるじゃないか!」
「何言ってんだ。お前も来るんだよ。一人で二人も運べるか」
「なッ、年上の僕を何だと、ってああああ! すっ、滑るぅぅぅ!」
 悲鳴も虚しく、木々の根につまずいた流の身体は派手に倒れ、そのまま白戯に引きずられていく。未だ戻らない主達の存在も、今の二人にはすでに埒外となっていた。
 薄茶色の襟巻に首を捕らえられ、丘を滑り落ちていく流の視界が暗くなりかけたその時。

「いけない! 二人とも行ってはなりません!」
 凛と咲く百合を連想させる声と共に、高台へと続く道から二人の娘が下りてきた。
 一人は十七、八歳頃のあどけない顔つきをした少女。もう一人は市女笠を目深に被っているが、ふっくらした唇に色白の肌、そして歩く際の足取りからして白戯や流達とは違う高貴さがあった。先程の声も彼女のものだ。
 二人の娘は背丈や体格、そして笠の下から伸びる切りそろえられた長い黒髪に至るまで、並ぶとまるで姉妹のように似通っていた。だが市女笠の娘の歩みを助ける少女の腰元には、山吹色の紐を柄に巻いた物々しい太刀が携えられている。その色が示す通り、彼女は武士十家が一つ、山吹家の長女で名をなずなという。彼女もまた、白戯達の同輩だ。
「こ、これは姫様! とんだお見苦しい所を……」
 ふらふらと起き上がり咳き込んでいた流も、主たる市女笠の娘の登場には、傾いた眼鏡を慌てて戻し駆け寄った。それでも、丁寧に梳かれていた黒髪は雪と土にまみれ台無しになってしまっていたが。
「私は構いません。それよりも、彼の地に向かうのだけは止めて下さい。お願いです」
「分かっているの白戯。アンタに言ってるんだから」
 主を支えながら、なずなは白戯を睨みつけた。
「……姫様まで止めるんですか」
 刺々しい視線に白戯が口を尖らせる。そんな態度にたちまち流となずなが眉を吊り上げたが、市女笠の主が慌てて止めに入った。
「流、なずな、止めて下さい。私も貴方達とは主従であるより、友でありたいと願っているのですから」
「しかし」
 白戯の態度は捨て置けなかったが、ここでようやく流は主の異変に気付いた。
「どうしたのですか。震えていますが……」
 市女笠の下の顔がやけに青ざめている。寒さのせいにしては様子がおかしかった。

「予知だよ。頂上に着いた途端視た≠フ」
 なずながそう告げると、白戯と流はただならぬ様子で顔を見合わせた。
 彼女の一族、すなわち帝の一族が王≠ナある証ともいうべき、術とも異なる特別な力。彼女の場合は予知能力を持って生まれたが、しかしそれはごく微弱な力で、寸前の未来しか見通せない。おまけに意識して使う事もできないのだから、実用とは程遠い力であった。
 だが、直前の未来しか視られないというのは、逆に言えばその未来は今すぐにでも起こるという事だ。
 そして彼女の尋常でない様子。予知の力が働いた後、これほど不安と恐怖に震えているのを見るのは誰もが初めてだった。
「恐ろしいものが、狂気と怨嗟に満ちた何かがこちらに来ます。今出て行くのは危険です」
 その言葉に、若者達は一様に同じものを思い浮かべた。何故あの地が禁忌とされているのか。その危険の最たる理由を。
 しかし、思い浮かべたものが同じであれ、白戯の反応は全く違った。主の言葉は彼をさらに駆り立てるものになったらしい。
「だったら、なおさら俺達が行くべきだろう」
「白戯!」
「すぐ戻ってくれば問題ないって。ほら流も、大人しくついて来い」
「姫様の予知なんだぞ! 白戯!」
「それが確かなら、今あそこで倒れている連中の方がよっぽど命がないだろ! 俺達が行かなくて誰が助けるっていうんだ!」
 こんな論争をしている間にも、予言の実現は近付きつつある。主の制止も聞かず、武士十家の三人は一対二の睨み合いを続けるかと思われたが。

「いい加減に止めたまえ。いつ誰が命を粗末に扱えと教えたのかね?」

 不意にかけられた台詞に、先程までの騒動が嘘のように静まった。
 やんわりと、しかし滲み出る不遜な尊大さをあえて抑制しない諌めの声。
 その男が一歩ずつ獣道を踏みしめ近付いて来ただけで白戯が渋い表情を浮かべ、流と少女が背筋を真っ直ぐに正し、彼らの主が身をすくませた。
 中背にして中年の痩せた男は、晩冬の白い空気に断じて染まらぬ赤い髪をしていた。落日の太陽がこんな色をしている。短い髪は彼岸花の花弁のごとく自然に跳ねるがままとなっており、直毛が主流の昇陽人には滅多に現れない髪質だ。
 身につけた袍もまた濃緋色。そして大陸でしか作られていないはずの丸く黒い色眼鏡は、何よりも彼が異人であることを示しているようであった。
「全く、君らに耳は付いているのか。何度ここには来るなと言えば脳髄にまでその言葉が届くのやら」
 眉間に皺を寄せながら、赤い髪の師は一同を睥睨した。そのまま、色眼鏡ごしの視線は雪原の遭難者へと向けられる。
「来るのが早過ぎだっての……」
「聴こえているよ、白戯」
 叱責されて白戯はさらに面白くなくなった。昔から彼はこの師が苦手だったが、最近になってこの嫌味な物言いと上から見下ろすような態度が輪をかけて鼻につくようになったため、余計に気にくわない。
 もっとも、力の差が歴然なのを承知しているのか、師の方は白戯などおかまいなしに『央都』跡地を眺めている。
「私には主上をお守りする義務がある。常に傍らにいたのにも関わらず、君らが気付かなかっただけだ。わざわざ私が出てこなければ危機も悟れないようでは、何の為に弟子にしたのか」
と、彼はおもむろに黒い皮手袋をはめた手で眼下を指さした。
「危機って……」
 不吉な予知の言葉が蘇る。師の指先を辿る彼らの目が捉えたものは。

 獣の足跡一つない雪上を、一人の女が歩いていた。
 いや、痕跡一つ残さないのは歩むように飛んでいるからか。
 その様子は狂女そのものだった。肌が透けて見えるほど薄い白紗の着物を風に靡かせ、くるくると舞いながら跳ねていく。白磁のような素足がスッと伸ばされる度に、足首に絡む数珠繋ぎの鈴が軽快な音を立てて彼女の到来を周囲に知らせた。
 見つめている内に時が止まり、呼吸すら忘れてしまいそうな妖しさ。雪よりもなお白い髪は一筋一筋が絹の糸を束ねたように艶やかで、まさしく彼女こそがこの地の支配者であることを主張しているようであった。
 女の顔の上半分を覆う狐面がこちらを向いて笑った気がして、白戯は背筋につららを当てられたような寒気を覚えた。
「ゆ、雪女=c…本物か?」
「本物かどうかは君が一番良く知っているはずだと思うが。少なくとも私がここに居るのだから、あれが我らの怨敵であることに相違はない」
 白戯を始め、武士十家の三人は思わず息を呑んだ。主の予知は実現した。鉄忌など比べ物にならない、最悪の脅威が現れたのだ。
「ああ、念のために忠告しておくが、主上の勅でもない限り挑もうなどとは思わない事。二十七年も経つが、この私でも相手にはならないからね。しかし――」
 言って師は、女の歩む先を険しい表情で見つめた。あのまま散歩が続けば、遭難者の元へ辿り着くだろう。
「何が狙いで現れたのか……まぁいい、不毛な憶測を立てている場合ではない。一刻も早く主上はなずなと共にお戻り下さい。私と残り二人は機を見て、あそこで倒れている者達を救出します」
 師はこのまま雪女≠ェ去るのを待つつもりなのか。けれども、彼らの存在はおそらく雪女≠ノ気付かれている。『昇陽』の要人にとっては限りなく危険な状況だが、相手がこちらに来る様子はないのだから、下手に動くよりもこのまま脅威が去るのを待つ方が安全ではないのか。
「何故、私達だけなのです?」
 まだ若い主は、自らの師であり臣でもある赤髪の異人に問いかけた。
「あの男の目の届く範囲に、女性など置けますか」
 そっけない答えに皆が首を傾げ、たちまちその顔から血の気が引いていった。
「あの男って、まさか……!」
「来ましたね。さすがに、早い」
 師が感嘆するのと同時に、雪女≠ェ歩みを止めた。
 彼女もまた気付いたのだ。自らがやって来た道から、一つの影法師がこちらへ向かって来る事に。

 一陣の北風が薄霧を吹き流し、黒づくめの男の姿が明瞭になる。
 『昇陽』のものとは異なる、ゆったりとした筒袖の着物。頭に被った頭巾は腰に届くほど長く、白糸で異国の紋様を描いたそれはひときわ目を惹く。長い年月を経て襤褸のようになってはいるが、黒い布地が風にたなびくその様子は、羽を大きく広げた蝙蝠のようだった。
 適当に切り刻まれた婆娑羅髪に、無精髭だらけの顔に走るひびのようなしわ。風雪に晒される浅黒い肌は衣服の色を帯びて、さらに黒い。
 歳の頃はおよそ六十前後。老年にさしかかろうという身でありながら、眼前の女を前にして微かに開いた双眸は、飢えた血色をしている。唇は曲刀のごとく狂喜に歪み、牙のような犬歯がそこから覗く。
 果たして、ただの人間がこれほど凶悪な気配を放つだろうか。それは玄武岩が風雨に削られ姿を得た後に、人の影と血を吸って生に目覚めた、真性の鬼であるのかもしれない。禍々しさを煽るように、男の片手には鉈に似た大振りの得物が、鞘に収められたまま下げられていた。
 一歩男が進む度に、雪女≠ナすら傷つけるのを躊躇った雪原が穢されていく。鈍い刃で背筋を切り裂くように、ずぶずぶと柔らかな雪を踏みにじりながら、黒衣は女の元へと近付いていく。

「どうしてアイツがここに……」
 白戯が乾いた声で疑問を呟くと、
「私が呼んで来たからに決まっている」
 さも当然と言わんばかりに、傍の師が答えた。思わず我が耳を疑ったのは白戯だけではない。
「な、何考えてるんだ!」
「幾らなんでも……師匠、彼をここまで侵入させるのは危険です」
「あんな最低害獣、山から下ろして逃げられでもしたらどうするんですか」
 不思議な事に誰一人として、常に彼らの身近にいたはずの師が一体いつ男を呼びに行ったのか、尋ねようとする者はいない。
 若者達の追求は壮年の師からすればそよ風に等しいのか。彼は白戯達を片手で制し、続けて述べた。
「雪女≠ェ姿を現すのも数年ぶり。まず彼ごときでは彼女の相手にはならないだろうが、アレも長年の隔離生活で血に飢えているはず。適度に戦って追い払えればそれで良し、それか女を漁り殺し始める前に死んでくれるのならば尚更良い」
 師の言葉には一片の慈悲も含まれていない。それは当然の事だと白戯も流もなずなも思っているが、一番賛同すべき主が沈痛な面持ちでいるのを見ていると、妙なわだかまりが胸中に残るのを感じずにはいられなかった。
 それを承知しているのか。師の矛先は次に、主である市女笠の娘に向けられた。
「何を見ているのです。早くお戻りになるよう申し上げたはずですが」
 娘の肩がビクッと跳ね、市女笠がさらに目深に被せられる。
「けれども」
「遭難者は生きていればお目通りさせます。主上、御前はこの私に二度も三度も同じ事を言わせるおつもりですか?」
 叱責され塞いでいく主の姿を黙って見ていた白戯だが、いい加減、師の物言いには我慢の限界がきた。
 堪えきれずに師と主の間に割って入ろうとした、その時。

 凍えた蒼天を軋ませる大音声が一同の耳を貫いた。
 遠吠え――いや、哄笑だ。
 鬼の影法師が上げた、戦鼓代わりの開戦の合図だった。

 白い飛沫が激しく飛び散ったかと思うと、戒めを解かれた猟犬のごとく、黒衣が一直線に雪女≠ヨと駆け寄る。足首が埋まるほどの雪に、動きを鈍らせる様子は全くない。雷雲が稲妻を走らせるように、手にしていた得物がその鞘から抜き払われ――

 ひらりと後退する雪女≠かすめ。
 斬撃が冬の空気を両断し、大地を抉ってもなお男の突進は止まらない。
 根雪の下まで深々と刃が突き立ち、ようやく静止したかと思えば、即座に自身の腕ほどの長さがある鉈が片手で軽々と引き抜かれる。
 翻る黒衣を雪まみれにしながら、再び死の影が襲いかかると誰もが思った次の瞬間。
 男のもう片方の手が空を薙ぐと、足元から生まれた一筋の雪煙が、雪女*レがけて一直線に走っていったのだ。獣よりも速く地を滑るそれが女のすぐ手前まで接近すると、雪の中から何かが、ジャラリと音を鳴らして跳ね起きた。
 そう、雪煙を立てて走っていた物の正体は、男が放った鎖だった。
 先端に杭を備えた鎖は男の意のままに操られ、女の心臓を貫かんと大蛇のように飛びかかった。

 相手が只人ならばその鎖に胸を貫かれ、終わっていただろう。それほど凶器は速く、そして容赦がなかった。
 だがそれも最悪の脅威の前では児戯に等しい行為なのか。
 確実に命を喰らうはずだった鎖の牙は、たった二本の細い指で挟み取られていた。
 乱れ髪に隠された男の眼は、どんな表情を浮かべたのか。相対する雪女≠ヘ、えもいわれぬ愉しそうな笑みを見せていた。
 女が鎖を放り投げると、不意にその姿が掻き消える。黒衣の男は全感覚を働かせてその行方を探ろうとしたが、探り当てる前に視界に白い髪が映り込んだ。反射的に下を向けば、男の胸元までしかない頭が至近距離にあった。クッとこちらを仰ぐ狐面ごしの瞳は、やはり笑いながら男の眼を覗き込んでいる。

 黒い婆娑羅髪の下、紅い虹彩と縦に裂けた瞳孔を持つ男の瞳もまた、生と死の瀬戸際にある今この瞬間を何よりも愉しんでいるようであった。

 男の手から鉈が滑り落ちる。代わりに掴んだのは雪女≠フ細首だった。捕らえられた女は少しも苦しそうな顔をせず、男にのみ聞こえる声で呟いた。
「貴方に用などない。今回は大目に見てあげますから、今すぐ立ち去りなさい」
 しかし、その忠告は黒衣の男の歪んだ笑みをさらに深くした。
「ならばお前の首を落とし、残る身体を土産に持って帰るとしよう」
 たちまち女の口元から笑みが消える。代わりに浮かんだのは蔑みの色だ。
 そんな事も構わず、男は首を捻じ切ろうとさらに手に力をこめる。しかし突然、手中にした女の身体が再びかき消えた。
 魔手から逃れた雪女≠ヘ、遠く離れた木の上に忽然と姿を現していた。白い着物から両肩を覗かせる彼女の視線はすでに黒衣の男ではなく、その数歩先にいる遭難者達に注がれているようであった。
 だがそれもつかの間。男が鉈を拾い上げると、雪女≠ヘ北風に我が身を委ねてふわりと宙を飛び、遠く何処かへと去っていった。

「そこまで。それ以上の深追いは時間の無駄だ。もっとも、命を無駄にしたければどうぞご自由に」
 なおも後を追おうとした男の行く手に立ちはだかった赤い影。それは先程まで高台で勝負の行方を見守っていたはずの赤髪の男だった。あの死闘の最中、いつの間にここまで近付いて来たというのか。
「今彼女を追えば、鉄忌を使役してくるのは必定。そうなれば私が働かざるをえなくなるのだが、あいにく彼らの治療をしなければいけないのでね。特に片方は手術の必要がありそうだ」
 彼の言う通り、遭難者のどちらかは傷を負っているらしい。雪上に赤黒く変色した血が点々と散っていた。
「どうするのかね?」
「……中身がとうの昔に腐っている女など、こちらから願い下げだ。わざわざ追う価値もない」
 そう言うと、紅い瞳が雪に倒れ伏す者達を視界に捉える。口元に鋭い犬歯が覗いたのに気付き、赤髪の男はすぐさま捕捉の視線を遮るように立ち塞がった。
「鬼の王どころか餓鬼のごとき有様だね。私の目の届く範囲は主上の視界に等しいと心得なさい」
 フンと鼻を鳴らすと、黒衣の男は鎖を勢いよく引き戻した。鎖はまるで本物の生き物のように自然と男の手に吸い寄せられ束となる。肩に乗せられた抜き身の鉈は、未だに雪さえ凍る銀光を放ち続けていた。
「あの女は本調子ではない。死にかけに構う暇があれば、殺せる内に殺しておけ」
「ご忠告痛み入るよ、閻王えんおう
 我々に雪女≠倒す術などないのだが、と赤髪の男は心の声で付け加えた。いくら鋭い感覚を備えていても、音にならない言葉までは聞き取れない。紋様を縫い取った頭巾をはためかせながら、黒衣の大男はその場を後にした。

「さてと」
 残った赤髪の男は雪に埋もれかけている者達を掘り返し、ようやく生死を確認した。
 遭難者は二人、それも男女であった。一人はまだ年若い娘。白戯やなずなとそう変わらない年頃だが、男物の黒装束に身を包み、黒玉の手甲を備えた者が普通の娘であるはずがない。
 そして、もう一人の男はというと。はたして彼の黒い色眼鏡にそれはどう映ったのか。雪の下から現れた男の髪は、昇陽人ではまず見かけない赤銅色をしていた。肌も浅黒く、顔つきも彫が深い。
 さらに奇怪な事に、その顔や傷が痛々しい手足に至るまで、露出している肌という肌には文字の羅列のような紋様が描かれているのだ。

 赤髪の男は唇を噛んだ。これは何の冗談か。何という狂言じみた巡り合わせか。
「どうりで彼女がのこのこと現れた訳か……八尺瓊め、厄介なものを」
 今こうして自身に突きつけられている選択すら誰かの思惑に違いないと、彼は確信していた。
 話が旨すぎるのだ。今更になって、己の手元に鬼札が転がりこむなどと。

 逡巡は一瞬だったが、それでも相当長い時間に感じられた。
 結局、彼は可能性がより複数存在する選択に弱いのだ。

 黒衣の影が消え、すぐに白戯達もこちらに駆けつけるだろう。
 改めて二人を運ぶ準備を進めていた赤髪の男だったが、不意に、不可解な引っ掛かりを感じた。
 寒さで血の気の失せた二人の顔を凝視し、それでも足りないのか色眼鏡をずらして、まじまじとそれぞれの顔つきを眺める。仕舞いに、目線は記憶を辿るように宙を泳ぎ始めた。
「まさか、な」
 彼らしくもない自信の欠けた呟き。
 黒い色眼鏡から覗いた瞳は、鮮やかな黄金色をしていた。




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