<欠失>



 古の書曰く――
 かつて『昇陽』に一人の鬼あり。
 母腹に宿ること五百余日に渡り、自ら胎を喰い破りて世に出づる。
 深山をねぐらとし、その背丈は天をつき、振り乱す髪は角を覆い隠すほどに燃え上がりし火のたてがみなり。
 人里に降りて子供を攫いては喰い殺し、女を攫いては犯し殺す外道の性。
 故に時の帝、勅によりこれを討伐せしめたり。

 所詮、伝承は虚を孕む。そこにどれほどの真実が残されているかなど誰にも分かりはしないし、真の鬼を見た者も存在しない。例え久暁の容貌に鬼を重ねたとて、一致するのは見かけだけなのだ。
 しかし今ここにおいて久暁は、あえて自らがその鬼であればと願った。
 血を吐くような叫びは八尺瓊から優越の笑みを消し、破られた穴の傍らへと退避させた。

 天を仰いでいた身体が翻る。突き出す右腕から飛び出したのは鎖の蛇だ。
 その先端のすいが九十九丸の傷口、青白い火花を散らす壊れた瞳をかすめる。凶器をかわす鳥人の一瞬の後退が、串刺していた爪を浮かせた。腕に巻いていた護身用の鎖に阻まれ、深々とは地を貫けなかったのか。機を逃さず、久暁は鎖を握ったまま右手で鉤爪を押さえつけ、捕えられた左腕を引き抜いた。
 獲物をやすやすと逃す敵ではない。九十九丸が大鋏おおばさみのようなくちばしを久暁の首筋に向ける。しかし久暁が身をよじる方が早い。空振りし、地面を削った嘴がもう一度狙いを定めようとしたその時、また鋭い錐を持つ鎖が襲ってきた。
 何度やっても同じ事。
 九十九丸が人の言葉を使えたならば、そう言うところであったろう。
 しかし、今度の蛇は二匹いた。
 錐を眼にした直後、翡翠色の瞳が砕け散った。
 不意をついたもう一条の鎖からは血の臭いがした。左腕に巻かれていたものだ。それは右腕の物より一回り太く、重量もある分、九十九丸に届く速さが違った。
 三対の瞳のうち一対を潰され、その片側から鎖を生やす仁王立ちの鳥人。相対する久暁は右手一本で鎖を繋ぎとめたまま、左腕からとめどなく赤い血を流していた。傷は決して浅くなく、二本の鎖を右手のみで操っている事からも、久暁の左腕が利かないのは明らかだった。にも関わらず攻め手を止めないのは、まるで命の血潮が流れ出た末に、残る身体ががらんどうと化してしまうのを怖れているかのようだった。
 二度も目を潰された九十九丸は残る四つの目で久暁を睨むと、宙へと舞い上がった。杭代わりの錐も、翼の力を止められずに引き抜かれる。解放された大鴉は庭の砂利を蹴り、池の水面を蹴り、築山の岩を蹴り、空高く飛び上がって静止した。

 今宵の月は太極月を過ぎ、わずかに蒼い部分が多い。鉄忌も現れるはずのない空を漂うのは黒い翼の影。
 風を切る音に久暁が跳んだ直後、浅黒い頬を一筋の朱線が走った。さらに傍らの砂利がいきなり弾ける。よく見れば、その一粒一粒が断ち割られ砕けているではないか。
 上空から襲いかかる風刃。例え羽ばたきを聴き、天性の直感力で位置を読みとったとして、その大きさと数まで久暁が計り知る術はない。何より、空高く飛ぶ鳥をどうやって丸腰の人間が落とせようか。
「このぉッ!」
 僕達に動きを封じられたまま、久暁の死闘をただ見守る事しか出来ずにいた蛍が居ても立ってもいられず、取り囲む刃の檻を掴み取った。容易く奪い取られた刀は銀の刀身に赤い色彩を重ね、九十九丸めがけて空へと投げつけられる。
 だが、蛍の必死の攻撃は黒い羽のたった一振りで弾かれてしまった。横槍に怒ったのか、九十九丸はたて続けて殺意の風を放った。その音と空気の流れだけを頼りに避ける久暁だったが、腕の怪我がその敏捷性を奪っているのは明らかだ。
「往生際の悪い。これ以上の狼藉はもはや許せぬぞ」
 八尺瓊が浅黒い手をかざし小さく何かを呟くと、蛍は虚ろな目で沈黙してしまった。
 ざくざくと砂を踏み近付くしもべ達は、決して己から殺しにかからない。ただ逃げ道を奪い、主が望みを手伝うのみ。狭まる円陣は遂に二、三歩ほどの自由しか久暁に残さなくなった。

 もはや普通の武器では歯が立たぬと悟り、久暁は鎖を手放した。
 全身から迸った激昂はすでに、思考の濁りを一瞬で吹き飛ばしている。
 激し過ぎる感情は時に、懊悩の迷宮を根底から蒸発し、肉体と精神の痛みを忘れさせる。
 研ぎ澄まされた野生の勘を呼び戻す。
 それは確たる証もなく最善の手段を告げてくる、微弱な予知の前段階。
 ヤツの壊れた瞳を思い出せ。あの火花を飛ばしていた眼窩を。
 久暁はアレとよく似たものを知っているはずだった。
 玻璃とも水晶ともつかない瞳。
 鋼の軋む音を奏でる骨格。
 刃を弾き返す、鋼線を束ねた羽毛。
 最期を告げる羽ばたきと同時に、久暁の右手が懐へと潜る。
 澱む空気が斬り裂かれ、迫る死と対峙する。その刹那。
 振りかざした右手から、銀光と緑白の鬼火が生まれた。

 鋼を断つ音。静寂の闇を焼く光。
 空を薙ぐように切り上げた太刀筋。剣尖から放たれた火は風刃ごと九十九丸を両断し、月光に溶けた。
 真っ二つに別れた水干姿の下半身が池に水柱を立てる。続けて落ちた上半身も、鋭利な切り口から赤黒い体液をこぼしながら水底へと沈んでいく。鴉頭が水面から消えても、大きな黒い両翼だけはまるで今にも飛び立とうとするかのように広げられたままだった。
 その手前で佇むのは、赤鬼と呼ばれた人間だ。真性の鬼に非ざるたった一人の人間が、これまでにいくつもの鉄忌を屠り、今また鉄忌を倒す使命を与えられている八尺瓊の式≠斬った。左手が赤く染まるほどの深手を負いながら、たった一振りの剣を振るっただけで。
 銀色の筒から伸びる両刃に、冷ややかな焔を纏うその剣は、『昇陽』の至宝であるという。
 人を鬼へと変えた剣は果たして、神器≠ニ呼ぶに値する物なのか。

 元より八尺瓊の姿は借り物に過ぎず、久暁の鬼気迫る威圧には及ばない。ほんの少し前に返された綺羅乃剣を取り出す手つきには、微かな動揺が表れていた。
 紫の布にくるまれた銀色の筒は、確かに久暁が手にする剣の柄と同じ形、同じ紋様をしていた。だが、
「贋物……この八尺瓊の目を欺くとは。所詮は罪人の子、返すつもりは毛頭なかったか」
 八尺瓊が言い当てたとおり、彼が手にしているのは久暁がこの日の為に作った綺羅乃剣の贋物だった。初めから両親と婆娑羅衆≠ノ縁のあるこの剣を手放す気など、久暁にはなかったのだ。
「この剣は鉄忌しか斬れないものと思っていたが……」
 剣先を持ち上げたかと思うと、久暁の身体がゆらりと横へ揺れた。瞳を焼く光の軌跡が走った直後。袈裟懸けさがけに斬られた八尺瓊の僕が、どさりと地に倒れ伏した。普通ならば突然の凶行とだけ映っただろうが、斬られた僕の傷口から血が流れないのはどういうことか。
「そうか。こいつら皆、鉄忌と似たようなものか」
 まるで霞でも斬ったかのように手ごたえがない。斬られた僕の様子に、久暁は同じく血を流さない燥一郎という存在を連想したが、かつて燥一郎を斬った時は間違いなく人を斬った感触が残っていた。さらに、
「アイツと違って、生き返るという訳でもないか……」
 それならば心置きなく斬れる。相手が人と思えばこそ、これまで傷つける事を躊躇ためらっていた。人ならざる化物の類であるならば、それは即敵となる。化生の存在を斬る時だけ、己は人の位置にいられると刷り込まれているかのように、反射的な嫌悪感が久暁の中に湧きあがってきたのであった。
「我が分身を彼奴らが作ったガラクタと同一視するとは不愉快な。"封印≠維持した状態でなくば、完全に同一の存在として複製できるものを」
 八尺瓊の反論が最後まで語るより先に、久暁の剣が煌いた。

 取り囲んでいた輪が拡散する前に一薙ぎ。たったそれだけで手前にいた僕達の腕が、握る刀ごとばらばらと落ちていく。なんと容易い殺戮か。形勢が逆転したにも関わらず、彼らは避けるばかりでやはり斬りかかってこようとはしない。冷光が薄闇に曲線を描く度に、一人また一人と四肢を断ち切られていく。
 ある者は胴を両断、ある者は喉を一突き。その度に苦鳴でも上がれば剣を振るう右手も鈍ったかもしれないが、一人の声も聞こえない――いや、すでに久暁には聞えていなかったのかもしれない。相手が無抵抗であろうと、その斬撃は止まらない。
 まるで剣を手にした瞬間に慈悲の心を捨てたかのような、無感情の太刀筋。人の位置に在るために斬っているはずの久暁だったが、今の姿は修羅と化した無慈悲の鬼に相違なかった。いや、この場においてはその理由も久暁にとっては取るに足らないものとなっていた。斬れるか斬れないか、人か化物か、そんなものは関係ない。
 ただ八尺瓊は触れるべきではなかったものに触れ、嘲笑し憐れんだ。久暁にとってそれは、敵意が殺意に変わるに充分すぎる理由だった。
「辛様……」
「今現れてはならぬ。他の者にも伝えよ、九十九丸の後を追わす訳にはいかぬ」
 何処かに潜む式≠ゥらの呼びかけを、八尺瓊は制止した。同時に虚しい虐殺が繰り広げられる月下の庭から、僕達の姿が一斉に掻き消える。
 標的を失ってなお止まらぬ久暁は、八尺瓊へと不吉な血色の瞳を向けた。いっそう鬼火が強く輝くと、金輪翁の姿が陽炎のごとく揺らいだ。
「どうやらお前もこの剣が怖いらしいな、左大臣」
 感情を削り取った声で言うなり、久暁は剣先を八尺瓊に狙い定め、地を蹴った。
 光に煽られ、煙るように輪郭を失っていく金輪翁の姿。その向こうに垣間見た別人の喉元めがけて、久暁は剣を突き出す!

 肉を断つ音も、それ以上の風を切る音もしなかった。
 綺羅乃剣は妖しい火を瞬かせ、間に割って入った蛍の額の前でぴたりと静止していた。
「蛍!?」
 遠い目をしたままの蛍が、自らの意思で止めに入ったとは思えない。なにより久暁を動揺させたのは――
「どうしてお前まで……」
 蛍の額を緑白の炎が撫でると、薄く裂けた柔らかな皮膚から血が滲み出した。
 この剣は人に非ざる化物しか斬れぬはず。人並み外れた膂力を持つ蛍もまた人外だとでもいうのか。
 流れる赤い血は、久暁が左腕から流している人の証と同じではないのか。
 八尺瓊はすでに、はっきりとした金輪翁の容貌を取り戻していた。彼の唇が勝ち誇った笑みを浮かべると、蛍の身体が沈み視界から消えた。ハッとした時には遅く、久暁の腹部を強烈な打撃が襲った。
「がはッ……!」
 下から叩き込まれた拳に、長身がくの字に曲がる。続けざまに左側から回し蹴りをくらい、その勢いで庭石に背中から衝突した。それでも久暁が剣を手放さなかったのは大したものだったが、傷ついていた上に攻撃を直接受けた左腕からは、もうほとんどの感覚が失われていた。
 八尺瓊が蛍の頭を撫で、嬉しそうに言った。
「この娘にはある期間の記憶が全く存在しない故、容易く暗示にかかってくれる。剣を手にしたからといって儚人≠モぜいがのぼせ上がるでない」
「貴様、ぐッ!」
 立ち上がろうとした久暁の視界が急にぐらりと傾いた。失血の影響が、ここにきて現れたのか。

「どれだけあがこうと結果は変わらぬ。儚人′フに報われるはずもない劣情に身を焼かれ、かといえ自ら命は断てぬのが儚人≠ニいうもの。特異性から抜け出したいと願う一方で、特異性でしか自己を守れぬという矛盾を抱えながら在り続ける事に苦悩し、他者に存在意義を与えてもらう道を選んだのはそなた自身。それにふさわしい慈悲を与えてやろうというのだ。我らが為、『昇陽』が為に死ね」
 八尺瓊の言葉の一つ一つが突き刺さる。蛍の構える手刀がこの胸を穿てば、何もかもが終わる。けれどもそれが救いになるのか。ここで久暁が死ねば、阿頼耶=久暁=斬月≠ニいう存在に意味は与えられるのだろうか。こんな存在意義を自分は望んでいたというのか。
 そもそも、そんなものを求めようとしたのが間違っていたのではないか。
 どうして存在意義を求めたか。どうして彫金師でも赤鬼でもない自分を認めて欲しかったのか。
 今更になって分かった気がした。
 ――俺はこれ以上、孤独になりたくなかったのだ。

 じわりと、口の中に血の味が広がった。それは鉄の味に似ている。
 蛍の両足に力が加わる。細い手が翻ったのを見て、久暁は本当に最期を予感した。
 生と死の境において最も信頼している己の直感力でなくとも、この時は終わり以外の答を導き出しはしまい。
 そのはずなのに。

 手刀と共に蛍が踵を返したかと思うと、その手は背後にいた八尺瓊の胸を深々と刺していた。

「なっ……!」
 『昇陽』の唯一にして最強の術師が、驚愕に満ちた声を上げた。
「あ、ありえぬ……人の身で、この私に傷を……!」
 金輪翁の姿が紗をかけたように薄れ、歪み、絶え間なく消えては現れるといった明滅を繰り返し、次第に声にも砂を撒くような雑音が入り混じる。
 蛍が正気に返った訳ではない。彼女は未だに自我の失せた表情のままだ。
「まさ……まことに……操ら……おっ……!」
 すでに言葉の大半が砂の音に阻まれて不明瞭になっている。八尺瓊は憎々しげに胸を穿つ手を引き抜き、勢いよく蛍を突き飛ばした。魂が抜けたように倒れ伏した彼女の元へ、動かない身体を無理矢理動かし、久暁が駆け寄ろうとしたその時。

 ガチガチと、鋼を打ち鳴らす音が聞こえた。

 久暁は全身が粟立つのを感じた。それは耳に馴染むほど聞き慣れた音だ。だが今日から半月は太極月を過ぎた平穏な時期のはず。いくらこの地が黒狗山に似ているとはいえ、奴らが現れるはずがない!
 砂利を踏む音は二方向から。暗がりから月光を鈍く反射させて現れたのは紛れもなく、猫に似た体躯の鉄忌が二体。その尾や耳が不自然に切れている事に気付き、久暁はハッとした。あの時大群で現れた鉄忌はことごとく久暁と九十九丸が屠ったと思っていたが、どうやらこいつらは討ち漏らしていたに違いない。
 鉄忌は久暁達を挟み、双方共に手前で歩みを止めた。赤く爛々と光る目が、傷つき倒れる者達を嘲笑っているかのようだった。
 八尺瓊を見据える鉄忌が、鋭い棘を生やす顎を開いた。
「伝エテイタハズダ。必ズ引キズリ出スト」
 久暁は我が耳を再び疑った。鉄忌が人の言葉を話す! そんな事はこの二十七年間で一度も確認されていない。
 続けて久暁を見据えていた鉄忌が、破鐘われがねを鳴らすような耳障りな音を吐いた。
「言ッタハズ……帰ッテコナイノナラバ、コチラカラ迎エニ行クト」
「なん、だと?」
 今度ばかりは、自分は失血のあまり頭がおかしくなったのだと思った。
 これは何かの間違いだ。鉄忌がその台詞を知るはずがない。
 全身からさらに血の気が引いていく。何か五月蝿いと思えば、いつの間にか激しく呼吸をしていた。
 そうだ、これも八尺瓊の操る性質の悪い術に違いない。そう思い視線を向ければ、八尺瓊の様子が一変していた。
 すでに金輪翁の面影はない。未だに刺された胸を押さえ蹲ってはいるが、はっきりとした姿形は蛍と同じくらいの背丈の、長い黒髪を持つ若者の姿をしていた。色白の顔を憤怒で赤く染め、切れ長の目は鉄忌ではなくそれよりも上、月が通り過ぎようという中天を睨んでいるようであった。
 その視線を追うなと、胸の内で何かが警告した。それでも久暁は己の直感を信じたくなくて、今は誰も仰がぬ月を仰ぎ見た。

 二つ面の月の前に浮かぶ、小さな影がある。
 『都』の人々には見えぬであろうその姿――哀しいことに、砂螺人譲りの目は良過ぎた。
 相手にもそれが分かったのか。
 その女は、桜の花を彷彿とさせる笑みを浮かべた。

 大人しくしていた鉄忌達が不意に、鋼の関節を鳴らしながら八尺瓊めがけて襲いかかる。刃の爪で彼を引き裂こうとするが、届くよりも先に呪詛のごとき言葉が放たれた。
《八尺瓊≠傷つけた程度で、この私≠引きずり出せるとでも思うたか。『茫蕭』の小童こわっぱどもが!》
 涼やかな声音に憎悪を含んだ言葉は八尺瓊を中心に拡散し、わぁんという耳鳴りを久暁の耳に叩きつけ、屋敷中の空気を響かせた。
 飛びかかる体勢のまま全身を震わせた二体の鉄忌は、ボロボロと鋼鉄の身体を塵へと変えていく。
 天に佇む女もまた、空を震わす音に身を煽られ、桜色の着物をはためかせる。
 無意識のうちに久暁は彼女の名を叫んだ。
 そして――

 雲なき空を走った閃光が、常夜を一瞬白く染めた――





 天を裂く閃光と轟音。それが意味するものを知らぬ者は『都』にいない。ましてや、今日が太極月を過ぎた平穏な時期となれば、『都』中の人間がこの異例の事態に不安を露にしたのは当然である。
 きっと上都でも下都でも、蜂の巣をつついたような大騒ぎだろう。主の姿が見えぬまま時間が経っている『火燐楼』などなおさらだ。

「でも戻れねぇんだよなぁ」
 暗闇でぼやくあっけらかんとした声の主は、『火燐楼』の人間が探し回っているであろう燥一郎その人に違いなかった。外で雷鳴が轟いたのを彼もまた聞いたのだが、今は身動きを取る事すらできなかった。
「アイツも手加減しねぇんだもんなぁ。ちょっと強硬手段取ろうとしただけでここまで怒るか普通」
 憮然とした燥一郎がフッと息を吹くと、吐息は火を纏った蝶となり灯りとなって、ひらひらと舞った。
 作りかけの鉄燈籠が散乱する部屋の隅で、刀を抜きかけた姿勢で瞬きもせずに固まっているのは椿だ。つまりここは久暁の部屋に違いないのだが、暴れた跡はあっても、かつて蛍が蹴破ったと述べた壁の穴らしきものは何処にもない。
 その代わり、散らばる鉄燈籠の上に倒れているものがある。蘇芳色の着物に緋色の打ち掛けを纏った、頭と手足のない身体。血を流さない白磁のような手足はバラバラに鉄燈籠の隙間に挟まれてもがき、残る頭はというと、久暁がいつも腰掛けていた場所でごろりと転がっていた。恐ろしいのは一見凄惨なその光景がではない。首だけになってもなお麗しさを失わない燥一郎は、何事もないかのように普段通りの能天気な表情を浮かべているのだ。火の蝶は時を止めたまま動かぬ椿の元へと飛ぶ。逆立つ黒髪の先に止まると全身を走る炎となり、瞬く間にまた一匹の蝶へと戻ると――
 時を取り戻した椿の抜刀が、しんと静まった部屋の空気を震わせた。
「おぉ、解凍完了」
 一歩踏み出した状態で我に返った椿は、斬ろうとしていた相手がいない事と、床に転がる燥一郎の姿に目を白黒させた。
「……何遊んでいるんだ、燥一郎」
「うるさーい。俺だって好きで人生で二度も首刎ねられてんじゃねぇよ。動けるようになったならそこの胴体に手足くっつけてくれ。六年前久暁にやられた時は普通の刀だったから良かったが、今回は枳が直接ズバッだもんなぁ。完全に治るまでちょっとばかり時間がかかりそうだ」
 納得したように刀を納めた椿は、ごそごそと動く見かけだけは綺麗な手足を拾い上げ、床に広がる打掛けの下へと放り込んだ。しばらくして起き上がった着物姿のそれにはちゃんと手足がついていた。唯一頭だけがなかったが、ふらふらと両手が燥一郎の口うるさい頭を探り当てると、それをきちんと首元に据える。
「やれやれ、長時間こんな所で転がってたから身体が痛ぇ」
「嘘つけ。お前に痛みなんてものが分かるか……あの娘を逃がしたのはお前か?」
 椿が尋ねているのは怪力を持つあの八色の黒≠フ少女の事だ。燥一郎がおうと肯定すると、椿は腕にかけた輪をじゃらじゃら鳴らし頭を掻きむしった。

「だって俺が止めなけりゃ、あの嬢ちゃんを殺していただろぉ」
「何が悪い。あんな八色の黒≠ヘ御免こうむるぜ。どういうつもりだ?」
「八色の黒≠セろうが、普通の人間が素手で俺の火を消せるはずがねぇ。どういう理由かは知らねぇが使えるなぁコイツは、と思ってよ。お前も知っての通り、俺らは起動式でしか損傷≠オねぇ。だから左大臣に一泡吹かせようとなると俺か枳が出向くしかなかったんだが、相手が相手だ。裏でもかかない限り出し抜けねぇと困っている所に、そんな都合のいい珍獣がいたって訳だ。頭ん中も隙だらけで弄りやすかったし」
 だから椿にはしばらくの間コチコチに固まってもらった、と燥一郎は口を尖らせて言った。
「それでいざ久暁が危なくなった時を狙って、左大臣を討つように刷り込んどいたと。どう考えても悪あがきだな。そこまでやっておいて、どうしてお前はあんな分割状態で転がってたんだ?」
「それがよぉ。俺がちゃんと負けを認めて、左大臣を驚かす方法も考えたってのに枳のヤツ。俺が久暁を強引に引きとめようとしたのが約束と違うと、むちゃくちゃ怒って」
「バラされたと。自業自得だな、いつも人の邪魔しかしねぇからだ」
「何言ってんだ、その後も大変だったんだぞ。枳を説得して久暁とあの嬢ちゃんを一緒に行かせてぇ――」
「過程はどうでもいいんだよ」
 そう言った椿の顔から、スウッと感情が消えた。

「それで、結局久暁はどうなった?」
「……もう『都』にはいねぇよ」
 燥一郎の返事を聞くなり、椿は瞳を閉じて大きく息を吐いた。憂いではなく、まるで戦を前に心を鎮めるかのような深い吐息だった。
「『彩牡丹』に戻るのか、椿」
「俺が『火燐楼』にいたのは久暁に義理立てしていたからだ。アイツが消えれば本来の俺に戻ると、最初から決めてあったはずだ」
「楝はどうするんだ?」
 仮初とはいえ、契りを交わした女の名は椿の目に悲哀を呼び戻した。しかし、
「春≠ェ冬≠ノ変わるのは避けられねぇ。もう茶番劇は終わったんだよ。お前にしては『火燐楼』は上出来だった……集うのは追いやられた異端ばかりだが、そこでは誰もが対等でいられる。お前と枳、そして久暁を左大臣の目から隠すための隠れ蓑だったが、俺も少しばかり良い夢を見させてもらった。その礼として『火燐楼』の連中の始末はつけてやるが、この先椿≠ニは呼ばせねぇ。そいつはもう存在しないし、初めから存在しなかった人間の名前だ」
 そう言い放つかぶき者の男は、宙を漂う火の蝶に照らされ、いっそう細めた目に剣呑な光を宿していた。やれやれと、まだぐらつく頭を押さえながら燥一郎が溜息をつく。
「わざわざ女名前を偽名にするくらいだから、俺はてっきり気に入ってたんだと思ってたのによぉ」
「阿呆か。そんなもの久暁に義理立てしてたからに決まってるだろうが。ちゃん聞いてるぜ、アイツが斬月って呼ばれたがらない訳を」
 燥一郎は意外そうにふぅんと鼻を鳴らした。
「お前そんな細かい事まで訊いていたのかよ。相当暇だったんだなぁ」
「もう一回バラされたいのかテメェ」
 砂螺人の名前には複数の種類がある。久暁を例にすれば、阿頼耶≠ヘ肉親の片方から受け継ぐ族名、久暁≠ヘ成人してから己自身が付ける成名、斬月≠ヘ親から与えられる最初の名前・初名に当たる。そしてこの斬月≠ニは『昇陽』では男名前であるが、砂螺人にとって月≠ヘ女の象徴に当たる。
 久暁は儚人′フに無性だ。つまり――名付け親となった砂螺人の金輪翁は、生まれてすぐの久暁を女だと思ったに違いない。そして己の初名を呼ばれる度に、嫌というほど無性という事実を思い知らされていたのである。
 名前の意味など取るに足らないと伝えたくて、この男はあえて椿という女名前を名乗っていたというのか。

「お前は儚人≠ノついて久暁に教えた事は一切ないのか?」
「訊かれれば教えたけど、アイツは大して気にも留めずに暮らしていたからなぁ」
「枳に惚れるまでは、か?」
 途端に、燥一郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 燥一郎最大の失敗がそれに他ならなかったからだ。
「久暁も詳しくは知らなかったらしいが、俺が以前、他所で聞いた話によるとよぉ――婆娑羅衆≠ェ『砂螺』を去り、国々を巡って略奪・陵辱行為を繰り返したのには理由があったんだと」
 久暁の父方の先祖である婆娑羅衆≠ニなった砂螺人は、多数の部族からなる『砂螺』の中でも異端とされていた黒砂漠の民だった。砂螺人には性的興奮を感じると凶暴性が増す特徴があり、黒砂漠の民は特にそれが過激だった。互いを生死の境に置く事でより強い子供を生む、というのが彼等の持論だったらしいが、生まれてくる子供の数より死ぬ男女の数が勝っては本末転倒である。次第に他の部族の境界を越えて人を攫うようになり、『砂螺』にいられなくなった彼等は流浪の民となった。各地で凶賊として活動する傍ら、無理矢理にでも子孫を残そうとしたのだが、同じ砂螺人でも時には死にいたる攻撃衝動に他部族の人間が簡単に耐えられるはずがない。それでも止めようとしなかった為、婆娑羅衆≠ニして活動していく内に砂螺人は確実に数を減らしてしまったのだ。
「山育ちな上にあの外見だから、枳が眩しかったんだろう。でも枳を抱きようがないと分かり、アイツは自棄になった。おまけに無性だから性欲は湧かねぇが、砂螺人の血は濃い。訳の分からない攻撃衝動に振り回され、おまけに母親が死んだ例の事もあって、久暁のヤツは余計に生き急ぐようになっちまった……けどよ」
 語気を強くした燥一郎だったが、椿は承知しているとばかりにその発言を反論で封じた。
「吹っ切ってしまえば耐えられる、と思ったんだろう? 『都』の連中は鉄燈籠を作る久暁を必要としているし、身体の事にしろ親の事にしろ、目を閉じて忘れてしまえば楽に暮らしていけると。燥一郎、確かにお前は蜘蛛だ。ただし自分で張った糸に自分がかかった間抜けで阿呆な蜘蛛だ」
 痛みというものを知らなさ過ぎた。
 憎しみはどんな凶器にも仮面にも勝り、人を容易く鬼に変えてしまう。
「本来俺とお前は敵同士で、お前の正体だの目的だのにも興味はない。俺はせいぜいこれから起きる大波乱を利用させてもらうまでだ。まぁ、人間≠ナ在りたいというお前の考えには少しばかり同情してたぜ」
 それだけ言って満足したのか、椿はすでに燥一郎を一顧だにせず部屋から出て行った。これでもう二度と遭うことはないだろうと、互いが理由もなく悟っていた。

 残された燥一郎はひらひらと飛びかう火の蝶を指先にとめた。熱くはない。
 元々人間から作りかえられた神器≠フ連中ならまだしも、自分達のような管理者≠ェ今更人間の真似事をしようという考えがそもそもおかしいと、彼女は言ったが――
「俺と夫婦ごっこするのに嫌気がさしたと自分じゃ思ってはいるが、本音はどうだろうなぁ」
 酔夢に浸る時は終わる。
 悔しそうではあったが、それにも増して何故か燥一郎は喜んでいるようにも見えた。
 フッと指先から離れた蝶が煙と化し、灯りが一切失われた部屋から燥一郎の姿も掻き消える。

 こうして『火燐楼』は、全ての主を失った。




前へ | 次へ | 目次へ

Copyright (c) 2006−2010 Yaguruma Sho All rights reserved.  / template by KKKing