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<逃走劇>当代の左大臣・八尺瓊辛とはいかなる人物か。 そもそも、『昇陽』が形を成した頃より、帝に次ぐ権力を手にしていたのはいかなる理由があってか。 何故、左大臣家のみが人外の術を操れるのか。 八尺瓊家に関する情報は全て、上都から密かに渡り来る下級貴族の噂話に頼っている。その下級貴族もまた、朝廷の中枢を担う上級貴族から下位の者へと、人づてに聞いた話で左大臣の動向を伺っているため、その詳細を知る者は非常に限られる。 通常時でも拝謁を許されている、わずかな上級貴族達の話によると――御左大臣はいずれの代においても聡明にして仁徳に溢れ、言葉を交わす内に心なしか、積年の親しき間柄であるかの如き心地にさせられる、摩訶不思議な御方である――と伝えられる。 しかし、久暁の目前に現れし者はどうだろう。 久暁と並ぶほどに背の高い体躯。皺の刻まれた浅黒い肌。短く刈られた黒髪は歳を経て灰色と白に変わっている。 そして、彼が昇陽人ではないことを示す血色の双眸は、獣の瞳をしていた。 「有り得ない……」 それは死者の姿だ。間違っても左大臣・八尺瓊辛であるはずがない。 しかし白い狩衣と黒い烏帽子という、全くその容貌に似つかわしくないいでたちをした目前の人物は、幼い頃久暁を育てた元婆娑羅衆≠ノして砂螺人であった 「私が誰か、親しき者にでも見えておるのかな?」 金輪翁の姿をした八尺瓊辛が、金輪翁の声で嘲笑った。 「これは本来、相手の警戒を解くための起動式であるのだが。そなたに対しては過剰に働いたらしいのう」 確かに金輪翁の姿をしていようとも、その気はかつてひしひしと感じた鉄鋼の如き重圧感とは似ても似つかない。霞のようにおぼろげで曖昧な気配が凝り固まり、形作っているようであった。 すなわち、これは親しい者の気配を纏うことで相手の心の枷を緩めさせる術の効果に他ならないのだが、並ならぬ直感力を備えた久暁には、気配の裏に隠してあった敵意を無意識に感じ取られていたのだろう。初めて辛の声を聞いた瞬間、久暁が既視感を覚えたのも、術がより強く干渉しようと働いたせいだ。 そして警戒心が最高に達した今において、気配のみでなく姿形までも、明確な金輪翁の像を久暁に幻視させたのだ。 あれは金輪翁ではない。そうと分かっていても、久暁は動かない自分の身体が震えているのを感じた。例え視界を閉じようと、容赦なく残酷な言葉を投げかける懐かしい声は閉ざせない。 「そなたに我がどのように見えておるかなど、今は関係ない。」 手にした扇で久暁を指し、辛は両側に佇む二体の式≠ノ呼びかけた。 「 白鷺頭の白拍子と、鴉頭の従者は共に頷いた。 「ならば万一にも違えることはなかろうが、彼奴の元に居たとなれば、念には念を入れて確かめねばなるまい」 辛は扇を掲げたまま、口元で小さく何かを呟いた。昇陽語とも違う、まるで金属が擦れあうような音が久暁の耳に聴こえてくる。 これが『昇陽』唯一の術師、左大臣家の長が用いる起動式≠ニ称される術であると悟ったところで、久暁にはどうすることもできない。どうにかして呪縛から逃れようとあがいていると、全身をゾクリという寒気が襲った。 いや、これは寒気というよりも冷気そのもの。 ヒタリと肌に触れた冷たさは、瞬時に臓腑を刺すような凍てつきへと変わった。 「ハァッ……!?」 真っ先に吸い込む息が声を奪った。肺や固まった手足に、ちりちりと熱さに似た痛みが走る。呼気が白く染まり、その色も薄れゆく頃合になると、寒さに喘ぐ久暁の身体に変化が現れた。 顔に、首筋に、腕に、手に、露出した肌のいたる箇所に、流麗な紋様が浮かび上がる。ひと続きの黒い線のようで、その実は小さな紋様の羅列。左大臣は久暁に近付くと、まじないの刺青の如き紋様の一つ一つを扇で指し示し呟いた。 「2≠ヘ二、1≠ヘ一、8≠ヘ八……確かに儚人≠ナあるな。それにしても 歯を喰いしばり冷気に耐えていた久暁だが、八尺瓊の言葉は心の臓まで止めかねない衝撃を与えた。 「知って、いるのか……!?」 極端に体温が下がる時のみ現れる、この奇怪な印。秘密を知るのは金輪翁亡き今、鉄忌を斬る現場に立ち会った事がある燥一郎と百舌公の鳴滝、そして事情を聞いた椿のみ。自分だけが持つこの紋様の意味について、久暁が深く知ろうとしたことはなかった。そんな特殊な条件化でのみ現れる異質な現象は、生まれつき昇陽人と異なる容姿を備えていた久暁にとって、忌避する要素足りえなかったからだ。 久暁を長年苛む原因となったのは、こんな身体に浮かぶ紋様などではない。 しかし、八尺瓊はこの紋様を知っている。ハカナヒト≠ニいう言葉の真意は分からずとも、それを耳にした途端、久暁の心中は得体の知れないざわつきに満たされた。 「儚人≠チてのは、一体ッ……!」 温もりが失われる。唯一自由のきく頭の働きまでが奪われていく。遠くなる意識を引き止めようと激しく息を吸い込む度に、空気が肺と喉を突き刺した。 「全く気にかけておらなんだ訳ではなかったか。知ったところで何にもならぬが。申したであろう、そなたらは芥に等しいと。 何よりも硬質な八尺瓊の声。本物の金輪翁の声も鉄のように重厚であったが、熱を帯びれば感情が籠もる柔らかさも持ち合わせていた。だが八尺瓊のは幾千年を経ても変わらぬ水晶の声であり、感情の宿る時などない。 「よう二十七年も我が目から逃れられたものよ。それだけ生き永らえれば儚人≠ノしては充分過ぎる生と思い、逝くがよい」 フッと八尺瓊が身を翻し離れると同時に、九十九丸が黒い翼を広げた。 薄闇に溶け込んだそれが大きく一打ちし、死の風が巻き起こる。 久暁へと飛ぶ突風は瞬時に刃の形へと圧縮され、触れるものをことごとく切断する凶器と化す。 鉄忌をも瞬時に屠る、必殺の風刃。 それが音を立てて崩壊した天井によって雲散霧消するなど、誰が予想しただろう。 赤鬼を斬り刻もうとした術は、強引にぶち破られた天井板や梁、果ては瓦にぶつかり拡散し、猛烈な突風に変わった。粉微塵となった破片は、久暁の感覚が麻痺した手足を打ちすえては吹き飛ばされていく。 久暁と八尺瓊達との間に位置する天井は今やポッカリと穴を開け、青白く仄赤い月が生む妖しげな光を部屋に導いていた。 そして、おぼろげな光の輪郭の上へと降り立った人物は―― 「斯様な所業、納得がいきませぬ! 御左大臣!」 「お前……!?」 黒装束に身を固めた華奢な身体に、結い上げられた団子髪。平静は栗鼠のように丸々としている瞳を疑心の色に染め、ただ一人の八色の黒′uは、目の前の主を睨みつけていた。 闖入者の存在に怒った白鷺頭の白拍子・一藤が、彼女の動きも封じようと袂を翻す。 しかし、蛍の方が早かった。 一藤が放つ、八尺瓊から与えられた起動式――重力変化による束縛の術を受けてもなお、走り出した蛍は止まらない。全身にかかる重圧、指先一本に至るまで動かし難い重みを実感しながらも、突進と共に生み出される渾身の力は、静止力を遥かに凌駕していた。 一藤が空色の瞳を震わせた時にはすでに遅し。 黒玉の手甲が、柔らかな羽毛に覆われた喉元に撃ちこまれる。 倍の重みをかけた一撃は、白鷺頭の異形を小石同然に吹き飛ばした。壁に衝突しても止まぬ破壊音がようやく静かになったのは、何重もの壁の向こうに一藤の姿を確認できなくなった頃。奥へと続く灯りなき風穴は、一藤と共に深い闇を吸い込んでいた。 ガックリと、戒めを解かれた久暁が膝をつく。いまだ身を震わす冷気は衰えないが、 「お前、八色の黒≠ェ主に逆らって只で済むと思っているのか!?」 全身に紋様を浮かべたまま蛍に吼えた様は、鬼の容貌を取り戻している。 そして横合いからの空を斬る鋭い音を耳にした瞬間、久暁は見た目の衰弱からは予想もつかないような反応速度で跳ねた。 元いた場所に突き立ったのは、抜き身の刀が一振り。 体勢を戻す蛍の傍らに近寄ると、久暁身体は体力の消耗に再びふらついた。その回復も待たない内に、複数人の気配が俄かに二人を取り囲む。 月光という灯りを得た部屋には、闇の染みから浮き上がったかのような人影が幾つも現れていた。見覚えがあると思えば、彼らは屋敷のそこかしこに居た下男や侍女達だ。中には明らかに貴族のいでたちをした者まで幾人かいる。装束に印された紋は、白黒の抱き合う巴二つ。八尺瓊家の人間に間違いない。八尺瓊と似て無機質的な目は久暁だけを見据え、皆一様に刀を手にしている。先刻の刀も、彼等が久暁目がけて投げつけたのだ。 輪の外から、八尺瓊の嘆息が聞こえた。 「やはり外したか……行け、九十九丸」 ぼうっと木偶人形のように突っ立ったまま動かない者達に代わり、九十九丸が再び翼を広げる。凶器の襲来を悟った久暁は、懐に忍ばせていた 本来は自分の手足にも等しい神聖な工具――それに血を吸わせる覚悟を決め、燥一郎に切っ先を向けた瞬間から、久暁は『火燐楼』を捨てると同時に燈籠を作る資格も放棄したに等しい。だが避ける事で精一杯なほど弱った今の久暁が、その覚悟を乗せて鏨を投擲したところで、何重もの輪となり居並ぶ者達を避けてあの化生の者を傷つけられるのだろうか。 久暁の勘は否、と告げている。 しかし、一瞬の躊躇の間に、何と蛍がその鏨を横から掴み取った。 木霊する九十九丸の悲鳴。 蛍の膂力により投げつけられた鏨の 顔を覆い跪く九十九丸には目もくれず、金輪翁の姿をした八尺瓊は穏やかな表情のまま裏切り者に語りかけた。 「お主まで害するのは本意ではない。考え改めよ、浅葱の娘」 「聞けませぬ。阿頼耶=斬月=久暁殿は『都』の救い人ではありませぬか! 何故死を賜るような真似をなさるのです!?」 蛍の目には、八尺瓊辛がどのような姿に映っているのか。八尺瓊と対峙する彼女の顔色に、戸惑いは一片も含まれていなかった。 しかし、八尺瓊は彼女の叫びなどそよ風に等しいとでも思っているのか。「そなたには関係なき事」と、訴えはあっさりと打ち消された。 「このような態度を取るとは。失望したぞ、浅葱の娘よ。期待通りに動かぬばかりか、私自らに手を下す手間をかけさせるとは……とはいえ、彼奴が相手では我が元に連れて参っただけでも僥倖か。いや、もしや……」 急に、八尺瓊の声の温度が下がっていく。 「浅葱の娘よ、そなたは彼奴に操られておる」 「……何を仰っておられるのですか?」 「我に儚人≠殺めさせとうない輩が、そなたを使って邪魔立てしおるのだ。心を鎮め、己自身を取り戻せ。そなたは何故、我に逆らいその者を救おうとするのだ?」 逃げ道を与えぬ刃の檻の中。それでも蛍には一片の迷いもない。 「己自身を取り戻せと仰るのであれば、なおさら黙って見過ごす訳には参りませぬ。浅葱の名にかけて、例え御左大臣であれども諫言いたします。鉄燈籠を生み出せるのは阿頼耶=斬月=久暁殿のみ。いくら罪人の子だとしても、御左大臣が彼を手にかけたとあれば、下都の怒りは目に見えております。我が首も惜しまぬこの言葉が他人に唆されたものであるなど、どうしてそのように仰られます!?」 「杞憂せずとも、その者を屠れば下都は再び封印¢Oの姿を取り戻す。それこそが民の安寧の為に生きる武士十家の、ひいては八色の黒≠フ願いであろう。もう一度命ずる。退け」 「退きませぬ。仰っておられるお言葉の意味が分かりかねます」 八尺瓊は再び嘆息した。今度はもっと長く、憐れみを込めたものだった。 「彼奴の手中で踊る道を選ぶか、愚かな……九十九丸、儚人≠ニはいえ神器≠スる我と我が分身達に直接人は殺せぬ。必ず息の根を止めよ」 蹲ったまま、九十九丸が翼を動かす。しかし最前と違い、緩慢な動きをしたそれが振り下ろされるよりも先に、床の上を鉄の蛇が走った。 久暁が鉄忌狩りに用いている鎖だ。今のは袖の下で腕に巻きつけ隠しておく護身用の短い物だが、二人か三人の足首に巻きつけるには事足りる。 久暁が腕を引くと、垣根を作っていた下男達の一列が将棋倒しとなる。その一本道が開けた瞬間、二人は檻の中から飛び出した。 八尺瓊達から遠ざかるように後方の廊下へと脱出し、長い暗闇を駆けていく。明り取りから射しこむ月光だけが点々と道を示す。幾度も幾度も角を曲がり 蛍に身体を支えてもらいながら久暁は走った。火のついた血の熱さを全身に蘇らせようとするかのように、依然冷たい脚で疾駆する。凍った炎さながらな久暁の髪は、闇にあってもなお捕捉の目を呼び寄せる。 聞えてくる久暁と蛍のもの以外の足音。それは廊下の後ろのみならず屋敷中を駆け巡る。不気味なことに、無数の追っ手の存在を感じながら、屋敷に満ちる生気の無さは一向に変わらないのだ。 「待て!」 一人で動ける程度には回復したのか、久暁は自分を支え走る蛍を強引に引き止めた。 「如何した、ここで立ち止まっている場合では……」 叱咤する蛍から離れ、壁を背に荒い息をつきながら久暁はかぶりを振る。例の紋様はもう随分と消えかけていた。 「もういい、これ以上俺に構うな。左大臣にはお前まで殺す気はないらしい。今の内に別れて逃げろ」 「なッ、それは正気で言うておるのか?」 「ああ、正気だ。大体、お前は黒≠ニして生きる事を選んだはずだろう。それが俺なんかを助けて……正気かどうか疑わしいのはお前の方だ」 言い捨てると、久暁はぎこちない身体を引き摺りながら一人もと来た道へと反転し、迫り来る追跡者に備え感覚を研ぎ澄ませる。しかし、蛍の手甲を備えた腕がその行く手を遮った。 「……では、あのまま死ねば良かったと申すのか? 話を聞いておればそなた、自分自身に酔うのも大概にせぬか!」 「何だと?」 精神集中を霧散させられただけでなく、突然の反論は久暁を苛立たせる以上に動揺させた。 「確かにそなたは普通の者とは違っておるのかもしれぬ。見た目といい、先程の身体の模様といい、加えて両親は紛うことなき大罪人よ……しかし、何よりもそなたは、そんな特別な自分≠ノ甘えていたのであろう? 自分は他とは違う、だから他の者と同じ世界に存在できなくとも仕方がない。己のしがらみに齧りついたまま、そのしがらみこそが自分の証であるかのように孤独に浸り続けていた。違うか? 内側に踏み込まれ、寄る辺にした自分像を壊されたくないという理由で勝手に孤独になり、勝手に行き詰って苦しんでおるだけではないのか?」 久暁は黙したまま蛍を睨みつけた。言い返さないのではなく、出来なかったのだ。 彼女の台詞は痛いくらい的を射ていた。己が臆病者あることは、六年前から身に染みて自覚している。 しかし、他人とは相容れる事のできない、決定的な違いをどうすれば忘れ去れるというのだろうか。 そしてこの少女もまた、上都で異端とされていた存在ではなかったのか。蛍が久暁にかける言葉は、翻せば彼女自身への叱責に等しい。まるで自身の言霊に促されたかのように左大臣の行いに憤り、自分自身の手で久暁を救ったもう一人の異端。似通った立場にありながら、久暁には踏み出せぬ一歩先へ進んだ少女の在り方が、何かとてもよく知った、忌々しい誰かを連想させた。 「御左大臣の仰られる事が真であるならば、そなたは大いなる禍やもしれぬ。けれどそなた自身が明確な罪を犯しておる訳でもないにも関わらず屠るなど、そのような道義に外れた行い、離縁された身であるとはいえ、浅葱家の末席として見過ごすなどできようか! そなたが何と言おうと、必ず『火燐楼』まで連れて行くぞ。あそこならば、あの男がいれば御左大臣といえども簡単に手出しは――」 「もういい。良く分かったよ、左大臣がお前に言った操られている≠ニいう言葉の意味が」 「え?」 その声が帯びる凄みに、血を吐くような憎悪が混じっているのを悟り、蛍は次の言葉を継げなくなった。 「いつもいつも、高みから全てを見通し、人を弄びやがって……お前は何様のつもりだ! 燥一郎!」 思えばあれほど久暁を止めようとしていた燥一郎が、全く何の手出しもしてこない事に違和感を持つべきであったのだ。力を隠さねばならない彼が騒ぎを起こさずとも、勝手に意のままとなり久暁を連れ帰ってくる駒を持っていたのだとすれば――考えられるのは、酒を飲まされて意識を失ったあの直後。この事態を予想して、久暁が意識を失っている間に蛍に暗示をかけ、自然と『火燐楼』に連れ帰るよう仕向けていたのではないのか。 これが救いの道、と示すかのように。もはやあの場所は、久暁にとっても苦界に等しかったというのに。 湧き上がる疑念に確証はないが、ハッキリとした一つの確信がある。 『火燐楼』にだけは逃げ込めない。そもそも今更、どんな顔をして戻れというのか。 ならばどうする? 何処へ逃げるというのだ? 「逃げ場所? そのようなもの、有るはずがない」 目前の闇からヌッと白い手が伸びると、背後から蛍の首筋へ刀があてられた。 虚をつかれた蛍が刃の冷たさを感じた時にはすでに、赤鬼が視界から消えていた。 いや、黒い着物が視界一面に立ち塞がっていた、と言うべきか。 刀を持つ手を浅黒い大きな手が捻り上げ、得物を取り落とした直後にもう片方の手が蛍の頭をかすめ、八尺瓊の 倒れた者の顔も見ず、刀を拾い上げた久暁は蛍を背後に押しやると、闇の中から微かに覗く無数の刃の光沢を見据えた。 先程の声――八尺瓊もそこにいるのだろうか? 逃げ場がないのなら、戻るしかない。戻って、八尺瓊に訊く事がある。 「蛍、俺がここで奴らを食い止める。だからいい加減に、お前だけでも逃げろ。二人揃ってではどちらも助からないんだ」 引き止める間もなく、右手の刀を煌かせ、赤銅色の後姿は目の前の死地へ踏み込むと同時に消えた。 「なっ、待たぬか!?」 制止を求める蛍の声など届かない。居並ぶ八尺瓊の 相手が自分から向かってくるとは思わなかったのか。 銀光きらめく障害物を目にした途端、久暁の脳裏に危険を告げる勘が走った。右脇にいた侍女らしき者の刀を自らの刀で払うと、そのまま右手側に跳躍する。疾走の勢いを止めぬまま瞬時に跳んだというのに、さらに襖障子を両断して久暁は部屋に転がり込んだ。しかし、起き上がりすぐさま体勢を戻したとはいえ、息の荒さに限界は隠せない。 次々と追っ手が部屋へと入り、再び久暁を包囲する。相変わらず手にした刀で戦う様子はなく、ただ相手の動きを封じる為だけに武器を持っているようであった。とはいえ、これだけの人数であれば、それは充分に効果を発揮する。 「どこだ左大臣!? どこにいる!?」 この部屋は月明かりも届かぬ、鉄燈籠もない完全な暗闇だった。ぐるりと包囲する者達の、さわさわという気配だけが久暁の呼びかけに応えてくる。 いや、別の所から違う返事があった。 部屋と廊下を仕切る、他の襖障子が派手な音を立てて倒れたかと思うと、包囲していた僕らを下敷きにして、怒れる涼やかな声が飛び込んできた。 「ここは退くべきと申したであろう! 早く屋敷を出て、『火燐楼』まで辿り着かねば!」 どうして来るんだ――久暁の悪鬼のごとき顔が見えていれば、蛍も少しは言い分を聞く気になったかもしれない。追っ手は間違いなく、久暁を最優先に捕らえようとしていた。これ以上巻き込みたくないというのに、何故この少女は自分につきまとう。これが操られているという事なのか? 「行きたければ一人で勝手に行け。他人に操作され踊らされているようなヤツに指図される筋合いはない」 「これは私の意志だ! そうやっていつまでもあの男を逆恨みしておる場合か! あの枳という御仁との約束はどうなるのだ!?」 枳――捨てがたく、捨てなければいけない想い。彼女に必要としてもらいたかったのは、彼女が最も必要としないものだった。 彼女が必要としないもの、阿頼耶=斬月=久暁。 叶わない望みを背負うという生き地獄を、再び送れというのか。 「お前に俺の何が分かる」 「阿頼耶=斬月=久暁殿!」 「俺を斬月と呼ぶな!」 互いに一層凄みを増していく応酬の最中、不意に久暁が止まった。あれほど昂ぶり、すでに何に怒っていたのか分からなくなるほど激しかった気が、冷水でも浴びたかのように消沈した。 いや、浴びたのは冷水ではなく殺気だ。 「避けろ!」 叫ぶと同時に蛍を突き飛ばすと、彼女の代わりに、その長身が勢いよく吹き飛ばされた。 ぶつかってきたのは黒い影。 死角からの突進は刹那のうちに久暁を壁へと叩きつけ、なおも止まらない。 浮き上がった身体は、一瞬だけ重みというものを忘れさせた。 「……!」 誰かに名を呼ばれた気がした。 誰が、何と呼んだのだろう。 壁を突き破る音に掻き消され、聞こえない―― 幾度も背を打ちつけ、黒狗山に似た空気の臭いと土の感触に触れて、久暁はやっと自分が庭で横たわっているのだと分かった。 倒れたまま呻くのもつかの間、左腕を硬く冷たい激痛が貫く。 「あぁぁぁぁぁッ!」 久暁を襲い、腕を串刺しにしたのは九十九丸だった。かつて久暁に窮地を救われた鳥人は、潰された瞳から青い火花を散らしながら、一切の迷いを見せる事なく鉤爪で久暁を地に縫いつけていた。 破られた壁をくぐり抜け、ぞろぞろと 「儚人≠ヘ己を害する行為を封じられておるはずだが……なるほど、死には至らぬとあの一瞬で判断したか」 硬直する蛍の横を涼しい顔で通り過ぎた八尺瓊は、未だ金輪翁の姿を借りたまま、久暁の元へ歩み寄った。 「浅葱の娘だけ逃そうと、わざと我が元に舞い戻ろうとしたのは褒めてつかわしたいが、いかんせん無駄口が過ぎたな」 八尺瓊が何を話しているのか。蛍がどうなったのか。 抗おうと身じろぎする度に広がる傷口。そこから浸み出る血の臭いが、久暁の頭の中までも赤黒く澱ませる。 どこにも逃げ場などないし、逃げるすべもない。 頼りの直感力も疑念と諦念に乱されて、終わり≠ニいう絶望的な答だけを告げてくる。 ただいたずらに最期の時を引き延ばし、蛍を巻き込んだ。 初めからこうなると分かっていたのに、何故自分は生き永らえようとしたのだろう。 もう、望んでいた存在意義は与えられぬというのに。 「それにしても、面妖な。定められし本能に従うならば何においても自らの生存が優先されるはずであるが、自己犠牲とな。もしやこの娘に情でも湧いたか?」 くつくつと、八尺瓊は心の底から可笑しそうに嘲笑い、肩を揺らした。 「先程の願いといい、我が知りうる儚人≠フ中でも、そなたほどの変り種は初めてよ。ここまで手こずらせおったのもさる事ながら、まさか儚人≠ノも色欲が生じようとはな」 濁っていた久暁の思考が停止した。 今、八尺瓊は何と言った……? 自己消滅願望。 奇怪な紋様。 継承記録。 ハカナヒト。 塵芥。 生存本能。 八尺瓊の言葉はどれもこれも、久暁の心をざわつかせ不快にさせる。 だがしかし、その先は―― その先だけは決して言うな。 「こればかりは憐れよのう。そなたがどれほど他人に懸想したところで、男にも女にもあらざる身なれば、到底報われはせぬというに」 見開かれる血色の双眸。 蒼と紅の仄かな月光。 混ざり合い生まれるは不和を導く紫の幻灯。 浴びせらるるは色欲渦巻く薄桃の遊里。 煌々たる月下、『都』の全てを呪うかのような鬼の咆哮が響き渡った。 前へ | 次へ | 目次へ |
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