<悲願>



 こんこんと深い眠りにでもついているかのような閑けさ。
 一片の曇りもなく磨かれた廊下に映るのは閉じ込められた影。僅かばかりの鉄燈籠の灯では、この屋敷中に巣食う闇を駆逐できはしない。渡殿から垣間見た庭園も味気ないものだった。端整に刈られてはいてもつつじは若葉さえ芽吹かせず、幾本も並ぶ桜木は蕾のまま時を止めている。この生気の希薄な敷地こそが『都』の実質的な指導者、左大臣八尺瓊辛の住まいと言われて誰が信じるだろう。
 左大臣邸は上都の中でも内裏に近い、朔北という区域にある。『火燐楼』とほぼ同等の規模の居住地全てが左大臣家のものであり、辛の屋敷ですら一族が地に根を張る朔北区の一端に過ぎない。
 蛍の案内でこの区域に辿り着いた久暁が遭遇したのは、権力者の住まいとは思えないほどの暗鬱とした気配。そして住人達から投げかけられる奇妙な視線だった。
 何度も他人から好奇心や驚き、嫌悪をないまぜにした視線を浴びてきた久暁だが、ここではそのような感情は読み取れなかった。蛍と別れた後、自分を屋敷の一室まで導いた下男にしても、謁見前に下都での穢れを落とす禊をするよう述べてきた使女にしても、久暁を見る目はただあるがままに一挙手一動を見張るのみ。むしろ監視に近い。

 やはり黒狗山と似ている――その想いは半ば確信へと変わっていた。

 生気のなさ。耐え難いほどの静寂。
 慈しみというよりも危険物を見守るかのような捕捉の視線。
 あの懐かしく、そして厭わしくて堪らない冷たい山と同じだと、独り水を浴びながら空気の重苦しさを実感した。
 待たされているこの一室の灯りも、小さな鉄燈籠が衝立の傍らからひっそりと照らすのみ。久暁でなければその広さも出入り口も、目の前にある御簾ごしの上げ畳の御座も見えないだろう。他にはまだ、誰も居ない。
 まさか着くなり禊をさせられる羽目になるとは思わなかったが、道中で死体と遭遇した事も左大臣にはお見通しなのだろう。

 ふと、あの蛍が握った己の両手を互いに触れ合わせてみた。



「ここから先は左大臣家の者について行けばよい。そなたとはお別れだ」
 朔北に着くなり男装の娘はそう告げ、続けて一向に険しい表情を崩さない久暁に対し呆れたような溜息をついた。その時久暁は朔北の生気の薄さを不審に思っていたのだが、蛍にそれが解かるはずもない。
「今までずっと気になっておったのだが、そなた、これから恩賞を賜る身であればもっと嬉々とすればよかろう。緊張しておるのか?」
 むろん念願であった左大臣との謁見を前にして緊張していないと言えば嘘になるが、その目的の成就と引き換えに、おそらく久暁は二度と下都の地を踏めなくなる。残してきたものに対する悔恨は、未だ心中に漂い続けている。そうと解かっていながらこの道を選んだ愚かしさを思えばこそ、喜びが湧く余裕などありはしない。
 想い巡らすうちに、またあの艶やかな姿が蘇ってくる。思慕の情を押し殺すかのように久暁は蛍の問いから話題を変えた。

「これからお前はどうするんだ?」
「私か? 決まっておろう。沙汰があるまで黒≠フ屋敷で待つのだ」
 八色の黒≠ニいえど『昇陽』の機関の一つには相違なく、彼らも上都に住処が与えられている。浅葱家との関係を絶ち八色の黒≠ニして生きる道を選んだ蛍もまた、そこで暮らしているのだろう。
「そういう意味じゃない。これから八色の黒≠ニしてお前がどう動くのか知りたい」
「はぁ?」
 意外な質問に蛍が躊躇する間、久暁はただ静かに待っていた。最初から返ってくる答を知っているような落ち着き方であった。
「どう動くかと訊かれても、それは御左大臣が決める事だ」

「ならば一つ頼みがある」
 久暁は敵に向ける獣の如き眼差しとは程遠い、どこか哀を湛えた目で蛍を見据えた。
「例え左大臣の命であろうと、下都はお前が正しいと思うやり方で掃除してくれ」
「どういう意味だ?」
「これから下都の連中を粛清していくというのなら、下都の美しい部分も醜い部分も理解した上で、お前が救いたいと思う者を救ってやって欲しい、という意味だ」
「そのように言われても……先程も申したであろう。私は御左大臣の命でしか動けぬと」
「意にそぐわない命でもか?」
「そなたは疑っておるのか? 心配をせずとも御左大臣はそのような事、当に御承知のはずだ」
 上都で育った蛍は左大臣に絶大の敬意を寄せているらしいが、久暁の知る下都での左大臣像は、敬意と畏怖と若干の怨嗟だ。どんなに目に見えぬ脅威を感じてはいても、この世を常夜に変えた張本人を忘れる事はないのだろう。
 その感情だけが久暁と同じ、もしくは歳下の若者達に伝染し譲られる。
 急に足元が脆くなったような気がした。今更のように、『都』の影の実力者が下都の者などとまともな交渉をするのだろうか、と不安が頭をもたげる。
 事情を知らない蛍の目に久暁はどう映るのか。そうか、と男装の娘は見破ったりと言わんばかりの表情を浮かべた。
「なるほど。つまりそなたは『火燐楼』に――いや、正確にはあの男に下手な手出しは無用と言いたいのであろう」

 見事に、認めたくない本音を言い当てられた。
「やはり左大臣に報告するのか」
「彼奴を野放しには出来ぬ。彼の力で一党を我が物とし、今尚も下都に強い影響力を与えているというならば、秩序を乱す恐れは充分にある」
 『都』を常夜と化した左大臣ならば、あの得体の知れない力を持つ麗人を止められるというのだろうか。思えば上都に入ったからといって、あれほど強引な手段で久暁の『火燐楼』抜けを阻止しようとした燥一郎の追跡から逃れられたとは限らないのだ。
 早く左大臣と接触しなければいけない。
「あいつの正体を探るのなら止めはしない。好きにすればいい。だが奴がいなければ下都の僅かな救いですら失われる」
「だから見逃せと言うのか。しかし――」
「俺は下都に居て、その歪みを知っていながら、全ての人間の為になるという口実で鉄燈籠を作り、その実ただ自分の為に生きていただけだった。せめて何か一つくらいは鉄燈籠を作る者≠ナはなく阿頼耶=斬月=久暁≠ニして誰かを救いたい」
「あの男でもか。そなたとあの男は敵同士ではなかったのか」
 敵同士、とは恐らく違う。朱蜘蛛事件から後、久暁にとって燥一郎は倒すべき存在ではなく、ひたすら拒絶するものであったのだから。
「勘違いするな。アイツが追い詰められようが俺にはもう関係ない。けれどもアイツが庇護する連中は別だ。奴等にはまだ、燥一郎が必要だ」
「……さっきから聞いておれば、そなたの言い分はまるで遺言だ。それほど気にかけずとも、恩賞を賜ればまた帰るであろう。我らは下都を魔界呼ばわりしておるが、上都まで同じと思ってもらっては困るぞ。何をそれほどまでに悲壮になる」
「悲壮、か?」
「ああ」

 そう言って、蛍は久暁の両手をガッシリと掴んだ。
「そなたが何を考えておるかなど私には全く解からぬが、これだけは言える。己が救いたい者は人に頼らず、この両手で救うがいい。そなたの手はその為にあるのであろう」
「……痛いのだが」
 指をへし折らんばかりの力で握り締めておきながら、はたと自分の行動に気付いた蛍は慌てて手を放した。そのまま逃げるようにして去っていく小さな背中を、まだ痛む手を摩りながら久暁は見送った。



 手の痛みが失せてから、どのくらい待っただろうか。
「阿頼耶=斬月=久暁殿」
 急に名を呼ばれ久暁は面を上げた。御簾のすぐ傍に、青竹色の単を着た女が座っている。
 この暗闇の中、いつの間に現れたのか。感覚の鋭い久暁ですらその気配に気付けなかった。しかし女は他の朔北の者達とは違い、明らかに久暁を胡乱な目で見ていた。だからであろうか、かえって久暁はその女の出現に安心した。
「御出座である。控えられよ」
 姿勢を正し深々と額衝く久暁は、御簾の向こう側にふわりと現れた気配に、その姿を見たいという衝動を精一杯抑えていた。
「我が招きに応じて戴き感謝いたす。阿頼耶=斬月=久暁殿」
 その歳月を経ながら威厳を損なわない声を聞いた瞬間、久暁の頭の中は真っ白く染った。

 ――この声には聞き覚えがある。
 しかし、それはありえない事だ。おそらく、この黒狗山に似た雰囲気を持つ屋敷と、声音の小ささから生じた錯覚だろう。

「此度、御左大臣におかれましては拝謁を許し賜り、恐悦至極にございます」
 一応の礼儀をと思い述べてはみたが、傍らの女の苛立つ気からするとどうも作法を誤っていたらしい。
「よい、つづら。この場は阿頼耶=斬月=久暁殿の赴くままにしていただく。そなたも面を上げよ」
 身体を起こしても、暗がりに加え御簾ごしの姿はおぼろげにしか分からなかった。狩衣の白さだけが燈籠の光に映えている。
「我が耳にも聞こえしそなたの働き、まこと賛辞に絶えぬ。常より一目相見えたいと願っておったが、下都を下手に刺激する訳にはいかなんだ。我が身の至らなさを恥じておる。しかし、かようにも若き御仁であったとはな」
「私が鉄燈籠を作り始めたのは十七の歳の頃でありましたので。それまでは先代の功績に当たります」
 忌むべき鋼の獣が美しい意匠に生まれ変わるのに魅入られ、その魂を感じ取ろうと先代の見様見真似を始めたのはいつだったか。
 愛しさを打ち衝け、憎しみを刻みつけながら、どれほどこの時を待ち望んだだろう。

「此度の招きに応じて戴けたという事は我が意を承知したと見るが、相違ないであろうか?」
「もとより」
「この八尺瓊を嗤っておられよう。この『都』を常夜に封じてより二十七年。その間せめて生き残りし民の安寧だけは守らねばならぬと、鉄忌の脅威を一身に防いで参ったと思うていたが――呆れたものよ。只一人、何者の賞賛も受けず鉄忌を狩り続けていた存在に今日まで気付かず、尚且つ我が式≠救われるとは」
 八尺瓊の重い声は心の底から己を悔いているようで、下都で囁かれる冷徹な指導者という印象とややかけ離れている。蛍の主張も決して誤りではなかったと言える。
「私の力など、本来お上が持つべき力を拝借して用いていただけの事。故にこうして返上しに参ったのです」
 おぉ――と、八尺瓊が感嘆の声をあげた。
「して、剣はいずこに?」
 久暁は懐から例の銀筒を取り出し、しずしずと歩み寄って来た青竹色の単の女が差し出す衣の上にそれを置いた。女は丁重にその衣で銀筒を包むと、御簾の隙間からその包みを挿し入れ、八尺瓊に手渡す。
「間違いなく、これは久しくお上の元より失われし神器。そなたが何故この剣を手にしておったのか、教えてもらいたいのだが」
 八尺瓊の言葉には、その理由如何によっては、という棘が含まれているようであった。

「それにはまず、どのような理由があろうと私の願いを一つだけ叶えていただけるという確かなお約束を願いたく存じます」
「もとよりそなたには功績に伴い如何な願いも叶えると申し付けてある故、斯様な気遣いは無用ぞ」
 六年前のあの時から、この願いを叶えるためだけに今日まで生きてきたのだ。
 その過程で引き返せぬ事情を明らかにしたとしても、すでに下都には別れを告げている。
「さあ、申してみよ」
「その前に今しばらく、私めの昔語りをお聞きして戴きたい」
「ほぅ……」
 久暁は乾いた唇を開き、身体の奥底に仕舞ってあったこの時の為の言葉を、少しずつ呼び起こしていった。
「この度、御左大臣は私めを賞するとまで仰せられました。しかし実の所、私はかような栄誉を賜る事など到底許されぬ、卑しい身なのでございます」
「何を持って、己をかように貶める?」
「ひとえに、私の出自故に。私は御覧のように忌むべき大陸の、砂螺人の血を継いでおります」
「大陸人で責められるという筋合いはあるまい。今は無き右大臣家も、その系譜を遡れば渡来人よ。国の為に功を成した者を害する理由にはなりえぬが」
「確かに、私がただの砂螺人の血を継いでいるのであればそのお言葉に救われもしましょう。しかし私の父は……かの婆娑羅衆≠率いし頭目なのです。剣はかつて婆娑羅衆≠ェ上都より奪いし物であり、それが我が手元に残されたのです。また、私が恩賞を賜れぬ理由はそれだけではありません」

 そう、問題はここからだ。

「母は昇陽人でしたが、決して平凡な民の一人ではなかった。名は阿頼耶といい、私の族名は母から貰ったものです。この名に聞き覚えはありませぬか?」
「さて……」
「八色の黒≠動かしなさるのであればお気づきのはず。阿頼耶は八色の黒≠フ世襲の名です。母は八色の黒≠ナありながら婆娑羅衆≠フ首領と子を成した『昇陽』の裏切り者。そして、生まれたその子供というのが私なのです」
 青竹色の単の女が嫌悪感を露にしたのにも構わず、久暁は急かされるように話し続けた。
「この地にて身の上を明らかにした以上、恩賞はおろか下都へ帰ることもまかりならぬのは承知でございます。しかし全てを明らかにした上で、私には御左大臣に叶えて戴きたい願いがたった一つだけあるのです。それさえ叶えて下さるのならば、両親に代わりどのような罰もお受けいたしましょう」
 これで完全に帰る道は断たれた。御簾前の女のみならず、八尺瓊の声も今や冷たさを含んでいた。それでも、久暁はこの先の話をしなければならない。
「構わぬ、申してみよ。己の命を賭してまでこの八尺瓊の元へ参ったのだ。話だけでも聞こう」

「……先に申しましたように、母は私を身ごもった後は八色の黒≠ノも婆娑羅衆≠ノも追われる身の上となり、追跡を逃れながらひっそりと隠れ住んでおりました。そうして月日が過ぎたある時、かの茫蕭の禍≠ノよって鉄忌がこの『都』を攻め、山中にいた母は運悪く奴等と遭遇しその場で殺されました」
「では、そなたは?」
「母が死した時、私はまだ腹の中にいました。そのまま放って置けば確実に死んでいたでしょう。だが、生かされてしまった……私を拾い育てたのは両親の知人であり、先代の鉄燈籠技師でもあった金輪翁と呼ばれた男です。その翁がこう述べておりました。死した母の傍には何者かによって葬られた鉄忌の残骸が散らばり、私は裂かれた母の腹から引きずり出された状態で産声をあげていた、と」
 それは凄惨な光景であったろう。日が消え封印≠ナ悲嘆の渦と化した『都』からも遠く離れた暗い山で、まだ温かい母の血に濡れながら冷たい鉄忌の血に触れ泣き叫ぶ赤子。只一人、産まれた時から押しつぶされそうな孤独の中に放り出された、あの時の明確な記憶は薄れても、生まれた場所――黒狗山に帰る度に身体が思い出そうとする。
 今も、また。

「金輪翁がすぐに見つけたため、私はそのまま一命を取りとめました。ですが、彼が救う前に鉄忌を斃し、私を救い出した者が必ずいるはず。いつしか、その者を探す事が私の目標となっておりました」
「恩を返す為か?」
 久暁は頭を振った。もしこれが六年前であれば、まだ頷けたかもしれないのだが。
「私に望みはただ一つ。母が死して私が産まれた時、どうして私を見殺しにせずこの世に引きずり出したのか。その理由を知りたいのです」

 薄暗がりの中、交わされる会話は徐々に、交える剣尖が如き鋭さを増していた。
「……この八尺瓊が答を知ると?」
「母が襲われたのは封印≠フ前後でありました。その時分において鉄忌を葬れたのは、御左大臣以外に考えられないのです。正直に教えて戴きたい。貴方は俺を、何故生かした!」
「無礼者!」
 語気を荒げた久暁に対し、我慢の限度を超えた青竹色の女が柳眉を逆立てる。
「控えよつづら。まだ話は終わっておらぬ」
「しかし辛様!」
「つづら」
 もう一度穏やかに窘められると、女は急に顔色を変えて押し黙った。まるで八尺瓊の言葉の切っ先に触れたかのように。
「では阿頼耶=斬月=久暁殿、私も一つ尋ねよう。何故そなたは答に固執する? 我にはまるで、そなたが今日まで生きのびた事を悔やんでおるように思えるのだが。理由を教えてもらえるか」
 反射的に久暁は沈黙した。自分が何故生かされたのか――その問い自体は何者かから一方的に与えられた、変えようもない事実から生じたものだが、その答を欲する動機は自己満足以外の何物でもない。
 己の醜さを曝け出す勇気があるのか。
 一瞬の迷いを八尺瓊は見逃さない。
「恥ずべきもの、か」
 もはや後の無い道で立ち止まったとして何になる。久暁は心の最奥に仕舞いこんだ、最も重い感情を呼び起す意を決した。
「はい、浅ましい劣情です。母の死と引き換えるかのように産まれ出でた私は、それを補うかのようにひたすら意味のある生を送らねばならぬ、と思っておりました。鉄燈籠を作るのも、鉄忌を斬るのも、全てはその為であると。しかし」

 ――その実ただ自分の為に生きていただけだった。

 蛍と交わした言葉が反響する。
 六年前の朱蜘蛛事件で、久暁の行動原理は一度崩壊した。『白梅廊』の人々を解放しようとしていたあの頃の自分。だが今なら解かる。久暁が欲しかったのは枳のみだったのだ。彼女を得たいという願望に薄っぺらな綺麗事の蓋をして、生きるに値する生だと勝手に認識して――結局、下都全体で本当に虐げられていた者達に気付かず、枳が求めていたものにも気付かず、結果的に彼らを救ったのは燥一郎だった。
 久暁にとって、幼少時から憧れと畏怖の対象だった燥一郎という男。肉親という寄る辺を持たない立場でありながら誰よりも快活で、自由で。誰からも羨まれる容姿と才能、絶対的な力を持つこの世のものとは思えない存在である彼は、怪物的という意味でも、久暁のように表面的なものではなく本質的なものを備えていた。
 だから枳が彼を選んだ時、堪らなく憎かった。
 人を殺したいと思ったのはこれが初めてだった。
 けれども、燥一郎は死ななかった。殺そうとして刀を振るっても、彼は殺せなかったのだ。
 何事も無かったかのように笑いかけてきた燥一郎と、彼の妻になった枳を前にして、久暁は己の存在意義が解からなくなった。
 死ぬはずだった命を生きながらえさせてまで、今まで自分は、何の為に生きてきたのか。
 自分を救った者は、何を思って見殺しにしようとしなかったのか。せめてその理由を聞かせてもらえれば、失いかけた存在意義を取り戻せるような気がした。
 その為だけに六年間、他人の前では本心を隠しながら鉄忌を斬り続けたのだ。

「願わくばお教えいただきたい。貴方は何故……!?」
 語り続けていた久暁が、突然身体をこわばらせた。暗闇が漂い、物音が消えた部屋の空気に高揚していた感情が冷まされていくにつれ、頭の中で針がつつくような痛みが強さを増していく。それは次第に、明確な警鐘の言葉となり、久暁の血色の瞳を彷徨わせる。
 獣の目が彼の貴人を捉えた途端、その警鐘の原因が馴染み深い気配である事に久暁は気付いた。

 鉄忌を前にした時と同じ――いや、これはそれ以上の鬼気ではないか。

「そんな理由か……その程度の」
 震える声は笑っていた。無音を破ったそれはまるで波紋が広がるように大きく、はっきりと久暁への嘲笑へと変わっていく。
「フフ……愚かしい。実に愚かしい。これが笑わずにいられようか! 己の身の上を自覚しているかと思えばその気配はなく、ただ痴情の縺れから生を悔やむとは。まるで前例なき自己消滅願望。最も儚人≠轤オき志向が最も儚人≠ニは縁遠い動機から生じておる。これを滑稽と言わずして何としよう!」

 弾かれたように、久暁は立ち上がった。
「貴方、いや、お前は……!」
「残念ながら我はそなたの出生になど関わってはおらぬ。徒労であったな」
 血色の瞳は、もはや針のごとく縮小している。魂が抜け硝子球のようになった目に映るものは、全てがぐらぐらと揺れている。信じられないという久暁の慟哭にも構わず、八尺瓊は続けた。
「だが、そなたの望みは叶えようぞ。素直に剣を返してくれた故、始めの約束事には従わねばのう」
 次の瞬間、傍にいた女の姿が消え、代わりに二つの異形が現れた。一つは白鷺の頭を持つ白拍子、もう一つは彼の黒狗山で遭遇した鴉の頭を持つ水干を纏う者だ。
 我に返り身構えようとした久暁だったが、その首から下の身体は指一本動かせなくなっていた。どんなに力を込めても、足を滑らす事さえままならない。誰の仕業かは明らかだ。

「これは、何の真似だ!?」
「まだ解からぬか? 今はそなたの生ではなく、死こそが必要とされておるのだ。儚人≠諱v
 言い放つと同時に、立ち上がった貴人の姿が、御簾をすり抜けて顕現した。
「それほどまでに己の存在する意味を欲するのならば与えてくれよう。そなた一人の死が『昇陽』を救うのであれば、その生にも意味はあろう」




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