<離別への路>



「美しい人であったな」
 蓮華屋の裏口から高塀を越えた二人は、細い路地を歩いていた。道中で不意に蛍が呟いたが、誰のことかは明白だ。
「ああ。枳以上の女にはこの先、会えそうにない」
 そう答えると、先を歩く蛍の肩が小さく反応したように思えた。久暁自身は、もう下都に戻ることはないから、という意味合いで言ったのだが、何が彼女の琴線に触れたのか。

 不思議な事に脱走してからというもの、二人の姿は誰の目にも触れた様子がない。蛍にもそう言うと、これは八色の黒≠ェ持つ遁甲の技の一つだという。
 『都』には縦横無尽に大路と小路が交差している。この路には区域に従って子から亥までの十二支の名称が、上都・下都共にそれぞれ裏と表の二種に分けて付けられている。この路の名が一種の卦となっているらしく、裏と名のつく十二支の路は、いずれも陰りのある路として設計された配置にある。加えて裏という言葉の響きから、自然と人はその路から心を遠ざけようとする。裏と表、言霊を備えた二種の路が交差し合うことで、無秩序に見える人の流れは知らず一定の操作を受けて、人目のつかない一つの路を作り出している。それが八色の黒≠フ通り道なのだ。
 この路にさえ入ってしまえば、例え他に人が居ようと、その路を遁甲と知る者以外は互いを認識しようとする意識が極めて希薄になる。よって昇陽人からすれば雲をつくような長身の久暁であっても、通り過ぎた人々はその記憶の中からおぼろげな彼の姿しか引き出せないのである。
 久暁の容姿は下都中の者の知る所であり、鉄燈籠を作る技術者が上都に向かうとなれば即座に騒ぎになってしまう。密かに行く方法があるものかと日々思案していた彼にとっては、あらかじめ知っていればもっと早く左大臣と接触できただろうにと、口惜しくなる。

 しばらく経過しても蛍は黙々と歩き続けていた。そんなに気に障ることだったのかと思い始めたその時、
「下都は、想像していたよりも美しい所だな」
と、急に団子髪の娘は立ち止まった。
 蛍は路地の奥へと射し込む、鉄燈籠の光の渦に感嘆していた。『火燐楼』の朱塗りの塀と、その領域内に植えられた桜の木々。その一つ一つに吊るされた鉄燈籠が煌々と光を放ち、道行く人々は桜花の風を受けながら時には歌い、時には笑い、光が照らす道を悠々と闊歩していく。上都がどのような所か久暁は知らないが、年に数度、『火燐楼』から献上という形で上都に流れる鉄燈籠の数は、一つの党がその間購入する平均的な鉄燈籠の量の三割程度でしかない。それから推測するに、帝のお膝元である上都では『都』の人間にとっては生命線にあたる鉄燈籠ですら、材料が鉄忌だけあって不浄とみなし、必要最低限しか用いないのだろう。その一日は常に薄暗がりに包まれているに違いない。ふんだんに灯りを用い、我が遊廓こそ至上と競い合う下都など、蛍にとっては別世界に等しいはずだ。
 だが眺めていたのも束の間。

「そなた、蓮華屋からここまでずっと目を閉じて歩いておったのか!?」
 久暁の方を向いた途端に驚いた蛍の言うとおり、久暁は蓮華屋を出てから今に至るまで目を閉じたまま、蛍の後を追っていた。砂螺人特有の直感力と黒狗山での経験を備えている久暁は、モノの気配や動きに関してだけは、下手に目に頼るよりもこうした方がずっとよく周囲を把握できる。もっとも今目を閉じているのは個人的な事情からだ。
「鉄燈籠の光が嫌いだからな。心配しなくても、お前の後を追いかけるくらいは簡単にできる」
「作っておるのはそなたではないか。何故に嫌う?」
 蛍の質問は、これまで幾人にも同様に尋ねられてきた言葉だ。その度に久暁は黙したまま答えようとはしなかった。それは今も変わらない。口を閉ざしたまま彫像のようになった久暁に、蛍は納得いかないという顔をした。
「あれほど美しい物を作っておいて、当の製作者が嫌いとは如何なる理由か。いや、待たれよ……そういえば」

 不意に、蛍は久暁の腕を掴みあげようとした。もっとも、無明の中で動く微かな気配から行動を読まれ、未遂に終わったが。
「いきなり何だ?」
「そなた、部屋で御禁制の火を灯しておったな。思えば街中がこれだけ鉄燈籠に溢れておるのに、どうしてあの部屋だけは薄暗いのかと不審に思っておったのだ。ちょうどいい、上都に着いた際にじっくり詮議いたすから覚悟せよ!」

 やれやれと久暁は嘆息する。自分達は現在隠密に行動しているという事を、この娘はすぐに脳内から消し去ってしまう。
 出会ったばかりの小娘に話すつもりなど毛頭なかったが、これ以上五月蝿くされても困る。
「自分の母親を殺した化け物の一部を、ありがたいだの美しいだのと思えるのか?」
「え?」
 答えが返ってきた瞬間、蛍の瞳に映る街の灯火の明るさが、急速に失われていく気がした。
「だから俺は、あの光を見るだけでも嫌だ」

 過ぎ行く表街道の喧騒は裏の路にも光の斑紋を投げかけるが、歩く二人の足元を僅かに照らすだけで、間に漂う暗闇を照らすまでには至らない。時折すれ違う人々の目は灯りのみを追い求め、影の中を進む久暁達に気付く様子はない。その光に惹かれる様は灯りに誘惑された蛾に似ていた。
「すまなんだ」
 また暫く無言で歩いていると、蛍が謝ってきた。
「そなたに話づらい事を話させた」
「別に気にしていない。ただ、火を使っていたのは悪意があってではないと分かって欲しかっただけだ」
「いや、それは、しかし……」
 義務と私情とで板ばさみになった蛍がまた話を蒸し返す前にと、久暁は話題を変えた。
「お前を黒≠ノ任命したのは左大臣だな。他の八色の黒≠ヘどうしている?」
 予想はついていたが、蛍は今までに見た中でもひときわ気不味いという表情を浮かべた。
「守秘義務か。俺に母親の話をさせたのだから、交換条件という訳にはいかないか」
 こう言えばますます苦々しい顔になるのも分かっていたが、蛍は仕方なく話す覚悟を決めたらしい。
 この場では助かるが、どうしてこの娘はこうも義理堅いのだろう、などと不思議に思っていると。

「御左大臣によって八色の黒≠ノ任命されたのは、私一人だけだ」

 久暁は目を閉じた無表情のまま、
「……さすがにそれは嘘だろう?」
と、何度目かになる彼女の爆弾発言に、もはや呆れ気味のようだった。
「どうして私が何か答える度にそなたはそのように言う。よかろう、この際一から詳しく語って聞かせ、二度とそのような物言いが出来ぬようにしてくれる」
 平沙川まで辿りつくにはまだ十分ほどかかる。その間、久暁は延々と蛍の身の上話を聞かされる羽目になった。内容はある意味で興味深かったが、後半はほとんど彼女の縁者に対する愚痴と化していた気がする。

 娘の本来の名は、浅葱蛍という。浅葱といえば武士十家の一つで、現在は上都の警備を担う正真正銘の武士の系譜である。ただし蛍は正式な浅葱家の人間ではなく、彼女は七歳くらいの時に上都で行き倒れていた所を浅葱本家の当主に拾われ、以来養女として育てられたという。
 拾われる前の記憶が一切ない、見知らぬ子供に浅葱の名を与えるなどと反対する者はいたが、当時の当主は茫蕭の禍≠ナ後継を失っており、加えて武士十家の中でも公明正大で知られる浅葱家の長として年端もいかぬ子供を下都に追いやるは外道の所業と、反対意見を強引に払いのけてしまった。こうして蛍と名づけられた子供は浅葱家の一員として、その精神を叩き込まれ育ったのである。

 そんなある日、蛍は例の怪力を突然扱えるようになった。彼女の怪力は拳から力を発する豪の側面を強化するのではなく、強打で受ける衝撃を殺す柔の側面を強化させることに真価がある。よってこれは武術が上達するに従い受ける衝撃が強くなったため、それを緩衝する一方で放つ力が際限なく伸びてしまった結果なのだろう。基本的に事なかれ主義な上都の者達は、途端に蛍を気味悪いと厄介者扱いするようになった。初めから育てることに反対した者などはそれに輪をかけて当主を責めたが、蛍の身の回りにいた本家の人間だけは彼女の味方だった。
 何とか蛍の力を『都』のために使えないかと思案した当主が帝の近衛を代々勤める武士十家の一つ、東雲家に相談を持ちかけた所、その話が伝わり伝わりする内に左大臣・八尺瓊辛の耳にまで届いた。八尺瓊はこれに対し、武士十家として置くには危険な力だが、それを有効にする手段がちょうど存在する、と答えた。それこそが八色の黒″ト編における、新しい人材の確保である。

 すると今度は蛍の身の回りの人間、つまり公明正大を良しとし、影役を最も嫌う浅葱本家の者達が彼女の八色の黒%りに猛反対した。養女といえど、浅葱の名を持つ者を隠密にするなど家名を穢す。おまけに指名されたのは特殊な力を持つ蛍のみ。残る武士十家の黄櫨・東雲の両家からは誰も選出されなかったのだ。

「それで頭に血が上った父上は自ら割腹して、上奏なさろうとしたのだ。もちろん皆で止めたが、全く……私はあくまでも養女で、すでに浅葱の家には新しく正式な跡継ぎが生まれておるというのに。浅葱の者は皆カッとなるとすぐに見境をなくすから困る」
 お前がそれをいうか、と久暁は心の中で突っ込んだ。
「だから私は自ら浅葱の姓を本家に返上し八色の黒≠ノ志願したのだ。今の私に出来るのはこのくらいだからのう。何処の馬の骨とも分からない子供を拾い育てた恩返しとは完全にはいかないが、『都』を守るために働けるのならば本望よ」
 久暁よりもずっと小柄な娘は、若干の強がりを含みながら胸を張った。おそらく彼女自身八色の黒≠ナあることに満足はしていないのだろう。らしくもない正義感、正々堂々を好む気風、損得で他人を切り捨てられない義理堅さこそが蛍という人間の本質であろうに、必死で押し殺そうとしていたのだ。
 もっとも、久暁が見てきた限り、その努力が効を奏しているとは全く思えないが。
「浅葱家の人間は納得したのか」
「黒≠ノなったからにはまともに敷地にも近づけぬが、皆私には良くしてくれた。姓を失おうが、浅葱の一族に蛍という小娘がおることは今でも変わらんと言うてくれた。そなたら下都の人間に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほどの心の美しさよ」
 要らん。お前ら一族の猪突猛進ぶりまでうつったら困ると、久暁は心の中で拒否した。

「ところで、上都では下都をどういう風に言っている?」
「何故尋ねる?」
「美しい心を持つという上都の人間から見たら、下都はどう映るのか気になってな」
 蛍はほんの少し思案すると、
「まぁいずれ着けば分かるとは思うが……正直に申せば、我等のような武士十家はそなたら下都の者共を毛嫌いしておる。父上や母上など事あるごとに“いっそ火を放ち、彼奴らを殲滅してくれん”などと言い放つし、下都と呼ぶ事すら稀でな。大抵は“魔界じゃあああああ!”と、口にする度に青筋を浮かべて叫んでおったぞ」
 それは浅葱家の人間が極端なだけなのでは、と言いたいのを我慢し、久暁は聞き役に徹した。
「私は貴族の御方々に拝謁を許された事がない故、そちらには詳しくない。ただ一人、御左大臣には一度だけ下都に赴く前にお目通りを仰せつかった」
「それで?」
 左大臣の登場に、久暁の鼓動が自然と早くなった。
「“手綱なき下々の者とはいえ、『昇陽』の民には相違ない。ゆめゆめ不要の暴を振るうでないぞ”と仰られた。見よ、御左大臣はそなたらの身をも常に案じておられるのだぞ」
 故に亡八であろうと日々生ける事への感謝の念を忘れるでない云々かんぬん、等と蛍の説教めいた言葉がずらずらと続くが、では椿の失言に対し問答無用でシメあげようとしたのは一体誰だったのか。
「しかし、今であれば御左大臣のお言葉にも頷ける。かように眩き華やかな街が魔界とは、我等の偏見もいき過ぎたものよ。先程の枳という、まるで暁来大神の化身のごとき女性もおるというのにのう」

 と振り返った途端、蛍は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 すぐ後ろにいたはずの久暁が急に立ち止まっていたからではなく、その足元にあるもののせいだ。
「な、何事か……!?」
 平沙川と乾区の遊廓『睡竜胆』の両方へと伸びる裏路の、特に陰が濃い一本の桜木のすぐ傍で久暁が目を閉じたまま佇んでいる。その目線の先に、襤褸布から突き出た二本の脚があった。痣と血と土に汚れたそれは、上にかかる襤褸布の汚れた柄からすると女のようだ。すでに肌は屍の色と化している。
「この者は!?」
「……他所の遊廓から『火燐楼』へ逃げ込もうとした遊女だ。おそらく、身ごもっていたんだろう」
 未婚者で、なおかつ任期の終わっていない遊女が妊娠を隠していた場合、その制裁は普通の女よりもはるかに厳しく惨い。党によって仕置きは様々だが、大半は堕胎させられた上に顔を潰される。その過程で死ぬ者が出るのも珍しくはない。
 この女も産まれ月が近づいて隠し通せなくなってきたのだろう。そして、他党の過度の仕置きに反発している『火燐楼』への逃亡を図ったに違いない。だがもう少しという所で見つかり、脱走の罪を重ねたとしてこの場で斬り殺されたのだ。死体を放置していったのは、他党にとって目の上の瘤である『火燐楼』への嫌がらせの意味も込められているのだろう。

「蛍、お前はこれでも下都が美しいと言えるのか」
 久暁が『桃源楼』に居たころ、よく利宋が話していた。妊娠を隠している女の相手は、上都から忍んで来る下層貴族である可能性が高い、と。
 帝と左大臣のお膝元である上都の婚姻規制の厳重さは、下都の比ではない。夫婦であっても許しがなければ同衾を許されぬのが、武士十家と貴族らを取り巻く現状である。故に下層の者などは密かに姿を変えて下都に女を買いに来るのだが、数人の妻、そして貴族としての体面もある彼らにとって、その時の女はあくまでも一時の欲求不満解消の対象物でしかないのだから、情が移らぬようにと同じ女を二度買う事は決してない。
 しかし、女の方はどうだろう。いくら動乱期で様変わりしたとはいえ、『都』はかつて『央都』と呼ばれた天子の都であり、そこに住む民衆にとって上都の貴族というのは殿上人に他ならない。そのため、例え遊女となろうとその相手に対して畏れ多いと感じ、同時に抱かれる事を光栄に思う者は未だに多く存在するのである。そして中には、規制で子供が作れない貴族の子を産めば、その子供と一緒に上都へ連れ帰ってもらえるかもしれないという夢幻の希望を抱く者もいる。そうして避妊薬を服用しなかった女達が辿る末路は必ず、こうして久暁の足元で野晒しとなった者と同じであるというのに――

「これから先八色の黒≠ニして下都の連中を始末するというのなら覚えておけ。こうした、鉄燈籠の光から生まれた影に追いやられ、捨てられ、『都』に忘れられた連中の事を」
 そう言ってまた歩き出した久暁の背に、
「この者を弔ってやらぬのか?」
 屍を捨て置けない蛍の声が投げかけられる。
「上都へ俺を護送するのがお前の使命だろう。それに『火燐楼』を抜けた俺に、彼女を葬る資格はない」



 通り過ぎる光景を、久暁は記憶に刻みつけていた。目はそれを見ていなくても、他の五感と彼特有の直感力が下都の空気と音と動きを伝えてくる。
 黒狗山での身をかじかませるような冷気も、この下界では光と熱によってただの生温い澱んだ空気となる。
 耳に入るのは朗々と木霊する笑い声、弱者を追い立てる怒鳴り声、深淵たる閨から漏れ聞こえる喘ぎ声、愛を求めようとして罰せられる運命を哭く声。
 遊廓から流れ出る酔香の香りは下都中を漂い、三方の山は一つの杯を形成する。

 この地は酒を湛えた泉のようなものだ。煌びやかな鉄燈籠の光を遮れば、浮かび上がってくるのは誰もが過去の忘却に酔い、享楽に生きる卑しい人の世。
 しかし、そのむせ返るような忌々しい酒の香に満ちた世界は、久暁にとっては煩わしいと思うのと同時に、羨むべきものでもあった。
 何故なら、常に久暁はその世界に存在していなかったからだ。
 身を守れるだけの力と鉄燈籠を作る技術を習得するまでは、婆娑羅衆≠彷彿とさせる異貌ゆえに黒狗山に隠れ棲んでいた。下都に降りてからも、『都』でただ一人の鉄燈籠を作る者として、享楽と欲望の渦巻く世界には関わろうとしなかった。

 一度だけだ。久暁があえて苦界の闘争に身を投じたのは。

「『火燐楼』は他の党に比べ仁義に厚いと聞いているが。あの得体の知れぬ男の元を頼って、先程のような女性が駆け込んでくるとはのぅ……思えば、あの男は何者か? あのような力の持ち主が御左大臣以外に居るとは、由々しき事ぞ」
 蛍はもちろん、燥一郎という男をあの邂逅で初めて知った訳ではない。ただしあの力については、目の当たりにしなければ誰も信じないだろう。
「アイツを脅威と思うのならば黒≠フ名にかけて、早々に化けの皮を剥がして欲しいものだな」
 それこそ一片の情も籠もらない硬質の声で、久暁は言い捨てた。
「朱蜘蛛事件については知っているのか?」
「名は聞いておるが、此度の件については関連がない故、詳細は知らぬ」


 朱蜘蛛事件――燥一郎が下都中にその存在を知らしめた『火燐楼』誕生に繋がる事件。そして、久暁にとっては自分を自分たらしめていた支えを失った出来事。
「……駄目だ」
「何が?」
 遡りかけた記憶を引きとめる。決めたはずだ。もうあの男を憎むのも、彼女を愛しく思うのも止めなければいけないと。
 蛍が黒い笠の下に隠れた久暁の顔を見ていれば、深く刻まれた眉間の皺に気付いたであろう。
 その肌を撫でるのは既にあの温い空気ではない。サッと身に纏いつく穢れを祓うように吹きつけた清風は、平沙川に辿り着いた事を久暁に教えた。

 黒狗山から流れ込み、『都』を上都と下都に両断する一筋の川。この平沙川が『都』第一の水源である。今となっては鉄燈籠以上に重要視されている生命線なので、管理は左大臣の直轄。好き勝手にやっているように見える下都とはいえ、時折降る雨だけで生きながらえるという訳にはいかないのだから、これが上都最大の取引材料といえる。水分を担うのも上都を警護する浅葱家の役割なので、もし無断で水を汲もうなどすれば、即座にぶった斬られるに違いない。
 そのせいか、平沙川まで来れば下都の喧騒は途端に弱弱しくなる。川には境橋という名の五本の大橋が架かっているが、下都の人間の渡河は禁じられている上に、上都の人間もお忍びでしか行き来しないので、日頃この近辺で人の姿を見る事など稀である。久暁がここに来たのは初めてだったが、一歩ずつ川にかかる橋へと近づく度に、何故か彼はその静けさに懐かしいものを感じていた。

「止まれ。何処へ向かうつもりか」
「この者を連れて朔北へ。主命である」
 橋の前で仁王立ちをしていた浅葱家の武士は、蛍の言葉とその手に握られた例の左大臣家の紋入り書簡を前に顔色を変え、すぐさま脇へ寄った。その横を通り過ぎた後も、背後から視線が突き刺さる。
「あれは……」
「浅葱分家の者だ。私はもはや本家の名物でのう」
 視線から逃れるように、蛍は橋桁を足で鳴らしながらずんずん進んでいく。背後で久暁が欄干を手で探っているのにも気付いていない。
 ちなみに久暁が欄干に触れているのは視界を封じているからではなく、それに施されている古来からの上都風の意匠に興味があったからだ。おそらくこの橋を渡るのは最初で最後になるのだから、今確認しなければならない、芸術莫迦ゆえの行動である。
 指先から伝わる欄干の彫刻の意匠は、長い年月を経て随分と磨り減ったもののその繊細な線を保ち続けていた。それでも不自然に欠けた部分があるのは、動乱期に傷つけられでもしたのだろうか。
 触覚だけでは把握できない全体図を見ようと、久暁はようやくその瞼を開いた。

 己が立つ世界を知った瞬間、頭を揺さぶられたような強い眩暈が襲ってきた。

 久暁はちょうど、橋の中ごろに立っていた。橋の周囲に灯りはなく、水分の持つ微かな灯りでは川を照らしきれず、ざあざあと音を立てて闇の中を黒い流れが走っていく。その遥か遠くで、常夜の景色にそびえる常世の山、黒狗山が久暁を睥睨している。そう、あの懐かしい感覚は他でもない。川に混じる黒狗山の臭いだったのだ。
 さらに、前方には薄闇に包まれた上都、後方には空を白く染める光に包まれた下都がある。歩けば歩くほど遠ざかる澱んだ空気と入れ替わるように、黒狗山の気配が濃くなっていく。むしろ川から流れてくるその気が、上都に集っているように思えた。
 何故、帝が住み、左大臣の膝元である上都と黒狗山の気配が似通っているのかは分からない。だが、なんとも皮肉な事ではないか。

 ――所詮、鬼には冥界がお似合いか。

「如何致した? かような所で呆けて」
「いや、何でもない」
 渡り終えた橋の袂で、遠くなった下都の空気に想いを馳せる。
 目の前には上都へと入る楼門がそびえ立つ。これを潜れば、もう振り返ることは出来ない。
 六年前に空虚と化した心が満たされると、そう信じて今日まで生きてきた。

 どうしてそんなにも救いを欲しがったのか。
 それに気付きさえすれば、久暁がその楼門を潜る事はなかっただろうに。




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