<枳>



 どうしてこの地では。
 何もかもが闇に遮られ、見通すことができないのだろう。

 久暁が気付いた時、まだ自分は眠っているようだった。というのも、酒に麻痺させられた身体は動かない上に、どこか深い深い穴を落ち続けているような浮遊感に支配されていたからだ。
 落ちていく恐怖はない。そんなものより、周囲が真っ暗闇であるという不快感が勝っていた。
 瞼は重く、開こうとする意思すら働かないから何も見えはしない。だから、これは夢なのだろう。  早く起きろ。目覚めればこの不愉快な世界は消える。
 水の中へ沈んでいくように緩慢な落下。覚醒を念じる間にも、口腔から鼻腔から、果ては全身から、無音にして無明の空間は染み入り、肺を埋め尽くして息の根を止めようとする。
 いや、久暁には分かる。その世界は自分の命を奪おうとしているのではなく、身体中を染め上げて同一のモノに変えようとしているのだ。
 耐え難い嫌悪感がこみ上げると、沈みゆく感覚は一気に掻き消えた。
 起きなければ、阿頼耶=斬月=久暁≠ニいう人間は存在≠失う。

 それだけは許されない。

 まだ阿頼耶=斬月=久暁≠ニいう存在≠誰も認知していないというのに。
 自分自身すらその存在≠完全に理解していないというのに。
 認識されない存在≠ヘ、真の意味で死≠与えられる。

 存在の死≠ェ許されない理由が、自分にはあるのだ。

 そう思い出してやっと、久暁の身体は酒による呪縛から、覚醒する意識に従い始めた。



 ふっと漂ってきた白粉の香に疑問符を浮かべた久暁が目を開くと、鉄燈籠の光に照らされた板張りの天井が最初に視界に入った。鉄燈籠自体が目に入らなかったのは、見慣れぬ若い娘が横に鎮座して自分を心配そうに見つめているのに気付き、そちらへ頭を傾けたからだ。団子状に束ねられた猫のようにしなやかな黒髪に、鳶色の目――初めて見る顔ではない。誰だったかと記憶を反芻する間に彷徨った鈍重な視線は、布団に横たわる自分の状況を把握すると、娘の向こうに佇むもう一人の女へと自然に引き寄せられた。
「目覚めたか」
 ホッと息をつく娘を通り過ぎ、紅い目は信じられないという様子で長い髪の女を凝視していた。

「……枳」
「おはよう、久暁。もう意識ははっきりしている?」
 さっきまでの鈍い思考が嘘のように、急に研ぎ澄まされていく。床の間には上等の白木を削って作られた美しい宝珠木の彫刻が飾られてある。決して華美ではないが、木独特の柔らかさと滑らかな曲線美を兼ね備えたそれは、かつて久暁が作って枳に贈った代物で、以来彼女の部屋にあるはずの物だ。
 そう、久暁が寝かされているこの部屋は間違いなく、枳の部屋だった。傍らに座る娘――蛍がいなければ、気を失う前のあの光景も、全ては夢だと思っただろう。
 椿との会話も、燥一郎との対峙も。
「今は何時だ?」
 身体がまだ重苦しいので、久暁は横になったまま枳に訊いた。
「もうすぐ申の刻という所ね。そろそろ大見世の準備が始まるわ」
 椿が久暁の屋敷を訪れたのが巳の刻ごろだったので、つまり六時間近く眠っていたことになる。
「燥一郎は……」
 言いかけたその時、蛍が久暁の耳元で囁いた。
「事情は説明しておらぬ。そなたを抱えて逃げておるところをかくまってくれたのだが、密命に触れる話は出来ぬのでな。そなたも気をつけよ」
 そう聞いて自分がどうして枳の部屋にいるのか、久暁はようやく理解した。この蛍という八色の黒≠フ女は、どうやら自分を守ってくれたらしい。久暁が伝え聞くかつての八色の黒≠ヘ、主命に背くは死罪としてどうあっても目的を遂行しようとしたそうだが、この娘も隠密としては問題がありすぎるものの、その点では変わらないらしい。
 しかし、燥一郎に追われる原因となった左大臣からの手紙の存在を教えずに、枳に今の事態をどう説明すればいいのか。思い悩む久暁に枳が言った。

「何か燥一郎から逃げる理由があるんでしょうけど、大丈夫。あの人は此処には帰っていないわ」
「帰っていない……だと?」
 元来、久暁は枳にだけは甘く、日頃は彼女の言葉を疑うなど良しとしない性分である。にもかかわらず、この時ばかりは久暁といえども目の前の女を俄かに信じられなかった。
「馬鹿な、これだけ時間が経っているのに」
 六刻もあれば、燥一郎ならば容易く自分の居場所に気付くはず。あれほど上都に行かせることを反対していたのだから、今頃は血眼で探しているはずだ。
「じゃあ、あの人の部屋を見てきましょうか。少し待っていて」
 枳が部屋を後にしても、久暁の中ではさらに疑問が育ち続けていた。
 燥一郎と枳の部屋があるということは、ここは間違いなく蓮華屋のはず。しかし意識が途切れる直前まで、久暁は生産域区の自分の屋敷にいた。『火燐楼』の奥に位置するこの惣名主夫婦の屋敷までは、走ってでも一刻はかかる。燥一郎の化け物じみた力があれば、その間に久暁を捕らえられそうなものだが。

「お前は俺の部屋から蓮華屋まで、ずっと俺を抱えて逃げていたのか?」
 久暁は傍で黙々と作業をしている密使の娘に尋ねた。蛍はすでに手伝い女の扮装から、一見して女性とは見破れない鈍色の小袖と袴に着替えていた。今は手足に甲をはめている最中らしく、振り返ったその口元には甲を縛るための浅葱色の紐が咥えられていた。
 黒い光沢を持つ手甲と具足。その防具が鉄忌の残骸から作られた屑鉄とは全く違う素材で出来ていることに、久暁は即座に気がついた。混じり気のない透明感を備えたその甲は、どうやら何らかの玉を磨いて作られた物らしい。
「私には黒≠ニして使命を果たす義務がある。何としてでも、そなたを御左大臣の元に連れて行かねばならない」
 固く紐を縛り、具合を確かめながらそう蛍は答えた。だが久暁が訊きたいのはもっと肝心な事だ。
「どうやってアイツから逃げた?」

 倒れる直前、久暁は確かに、燥一郎の前に立ちはだかる蛍の姿を見た。
 蛍が八色の黒≠ニして人並み外れた力を持っているのは間違いない。それは細腕ながら椿を軽々と放り投げたことや、燥一郎の炎を打ち払った手腕からも伺える。けれども、その程度の異常はあの燥一郎からすれば児戯に等しい。常にその力の片鱗を垣間見せる程度で全く本気を出そうとしないが、彼がその気になればこの『都』は半刻もせずに灰燼と帰す――子供の頃、力について久暁に告白した時、燥一郎自身が屈託もなく笑いながらそう言った。
 久暁には半分だけだが色濃く砂螺人の血が流れている。砂漠という過酷な環境で生きる砂螺人は、積み重ねてきた経験と環境に適した身体能力を頼りに、世代を重ねて野生の勘ともいうべき第六感を強化してきた。直感力という優れた第六感を久暁は備えているが、彼の場合、赤子の頃から灯りの乏しい黒狗山で生活してきたため、感覚はさらに研ぎ澄まされている。
 その直感力で、久暁は燥一郎の言葉が嘘偽りない事実であると感じ取り、同時に悟ったのだ。
 コイツは正真正銘の妖怪だと。

 ところが、蛍は何でもないという風に、
「あぁ、すんなりと通してくれそうになかった故、そなたを担いで壁を破って脱出した」
 脱出劇をこれ以上ない簡潔さでさらりと言ってのけた。思わず久暁の思考回路が停止する。
「それにしてもあの二人は……黒≠轤オくないだの、大人しくしておれば怪我はさせぬだの、私を散々虚仮にしおってからに」
「……おい、本っっっっっ当に壁をぶち破ったのか」
「あの程度なら一蹴りで充分だが。何をそれほど驚いておる?」
 蛍が蹴破ったという久暁の部屋の壁は全て、外敵対策として土壁の中に厚さ二寸の鉄板を埋めこんである。彼女の話が本当なら、鉄忌の外殻に匹敵する強度の壁を体格差のある久暁の身体を抱えたまま楽々打ち壊したということになる。
 久暁は彼女に対する評価を改めざるを得なかった。意外と新生八色の黒≠ニは脅威であるかもしれない。幸いなのは、それが力の中身に限った問題で、扱う人間がこの通り短絡的な思考回路で動いているのならまだ防ぎようがある。もっとも、手当たり次第に物を破壊し暴走する事態にさえならなければの話だが。

「で、この蓮華屋まで逃げてきたというのか。どうしてわざわざ敵地に戻るような真似をした。ここに居れば燥一郎が戻ってくる。一旦『火燐楼』から離れるのが得策だろう」
 すると蛍は眉間に皺を寄せ、まるで久暁の言葉が異国語のようでさっぱり分からん、と言いたげに渋い顔を作った。
「先ほどからいつ聞こうかと思案しておったが、どうして我等が『火燐楼』内の蓮華屋におることになるのだ? ここは生産域区のそなたの屋敷ではないのか」

 今度は久暁が蛍そっくりの表情を作る羽目になった。

「私はそなたの部屋から出て屋敷の中を走り回っていた所を、あの女性と鉢合わせしたのだ」
 久暁を担いだ蛍の姿に枳は驚いたが、すぐさま逃げ去ろうとした蛍を呼び止めると、自室に呼び込んだらしい。その蛍の言葉を信じるのなら、久暁達は久暁の屋敷から一歩も外に出ずに、蓮華屋へと移動したことになる。蛍が下都に来たのは昨日の内で、しかも久暁の屋敷に直接潜入したのだから『火燐楼』の内部に関する情報は持ち合わせていないのだろう。ここが枳の部屋で蓮華屋の中だと知っていれば、自分たちが遭遇した怪異に気付くはずだ。
「馬鹿な、我等は屋敷からここへ瞬時にして移動したとでも……もしや、御左大臣ではなかろうか」
 蛍がはたと手を打ち、力説した。人知を超えた現象と、人知を超えた力を持つ者を結びつけるのは当然だろう。しかし、久暁はそれを否定した。左大臣が本気でこの状況を予想して力を貸したというのなら、蓮華屋に飛ばすなどという回りくどい方法をとる必要がない。付け加えると、そんな技が可能なら初めから密使などよこさずに、直接久暁を上都に移動させればよい。
 ならば、他に考えられる力の持ち主はもう一人。
「燥一郎だ」
「まさか。あやつはそなたを止めようとしたのだぞ。それでは矛盾しておるではないか」
「いいや、あいつ以外に考えられない」
 断言すると、久暁は幾分か楽になった身体を起こし、衣服が逃げた時と変わらない事を確認した。
「一刻も早く上都に向かう。案内してくれ」
「ま、待て。あの女性は……」
「それがあいつの狙いだ。おそらくな。自分では無理だと悟れば、今度は枳の手を借りる。あいつの考えそうなことだ」

 今、彼女と会えば。彼女と話せば。
 ――彼女に留まってくれと言われれば、久暁はその願いに応えてしまうだろう。未練ひとつのせいで。

 誰よりも久暁自身が、その手段の有効性を認めていた。
「この屋敷の裏から『火燐楼』を出る。出口はないから塀を越えるぞ」
 久暁は夜目にも目立つ赤銅色の髪を一旦解くと、慣れた手つきでひとまとまりの団子状に束ね、懐から出した紺色の巾を上に被せて縛り、その根元に折れた簪を挿し直した。これで少しは人目を誤魔化せる。
 と、その時。

「そんなに急いで、どこに行こうというのかしら」
 涼やかな苦笑が襖の向こうから聞こえた。耳にした瞬間、久暁の身体中を巡る血を熱くする声が。
 言い終わらぬ内に部屋へ入ってきた枳は、見世の者が使う編み笠と外套の一式を手にしていた。燥一郎は居たのかと尋ねようとした久暁の前に、それらが差し出される。
「これでも被っていかないと、今の時間帯だとその姿だけでは気付かれるわ。と言っても、久暁には少し小さいと思うけれど」
「枳……?」
「燥一郎なら安心して。やっぱり帰っていないみたいだし、仮に貴方を引き止めるようなら私がガツンと言ってあげるから」
 ふふ、と笑う枳に曇りは一片もない。それが逆に久暁を動揺させ、同時にたまらなく愛しい感情をこみ上げさせた。
 おそらく、彼女は燥一郎の帰宅を確かめるふりをして二人の話を立ち聞き、急いでこの笠と外套を探してきたのだろう。
「分かっているのか。俺がどこに行こうとしているのか」
「いいえ。ただそこのお嬢さんを見ていたら、大方の予想はつくわ」
「……帰って来ないかもしれない」
「それだけは言っては駄目」
 急に、枳は厳しい目をした。
「貴方がいなくなればこの下都、それに『火燐楼』はどうなるの。貴方はいつも燈籠作りと鉄忌を斬る事ばかり考えて、おまけにいつもその外見を気にして街の人々からあえて遠ざかろうとしている。貴方には必要ないかも知れないけれど、久暁を必要としているのは皆同じなのよ」
 枳の笠を抱えた手が、久暁の黒い小袖の袂を握った。桜色の着物、床の間にある白木の彫刻。この部屋にあるものはどれも清楚で、久暁の持つ色彩に似つかわしくない。だから、早く出て行かなくては。

「違うさ、枳。必要とされているのは鉄燈籠を作る人間≠ナあって、阿頼耶=斬月=久暁≠ナはない。それならば誰であっても変わらないだろう」
「……それをいうのは卑怯よ。貴方はまだ、私と燥一郎を許していないのね」
 もし久暁の上都へ向かう本当の理由を知れば、枳は必ず自分を引きとめようとする。きっと久暁自身はそれに応えてしまう。どんなに無関心を装うとも、この六年間、枳への思慕を失った訳ではない。
 だが、枳に必要なのは阿頼耶=斬月=久暁≠ナはなく、あの燦然たる炎を纏う男だ。

 笑え、燥一郎。つまらない願いの為にお前たちを捨てようとしている人間は、たった一人の女を前にして、今ならまだ引き返せると思ってしまったのだから。

「枳、一つだけ聞いてくれ」
 引き返そうとするなら、戻る理由を無くさなければ。
 握りたくて仕方がない柔らかなその手から笠と外套を受け取り、久暁は長年己の内に溜めてきた行き場のない想いを、ここで消すことに決めた。
 まだ秘密にしていた事がある。二度と会えなくなるのなら、その秘密を知った上で、彼女には阿頼耶=斬月=久暁≠ニいう人間を覚えていて欲しかった。
「六年前の朱蜘蛛事件で、お前は燥一郎を選んだ。俺は『白梅廊』の党首からお前を救いたい、ただその一心で『白梅廊』を潰すという燥一郎を助けた。お前が燥一郎に惚れているとも知らずに、な。かつて言ったように、お前の選択を責めるつもりはない。だが、迷惑を承知でこれだけは言わせてくれ。あの時、お前の願いに応えられかったのは……」

 俺の、身体が。

 言いかけた口は、枳の沈む表情に止められた。
「それ以上言えば貴方を引き止めたくなるから止めて。言ったら言ったで戻らないつもりでしょう。そんなの許さないから」
 この狂おしい未練を完全に断ち切ってしまいたいのに、やはり枳は優しく、何よりもその叱責が久暁には嬉しいものだった。嬉しいからこそ、ここで終いにしなければならないと分かっているのだが。

 仕方がない。それが枳なのだ。だからこんなにも愛しいのだ。

 血色の瞳の裏側に煩悶を抱えたまま、久暁は枳のその言葉で充分だと思い込むことにした。そうすれば自然と笑みが浮かぶ。自分はそれだけで幸せなのだと偽れる。
「ほら、早く行って、それでさっさと帰ってきなさい。もし帰らなければ私が直接迎えにいくわよ。覚えておきなさい」
「分かっているさ」
 慣れない笑顔を見せるのも恥ずかしいのか、久暁は別れを告げると早々に笠を被り、顔を隠してしまった。ふと見れば、いつの間にか襖の影から蛍がこちらの様子を伺っている。二人の雰囲気にいたたまれなくなり、廊下に出ていたのだ。
「待たせたな。裏まで案内する。ついて来い」
 笠を被った久暁はもう枳を見ず、声もかけなかった。

 これが燥一郎の仕組んだことであれ、最後に、枳に会えたのだ。むしろ感謝すべきなのかもしれない。
 ここから先は彼女を思うことも、燥一郎を憎むことも止めなければならない。自分は下都から消えるのだから、と久暁は自身に言い聞かせる。
 ただ、枳の中に自分の存在した証が残ればそれでいい。
 惜しむらくは、阿頼耶=斬月=久暁≠フ残像が、久暁の希望したそれとは違う形となってしまった事か。枳にだけは、何もかも知った上で存在を認めて欲しかったというのに。

 阿頼耶=斬月=久暁≠ニいう、臆病者の存在を――




前へ | 次へ | 目次へ

Copyright (c) 2006−2010 Yaguruma Sho All rights reserved.  / template by KKKing