<密使>



「久暁の旦那、ちょっと宜しいでしょうか?」
 短く久暁が返事すると、半開きの襖からあどけない娘の顔が覗いた。質素な小袖からすると手伝いの者だろう。久暁の屋敷で働く人間は機密厳守を考えて一週間周期で新しい者と交代する。日頃久暁は自室に籠もりがちな上に、自分の世話役の名を一人として覚えようとしないので、この娘の顔を見たのも――記憶を頼りにする限り――初めてだ。娘は初めて見る久暁の容貌に面食らっているようだった。
「何の用だ?」
「あ、あの、表の方に、燥一郎様がいらっしゃっておりますが……」
「やっぱり来やがったか!」
 してやったり、と椿が立ち上がる。
「じゃあな、久暁。居座って悪かった。あの阿呆は俺が首に縄付けて帰るから安心しろ」
 軽口に対し、久暁は珍しく微笑を浮かべた。
「頼む」
「お前も油断するなよ」
 椿もまた、得物を前にした狐のようにいきいきとして部屋から立ち去る。
 どすどすとけたたましい足音が遠ざかっていく間も、久暁の口に描かれた弧はなかなか消えなかった。
 知らせに来た娘は椿の勢いにまた驚いて目を丸くしていたが、用が済み次第そそくさと襖を閉めようとした。

「待て」
 いきなり久暁が立ち上がり、襖を止めた。
「お前と会うのは初めてだな」
「は、はい……」
 娘は緊張しているのか、指を絡めた手元に視線を落とした。
 久暁の胸までしかない背では顔が見えない。しなやかな黒髪が頭の上で一つの団子髪に結われていた。
「何時から居る?」
「今日からです」

「下都に来たのは何時だ?」

 それを聞いた瞬間、娘の様子が一変した。
 身体が弾かれたように踵を返し、逃げようとした細腕をすかさず久暁の浅黒い手が鷲掴みにする。
 その素早さに娘は焦ったがしかし、腕に力がこもるとガッチリ捕らえていたはずの久暁の手がいとも簡単に振りほどかれた。
 小娘とは思えない怪力に今度は久暁が驚愕する。娘は逃げるのが困難と悟ったか、逆に久暁の動きを止めようと手刀を構えた。
 小さな手が久暁の鳩尾を打とうとした直前。

「おぉっと、そこまで!」

 いきなり背後から椿が現れて彼女を羽交い絞めにした。
「何ッ!」
 予想外の事態に娘は声を失った。一方、椿と久暁は落ち着き払って互いに目配せなどしている。
「でかした、椿」
「ただ働きってのが気に入らねぇが。しかし、こんな間抜けが本当にそうなのか?」
 間抜け、という言葉が娘の怒りに火を点けた。
 自由のきく下半身が床を蹴り、舞い上がった両足が椿を襲う。危険を察知した椿はすぐさま両腕の枷を外し、彼女の支点を失わせた。だが、娘は猫の動きで廊下に降り立つや椿の胸倉を掴んだ。

「この、無礼者ぉぉぉッ!」

 次の瞬間、怒声と一緒に椿が、廊下の突きあたりの壁まで放り投げられる。
 激突した椿は苦悶の呻き声を上げながら、着物の裾合いをおっ開げた情けない姿で倒れた。怒涛の展開にあの久暁までが硬直している。
「不覚を取ったは私の落ち度にしても、それを小馬鹿にするとは許し難い!」
 あのおどおどした姿は何処へ消えたのか。真っすぐ椿を睨む瞳は、それだけで相手を射殺しかねない激しさで燃えていた。烈火のような怒りとは、こういう様を指すのだろう。
「おい、お前は――」
「しばし待たれよ。使命を帯びた身だが、今は眼前の小悪党を叩く!」
と言うなり、組み合わせた両手がバキボキと鳴る。話を聞く様子ではないと、久暁は彼女の結い上げた団子髪を掴んだ。
「放さぬか!」
 娘は逃れようと拳を振るったが、腕の長さがあまりに違うので全く届いていない。
 ふっ、と小柄な身体に影が射すと、目の前には眉間に皺を寄せる椿が立っていた。大柄な二人に挟まれ、さすがの娘も冷や汗を浮かべて静かになった。
「椿、子供じみた報復は止めておけ」
「納得いかねぇ。何だこのガキの馬鹿力は。しかも、投げられる理由が理由だ!」
「投げられたのはさて置き、八色の黒≠セから少し異常な部分があってもおかしくないだろ」

 娘の身体がビクッと反応した。信じられないという目で、二人を見つめる。
「そなた達、何故私がそうだと分かった?」
「この屋敷では数多くの人間が働いてきたが、足音を完全に消して歩く奴は初めてだ」
「う……」
 注意されていたのに、と悔しげな独り言が聞こえたが、二人共とりあえず無視した。
「……黒≠フ事を知るとはそなた達、ただ者でないな」
「色々と事情はあるな。ていうか、本当の本当にお前は八色の黒≠ネのか?」
 椿は未だに信じられないようだった。
「そこまで念を押さずとも、確かに私は八色の黒≠ナ名はあさ……いや、蛍だ」
「マジで?」
「だからそんなに念を押すなと……待て、どうして嫌そうな顔をしている!」
 椿はまるで頭痛をこらえる様に俯くと、よろける身体を壁に預けた。弛緩した全身を使って大きな溜め息をつく。
「あの者に馬鹿にされておる気がしてならんのだが、もう一度投げ飛ばして構わぬか?」
「止めろ。俺は椿に同意する」
 キッ、と娘――蛍が久暁を睨んだ。その鳶色の目は栗鼠のように丸く、闇の仕事をする者の目とは到底思えないほど澄んでいる。桃色の小さな唇や溌剌とした若々しい肌は、若年の頃から遊女という徒花を見慣れていた久暁には珍しく映った。丁度、歳は十七か十八といったところか。この年頃の娘は必ず、一度は遊廓に身を置いているものだ。それに対して、目の前の蛍という少女はそんな世界とは無縁らしく、気品すら漂う顔立ちからは一切の邪気が感じられなかった。奇妙な喋り方からして、上都の人間に間違いない。
 三人の脇をすり抜け、騒ぎで目を覚ましたモチがのそのそと部屋から去っていく。燥一郎以外には、とんと役に立たない猫である。
「燥一郎を持ち出したのも計算違いだったな。アイツは『火燐楼』の領域は全て己の物と思っている。他人の家に断りもなく上がりこむ常習犯だ。例え俺の屋敷だろうが――」
「全然調べが足りてねぇ上に、ペラペラと良く喋るよなぁ。今の八色の黒≠ヘお前みたいな奴ばっかりなのか?」
「う、五月蝿い!」
 蛍は椿に飛びかからんばかりに憤ったが、久暁に頭を掴まれているので、バタバタとその場で暴れるしかない。うっすらと涙目が光ったのに久暁は気づいた。

「椿、からかいはその位で勘弁してやれ。さて本題に入ってもらおうかその――蛍だったか? 俺に何の用事があってここに来た?」
 蛍はハッとして暴れるのを止め、右の袂に手を差し入れた。そのまま迷うような、敵意をこめた視線を椿の方へ飛ばす。
「他人に知られては困るのか」
「それは、当然……」
「椿はどうせ後で、事の次第を話すよう言ってくる奴だ。話す手間が省けるからここに居させてくれ。心配しなくても、口は堅い」
 蛍はなおも迷っていたが、遂に袂から手を抜いた。握った拳を開くと、中には彼女の小指程の大きさしかない、細長い黒塗りの筒があった。筒には封がされており、白と黒の半円が抱き合う紋様が描かれていた。その紋様の意味を知らぬ『都』の人間はいない。

 それは左大臣家の紋章だ。

「私は今代の御左大臣、八尺瓊様に仕えし者である。此度はそちらの阿頼耶=斬月=久暁殿に、主からの書簡を渡しに参上仕った」
 左大臣が下都の人間に個人的な接触を求めてくるなど、前代未聞である。しかし久暁と椿は予想通りといった風に動じていない。
「それが目的なら、さっきは何で逃げようとした?」
「それは、その、何というか……まさか見破られると思わなかったゆえ驚いて……」
「余計な事はいいから、早く中身を」
 せっつかれた蛍は書簡を渡そうとしたが、久暁自身がそれを止めた。
「俺は字が読めん。お前か椿が読んで、用件だけ教えてくれ」
 字が読めないという久暁の発言に、蛍は信じられないという表情を浮かべた。
「字が読めない奴は下都じゃ珍しくないが、久暁の場合は職業病みたいなもんだ。コイツは物心ついたときから彫金の造形に係わっていたせいで、文字を見てもそれが装飾の模様に見えて仕方ないんだそうだ」
 それゆえに、一個の文字を一つの形として覚えることは出来ても、その羅列を見ていると終いには頭痛がしてくるのだという。
「だから、俺が代わりに読んでやらぁ」

 言い終わらぬ内に椿は蛍の手から書簡を掠め取った。蛍は勝手に触るな読むなと猛反対したが、頭を押さえられているのでなす術がない。
 封を乱暴に引き剥がし、筒の蓋を外して丸められた白い紙を取り出す。広げた紙は五寸程の長さで、表に小さな文字が体裁良く綴られていた。ふぅんと鼻を鳴らしながら、椿の目が文章を追っていく。
しばらくして「んん?」と奇妙な声がすると、首を捻りつつ手紙から顔が上がった。
「何でそうなるんだ?」
「どうした、椿」
 椿は手紙を二人に向けて広げ、問題の部分を読み上げた。

「貴殿が鉄忌を屠り『都』に安寧をもたらし事、我知らざるを罪となす。燈籠を作り『都』に灯を与えし事、我それを賞さぬを恥とせん。貴殿の働きに我応える術を持たず、何をもって報いるべきか」
「わ、馬鹿者! 密書の内容を大声でぺらぺらと……」
 椿に負けない大声で蛍が騒いだが、抵抗むなしく口を久暁に塞がれる。
 椿は構わず続けた。
「しかしながら我に一つの疑問あり。貴殿が鉄忌を屠りし技は剣にあらん。かの剣は、聞き及ぶに先帝の代に失われし『昇陽』が至宝綺羅乃剣≠ノ相違なし」
「何だと……」
 久暁の、あの昏い火の宿った血色の瞳が虚空を彷徨う。自分が大層な代物を持っていた、という驚きとは全く違った動揺だった。
「故に我汝を賞せんと欲すも、汝にかの剣返上の心ありやと問う」

 ――願わくば汝自ら剣を携え、御前に来たりて返上すべし。
 ――然らば、汝が望みは如何様にも叶えよう。

 久暁は自身が虚ろな一個の彫像と化したかのように、その言葉が耳の奥で木霊するのを感じた。
 その顔に喜色の現れぬのを不思議に思ったのか、椿は「喜ばないのか」と小さな紙片の手紙を久暁に押し付けた。
「そのお嬢について密かに上都に参上しろってよ。日時はお前の希望に任せるそうだ」
 おそらく、別れの猶予を与えるということだろう。
 読めない文字には一瞥もくれず、顔を真っ赤にしてもがく蛍を手放した久暁はさっきまで座っていた場所に腰を据え、手前の彫金用の台座下から、一つの銀筒を取り出した。細かい毛彫りの施されたそれが『昇陽』の至宝だという。
「これを持って行けば、左大臣に会えるのか?」
「え? あ、それが……って、これの何が剣なのだ?」
 解放されて空気を必死で吸い込んでいた蛍だが、どう見ても武器には見えない銀筒には訝しげだった。
「自分が持ち帰る物も知らねぇのかよ」
「い、致し方なかろう。長年失われていた上に、大臣家とお上の目にしか触れられぬ神器なのだ、本来は。さっきから何故そなたは私に突っかかってくるのだ?」
「お前みたいな半人前が黒≠セってんだから軽く失望したんだよ。そんなことより」
 椿はまた隙あらば攻撃を仕掛けようとしている蛍を警戒しつつ、動かない背へ突き刺すようにその名を呼んだ。

「久暁……行くのか?」
「ああ。狙いが剣だとしても、俺は左大臣にどうしても会わなければいけない」
「もう一度言っておくが、二度と帰れなくなるかもしれねぇんだぞ」
 久暁はその仏頂面には似合わない自嘲めいた笑みを浮かべて、そこらに放置してあった黒い笠と外出用の羽織を拾った。それはいつも――そして半日前にも、彼が黒狗山へ赴く際に身に着けていた物だった。
「元々、ここに俺がいる事自体が間違いだったんだ」
「分からねぇな。俺にはお前の悲願ってヤツは」
「分からない方がいい。お前は……どうするんだ」
「俺はお前が居なくなろうが、燥一郎が本性現そうが関係ない。ただ椿≠ニいう男がこの『都』から消えるだけだ」

 不意に、何処か遠くから動物の威嚇する叫び声が聞こえた。猫のようだ。
「椿……最後に、一つだけ頼みがある」
「いくら義理の兄弟の頼みとはいえ、死ぬのは御免だ」
 蛍だけが二人の会話の意図が分からずにいたが、突然、久暁が天に向かって咆えた。

「邪魔はさせん、燥一郎!」
 その右手が翻ると、鋭い先端を持つ鏨が四本、まるで鬼の爪のように指に挟まれて伸びていた。

 直後、蝋燭の炎が一瞬眩く燃え上がり、薄暗がりの中からある男の姿が現れる。
 小脇に徳利を抱え、口にするめを咥えているその美貌の持ち主は間違いなく、朱蜘蛛の燥一郎だった――何故貴重品の酒とおつまみを持参しているのかは激しく謎だが。
 「俺の屋敷に酒を持ち込むとは、良い度胸をしているな」
 徳利を見るなり、久暁が嫌悪感を露にした。しかしするめを齧る目の前の燥一郎は朱蜘蛛≠轤オくもない憂いを湛えている。

「貴様は一体……!?」
 久暁と椿は慣れた風に――それでも斬りつけるような殺気を放ちつつ――燥一郎の出現を当たり前のように追求しないが、部外者の蛍の混乱は当然だった。入り口は自分と久暁と椿が佇むこの襖のみ。それなのに、この美丈夫はどこから部屋の中に入り込んだのか。
「久暁、確かにあの猫の感の良さは半端じゃねぇな。まぁ俺を追い払う力はないけどよ。その辺にするめで罠仕掛けといたら一発でかかってやんの」
「いつから聞き耳を立てていたかは知らないが、邪魔するなら今度こそ――」
「無理だな。お前に人は殺せない」
 考え直せ――そう囁く燥一郎の手の平に、ほうっと光が生まれた。
 鉄燈籠の光ではない。白い掌から湧き出た光は、揺らめく火のそれだ。右手から生じ次々と宙へ飛び立つ火は、燥一郎の打掛から抜け出たかのような飛蝶となって部屋を照らした。ふわふわと明滅する光に佇む姿は夢幻に近く、蛍にその光景の異常さを想起させないほどに美しかった――例え小脇に徳利を抱え続けていても。

「燥一郎、お前には鉄燈籠を作る俺を傷つける事は出来ないはずだ」
「何年朱蜘蛛≠フ相手しているんだ久暁。今のコイツはお前の腕がもげようが気にしやしねぇよ。縛り上げて閉じ込めてでも、お前を上都には行かせねぇさ。だろう?」
 久暁を庇うように、研ぎ直された刀に手をかけた椿が立ちはだかる。もう半歩踏み出せば、燥一郎は彼の間合いに入る。
「椿、それはちょっと違うなぁ」
 いつものようにあっけらかんと燥一郎は椿の台詞を笑い飛ばした。すうっと、その声に淡い毒が混じる。
「腕がないと燈籠が作れねぇだろ? それにこの火は椿用だったりするんだなぁ、これが」
 そう言うと、燥一郎の周囲を旋回していた火の蝶が、椿めがけて蜂のごとく真っすぐ飛びかかって来た。

「やっぱりそうかよ。どうして俺を巻き込むかねぇ!」
 椿は手にした刀ではなく、帯に挿していた匕首あいくちを抜いて蝶を斬り落とそうとした。ところが匕首の刃が届く前にいきなり横から突っ込んできた手刀が火を打ち、真っ二つにした。それも、同時に三匹を道連れにしている。
「同じ徒党の仲間に手を上げるとは、そなたそれでも頭目か!」
 はらはらと千切れた羽の消えゆく瞬きが、蛍の若々しい憤りに熱を添えた。
「おぉ〜嬢ちゃん、俺の火を素手で消すか」
 燥一郎が感嘆する間にも、少女は演舞するように蝶を消す。足の捻りが身体を回転させると、空を縫う繊手が力強く弧を描く。その軌道を漂う蝶は皆、蛍の手を焼く事なく消滅させられる。その腕前を、燥一郎はするめを噛みながら拍手までして褒めた。
「凄ぇ凄ぇ、人は見かけによらねぇなぁ」
「いつまでもくちゃくちゃくちゃくちゃと……調子に乗るな!」

 蝶を潰す蛍に気を取られる燥一郎の隙をつき、椿が匕首を投げつけた。
 が、これも難なく燥一郎の拍手する手に挟み取られてしまった――かに見えて。
「あ、刺さった」
 実は左手の小指の付け根辺りから親指にかけてまで、匕首が深々と突き刺さっていたのである。
 しかし、

「ち、血が流れていない!」
 蝶を全て消した蛍が、思わず後ずさった。
 燥一郎の刃を生やした手からは、赤い血が一滴も流れ落ちていないのだ。
 バツが悪そうに燥一郎は匕首を見やると、その手を火球で包み込んだ。炎の中で匕首が形を失い、吹きつける熱風が一瞬久暁達の肌を焼くと、瞬く間に火は消えた。椿の匕首と、燥一郎の傷ごとだ。
「やっぱり効かねぇか、化け物が」
 舌打ちする椿だが、まだその後方で久暁が鏨の爪を構えている。久暁も椿も、怪異には動じていない。人間離れした燥一郎の技に慄いているのは只一人、誰よりも自制心を訓練されているはずの黒≠フ蛍だけだ。
「き、貴様は一体……」
 得体の知れぬ恐怖に自制心が負けたのか、蛍は無意識に燥一郎と距離をとろうとしていた。
「随分と情けねぇ黒≠セなぁ。悪いが、ここまで知られると嬢ちゃんをこのまま左大臣の所に帰す訳にはいかねぇな」
「お前は自分で自分の首を絞める気か。こいつが左大臣の元に帰らなければ『火燐楼』への追求が厳しくなる。いつまでその化けの皮を被っていられるか」
 鏨の切っ先を燥一郎に突きつけ、久暁は蛍を庇うように立ちはだかった。冷たい眼光と燃えさかる火の蝶。二つの光に、相対する二人。
 紅い視線から燥一郎は顔を逸らした。

「……あと三年だったのによぉ」

「何?」
 常人には聴こえないであろう呟きは、砂螺人の血が流れる久暁の耳にはっきりと届いた。
「何が三年だ?」
「お前に大人しくして欲しかった、残り時間だ」
 再び掌から炎が息吹を上げる。だが今度は舞い上がらず、生き物のように流動する炎は燥一郎の全身を巡り、姿を覆い隠した。さながら、燥一郎自身が一つの炎となったようだった。
 熱風と光を噴出す火柱から、あの能天気な声がする。
「これが止められるか?」
 声が耳に届くと同時に、久暁の身体は強い衝撃を受けて後ろへ大きく吹き飛ばされた。
 作りかけの燈籠の山に倒れたその上に、まだ微かな火を引きずる燥一郎がのしかかる。
 間の距離を一瞬で移動したように思えたが、横にいた蛍と久暁の前に立ちはだかっていた椿にははっきりと、一個の火球が久暁めがけて飛んだのが見えていた。見えていたが、彼らには何の衝撃も襲わなかったのだ。
「貴様……!」
 久暁がまだ動く右手を振り上げ、鏨を目の前の細首に突き立てようとしたが、
「また俺を殺す気か?」
 と、鋭い先端は突き刺さる直前で止まった。
「六年前みたいによぉ。久暁、お前が馬鹿みたいに黒狗山へ行って鉄忌を斬るようになったのはあの時からだな。何を考えているんだ?」
「言っているだろう。妖怪に話す事はないと」
「……わざと左大臣に勘付かれるようにしていたな」
 燥一郎は溜息をつきながら久暁の襟元を掴み上げた。そのまま燈籠の山に久暁の背を押し付けると、白い手が無理矢理その口をこじ開ける。どこにそんな力が秘められているのか――明らかに体格の大きい久暁が抵抗しても、拘束する燥一郎はビクともしない。
「頼むから、大人しくしてろっての!」
 そう言うと燥一郎は、ずっと抱えていた徳利の中身を久暁の口に流し込んだ。
 紅い獣の瞳孔が収縮し、救いを求めて目まぐるしく動く。一段と激しい抵抗の後、急激に手足の動きは緩慢になっていった。

 燥一郎が身を離すと、部屋中に酒の香が漂った。
「そう、いち……ろう……!」
 拘束の解けた久暁は全身から力を失い、その場に膝をついた。
「椿が言ったろ。どんな手段を使おうが、お前を左大臣に会わせる訳にはいかねぇんだよ。自分の体質を嘆くんだな」
 久暁の様子に敗北を見たのか、椿の敵意があっさりと掻き消えた。
「流石は椿。引き際をわきまえているな」
「俺は元々どちらの味方でもない。それに言ったはずだぜ、死ぬのは御免だってな。悪いが久暁、諦めろ」
 椿の言葉が聞こえているのかどうか。久暁は両手をついて倒れそうな身体を支えながら、消え去らぬ血色の眼光でまだ二人を見据えている。この様子では今後も、彼が大人しくしているはずがない。
「大した気力だな。いつもなら酒を一滴口にするだけで気絶するってのに――いいか久暁、その嬢ちゃんには剣だけ持って帰ってもらう。ただし頭の中をちょっと弄ってからな。自分が左大臣と会えば他勢力との関係が危うくなる、だから剣だけ返上して一切参内は遠慮したい≠ニお前が言った事にする。それで誤魔化しきれるとは思えねぇが、左大臣だって下都の拮抗状態を崩したくはないはずだから、しばらくは介入しなくなるだろ。それに、お前ももう二度と鉄忌を斬れなくなる」
 すでに久暁にはその全容も聞き取れなくなっていた。混濁する意識は視界を歪め、誰かの言葉が耳の奥で反響する。耳鳴りはざわざわという音と化して、行き場のない――あえて長年押さえつけていた感情の渦に久暁を沈めようとする。

 どうして邪魔をする?
 何故お前は、俺が望んだものを奪っていく?

 お前は何者なんだ?

 引きずり込まれそうになる自我は、ぶつけ難い衝動だけに支えられている。ここで倒れる訳にはいかなかった。倒れてしまえば、一生苛まれてきた問への答を、永遠に失ってしまうだろう。
 身体が重い。鉄のように重く、動かない。まるで鉄燈籠の彫金になったかのように。
 お笑い種だ――俺に命はあるのだろうか?

 耐え切れなくなった視界が暗くなる瞬間。
 久暁は、あの娘が二人の前に立ちはだかったのを片隅に見た。




前へ | 次へ | 目次へ

Copyright (c) 2006−2010 Yaguruma Sho All rights reserved.  / template by KKKing