<常夜>



 ざわざわと浮つく街の息吹は、月が山にさしかかる頃合を境にして、俄かに芽生えた。
 東から昇った今宵の月は紅と蒼、縦に二分された二色の月だった。それはもう、どちらがどちらを侵食しているのか判別がつかないほど見事に分かれている。
 この月を太極月たいきょくげつと『都』の人々は呼ぶが、親しみは一片も含まれていない。真珠色の光をたたえ、花鳥風月と美しき物の代表として謳われていたかつての姿とは違う。
 月面を染める有るまじき色彩。天から顔を背ける理由はそれだけですむ。

 だからであろう。
 誰も、月を横切る黒い影に気づきはしない。

 その動きは鳥のようだが、ふくろうにしては大きい。伸ばしきった両翼はその一振りごとに月の不気味な光を遮り、夜風を巻き起こす。天にたなびく群雲に代わり、月を覆い隠すつもりだろうか。
 羽ばたきに追われるように、戌の刻を過ぎ、天高く昇りきった月は西の山陰へ去ろうとしていた。染み一つない顔は消えやらぬ紅と蒼の眼光で、どこまでも広がる黒々とした海に浮かぶ小さな陸地を眺めている。
 三方を山に囲まれ、一筋の川で両断された街。大路と小路で区切られた人の住処の集合体は、あちこちで咲き乱れる桜の木々と、行き交う人々でわきかえっていた。
 今は桜花の香る時節の始め。天空から眺める花霞は発光している。街を埋めるように咲く桜木は、一部を除けばまだほんの若木だ。しかし、木々に吊り下げられた幾つもの燈籠が灯ると、若い桜であっても急に大人になる。闇から浮き上がるそれはゆったり広がる霧にも似て、ほんのりとした光で『都』を包み込んでいる。
 だが、人でなければ情緒も生まれないのだろうか。
 影は高度を上げ、春の喜びに酔う街から翡翠色の瞳を逸らした。

 ――その空を。
 雲も星も無い、二つの顔を持つ月が闊歩する永久の夜に縛られた黒い空を。
 一筋の稲妻が切り裂いた。

 それは比喩ではない。
 影の目前で、暗幕を突き破るように稲妻が轟音をあげ、暗闇に亀裂を生んだのだ。
 雷鳴が耳を突き刺す衝撃に、影は瞳を歪めた。再び翡翠の目が見開かれた瞬間、生命を搾り出す呻き声が黒い嘴から放たれた。がむしゃらに痛みの元へと手を伸ばせば、鍵爪の手が、さらに鋭い凶器を生やした腕を掴んだ。しかもそれは、閃光と雷鳴を空に留めたまま消え去らない紫電から突き出ている。

 凶器を振り払う暇もなく、大小無数の、肉の質感を持たない腕が稲妻から伸びる。
 刃の、鎌の、鉄の腕が。
 次々と這い出でようと爪を動かす。
 鉤爪が雷の裂け目に切っ先をかけ、力を込めたそれらが門の口をこじ開けると同時に、無数の黒い獣は獲物へと飛びかかった。

 なす術も無く、動かない翼は地へと向く。消える雷光を遠く垣間見、もつれ合いながら、異形達は落ちていく。
 灯火一つない、黒い山へと――










 桜は『昇陽いずるひ』の代表的な花の一つであり、国花でもある。故にこの国では毎年、春の宴を催しては満開に咲き乱れる桜を愛でる伝統がある。『都』の木々はかつて大部分が材木として伐られたが、昔から、そして白雉山しろきじやまの若木を植林した今日でも、街の木々の大半は桜だ。それらに傾ける愛情たるや、開花時期が少しずれただけで騒ぎになるほど――正真正銘の特別扱いである。
 ただし、『都』を取り囲む三方の山の一つ、黒狗山くろくやまだけは違った。
 この山の木も半数以上が桜だが、どんなに歳月を経ようと花は咲かない。咲いたところで神域とされたこの山への立ち入りは禁じられているため、自然と人々はこの山を避けるようになった。
 そもそも神域となった理由も定かではない。帝の御先祖がこの山で崩御しただの、その神祖にあたる暁来大神あきらのおおみかみがこの山に山鬼を封じただのと、由緒不明の俗説ばかりが広がり、誰もその所以を探ろうとしない。
 神域と呼ばれながら黒狗山を覆う気は鬱々としており、『都』の華やかさとは程遠い別の世界、別の顔がこの山にはあった。


「むしろ黒狗山は『都』の影だな」
 研ぎ終えた刀を手渡しながら、嗄れ声は云った。
「実際、神域と怖気おじけて人が寄りつかないのをいいことに、罰当たりな悪党やら町を追われた連中は皆揃ってこの山を根城にしていた。金輪かなわの爺や、ガキのころのお前みたいにな。日陰者は影を巣にするのがお似合いってことだ」
 小屋の中の人影は二つ。こぢんまりとした小さな姿と、背の高い姿。単純な明かり取りから射し込む月光だけでは分からない容貌も、声に刻まれた年月だけなら推し量れる。嗄れ声は小柄な方だ。もう一人が受け取った刀がかすかな月明りを反射し、壁に光を飛ばした。
「未だにこの山を住処にする爺に、言われたくはない」
 反論にしては無感情な、低く、よく通る声がした。背の高い人物――声から察するに男は、仕上がった刀を検分している。
 刀の角度を変える度に、ぼやけた光がちらちらと暗い小屋を巡る。手を止めると、反射された月光が男の顔をわずかに照らした。

 無駄な肉を削ぎ落とした、精悍というよりも野生の荒々しさを秘めた顔つき。一般的に昇陽人の顔は丸みを帯びて彫が浅いものだが、この男は随分凡例とかけ離れていた。まるで硬い樹に彫りこまれた大鷲のようである。
 視線はじっと刃に、刀身に映った己の眼に注がれている。
 深淵の瞳孔と、それを丸く囲む虹彩の紅――

「街にいながらわざわざこの山に舞い戻って来る奴が何を言う」
 この鬼っ子が――と、嗄れ声は嘲笑った。
「確かにこの百舌公こと鳴滝なるたきは、件の婆娑羅ばさらの鬼どもが住み着く以前からここで暮らしている。儂とて偽金造りの悪行ゆえに追われた者だが、利宋りそうみたいに今更街の連中と肩並べて生きる気にゃならんよ。お前なんざ街で暮しているっていえども、どうせ一日中奥に籠ってせっせと金蔓を作っているんだろう。弟子取って落ち着いたかと思えば、まだこうして黒狗山に足を踏み入れる。まともな人間たぁ言えんよ。今でこそ鬼扱いな儂と違いお前は生まれついての鬼子だ。こちらの居心地の方がよかろう」
 返答よりも先に、澄んだ切羽の音がして、銀光が黒塗りの鞘の中に封じられた。
「俺は昔から、この山が嫌いだ」
「ほぉ。あぁ、ちょっと待ってろ」

 急に話を遮り、小さな影が立ち上がった。がたがた唸る戸が閉じると、小屋に残る気配は一つだけとなる。話し相手が去っても、男は振り返りも声をかけもしなかった。
 静かである。
 ひたひたと纏わりつく沈黙から逃げるように、男は天を仰いだ。明かり取りが見える。
 月は見えない。
 不意に、男の腕が虫でも払うかのように翻る。空を切った手はゆっくりと沈み、男はただ忌々しそうに虚空を睨んだ。
 再び背後で戸が唸り、寒い寒いと連呼する嗄れ声が入って来ると、背の高い男の気はまた一個の彫像のように鎮まった。

「何だろうな、この山の寒さはよぉ。街じゃ花見でいい気分だってのに、儂は鼻水で嫌なくしゃみだ。おい、寒くないか?」
「慣れている」
「逞しいことで。やっぱりお前は、ここで暮らす方が性に合っているんじゃないのか」
 男はすぐには応えなかった。からかい半分が図星だったのかと、百舌老人が思いかけた頃に返事があった。
「ガキの時分から、黒狗山には気色悪さしか感じない」
「焦らしといて何だそりゃあ。まぁ誰だってそうだろうよ。桜は咲きやせんし、野兎一匹居やしない。おかげで儂はお前に食い物を寄越してもらうしかないし――」
「そういった気色悪さじゃない」
「じゃ、あれか。神域ってやつか?」
「違う」
「何だ、ハッキリと言え」
「爺さん。風もないのに、触れられていると感じることはないか?」
 老人は首を捻り、ないと答えた。男の質問の意図が分かりかねた。
「この山に来る度、俺はそうした気配を感じる。時にはその気配が身体をすり抜け、臓腑を撫でていくような感覚までする。こんな気味悪い山に、俺だって好きで足を運んでいる訳じゃない」
「それは知らんかったなぁ。ひょっとしたら幽霊だったりしてな。しかし嫌なら何でわざわざ来るんだ。儂の身を案じてなんかいないんだろう。お前がやっていることにも意味はあるんだろうが、放っとけば左大臣が解決してくれる事じゃないか」
「……」
「また黙って答えないつもりか?」
 問い詰めても、無音の闇と同化した男は答えない。
 やれやれと呟く老人の手元で鈍い金属音がすると、ほうっと光が灯った。

 一本の蝋燭並みの光に、周囲の闇がさっと払われる。光源となっているのは子供の握り拳ほどの小さな球体だ。玻璃とも水晶ともつかない透明の珠が光で真っ白く輝いている。それを包み込むのは、羽を広げたさぎの彫金だ。赤みを帯びた鉄色の鷺の意匠は、伝統的な『昇陽』の様式とはやや毛色が違い、より精緻だ。羽の一枚一枚に肌理細きめこまやかな模様が刻まれ、白い光が翼の隙間から溢れ出る様は、目を奪われるほどに美しい。
 皺顔の百舌老人は、枯葉が擦れあうような声と白い息を吐きながら光に両手をかざした。
「お前にゃ悪いがちょっくら暖まらせてくれ。儂はもう耐えられん。歳なものでな」
「消した方が身のためだ。あいつらが寄って来る」
 男は光に背を向けている。周囲の闇から浮き出た黒は着流しの色だ。何の意味があるのか、腰には細い鎖が幾重にも巻かれており、その先端には毛彫を施した銀色の筒をくくり付けてある。
 それ以上に目を惹くのは、二の腕まで伸ばしてある髪だ。昇陽人にはない赤銅色をした髪は、まるで出鱈目に染めて失敗したようにほぼ銅と同じ色もあれば、黒に近い部分もあった。頭の高い位置で一つに束ねられているが、くくってあるのはごく後ろ側のみなので、ざんばらな婆娑羅髪は肩の辺りで横髪と混じり合っている。まとめるために束ねてあるのならば、その意味はほぼ無きに等しい。また妙なことに、髪を結わえてある箇所には折れた簪らしき黒漆の木切れが挿してあった。

 百舌老人は毛皮のぼろを纏った乞食のなりをしているが、顔つきは典型的な昇陽人だ。異貌の男と血の繋がりがないのは明らかだが、言葉の割りに、老人の声音は孫と一緒にいるかのように穏やかである。
「本気で心配していないくせに、そういう事を言うな。あの化け物共が光に寄って来るとはいえ、この程度の明かりなら月が真っ赤な時に灯しても平気平気。これしか体を温める物がないんだ。お前がこれを嫌っているのは知っているがな、儂を凍え死にさせる気か」
「凍えて死ぬ方がマシだった、と思うことになる」
「五月蝿い。このあばら家に降りでもせん限り心配は要らん。それにもう月も沈むわい」
 男は溜息をついた。
 白い吐息だけが戯れるように踊る。男は薄着だが、微塵も身体を動かさない。背後から伝わる温もりだけでなく、光も、気遣いも、一切を拒んでいるかのようだった。

 と、その時。
 全ての黒が一瞬、白へと転じた。
 わずかな間の後、石を叩き壊すような轟音が鳴り響く。

「ひえっ!」
 百舌老人が首を竦めた。
「奴らが吠えよった!」
 男が弾かれたように立ち上がり、百舌が慌てて光球を懐に抱く。
「ほい、お前の出番だ。あぁそれと、椿つばきの刀は置いて行けよ。研いだばかりで折られるのはかなわんからな。研ぎ代はちゃんと儂の身を救うことで払ってもらうぞ」
 楽天的に茶化す老人の言葉を男は聞いていなかった。鷹の爪のように五指を広げると、いきなり老人の襟首を掴み上げる。
「な、何をっ」
「離れろ!」
 乱暴に入り口近くへ引きずり転がされ、痛みに顔の皴を増やす百舌老人だったが、直後。

 先居た場所の屋根が、轟音と共に崩れ落ちた。

 否、何かが屋根を突き破ったのだ。
 現れた黒影に男と老人は息を呑んだ。
 一面に炯炯けいけいと、大小の赤い瞳がある。屋根の大穴から射し込む月光が照らしたのは無数の獣だった。しかし獣の臭いはせず、鼻をつくのは焼けた鉄の異臭だ。ぞろりと生えそろった牙は鋼の刃。長い尾は刃の鞭。体型だけならば普通の獣に似ているが、目の前にいる怪物達は全てが金属質の禍々しい身体で動いている。彼方からの不気味な月光も、硬い身体にぶつかっては鈍い光沢と変わってしまう。

「て、鉄忌てっきだぁぁぁっ!」

 百舌老人が引きつった悲鳴を上げた。
 鋼鉄の獣達は沈黙して二人を睨む。赤眼には瞳孔がなく生気も感じられない。なのにそいつらのよろこびだけは、はっきりと伝わってくる。
 二人はじりじりと、瞳の群れから逃れようと戸に近づいていった。
 恐怖で痙攣する百舌が、必死に軋む木戸を開けようとする。唸るだけでなかなか開かない戸は、業を煮やした長身の男に蹴り破られた。
 最悪とはまさにこの事。
 外には小屋内を上回る数の、赤い瞳の大群が控えていた。
 黒々とした図体が鼠の逃げ場を覆い隠す。鉄忌どもはまだ、動こうとしない。
「ま、まずい」
 思わず後退した老人の懐から何かが転がり落ちた。
 暗闇を駆逐する眩い光が、美しい宝玉から溢れる。
 鉄忌の気配が一変した。
「早くそれを消せッ!」
 男に叱咤された百舌が手を伸ばした時にはもう遅い。
 赤い瞳の群れは狂気じみた咆哮を上げ、二人へと襲いかかった。
 鋭利な刃の爪が、虎鋏とらばさみのごとき牙が、とてつもない質量を備えた四肢が、小屋の壁を紙きれ同然に突き破り、死の風を纏う。
 老人の小さな体躯と男の長身は、悲鳴を上げる間もなく異形に喰らいつかれてしまった――かに見えたが。

 鋼を断つ音に、鉄忌が一斉に退いた。円陣で獲物を取り囲む獣たちの前に、ガシャガシャと降ってきたものがある。真っ先に獲物に跳びついていった同族の、バラバラとなった四肢。そのどれもが、滑らかな切断面から赤黒い液体を流している。
何事か――難を免れた者共は、円を描く骸の中心を見た。
 獲物はまだそこにいる。ただし弱々しい老人の方は恐怖に耐え切れず、白目をむいて気絶したらしい。地を転がる光球が死人のような顔を照らしていた。
 そして、今一人は。
 鋼の悪鬼≠ニ恐れられる鉄忌がたじろいだ。

 骸の中に鬼≠ェ立っている。
 昇陽人より抜き出た長身。赤銅色の、二の腕まで伸びる婆娑羅髪。闇夜と同じ色をした着流しから覗く浅黒い肌は、その至る所が返り血によってぬらりと濡れている。
 右手には鍔なしの両刃の剣。柄にはあの銀色の筒と同じ毛彫の紋様がある。腰に巻かれていた、今は地を這う鎖がその刀身に絡みつき、華奢な銀色の刀身は煌々と淡い白緑色の光を纏っていた。
 光、いやむしろ炎、鬼火か。誘惑するかのように、冷ややかな炎はゆらゆらと剣の上で踊り、暗闇に同化していた男の姿を露にさせた。
 鉄忌の血に濡れた顔がゆっくりと上がる。炎に照らされた瞳は、血色の虹彩と縦に裂けた瞳孔を併せ持つ獣の目だった。

 地面に散らばる鋼鉄を踏みひしゃげ、鉄忌達が一歩前進する。異貌と謎の剣が何するものか。相手は所詮一人、とでも思ったのか。
 男も炎燃えさかる剣を正面へ構えた。つられた鎖がジャラリと鳴く。

 ガチガチと鉄忌が牙を鳴らす。
 男は動かない。瞬きすらせずに、鬼神像のごとく直立している。
 張りつめた空気が、全ての時が、一秒一瞬ごとに凍結していく。
 鉄忌達の冷たい吐息の間隔が、徐々に短くなる。
 男はその凍える空気を、深く肺へと送り込んだ。
 禍々しく吠えた一頭の鉄忌によって、凍てつく空間が粉砕される。

 鋼の四肢が地と同族の骸を蹴り。
 男の赤茶けた婆娑羅髪が揺れる。

 意識を取り戻した翡翠色の双眸。そこに映る両者の対峙は、夢幻のごとく。そして――

 この世の異界のこの地は、たちまち狩場へと変じた。




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