<黒狗山>



かのと様、辛様」
 女の声が御簾越しに聞こえる。呼ばれた白い狩衣姿の人物は、ふっと瞼を持ち上げた。
 花びらを乗せた春風は心地良く、屋敷を包み咲く桜木の香りが鼻腔をくすぐる。世界は常に夜だが、この華やかな香りの前では闇など無意味だろう。
 穏やかな風すら、ここでは話すことをはばかる。花びらを運ぶ姿はあれど、風啼かぜなきや梢のざわめく声はしない。今日も、ここはしずかだ。
「辛様」
「案ずるな。聞こえておる」
 優しく、思慮深い声。しっかりと耳で確かめて、御簾前に平伏する女はほっと安堵した。絶対の信服を寄せる彼女でも、ここ数年における主人の身体の不調には漠然とした不安を抱かずにはいられない。おまけに彼女の心中を知ってか知らずか、目の前の貴人はいつもその不安を煽るようなことばかりしてくれる。
「戯れはお止めになって下さいませ。つづらの胸が騒ぎまする」
「おや、つづらを脅かすような事態がこの私の身に起こるとでも?」
「い、いえそんなことは」
 つづらは慌ててかぶりを振った。最悪の事態など起きるはずがない。確かに不安はあるのだが、それは思ってならないことだ。
「ふふ、すまぬ。からかいが過ぎたな。鉄忌どもが壊した結界を縫い合わせるのに、少々手間がかかっての」
 主も震える青竹色の衣が気の毒に思えたのか。苦笑が微かに漏れ聞こえた。
「今日は珍しく、彼奴きゃつらも大勢で来たものだ。来るだけでもいい迷惑であるが、あちら側には壊したものを直すという配慮がないものか」
「辛様、そのような」
 戯言と解っていながら、つづらは眉を顰めて応えた。
「あれなる者共は、東の大陸でも蛮族と呼ばれておりました低俗の輩。二十七年経ても牙を仕舞わぬことが、その性の証でございます」
「はは、つづらは手厳しい」
 久しぶりに聞く素直な笑い声。自分が役目を果たしていることを実感し、つづらは少しだけ、己を誇らしく思った。
「私はそなたの気の強さが好きぞ。この私にその様に言うてくれる女子はそなただけよ。善哉ぜんざいよのう」
 今までにも同じ言葉を賜ってきた。それでも、つづらにとってこれ以上の光栄はない。かけられた声はまるで清流――もしくは限りなく純度の高い水晶のように澄んでいる。

 しかし。
 配下の中でも、最古参のつづらには解る。かつては曇りなき水晶であっても、永い時を経たことで、もうそれは昔ほど透き通ってはいないことを知っている。
 つづらの胸に巣食う薄暗い影は、今も完全に消え去ってはくれない。

「して、何用か?」
 水晶の声が思考を中断させた。つづらは平伏して、
朱茨あかしが戻って参りました」
と、鋭く答えた。
九十九丸つくもまるを伴っておりますが、手負いの上、傷が深いとのこと」
「通せ」
 つづらは顔を上げ、奥の方へと目線を投げかけた。
 見据える先にあるものは、陽炎のごとく奇妙に揺らめく幻影の壁。色彩を持たない炎のさらに遠く向こうでは、ぼやけて揺れる桜の木々が見える。
 その花々の靄がフッと裂けると、隙間から入り込む煙のように、白と黒、二つの姿がするりと現れた。

 白は、銀紗に一点の朱を落とした着物を纏い、のっぺりと顔に張りついたような目鼻立ちをした童女。
 黒は、人ではない。鴉の頭と翼を生やした、漆黒の水干を纏う異形だ。

 音一つ立てず御簾の前に進み出た二人は、一様に御簾前に並び平伏した。
「朱茨に九十九丸。共に、よくぞ戻った」
「ありがたきお言葉」
「……」
 主の千金にも値する労いの言葉に、朱茨の禿が嬉しさに震えた。
 鳥人・九十九丸の方は黙したままでいる。その胸から腰にかけて、引き裂かれた深い傷口があるからか。
 人間ならば即死だが血は溢れていない。ただし、伏した身体の裡からは、時折この場の閑けさには不釣合な、重く鈍い粘着質な物音が聞こえてきた。
「してやられたな」
 御簾越しの呟きも苦々しい。
 その声を聞いた途端、九十九丸の身体はぐらりと横に傾いた。
「九十九丸殿!」
 側の朱茨が慌てて支える。幼子は九十九丸の頭を、己の細肩の上に導いた。
「今宵は太極月とみて油断しておった模様。辛様の仰せに従い急ぎ駆けつけましたゆえ、幸いにも危うき所は目睹もくとせずにすみました」
 細い手が愛おしげに黒い羽を撫でる。急ぎ参じたものの、九十九丸はかなりの深手を負ってしまった。間に合わなかった、己の不甲斐無さを悔やんでいるのか。
 朱茨もまた、油断していたのだ。大した数ではない、それに、もうじき月も沈むと。

 鉄忌の現れる頻度と月の色の満ち欠けには関係がある。理由は不明だが、蒼より紅の割合が多い日にしか鉄忌は現れない。そして、紅の割合が多ければ多いほど、鉄忌の出現する確率は上がり、数も増える。二色の割合が半々になる太極月の日は、ちょうど折り返しにあたり、たった一回、出るか出ないかというのが二十七年間の常だった。現れたとしてもほんの数匹程度。加えて、鉄忌は月が天にある間にのみ現れる。
 これまでに数多くの鉄忌を屠った功績を持つ九十九丸の油断を弁護するならば、今夜は不測の事態が重なったのだ。
 だが、つづらを驚かせたのは九十九丸の負傷だけではない。辛が朱茨に九十九丸救出の命を与えていたなど、彼女は知らなかった。先程の談笑でも、それらしき様子は微塵も見せなかったというのに。
「鉄忌は残っておらぬ。よくやってくれたと言えよう。それで、九十九丸よ」
 立ち上がる姿に、察したつづらがするすると細い手で御簾を巻き上げる。

 現れた貴人は、何処か幻と錯覚するようなたおやかさに、触れるのも畏れ多い由々しさを兼ね備えていた。白い狩衣に赤い狩袴、頭には黒い立烏帽子といった昇陽人の貴族としてのいでたちは完璧に、鴉の濡れ羽色の艶やかな髪に映えている。穏やかな笑みをたたえた容貌は、どんな者の精神も魂ごと吸い込んでしまいそうだった。
 しかし、その人並みならぬ整った容姿は側に伏すつづら達と同じく、生の世界とかけ離れた麗しさである。例えるならば、幾歳月経ようとも変わらない美しさを保つ真白の紙に描かれた、非の打ち所のない美人画だ。

「九十九丸よ。そうなってまで我が下に参じたのは、あれ・・の為か」
 九十九丸は朱茨に支えられたまま、ぎこちなく頷いた。
「辛様、それは私の口から」
「要らぬ。朱茨、そなたは始めからあれ・・を全て見ていた訳ではなかろう。直接見せてもらおう、九十九丸」
 辛は滑るように九十九丸の前へと歩み寄った。そのまま優雅な動きでかがみ込むと、掌を黒羽に覆われた彼の頭に添える。羽に触れただけで傷を負いかねない柔らかな手は、すうっと九十九丸の頭部に沈み消えた。

 軽く目を伏せ、辛が小さく何かを呟く。か細い声に応え、雅な屋敷のあらゆる所から摩擦音が鳴り響く。空気中を小波に似た、微かな刺激が走った。
「辛様!」
 朱茨とつづらが思わず叫ぶ。顔色一つ変えない辛と違い、九十九丸は苦しげに三対の翡翠色の瞳を激しく明滅させていた。
 主は手を戻さない。それどころか、煙霧と変わった辛の姿は、吸いこまれるように九十九丸の内へと消えていった――















 咆哮を上げた鉄忌達は躊躇なく、赤茶けた髪の男へと飛びかかった。
 獲物を囲む獣に隙はない。そして鉄忌は見かけとは裏腹に、体内の構造の特異さゆえに凄まじい身体速度を備えている。金属質の表皮の下、空洞化した体内には隅々にまで赤黒い体液が詰まっている。その体液が瞬時かつ自在に凝固と溶解を繰り返し、体組織を構築する。まるで内側から糸で操られるからくりのように鉄忌の手足は運動し、重量をものともせず、驚異的な動きを生むのだ。
 鉄塊の突進を、人が止められる訳がない。
 だが骸を飛び越えた途端、鉄忌達はことごとくその仲間入りを果たした。

 一振り。たった一振りで、血の雨が降ったのだ。

 男は気絶した老人に覆い被さると、ただ円を描くように剣を振った。
 剣に纏わりつく白緑色の炎が、刀身に絡まる鎖を這い上り、それは剣の軌道にそって鋭い鞭と化す。
 炎を纏う鎖に触れただけで、鉄の獣は生肉のように容易く真っ二つにされた。
 鋼を断つ音が空気を震わせ、新しい骸は先にできた残骸達の上へ降り積もる。中には勢いを失わず男の足元まで飛ぶものもあった。ガチャガチャと頭痛を引き起こしそうな騒音のただ中、男も煩わしそうに眉をひそめる。
 もっとも、それは積み重なる鉄屑の向こうに残る鉄忌を確認したせいかもしれない。見回せば八方にまだ十体ほど、すくみあがり動けずにいる者どもがいた。化け物に恐怖という感情が備わっているのかはわからないが、男の様子を見れば誰であれ硬直するだろう。
 大量の血潮を被った身体はその色に染まり、赤茶けた長髪の毛先まで鉄忌の血が滴っている。濡れそぼつ前髪の下で、血色の虹彩と縦に裂けた瞳孔が鉄の獣を睨む。
 目に宿る意思は憎悪とは違う。敵意とも異なる眼光が、すでに幾度も鉄忌を貫いていた。

 男は老人の上から飛びのくと、傍に転がっていた光球と鎖の束を掴み走った。長身は鉄忌達の崩れた輪をかい潜り、木々の間を縫って揺れる光点となる。鉄忌達もまた、息を吹き返したように男を――むしろ光球の後を追いかけた。倒れる老人のことは、すでに眼中にないらしい。

 赤い髪が駆ける。
 鉄の群れが追う。
 赤い髪が止まった。

 獲物が振り向く前にと、一匹の狼がいっそう足を進め、顎を開き首筋へ喰らいつこうとする。重量に沈む土を踏み飛び上がったそれは、枝々の網を破り突き進む。
 けたたましく梢が悲鳴を上げる最中、男が光球を手放した。
 それに意識が傾いた、ほんの一瞬で。
 鉄忌は大きく開いた口から真一文字に斬り裂かれ、血しぶきを男の顔に浴びせた。
 あの刀身の鎖はすでに外されていた。はるかに早い斬撃は、斬られた鉄忌に間合いと振りかぶる速度の変化を気づかせなかった。
 全身に体液を浴びながら、男はなおも残りの鉄忌めがけて走る。無感情な表情のまま、紅い目だけが炎を宿し敵を見据える。攻撃に転じたその様は鬼神さながらだった。たたらを踏んだ鉄忌の中から、猿に似た姿の鉄忌が二体――正面と側面から男へと迫る。
 鎖を再び絡めるには時間がない。一体を斬ったとしても、次にはもう一体に潰される。
 だが間合いに届く前にもかかわらず、男は剣を振るった。知らぬ者が見ればそれは愚行としか思えなかっただろうが、無論そうではない。
 剣の軌道にそって、白緑色の炎が弧を描く。放たれた焔の弧が宙を飛ぶと、鉄忌二体の首はあっけなく薙ぎ払われてしまった。中枢を失った首なしのガラクタは走り続けた末、男に蹴り倒され、後方で身構えていた鉄忌達に切り口を晒した。
 首を刎ねた光は裸の桜木には一つの傷もつけず、黒い空へと消えていく。

 空気中に静かな戦慄が走った。鬼気の刃に触れればたちまち霧散する、脆弱な戦慄が。
 ようやく鉄忌達も自覚したのだろう。狩るものと狩られるものの立場は完全に入れ替わっていた。あれほどいた同族達はもう二体しか残っていない。そして目の前には化け物を斬った化け物がいる。

 こいつは――いや、あの剣は、天敵だ。

 獣の本能が命じたのか、鉄忌達は急に踵を返した。その四肢が地を掻くと、瞬く間に男から遠ざかっていく。
 多くの鉄忌に囲まれても動じなかった男の、表情が一変して険しくなる。奴らが戻る先には老人がいる。さらにその先には、『都』の街がある。
 濡れる手で剣を握りしめ、男も鉄忌を追って走りだした。
 ところが五歩も進まぬうちに、猛烈な向かい風が吹き荒れて男を止めた。
 それは明らかに普通の山颪やまおろしと異なっていた。地を削り、砂や枝きれだけではなく小石までもが吹く風にすくいあげられ、立ちつくす者の全身を容赦なく打つ。息もできない暴風に、男は顔を庇い膝をついた。
 屈み込む身体に、派手な水音をたてて何かがぶつかる。冷水のように冷たい何かとは間違いなく、これまで男が散々浴びてきた鉄忌の血だ。通常の生物と違い、凍りつく寸前の冷水のごとく冷たい体液。色こそ動物の血に似ているものの、それは脂臭さもなく、乾燥しにくい性質を持つ。
 まだ残る血溜りから飛来したのではない。風が止まった時、男の目の前にはさっきまで逃げていた鉄忌達の残骸が転がっていた。いずれにも滑らかな切断面がある。ちょうど二体分の骸だ。

 それを見て、男は切れ切れの息で安堵した。そして鉄忌が完全に消えたことを悟ると、糸が切れたように両膝が地に崩れ落ちる。剣に照らされた顔は、赤黒い血が滴り落ちる禍々しさとは別種の凶相に変わっていた。
 今宵のような春も始めの時期に、ましてやただならぬ冷気漂う黒狗山において、零度近くの鉄忌の血を大量に浴び続ければ体温の低下は著しく、下手をすれば命に関わる。
 吐き出す息はもう白くない。それだけ体温が下がっているのだろう。身体も微かに震え、黒い着流しからはぱたぱたと音をたてて雫が垂れ落ちていた。
 軽く二、三度咳き込んだが、男はしっかりした足取りで立ち上がり、未だ焔揺らめく剣をこちら・・・へかざした。
 闇の中、鉄忌の死骸の傍にうずくまる影が一つある。それに気づいた男の目にまたあの火がともった。

 光が浮かび上がらせた影の姿は、人とも鉄忌ともかけ離れていた。水干の装束は人間のものだが、頭は黒い羽毛を生やした鳥――鴉だった。背には黒い両翼、顔には三対の翡翠色の瞳が並んでいる。
「お前は」
 男は動かない異形に語りかけた。血色の瞳は、目の前の怪人が鉄忌を葬る風を起こしたのだと確信している。剣先は油断なく、その首筋に狙いを定めていた。
「お前は、左大臣の式≠ゥ?」
 赤黒い血が滑り落ちた男の肌の上に、うっすらと何かが浮かび上がっている。黒い、小さな紋様の羅列だ。一列に並んで螺旋を描き、露になった胸元にも、剣を握る腕にも、地に立つ足にも。小さな黒い紋様の列は全身を駆け巡っていた。
 異形の怪人が目を明滅させる。驚いているらしい。だが男は何の反応も示さない。ただ、刃の先にいる鳥人だけを見ていた。
「それとも、お前が左大臣なのか?」
「否」

 質問の答は前方の怪人からではなく、右手側から返ってきた。
 愛らしいが暖かみに欠ける鈴のような声。その持ち主は、まだ年端もいかぬ童女だった。とはいえ、一点の朱を乗せた銀紗の着物を纏ってはいるが、禿かむろの下の顔は作り物のようにのっぺりとしていて、およそ童女らしくない。何より、幼い子供が一人で、この入らずの山に踏み入るはずがない。
「汝、名は何と申す」
 男が何か言おうとする前に、童女が口をきいた。無機質な声に敵意を感じたのか、紋様巻きつく手が、剣の柄をいっそう強く握る。
久暁くぎょう阿頼耶あらや斬月ざんげつ=久暁」
 応えを受け、め込みのような童女の瞳がらん、と男を見据えた。
「覚えておこう。九十九丸」
 童女が怪人に駆け寄るなり、二人の姿はたちまちおぼろげとなる。その間、男は剣を構えたまま微動だにしなかった。
 最後に童女が男の方を振り返ったかに思えたが、一瞬のうちにそれも闇に溶け消える。
 そうして、また静けさだけが残った。

「フフ……」
 不意に、男の肩が揺れた。
「やっと、会えるか……」
 彼は笑っていた。それは長い年月を経て、ようやく生まれた歓喜の笑みだった。

「おおぉい」
 間の抜けた嗄れ声が遠く聞こえる。どうやら老人が目を覚ましたらしい。
 時を思い出したように我に返ると、男は手にしていた剣を一振りした。刃は光と共に消え、ただ銀色の筒だけが残った。そのまま筒は指の間をすり抜け、男の全身からふぅっと力が抜ける。
 火の消えた瞳が閉じられると、彼の長身は血溜まりの中へと倒れた。
「おいっ、斬坊!」
 光球の明かりを頼りに、老人がようやく駆けつける。全身を鉄忌の血に染めた男は、苦悶の表情を浮かべ倒れていた。寒さに震える肩が上下し、喘ぐ吐息までが痙攣している。老人は足をもつれさせながら血相を変えて男を抱き起こした。もっとも、男は長身なので肩までしか老人は支えられなかったが。
「こら鬼っ子! こんなに身体冷たくしおって。今寝たら死ぬぞ馬鹿者!」
 老人は急いで転がっていた光球を拾い、男の身体に押し当てた。そして男に自分の着ていた毛皮のぼろを被せると、一目散に小屋の方へと戻っていく。おそらく、暖めるものを取りに行ったのだろう。

 そんなことを考えながら、辛は過去の情景から立ち去った。
 昏倒する男を、忌々しげに見つめながら――















 辛の帰還を迎えたつづらと朱茨は、彼の放つ凄まじい鬼気に凍りついた。表情こそ穏やかで常時と変わりないが、放たれる鬼気は怒り、憎悪、憂い――そんな負の感情を一度に混ぜ合わせたような、混濁とした鬼気だった。屋敷を取り囲む桜が風もないのに激しく舞い散り、煽られた花びらは嵐と化して屋敷を揺るがす。
「辛様、どうかお鎮まり下さい!」
 耐え切れずつづらは叫んだ。このままでは、彼女達の自我まで散り散りとなってしまう。
 その嘆願が届いたのか。直後、吹きつける気は唐突に止んだ。
「なるほど」
 理解したという風に辛は呟いた。今はもう、元の清浄な気しか発せられていない。
「アレが赤鬼≠フ正体という訳か」
「赤鬼≠ニは……もしや、辛様が以前より仰っていらしたあの?」
 思わず、つづらが身を乗り出す。
昂令こうれい十四年から十七年までの三年間、そして二十一年から現在に至るまで、幾度か下都で噂された妖月の赤鬼≠フことでございますか?」
「鉄忌を斬るという話も、真であったとはな。九十九丸の気が急に消えたゆえ、もしやと思うたが。ふふ、あれならば納得がいく」
「その事でございますが」
 朱茨がおもむろに口を挟んだ。
「あやつ、鉄忌と渡り合うなど、並みの人の子よりは大いに力量がありまする様。ですが」
 朱茨は怯える心を押さえこんで述べた。

「あれが手にあるのは、まさしく綺羅乃剣きらのつるぎ=c…なぜ、あのような者ごときが手に」
「隠れておった。いや、隠されておったのよ。この八尺瓊やさかにの目から」
 静かな声には自嘲の棘が含まれていた。

「阿頼耶=斬月=久暁、か」
 昇陽人らしからぬ面妖な名をどのように思ったのか。やんわりと、しかし顔は向けずに、辛は帰ってきたばかりの二人に告げた。
「務め御苦労であった。退がって休むがよい。九十九丸の傷も癒さねばならぬ」
「辛様、あの男については」
「退がれ」
 二度目は叱責に近かった。朱茨は深く頭を下げた後、物言わぬ九十九丸と共に、再び陽炎の壁へと消えていった。
 不気味なほど音のない屋敷に、辛とつづらだけが残る。

「つづらよ」
 おもむろに辛はつづらの手を取り、人差し指で彼女の掌に何かを描いた。つづらには単なる真っ直ぐな線や曲線を組み合わせた紋様としか思えなかったが、辛はこれを覚えておくようにと、強く念を押した。
「辛様、これは?」
「この世界ではただ一人だけが持つ数字よ」
「数字、なのですか」
「1≠ヘ一=A5≠ヘ五=A0≠ヘ零=v
「それが何か……?」
「この事を知る者が現れたならば、その時は心せよ。それと、浅葱家の娘を呼んで参れ」
 その真意は図りかねたが、つづらはいつものように平伏して、その言葉を記憶した。
 屋敷の外から、いくつもの桜の花びらが流れ込んでくる。空間を越えて吹く風に弄ばれ、花びら達は一つ二つと、二人の前をよぎっていく。
 おもむろに、垂れていた辛の手が差し出され、可憐な花びらを一枚掬い取った。
 硝子玉のような瞳にそれが映る。
「やはり、『都』におったという訳か」
 白い指が花びらを優しく包みこむ。
「剣≠ワであったとはな……よくも、我が領域内で潜み続けることができたものだ」
 忌まわしさに震える声に呼応し、手が強く握られる。爪が喰い込むほど固く結んだ掌が開くと、手中の花びらは醜く歪み、破れ、汚らしい姿で落下していった。

儚人はかなひと≠゚が」




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