<疫病神>



「で、昨日の雨の分を加えた真水の総量ですが――」
 分厚い帳面をめくる指が一点で止まり、細い目が記された数字を捉える。

「う〜、気持ち悪い。ぬるぬるしてらぁ」
「旦那、網に乗せなきゃ魚は焼けませんぜ」
 黙々と報告のあった水量の計算をする青年をよそに、そのすぐ傍らでは、箸で尾の先を摘ままれた川魚――しかも高級な甘子あまごを目の前にして、いっこうに調理の進まぬ会話が繰り広げられていた。構わず青年は視線を帳面に落としたまま、独り言のように話を続ける。

「次の雨までの、最低限の量は確保できました。うち分けについては――」
「解ってるって。でもよ、この死んでるくせに開いているどろっとした目とか、見ただけで鳥肌立つし」
「んなこと言ってたら、先に久暁の旦那が帰ってきちまいますよ」

 呆れ顔で指導しているのは、この厨房の料理長を務める茂義しげよしという男だ。中年も通り越した壮年という歳の頃合のはずだが、がっしりとした体格に逞しい二の腕は、未だ体力の衰えを感じさせない。何より、歳を経て料理に対するこだわりはますます強くなるものらしく、目の前であとは焼くのを待つばかりという魚にも、口を挟みたくて仕方がない様子であった。
 そんな茂義がついていながら、なかなか箸を持つ手は甘子を挟み上げようとしない。

掘越ほりこしの耕作地への供給がやや不足になりそうです。心配される程でもないのですが――」
 料理を巡るやり取りには一切干渉せず、報告を続ける声はよどみなく自らの務めを果たしていく。そのうち何を閃いたのか、渋っていた箸の持ち手が、空いた方の指を軽快に打ち鳴らした。
「そうだ茂さんが乗せりゃいいんだ。俺としたことが何を悩んでいたんだか。ハイ茂さん」

 傷一つない整った指が、箸を茂義に押しつける。害虫を怖がる女子のごとく、ほんのわずかな動作で終わることを、何故ここまで嫌がるのか。能天気な相手にやれやれと溜息をつきながら、茂義は箸を持ち直すと、細い魚を金網の上に寝かせた。
「全部一人でやるって言ったのは旦那でしょう。そんなに嫌なら魚にしなくても……俺はもう客の膳やるから、焼くのはちゃんと面倒見て下せぇよ。特に火の調節」
「おぉ、任せておけって」
 先ほどまでの嫌がりぶりは何処へやら。渋かった顔がうって変わって自信に溢れたのを見、茂義はその場から立ち去った。相手が相手でなければ、こんな簡単な料理に構っていられるほど、彼も暇ではない。

「念のため、川守から水を購入しておきますか。燥一郎の旦那」
 ただ一人、会話に全く参加していなかった青年が初めて相手に問いかけた、すると、それまで一切彼の話を聞いていなかったかに見えたその男は、全てを把握した様子でさらりと答えた。
「そうだな。次の燈籠の納期で上がる金を、それに充(あ)てるか。一割使わなくても十分だろ。枳に言っといてくれ。うわ、焼けてひりひりしてきても気持ち悪い〜」
 そう悪意をこめて付け加えると、燥一郎と呼ばれた若い男は、まだ生臭い甘子を憎らしげに箸でつついた。

 白粉を塗ったように肌理細やかで艶やかな顔は、本当に男なのか疑わしい。女と言われれば鵜呑みにしかねない――いや、女の中でも見出せない、類稀な月下美人だ。身体の線は細く、二十代半ばの男にしては肩幅も小さい。腰元まで伸びる髪は墨の滝に見えるほど黒く、数本の朱色の紐で一つの束に纏められている。声さえ聞かなければ誰もが女だと思うし、口を開けば女の魂を吸い取ってしまいそうな麗人である。

 例え、今現在、白い割烹着姿であろうとも。
 前髪が料理にかからないように、きちんと三角巾まで被っていようとも。

 三者三様の会話が交錯する様を、他六名の料理人達は興味半分で見守っていたが、料理長が会話の輪から外れ、
「お前ら、手が留守になってるぞ」
と発破をかけると、慌てて彼らも仕事を再開した。
 甘子だけがそんなこととはおかまいなしに、金網の上で我身を焼かれている。網の下では赤い硝子球のような物体が石台に嵌められており、それがじりじりと甘子をあぶっていた。
 急かされる料理人達には目もくれず、割烹着姿の麗人は依然として、焼ける甘子を睨みつけている。焼き加減を図るにしては煩わしげな目に、傍の青年も見かねた様子であった。
「そんなに魚がお嫌いですか?」
「おぉ」

 即行の肯定。逆に、今度は青年が訊き返される。
千克せんごく、お前は好きなのか?」
「そう口にできる物ではないので、私にはやはり御馳走ですが」
「御馳走、って」

 綺麗な顔がたちまち曇る。
「お前のその細ーい目には御馳走に見えてるのかよ。この生臭い奴が」
「意外です。久暁の旦那や、椿の大兄貴より腕が立つと言われる燥一郎そういちろうの旦那に苦手な物があるなんて」
「誰だって苦手な物はあるんだよ。だがな、俺は少ない方で、椿や久暁にはもっとあるんだからな。それで、水の件はもう済んだのか?」

 訊きながら、燥一郎は細長い鉄棒を網の下に潜り込ませ、赤い硝子球ガラスだまを微かに叩いた。すると火照る硝子球が幾分か熱を失い、光を弱める。その横で、千克が手にした帳面をまためくった。
「はい、後はからたちの姐さんに伝えるだけですね。それと上都について情報が入ってますが、そちらも今言っておきましょうか」
「そうしてくれ。悪いなぁ、こんなトコで」
 二人が居るのは料理職人の喧騒が飛び交う、戦場さながらな厨(くりや)の一角である。何故、こんな所で報告をしているのか。その疑問が一番尽きないのは、緊張しながら燥一郎の傍を通り過ぎる料理人達だろう。茂義は諦めたのか、すでに二人の存在を黙殺していた。
「旦那の突拍子さにはもう慣れましたよ。面倒事は早く済ますに越したことはないですし、むしろ私が押しかけたのですから」
 と、線のような両目が苦笑する。

 千克は燥一郎の右腕のようなものだ。学があるのを見込まれ、燥一郎に仕えて以来六年になる。情報の収集・分析力に長け、燥一郎の耳役としての働きから、仲間内では最も世の情勢を知る者とされる。目が見えているのか疑わしいほどの細目は、ここ『火燐楼かりんろう』内で細目といえばすなわち彼を指すほど特徴的である。

 月が沈み、見世が始まる前に定例の報告をしようとした千克だったが、肝心の主の姿がない。ようやく探し出した所で、当の本人は魚と戦いを繰り広げていた。
 懸命に抵抗する魚をまな板に押しつけ、包丁を逆手に腸をえぐり出そうと悪戦苦闘している燥一郎の姿は、まだ記憶に新しい。

「それにしても、何でまた旦那が料理を?」
「あぁほら、久暁の馬鹿がまだ帰ってこないだろう」
「はぁ」
 要領を得ない回答だが、とりあえず頷く。久暁とは『火燐楼』のもう一人の主で、燥一郎とは幼いころから兄弟同然に育った仲だという。しかし、千克のみならず『火燐楼』が生まれてから燥一郎の傘下に入った者のほとんどは、この久暁という男とあまり面識がない。彼は普段『都』の外壁の向こう、『火燐楼』の生産域区にある作業場で暮らしている。月が紅い間は『火燐楼』を訪れているが、燥一郎直轄の大見世である蓮華屋の奥の庵から出てくることは稀で、誰かが周囲に立ち寄るのも禁じている。今日のように時偶ふらっと何処かへ出かけていくが、その行き先は彼と特に親しい者にしか知らされていない。
「それで、久暁の旦那が何か?」
「んでな、帰りが遅い遅いと思ったら、行った先から連絡がきて、あの馬鹿が倒れたってあったんだよ」
「えぇッ!?」

 ここがどこかも忘れて千克は叫んだ。周りの視線が集中すると慌てて平静を装い、一方で声を潜めて呟いた。
「こんな場所でそんな発言は控えるべきです。久暁の旦那が倒れたなんて」
「安心しろ。もう回復して帰って来ているとさ」
「大丈夫ですか?」
「少し無理をしただけだと。ま、アイツが体調崩すのはいつものことだ」
「洒落になりませんからね。久暁の旦那に万一の事があればこの『火燐楼』も――いえ、『都』もどうなるか」
「アイツときたら、出来もしないくせに普段からろくに飯も喰わず寝もしないからな。本当に馬鹿」
「そんなに仕事の量がかさんでいるのですか」
「違ぁう!」

 箸と鉄棒を固く握りしめ、燥一郎は千克に詰め寄った。あまりの迫力に千克も後ずさる。
「アイツは単に作業に没頭して飯喰うのも寝るのも忘れるんだよ。それもガキの頃から治らないときた。鶏だってそのくらい学習するぞ」
「でも『火燐楼』内でそんな話は聞いたことがありませんね」
「こっちに来ている間は定時にちゃんと喰わせているからな。だ〜から大人しく、ここで引籠ってればいいのによぉ」
 引篭るとはあまり良い言い回しでない上に大人しく≠ニいうのも妙な話だが、千克はやっと事情を飲み込んだ。
「なるほど。それでこんな所に居るんですか」
「そういうこと。茂さんに訊けばいい魚が入ったっていうからな。しょっちゅう無愛想にしているアイツのために我慢して、この気持ち悪いのと戦ってるんだよ、俺は」
 うんうんと頷く燥一郎に、千克は感心したのか呆れたのか、判断しかねる溜息をついた。
 ふと、急にその細い目と目の間に、くっきりとした縦皺が生まれる。
「しかし、何もわざわざ旦那が作らなくとも」
「良いじゃねえか。それとも、俺が作ることに何か問題があるのか?」
「でも、失礼ですが……確か旦那って、料理はあまり上手くないと枳の姐さんから聞いたことがあるんですが」
 と、千克が言った直後。


 ピキッという小さな異音が、話し込んでいた二人の耳に飛び込んできた。


「おい! 何だこの煙は?」
 料理長だけでなく、周りがたちまち騒然となる。
 いつの間にか厨房の天井一面を、黒い煙がもうもうと覆いつくしていたのだ。
「旦那……」
 額に冷や汗を浮かべた千克が、燥一郎の背後を指す。

 真っ赤になった石台の網の上、そこで焼かれている甘子だった黒い物体が煙を吹き出していたのだ。

「おぉ、いつの間に」
「呑気なこと言っている場合ですか!」
 千克は燥一郎の持つ鉄棒を取り上げ、幾度か中の硝子球を突いた。表面をはたくように叩けば発熱、中心へ打ち込むように突けば冷却するはずの硝子球はしかし、過剰な熱の放出で生じた皹(ひび)から火を放ち、真っ赤に染まったままいっこうに冷めない。
 動きを止めた料理人達を押しのけ駆け寄った茂義のこめかみには、くっきりと青筋が浮かんでいた。
「旦那! 火の調節を忘れるなと言ったでしょう! とっ捕まりたいんですか!」
「ゴメン茂さん。話し込んでてうっかり忘れてたわ。まぁまぁ、すぐに冷ますからさ」
と言う燥一郎の片手には、非常用の水桶がいつの間にかある。

 一同の顔から血の気が引いた。

「そーれ」

「「止めろぉおおおお!」」

 燥一郎が焼け石に水≠ニいう言葉を知っていたのかどうか。
 水をかけた瞬間、激しい蒸気の煙が巻き起こった。
 新しく生まれた白い煙は先に漂う黒煙を飲み込んで、厨房中に広がっていく。

「おぉッ!?」
 今度こそは驚いた燥一郎が思わず仰け反る。
 その鼻先を掠めて何かが飛来した。燥一郎の目先の壁に突き立ったそれは、紛れのない出刃包丁。

「この馬鹿旦那! なます切りにするぞコラァッ!」
 柳葉包丁を構えた料理長の姿が、煙の中からぬっと立ち上がる。
「まずい、料理長が素に戻ったぞ!」
 他の料理人達がその豹変ぶりに悲鳴をあげた。皆一様に、止めに入るどころか逃げ場を求めて煙の中へ入っていく。その靄を寸刻みにする勢いで、茂義は包丁を振るい突き進む。 まさに、今に白煙が血煙へと変わりかねない状況だ。
 燥一郎と千克もすかさず煙の中へ紛れ込み身を隠した。
「旦那、どうするんですかこの始末。茂さん見境なくなっていますよ」
「まずいなぁ、こりゃあ。一応あのオッサン、元若衆副組長の一人だもんなぁ」
と、千克の背後に隠れる燥一郎が呟く。
 続ける言葉が「どうやって逃げようかなぁ」と言っているように、千克には聞こえた。
「よし、千克。骨はちゃんと拾ってやるから行ってこい。お前が盾になる間に俺は逃げる」
「だ、旦那が蒔いた種でしょう!」
「いや考えてみろ。話を持ちかけてきたのはお前。魚の方を向いていたのに気づかなかったのもお前。よって俺が蒔いた種を芽吹かせたのはお前と決定」
「そんなの有りですか!?」
 抗議も虚しく、荒れ狂う厨の長の元へ突き飛ばされそうになった千克だったが、ここで思わぬ助け舟が現れた。

「おい、燥の阿呆は居るか……って、何だこりゃ」

 修羅場と化した厨房をひょっこり覘いた者がいる。事態に遭遇したのは、三十路に近いであろう一人の男だった。
 白地に笹葉模様の着流し。犬の毛のような短い黒髪。両腕にはジャラジャラと細い腕輪が幾重にも重なり、耳たぶに開いた穴からも耳飾がぶら下がっている。まともな昇陽人の感性からは程遠い、傾(かぶ)いた姿だ。
 が、騒動に面食らう男を見るや、燥一郎が光明を得たとばかりに顔を輝かせた。

「椿ぃ〜」

 料理長の視界から逃れつつ、二人は男に這い寄った。
「おい燥一郎、どうなってるんだ?」
「いやぁ椿、良い所に来たな!」
 椿と呼ばれた男は、燥一郎につられはしなかった。白々しい燥一郎の笑顔にそぐわぬ、背後の大混乱を見て笑える者がいようか。笑えない理由はそれだけではない。訝しげな視線が燥一郎に注がれる。
「しかもお前のその格好。どういう趣味だ」
「これは見ての通り、割烹着というものだ。服装の趣味について椿がとやかく言う権利はなぁい。だが事の全てを知りたいというのならば、お前にはこいつを進呈しよう」
 燥一郎は被っていた三角巾を取ると、少し高い位置にある椿の頭に無理矢理のせた。おまけに割烹着まで脱いで投げ渡す。

「燥、どういうつもりだ。こっちは利宋のジジイが来たんで探してた――」
「んじゃ、後はよろしくぅ〜」
 聞く耳持たず、二人の頭が椿の脇をすり抜ける。
「オイ!」
 嫌な予感を嗅ぎとった時には、もう遅い。

「ウッ!」
 頬に鋭い痛みが走る。反射的に身体が動いたおかげで、傷は一筋のごく浅いもので済んだが、呻く椿の傍には、柳葉包丁を振りかぶる料理長が立ちはだかっていた。

「そ、燥一郎ぉぉぉぉぉっ!」

 木霊する椿の悲鳴。

 しかし、友を犠牲にした逃亡者とそのお供は脱出に成功し、すでに遠く離れた廊下を呑気に歩いていたのであった。




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