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<朱蜘蛛>「はぁ〜、災難だった」 椿を案ずる様子は全くない。燥一郎は大儀そうな溜め息をつき、しきりに小袖の裾に鼻を近づけた。 「臭い」 体中に焼き魚の匂いが染み付いている。一刻も早く脱ぎ払いたい衝動を我慢して、燥一郎は袖を留めていた襷をほどいた。 「大丈夫でしょうか?」 「現役の若衆頭が引退したオッサンに負けるか」 千克も椿がやられるとは思っていない。先の言葉は椿の生存よりも、後々怒り心頭の椿が燥一郎と一悶着起こす事を危惧したのだが。 いや、その前に自分が締め上げられるだろう。諦めはついているが、今更になって千克は逃げたことを後悔した。 若衆頭の椿は、若衆からとり立てられた千克にとって元上司にあたる。 若衆とは、各勢力が腕に覚えのある者を集めた私兵集団、遊廓での用心棒のことだ。といっても雇われ稼業とは違い、メンバーは自動的に勢力内の住民で構成される。若衆頭はそれらを束ねる者であるから、腕前はもちろん、血気盛んな連中を抑えるだけの統率能力を持つ者にしか務まらない。しかも一党の戦力を握っているのだから、党内でもある程度の権限を持つようになる。 椿が燥一郎の傘下に入ったのは、千克より一年遅れである。だが、『火燐楼』に来たその時から椿は若衆頭となった。それまでは例の久暁が表に現れずとも指示だけは与えていたのだが、本業の鉄燈籠作りで手一杯だったらしい。 一つ疑問があるとすれば、椿は元々『火燐楼』の商売敵の一つ、『 所詮、『火燐楼』に身を置く者は皆、何かしらの事情を持っているのだ。でなくば死を覚悟して旧党を抜け、新興の若い党に鞍替えしようなど誰が思うか。 ここはそんな重荷を少しでも軽くするために造ったのだと、千克は目の前の主から聞いたことがある。 その言葉の意味は、千克にもよく分からなかったが。 「ところで旦那。さっき椿の大兄貴が言っていましたね。利宋殿が来たと」 「ちっ、やっぱり聞いていたか。お前は耳が良過ぎだ」 振り向いた顔は子供のようにふてくされていた。よほど利宋という人物が嫌いなのだろう。 「枳の姐さんに釘刺されていますからね。利宋殿が来るのにそんな格好で会うのですか」 「着替えるに決まっているだろぉ。こんな魚臭い小袖。着替えてから腐れジジイの顔を見るのかと思えば、逃げ出したくもなるっての。全くもうすぐ久暁が帰ってくるのによぉ〜」 香ばしい臭いをさせて歩く燥一郎へ、すれ違う者達は一様に頭を下げる。 中には呆れたという苦笑いを浮かべ「今日は何をしているんですか?」と聞いてくる者もいた。 適当に周囲をあしらい、二つの渡り廊下と咲き乱れる緋桜の中庭を越えて奥の屋敷へと向かう。 蓮華屋の裏手に佇むここが、燥一郎と彼の奥方の住居にあたる。表で出迎えた若衆に軽口を叩きつつ、燥一郎は自分の部屋へと戻った。 中を見る度に、千克は物悲しさを感じずにはいられなくなる。燥一郎は顔良し、腕っぷし良し、頭良しと三拍子揃っているのだが、生活力だけはことごとく欠けていた。先の料理然り、そしてこの自室の管理も―― 鉄忌が暴れてもここまで物が散らばりはしないだろう。足の踏み場がないのだからもはや散乱とも言えない。 燥一郎は戻るなり纏っていた小袖をかなぐり捨て、山積みになっている着物から蘇芳色の物を取り出した。 「旦那、せめて着物くらいまともに仕舞って下さい。高い布が台無しですよ」 「これは全部普段着だからいいんだ。利宋に会うならこれで充分。それより千克、さっきの話の続きだが」 袖に細腕を通しながら燥一郎が言った。とっさに何の事か分からず、千克は目を――瞬きしているのかも怪しい糸目を――泳がせた。 「話って、利宋殿の……?」 「ばーか。ジジイじゃなくて、厨房で言いかけていた『上都』のだ。途中で脱線しただろ」 「あ……」 やっと思い出した千克は帳面を取り出した。ペラペラとめくる間に、燥一郎は辺りを掻き回しながら帯を探している。 「ありました。えぇと……三日前になりますが、左大臣が久しぶりに参内したそうです」 「ふ〜ん、二ヶ月ぶりになるか?」 応えるわりに燥一郎は興味がなさそうであった。ようやく見つけた帯を巻こうとしているが、前の合わせがなかなか仕上がらず、口をへの字に曲げている。 「で、わざわざ出て来るなんて何かあったのかねぇ」 「表向きは帝の見舞いとなっています。ただし前回まで定期的だった参内が、この二ヶ月間は音沙汰無しだった所から考えるに、詔で呼ばれたのかもしれません」 「二ヶ月間の動向はやっぱり不明か」 「左大臣に関する情報は伝わりにくいので。好んで噂する奴が少ないんですよ」 「あんな奴の何処が怖いんだかなぁ」 「本当に怖いもの知らずなんですから。しかし、一つ気になる事が……」 旦那、と急に千克は神妙な面持ちになった。 「 「はぁ?」 燥一郎の手が止まった。 千克が別の帳面を取り出して続ける。 「未確認情報なのですが……左大臣の参内以降、上都の客からよくこの言葉を聞きます。彼らも言葉の意味までは分からないらしく、左大臣の意図を知ろうと下都の人間に訊き回っているようです。人の口は軽いといいますがねぇ……しかし、何かの暗喩か、それか具体的な名称なのか」 首を捻る千克がふっと視線を戻すと、さっきまで興味なさそうにしていた燥一郎が急に黙りこみ、思索にふけっているようだった。どうしたものかと千克が声をかけられずにいると、 「あぁ、それであのジジイ」 ぽつりと燥一郎が呟き、それまでとはうって変わった手つきで、いきなり着付けが猛スピードで進んでいく。あまりの早業に千克が手を貸す間もない。 「旦那、ひょっとして、利宋殿に会いたくないからわざともたついていたんですか?」 「五月蝿い千克。そこの打掛よこせ」 着物の着付けが終わると、千克が衣桁から外した打掛を肩にかける。緋色の地に、桜と蝶が乱れ舞うかなり派手な女物の打掛だ。これだけは衣桁に掛けられていたため、さほど形が乱れていない。 もっとも、一般的な昇陽人男性は間違っても女の着物など羽織らない。 仕上げに燥一郎は一つに束ねていた髪の紐を全て解き、打掛の下から上へと掻きあげた。 黒い滝がさらさらと緋色を覆う。流れる墨色の川は、端だけが朱色の紐で束ねられた。 「千克」 いつも通り即座に返事をした千克だったが、次の瞬間、その背筋をゾッとする気配が走り抜けた。 「さっきの話、絶対誰にも言うんじゃないぞ。少なくとも今はなぁ」 軽い口調なのに威圧される。人は仮面を被っても声に潜む本性までは騙せない。 日頃の燥一郎はそれこそ、頭の螺子が緩みきった気の弛緩っぷりを見せている。 それが素の燥一郎であるのならば、螺子が締められた時、何が彼をこのように妖艶にするのか。 何故あれほど能天気だった笑みに、甘い毒に似た香りが漂うのだろうか。 こんな燥一郎に千克は覚えがあった。 六年前のあの事件。燥一郎は確かにこの顔をしていた。 「行くぞ」 『火燐楼』頭目、通称・ 美しい顔に被せた朱蜘蛛≠ニしての仮面には、どこか以前とは違う、剣呑な影が射していた。 人に限らず、生有るものは元来闇を畏れる。 身体を包み込んでは輪郭を奪う影の空間の中に、生者は古くから魔境の存在を見てきた。 また、生有るものは皆、闇を畏れることから生まれる、静寂という名の安息を慈しんできた。人間の三大欲求の一つに睡眠があるのも、眠りに落ちた瞬間に訪れる暗闇の誘いを、心の何処かで待ち焦がれているからなのだろう。 畏怖と安息。それが闇の持つ力だ。 だからなのか。 安息は意識を解放させ、抑圧を除かれた人間は光ある時とは別人のような仮面を被る。 彼等の被る仮面の大半は、魔境から送られた悪逆≠ニいう名の面だった。 常夜の地となった『央都』は、左大臣のとった最終手段への怒りから大混乱に陥った。封印≠ノよって鉄忌の脅威は去ったが、残された『昇陽』の人々を見捨てた事に変わりはない。生き残ったわずかな人々は、美しかった『央都』を破壊していった。 無論、これには自分達の行く末を悲観した自棄もあった。水から出された魚が息絶えるように、日の下で生きてきた者達が、日のない世界で生きていけるものか。鉄忌の脅威と比べれば、まだ異国の蹂躙を受ける方がましだっただろう。 少しでも生き永らえようと、木造の建築物は打ち壊されて火種にされ、下都のみならず帝の座す上都にまで食物を求める手が伸びた。左大臣の力への畏怖がかろうじてそれを押しとどめていたが、混乱は収拾し難かった。 その状態が続いていれば、一月もしない内に、生き残ったはずの『央都』は自滅していただろう。 月が真紅に染まった最初の日に、鉄忌が再び現れなければ。 鉄忌の再出現は、残された人々から暴動を起こす気力すらも奪った。雲のない空を走る雷と小さな黒点。それを見た者は思考が停止するのを感じた。最早、先の望みを持てなかった人々にとって、その鉄忌はあの世からの迎えに思えたのかもしれない。 しかし、そんな災いが転じて福となるとは、誰が予想しただろう。 鉄忌を葬ったのは、左大臣が以前入手した骸を調べあげて造った式≠ニいう直属の私兵だった。おまけに封印≠フ結界は、さすがの鉄忌も易々とは突破できず、『央都』に降り立ったそれらは本来よりもずっと弱体化していた。結果的に出現した鉄忌はあっけなく殲滅され、左大臣に、ひいては帝に楯突く輩はたちまち勢いを削ぐこととなる。 さらに、鉄忌を倒したことで思わぬ副産物が生まれた。 鉄忌の脅威が薄らいだとはいえ、太陽の昇らぬ世界で人は生きていけない。何よりも必要なのは光と熱だった。火を起こす火種は少なく、それだけでは作物は育たない。そこで一人の大陸人が鉄忌の残骸を組み合わせ、内部にわずかに残るエネルギーを利用して発光・発熱する装置を作ったのである。 侵略から初めて、人々の心が明るく照らされた。 生きる術を見つけた『央都』は混乱から安定へと移り、奇跡的に二十七年間も存続し続けている。 しかし、全てが丸く収まった訳ではない。こうした環境の変化は『央都』を元の美しい姿ではなく、全く別種の美しさへと変貌させた。 元々、東北の黒狗山から南の赤猿山をかすめて流れる平沙川によって、『央都』は貴族の暮らす上都と、下々の者が暮らす下都とに分断されている。その境界は健在だが、下都は現在、実質的に五つの勢力による自治区と化している。 貴族支配が一時的に力を失い、封印≠ノより環境が激変した初期の『央都』における動乱期。それは憤る民衆による略奪、暴行と、凶賊さながらの蛮行が渦巻いている地獄だった。自暴自棄となった民衆の怒りの矛先は誰彼容赦ない。そのうち、この混乱を利用して大きな勢力を形成しようとする者達が現れた。 始めの内、彼等はごろつきを単純に組織化しただけのならず者に近かった。ところが『都』が安定期に入ると、ならず者同士の小競り合いが、少ない食糧・衣服などの物資を狙い合う、計画的に組織化された勢力間での抗争となった。上都の象徴的な権威回復で表立った闘争は息をひそめたが、すでに貴族では対処できないくらいに、彼等の力は強大になっていた。大きな口を挟まなくなった上都を尻目に、あるいは様子を伺いつつ、下都の水面下では上都の有力者の名を借りた対立が続いているのだ。 各勢力の頭領は常に、物資を優先的に得る貴族達にどう取り入るかを考えた。貴族優先に憤る者が出れば、彼等は弱体化した『央都』の武士十家に代わってこれを潰す。もちろん、左大臣の逆鱗に触れぬよう、それなりの罪をでっち上げてである。だが、これも決め手としては弱い。いずれ『都』が落ち着けば、恩を売ることも、敵対する他の勢力を攻撃することも難しくなる。 加えて、元々ならず者の寄せ集めであっただけに組織力も磐石ではない。それを逆手にとって、敵対者の人間を引き込む手段も考える必要があった。 貴族の威を借るのにも、敵方を引き込むにも有効な方法。 封印∴ネ前から男尊女卑の傾向が強かった『昇陽』では、無論男が中枢を担いやすい。 彼等を手玉に取る最良の策は、女。 『央都』と呼ばれていた時代との最大の相違点は、表向き物資の生産・流通を担っている下都の半分近くが、実は遊廓であることだ。 封印¢Oまでは、遊廓に限らず春を売る行為は帝の御前を穢すものとして厳しく禁止されていたが、動乱の怖さが身に染みた貴族達はこれを黙認せざる得なかった。実を言えば、左大臣から人口調節のために夫婦同衾の規制が布かれ、封印≠ノよって女性の数自体激減していたものだから、下層の貴族などは特に、密かに下都へと通ずる五本の境橋を渡る者が多く出た。左大臣と帝がこれにどういう反応を示したかは、明らかではない。 『央都』の辿り着いた結果は、ある意味鉄忌に滅ぼされるよりも悪質な結果かもしれない。 しかし、『都』の人々はもっと重い罪を背負っている。 残されたもう一つの『昇陽』のことを、人々は忘れていった。 忘れようとした。 『央都』は『都』となり、国でも街でもないただ一つの世界として存在していた。 彼等は絶望的な世界の中で、生きることだけを考えていた。 絶望的だったからこそ、どのような形でもいい、何かしらの希望を求めたかったのだろうか。 そして現在、下都の有力者は五人いる。中でも、最も古株である 坤の桃源。 艮の緋桜。 それが下都の裏社会を牛耳る男達に、闇が与えた仮面の名である。 前へ | 次へ | 目次へ |
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