<坤の主>



 紅と蒼の顔を持つ二色の月が沈み、街の花見は宴もたけなわとなったようだ。きっと外では桜の枝に下げられた鉄燈籠が輝きを増し、『都』の大路は薄紅色の仄光る河となっているのだろう。
 何処からか聴こえてくる琵琶の音に嬌声。つい先程など、小競り合いの怒声が二階の奥のこの部屋にまで聞こえてきた。
 もっとも、そんなことは日常茶飯事なのだが。
 待たされている部屋は元々貴人用の、おそらく『火燐楼』が生まれてからは一度も貴人を通していない一番上等の部屋だ。埃を被らず小奇麗なのは、今日のように利宋がいきなり訪ねてくるのに備えているからだ。一輪挿しの瓶に飾られた緋桜の枝もまだ瑞々しい。
 暇潰しに部屋を見回していると、天井から吊り下げられた鉄燈籠に目が止まった。
 やや赤みのある黒い金属に施された、精巧な彫金。どうやらそれは鬼が舞う様子を彫ってあるようだ。牙をむき、乱舞する鬼の筋肉の一筋一筋に込められた躍動感に思わず感嘆する。本当に鬼が存在するならば、きっとこんな肉体をしているのだろう。それは鋼よりも硬く、だが何よりも靭かに、幽玄の中から躍り出て来るのだ。
 中心部からは眩い真白の光が溢れ、鬼が光を喰らう様にも、光が鬼の身体を突き破った様にも見える。おどろおどろしい外殻の彫金と対称的でありながら、まさしくその燈籠は芸術的な美しさを持っていた。

 たいしたものだと胸中で呟きながら、利宋は法で禁止されている火を煙草に点けた。本来この国では生産できない煙草だが、利宋は大陸から持ち込んだ株を密かに改良させ栽培している。火の使用が禁じられていようと、昔から大陸との貿易でしか入手できなかった煙草を求める者は多く、生産個数が少なくともこの商売はいい金になる。
 実際、上都の法がこの下都でどれだけの力を持つというのか。確かに燈籠の核のおかげで今や火は要らなくなった。むしろ災いだが、大火を恐れて使用を禁じたとしても、火を使う者は現実に存在する。
 例えば山に暮らす者達。『都』の外には現在でも、やむを得ない事情から街へ下りることを拒み、細々と生きながらえている連中がいる――中には利宋の昔の仲間も。
 彼等は暖を取るにも飯を喰うにも、街の人間の暮らしと違い、燈籠の核を持たないゆえ火を焚くしかない。
 利宋や他の勢力の頭目達はこぞって違法者達を狩った。大火は恐ろしいが、正義感で動く利宋ではない。捕まえれば上から信用され、要領の悪い奴を消すことができる、理由はそれだけだった。
 長年続けた甲斐があり、火を使用して見つかるような馬鹿はほとんど姿を消した。煙草による利宋の処世術は当たり、その介あってこうしてのんびり一服できるのだ。
 もっとも、成功を収めた最大勢力の頭目の足元を狙う奴など内にも外にも、歩けば当たるほどいるのだから気は抜けない。

 そう、今くつろぐこの場所も、因縁深い敵地に他ならないのだ。

 庭の満開の緋桜を眺めるなど、利宋からすれば胸が腐りそうな不快感を覚える。花を素直に美しいと思うくらいの器量はあるのだが、そもそも桜という花に愛着が持てないのだ。大陸の『天』出身の利宋にとっては、花といえば桃である。桃は『天』でも『昇陽』でもめでたい花とされるが、自分の住処を『桃源楼とうげんろう』と銘打っているのは験を担いだ訳でなく、異国人である自身の存在を知らしめるのにうってつけだったからだ。
 桜はあっという間に花びらが散り、盛りが終わる。『昇陽』の人間はそれが美しく、可笑しく、哀れで愛しいのだという。孤島で二千年以上も太平楽に生きてきたせいで、変化に飢えているのだろう。
 そういえば、この『火燐楼』の主も変化というものに縁遠い存在だ。
 何となく利宋は桜を嫌う理由を見出した気がする。遠くにそびえ立つ緋桜は、あの男の願望なのだ。

 だが、人の気分とは気まぐれで不可思議なもの。この時の利宋は、稀にないほど機嫌が良かった。
 相手をしている枳の目にも明らかなほどに。
「本当に申し訳ありません。いつも燥が待たせて」
と詫びると、いつもなら口だけで嗤っている男が、今日はどうしたことか饒舌である。
「おかげでこうして『都』一の美女とサシで話せるんだ。あの阿呆も役に立つ」
「まぁ……『都』一など昔の話ですわ」
「謙遜だな。太夫を退いたからといって、お前さんの美貌に勝るものがあるか」
 つうっと、利宋は枳の身体を眺めた。桜色の着物に、結い上げた射干玉色の髪。露になったうなじの線。やんわりと微笑む彼女は数年前までのように豪奢に着飾ってはいないが、つつましげな現在の姿の方がより美しく似合う。また、どこか昇陽人らしからぬ容貌と気品が利宋の気に入る所となっていた。むしろ大陸の女に似ている。利宋にとって枳は平凡などこにでもいる昇陽の女なんかより、遥かに貴重な存在だった。
 だからこそ、当時二十歳であるにもかかわらず彼女が太夫を辞めて所帯持ちになったことは、未だに口惜しいとしか言いようがない。
「俺の所に来れば、また『都』一の太夫として花を咲かせられるぞ」
 お決まりの文句に枳が苦笑する。だが利宋は半分以上本気だ。
 本来、本来ならば、彼女の主は自分になるはずだったのだ。

 利宋は今年で五十五になる。小柄で体力も衰えてきてはいるが、身体はまだ引き締まり、強面の顔は盛りのころよりも皺が刻まれ穏やかになった。眼帯で封じられた右目は笑みを浮かべ、美味そうに煙草を味わう表情は好々爺そのものだ。
 そんな彼が『下都』の南西・坤区に位置する大遊廓、『桃源楼』の総元締め嗤いの利宋≠セと知れば誰もが恐怖でおののく。
 動乱期、真っ先に頭角を現した利宋は、他の党に限らず貴族達にまで悪名を知らしめていた。
 封印¢Oの利宋は、『昇陽』中を恐怖に陥れた大陸渡来の兇賊集団婆娑羅衆ばさらしゅう≠フ一員だった。

 婆娑羅衆≠ヘ東の大陸にある砂漠の国『砂螺さら』から現れた、一種の流浪の民だった。国によって違う名で呼ばれ、与えられた名全てを自らの名とする砂螺人に率いられた集団。砂螺人以外にも様々な人種で構成されているが、どういった経緯で生まれたのか、詳しい事は一切不明。
 分かっていることは一つだけ――彼等の行動理念は掠奪のみ。彼等はそれを生きるための正当な手段と思うだけでなく、最上の愉しみにしていた。
 警戒をかいくぐり『昇陽』に現れた彼等は、金品はもちろん牛馬に女子供に美童まで引っ攫った。尊卑の別もなく人々を血祭りにあげるその振る舞いはまさしく悪鬼跳梁と呼ばれ、大陸人を見る機会の少なかった昇陽人は、半ば本気で風貌が異なる彼等を妖怪と信じこんでいた。それを人と知ったのは封印′繧ノなってから。人々が血に飢えた賊に怯え、眠れぬ夜を過ごす日々は『茫蕭』が現れるまで続いた。
 鉄忌が現れてからは、日中にも安息が得られない一週間が訪れてしまったのだが。

 利宋は『天』に居たころ、『昇陽』とは違う名で呼ばれていた婆娑羅衆≠ノ二十の齢で入った。利宋以外に『天』で婆娑羅衆≠ノ加わった者は数名いたが、いずれも掠奪に直接赴く機会は少なく、天人が昇陽人と体格容姿が似ている事を利用して民衆に紛れ込み、手ごろな獲物を見つける役を任された。天人には十歳になると右目を手術で抜き、個人の紋を印した義眼をはめるしきたりがあるが、婆娑羅衆≠ニなった利宋や他の天人は皆、義眼を自ら抜き取った。
 引き込み役となった利宋は潜入中、密かに味方に取り込めそうな者に声をかけ、そうして人脈を培い役立たせた。仕事の手際も完璧で、好人物を演じて獲物となる家に取り入り、仲間を手引きして襲う際は先立って刀を振るう。正面から襲いかかるよりもあくどい事この上ない。
 『央都』が封印≠ウれた時は、そんな利宋だからかえって喜んだ。一時は自らの行く末を案じはしたが、状況が明らかになるにつれ、利宋はこれを好機と判断した。何せ『央都』は混乱で無法地帯、婆娑羅衆≠ヘ首魁を始め大人数が消えて壊滅――つかの間の事だったが――鉄忌も現れないと来た。
 そこで大博打を打ったのである。
 機会をものにした利宋がめきめきと勢力を拡大したことは、現在の結果が物語っている。

 ただ、順風万端だった利宋が、たった一度だけ足元を掬われたことがあった。
 その掬った相手というのが。

「こんのスケベジジイぃ〜! 人のヨメさんに言い寄るんじゃねぇ〜」
 襖が勢いよく開かれ、本気で怒っているとは思えない呑気な大声が飛び込んできた。利宋はこの男と会う度に軽い頭痛を覚える。
「来たな、クソ餓鬼」

 『火燐楼』の主・朱蜘蛛の燥一郎。
 顔が良いのは認める。下手な女よりずっと美しい顔だと利宋でも思う。
 頭が良いのも認める。自分を嵌めた上、ここまでの勢力に成り上がったのだから。
 腕が立つのも認める。以前若衆頭を務めていた久暁が、こいつと闘って負けたのだ。
 だが、何故こうも台詞の端々が阿呆らしいのか。ワザとやっているのは確かだが、あんまり真面目に対応していると、六年前これに出し抜かれた自分が情けなくなってくる。
 燥一郎は蘇芳色をした男物の着物に、緋色に桜と飛蝶をあしらった女物の打掛を羽織っていた。椿にしろ燥一郎にしろ、この遊廓の若い奴等は美的感覚の崩壊した奴が多い。
「燥一郎、着物がよれよれになっているじゃない」
 枳が燥一郎の名をきちんと呼ぶのは怒っている証拠だ。
「利宋殿が来て下さったのに、貴方ときたら。もういい歳なんだから、いつまでも傾いたままでどうするの」
「だって似合うし」
「似合うどうこうの問題じゃないでしょう。一体今まで何処で何をしていたの? 利宋殿は一刻近くお待ちになっていらしたのよ」
 さすがの燥一郎も母親に叱られた子供のようにしゅんとなった。
「いやぁ、ちょっと、料理を」
「まさか俺に出す料理じゃないだろうな?」
 燥一郎が料理といった瞬間、利宋の顔が引きつった。
「何で俺が爺さんに手料理作らなきゃいけないんだよ。久暁のだよ、久・暁・の」
 心外だと頬を膨らます燥一郎だったが、利宋は心の底から安心していた。下都で最も凶悪な男が冷や汗を流す料理とは。作っている本人に自覚は全くないらしい。
「燥一郎、久暁に妙な物喰わして殺すんじゃないぞ」
「何で俺の飯喰って久暁が死ななきゃならないんだよ。あいつはいつも何も食べなくったって倒れているような奴だ。あ、食べないから倒れるのか」
「俺に作ったんじゃなければいい。久暁はどうしている? 今日もいないのか」
「そういう話は煙草を置いといてから言え。ここを焼く気か爺さん」
 お前も俺から買っているくせに――内心毒づきつつ、しぶしぶ煙管の草を筒状の携帯灰受けに入れて仕舞った。

「で、久暁は?」
「アイツは百舌の爺さんとこに食い物渡しに行った」
 やっぱりな、と利宋は予想通りという顔をした。
「いつ会いに来てもこれだ。燥一郎、お前が裏で謀ってるんじゃないのか。俺と久暁を会わさんように」
「爺さんの来る時期が悪いだけだって。月が蒼い頃にアイツの家に行けば、ずっと奥に居るさ」
「他の奴の生産区に入るのは約定違反だろ。知っているくせに。だが分からんな。何だって、わざわざ月が紅い時に百舌の所に行くんだ? 鉄忌が出たら危ないだろう」
 それを耳にした燥一郎が利宋に急接近した。泡を喰った老人の額の上に、白い手がぺたっと乗る。
「熱はなし」
「いきなり何だ!?」
 毒虫に触れられたように、利宋は身をよじってまでして必死で手から逃げた。
「あの利宋が他人を心配するなんて、ぜぇったい悪い物喰ったに決まってる」
「悪かったな! 俺はお前の飯を喰った訳でもねぇし、いたって普通だ。とにかく久暁に何かあったらどうするんだ。月が紅い日の外出は止めさせろ」
「俺だってもう何年も言ってるって。アイツ莫迦だから聞きやしない」
「危険を冒してまで会いに行くほど、アイツが百舌公を慕っていたとは思えんがな」
「『都』の人間に害が及ばないよう、左大臣が頑張っているんだろ。心配はいらない――何だ?」

 世間話同然に暢気だった燥一郎の声が、急に冷たくなった。利宋が嗤っている。
「お前と久暁はまだいがみ合ってるらしいな。話一つ言い聞かせられないとは」
「俺は何にも気にしちゃいない。久暁が莫迦なんだ」
「本当に、お前は正真正銘の阿呆だな。お前が六年前に『白梅廓』を潰して出来たこの『火燐楼』、ぬるいやり方のくせにここまででかくなったのは誰のおかげだと思っている。俺には久暁の考えが分からんな。自分を利用しただけでなく、女まで盗った奴の足元支えるなんざ」
「利宋」
 眉をひそめた燥一郎に、一瞬利宋は動揺した。それが不倶戴天の敵であると、肝に銘じている利宋にすら美しいと認めさせる美貌。それが曇ればなお麗しさが引き立つ事を利宋は初めて知り、気取られないように燥一郎から目を逸らした。
 すると後ろでただなりゆきを見守っている枳に気付いた。
 器量良しの才女。まるで燥一郎と添うために生まれたような女。
 だが『白梅廓はくばいかく』一の太夫となる以前まで何をしていたのかは利宋も知らない。動乱期に生まれた人間は総じて親なしである。そのため細かく追求する者はいないが、枳の周囲では様々な憶測が今でも飛び交っている。貴族の娘かも、という話が有力だった時期には、上都の貴族がわざわざ顔を見に来るほどだった。我が娘かと本気で思っていた人間は稀だったらしいが、どんな憶測にも枳は笑ってはぐらかすばかりだった。
 身請けを申し出る者も数多くいたが、そんな者達を撥ねつけて、枳は『白梅廓』が燥一郎の手に入ると間もなく彼の妻となった。

 似合いの夫婦だと誰もが言うが、利宋はどうしても合点がいかない。
 それは元々『白梅廓』を、当時『桃源楼』の若衆頭副長だった燥一郎に潰すよう命じたのが自分で、目当てにしていた土地と枳を掠め取られた、という情けない理由のせいだけではない。
 そのころ『桃源楼』に居た者なら誰でも知っている事実なのだが、枳は事件以前まで、久暁と相愛の仲だったはずなのだ。
 さらに輪をかけて納得がいかないのは、久暁が未だに燥一郎と袂を分かつ事なく、この『火燐楼』に居るという事実だ。

 視線に気付いているはずだが、枳は一切不快そうな素振りをしなかった。ただ静かに、まるで利宋と燥一郎のやり取りも風景の一部として見ているかのようで、利宋は妙な居心地の悪さを覚えた。
「で、いい加減本題に入れよ爺さん。アンタ何しに来たんだ?」
 不機嫌な燥一郎にせっつかれ、利宋はフッと我に返った。
「あぁ、忘れる所だった。いや、実はな――」

 外の物騒な怒鳴り声が利宋の台詞と重なり合った。
 それでも利宋の口ははっきりと、「上都の様子がおかしい」と述べていた。
「八色の黒≠ゥ?」
 燥一郎がその名を口にすると、利宋は御明察と言わんばかりに頷いた。
「やはり話は伝わっていたか。何の事か解るか?」
 すると燥一郎はまた、いつもの悪戯めいた美丈夫に戻った。
「解らん、と言って欲しかっただろう。残念ながらそれについちゃ金輪の爺さんから聞いている。かつて『昇陽』を守護する武士十家は、十の色を帝から賜ったという」

 山吹やまぶき卯乃花うのはな浅葱あさぎ蘇芳すおうはなだ刈安かりやす黄櫨こうろ東雲しののめ千草ちぐさ二藍ふたあい

 『昇陽』で姓を名乗る事を許されているのは上都で朝廷を担う貴族のみだが、『昇陽』の軍事力にあたる武士十家の人間だけは例外で、帝から与えられた十色はそのまま武士十家の姓となっている。平民達は彼等の噂をする際、決まって赤だの白だのと隠語で囁いていたものだった。
「が、黒はこの十色のどれにも属さない。そして八色の黒≠ヘ八人の黒。あるはずのない黒色を持つ、武士十家以外の八人の人間。武士十家が持たない色を補う八人の役目はつまり」
 ――暗躍。
「公明正大を持って成す武士十家だけで永久の国を支えられやしない。八色の黒≠ヘ『昇陽』の長い歴史の中で、隠密に不穏分子を処理していた連中ってトコか」
 鮮やかな燥一郎の解説に利宋は舌を巻いた。ここまで知っているとは思わなかったのだ。
「それだけ知っていりゃあ、明日にでも黒の連中が口封じに来るかもな」
「ほとんどは俺の推測だよ。俺が金輪の爺さんから聞いたのは、八色の黒≠ェ婆娑羅衆≠ニやり合ったって事くらいだ」




前へ | 次へ | 目次へ

Copyright (c) 2006−2010 Yaguruma Sho All rights reserved.  / template by KKKing