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<昏い陽炎>「そうか」 苦々しい思い出が利宋の脳裏に蘇ってくる。 かつて武士十家でも抑えられなかった婆娑羅衆≠潰すために、隠密の八色の黒≠ェ動いた。 当時の利宋はもちろん、そんな者共の存在など知らなかった。 そして記憶の中の八色の黒≠ヘいつも一人の女の姿をしている。正体を知った時には、すでに彼女は故人となった後だったが。 ――彼は何処? 最後にそう利宋に尋ね、負傷した首領を残して消えた女。殺害に失敗して逃げたのだと、誰もが考えた。 しかし封印′繧フ再会は、彼女の墓とだった。 婆娑羅衆≠ェ報復したのではない。殺されかけたはずの頭領は、何故か追跡を一切しなかったのだ。 ――情けない。敵に寝首をかかれかけただけでなく、報復もしないとは。 ――頭はあの女に篭絡された。 今にして思えば、あのまま放っておけば婆娑羅衆≠ヘ頭への不信から内部崩壊していただろう。結束の強かった組織が一旦バラバラになれば、捕らえるのは容易い。始めから計略だったのだ。 利宋もまた他の者と同じく、頭はあの女に腑抜けにされた、敵に嵌められたものと思い込んでいた。 彼女の死際に立会った、元婆娑羅衆&將キの金輪翁から驚くべきものを見せられるまでは。 一寸目を瞑り、思い出から自分を呼び覚ます。 「俺が今日ここに来たのは、お前に警告するためだ」 「警告?」 口調に機密の気配を感じた枳が席を外そうとしたが、利宋はそれを引き止めた。 「お前さんには特に、心に留めておいて欲しい。俺やこの阿呆が相手じゃあ、どうもアイツは耳を貸しそうにないからな」 利宋が誰のことを指しているのか、二人には即座に分かった。 「久暁か」 「そうだ。左大臣参内とほぼ同時に黒の話が出てきたとなると、おそらく左大臣は八色の黒≠フ再編をしやがったんだよ。二十七年ぶりにな」 利宋ほど燥一郎には事の重みを感じ取れはしなかった。隠密としての八色の黒≠フ力がどれほどのものか知っているのは、この下都でも極少数――それも今では婆娑羅衆≠フ関係者のみであるし 、裏が表になってしまった現在の下都を、たったの八人で粛清できるとは到底思えない。すでに以前のスタイルは失われ、封印′繧ノ生まれた若い世代の者達に至っては、そもそもかつての『昇陽』の姿を知らないのだ。この時期の、今更になって再編する理由が分からない。 そう利宋に言うと、歪んだ嗤いで返された。 「この時期だから再編するんだ。下都の生活が落ち着いた、この時期にな」 「だが左大臣はあの黄泉呼び≠フ時ですら動かなかったんだぞ?」 黄泉呼び≠ニは、もはや下都では怪談となっている変死事件のことだ。 数年前のこの事件で、各勢力の名のある幹部六人が死んでいる。どれも外傷がなく、魂を抜かれたようにぽっくりと逝ったため自然死かと思われたが、亡くなったのは健康体の人間ばかりだった。そこで付いたのがこの名称だ。 「上都に害はなかったからな。騒いだのもほんの半月で、連中が話を知っているかも怪しいな」 「でも無理だろ。利害が一致しているうちはこっちも大人しくしてやってたが、粛清に素直に従う馬鹿がいるか? 下手に圧力をかければ動乱期がまた来るだけだ。それに、久暁がそれとどう関係するんだ?」 「大いに関係があるさ。左大臣の思惑と俺の予想が一致するならば、久暁一人のおかげで問題は簡単に解決する」 「まさか、アイツの素性をだしにする気か」 利宋の嗤いが止んだ。 「どうやら金輪のジジイから全部聞いているようだな。この二十七年間はおそらく、新しい黒を教育 するための期間だったんだろうよ。元々黒を直轄していたのは右大臣家だが、そいつらは封印≠ナ消えちまったし、武士十家も三家しか残っていない上都じゃ時間がかかるからな」 武士十家は『茫蕭』との戦いで千草、刈安の二家を失い、封印≠ナ 山吹、卯乃花、蘇芳、縹、二藍の五家を失っている。基本的な軍備もままならない状態なのだ。 「確かに、永きにわたって『昇陽』を影で支えてきた八色の黒≠ニいえども、今の下都を丸ごと洗濯とはいかんさ。だが、この『都』で生きるには不可欠な物が向こうの手に握られたとくれば、さすがの俺でも上都に絶対服従せざるをえん」 「……」 「向こうは間違いなく、久暁の父親が婆娑羅衆≠フ首領で、母親が八色の黒≠フ裏切り者だという事実を明らかにし、重罪人の子を捕らえる名目でアイツを上都に連れて行くだろう。そうなれば、俺達は終わりだ」 因果応報は子にまで及ぶ。裁かれるべき当の罪人がいなければ誰かが代理にされる。 利宋のように婆娑羅衆≠ナあった過去を明らかにしている者は少ない。かつての悪行ゆえに恨みも買うが、逆に凶悪な婆娑羅衆≠フ名に怖じけて本人を糾弾しようとする者はいない。 それが力を持つ本人でなければ。本人でなくとも、罪に裁きを与えられるなら。 『昇陽』では、罪は断罪されるか赦されるまで、連綿と続くのだ。 久暁の両親の場合は尚更だろう。誰よりも、『都』の守護者である左大臣が赦すまい。 「利宋殿は、私達に何を求めているのです?」 「とにかく情報を握られないことだ。まずは久暁をうかつに外出させない。それから、今まで以上にアイツの素性に口を閉じておく。黒鼠の潜り込みにも気をつけることだな。こっちに居る軒葉にも言っといてくれ」 利宋の知る限り、久暁の素性を知っているのは現在わずか五名。『火燐楼』内部では燥一郎と枳、そして婆娑羅衆≠セった 「そこまで気にかけるなんて、随分と貴方様らしくないですね。いつもの利宋殿なら、久暁を左大臣に渡して『火燐楼』を潰し、まんまと自分のものにする方を選ばれるのでは?」 懐疑的というよりも、利宋の心中を突き刺すように枳の目が語る。 「随分と率直に言うじゃないか」 二つ名となった、口の片端を引きつったように歪める独特の嗤い。利宋にとってこれは威嚇なのだ 。 「失礼は充分承知しております。ですが、利宋殿が久暁一人のために『火燐楼』と協力関係を築く、という状況が成り立つなんて信じられませんもの」 クククククク。 初めて利宋が嗤い声を上げた。まるで自分がだした謎掛けの答を、ようやく相手が解いてくれたという風に。 「枳、やはりお前はいい女だ。感が良過ぎるのは難点だが魯鈍よりは遥かにいい。まぁ、当然だ。『火燐楼』から仕入れている鉄燈籠。もし今以上に楽に手に入るなら、俺は久暁を売る。だが――最後まで聞け」 一瞬剣呑な眼光を飛ばした燥一郎を牽制して、利宋は続けた。 「『昇陽』の七割を独断で切り捨てた冷血漢と、まともな交渉が成り立つとは思えん。いよいよ上都の連中が俺達を潰す気になったんだ。だからしばらくは協力してやると言っている。ただし」 一分ほど。 狡猾な目線と、凛とした美しい目線と、火のちらつく敵意の目線が交錯した。 「交渉は成立か?」 「おいおい、人がまだ何も言ってないのに勝手に終わらせるなよ。つまりアンタは協力してやる代わりに、鉄燈籠をさらに安値でよこせって言ってるんだろ」 「少し違うな。俺としてはロハが理想的なのだが?」 「ふざけんなよ糞ジジイ」 綺麗な唇から不似合いな悪態が飛び出した。顔は平静を保とうと笑っていても、その拳は今すぐにでも利宋の顔面を殴り飛ばしたい衝動に震えている。利宋は身の危険を察知し、すかさず付け加えた。 「そりゃ冗談に決まっているだろう。俺の希望する今後の額は、ここを維持する必要最小限の額。これは一応、温情のつもりだぞ。『火燐楼』の財力は鉄灯籠に支えられているから、それ以上値を下げて要求されれば、お前も『火燐楼』も終わりだ。大人しく条件を呑んだ方が身のためだろ」 「足元見てるつもりか。『火燐楼』が消えりゃ、久暁は燈籠を作らなくなるぜ」 「そうやってアイツを盾にしてきたようだが、久暁がお前に義理立てするとは思えんがな。大体、鉄燈籠に頼らざるを得ないのは、お前のぬるさゆえだろ」 「んなこたぁ最初から承知の上だ。言っとくが、アイツは俺じゃなくこの『火燐楼』のために燈籠を作っているんだ。ここが潰れりゃ作る理由もなくなる。だから俺は盾として利用してはいても、一応親切心で注意してんだ。アンタや他の連中のやり方を、久暁は心底嫌ってるからな」 「負け惜しみを。お前が久暁を理解しているとでも?」 「アイツを一番間近で見てきたのは俺だ」 「どうだか……」 牙を剥き合う二人の、笑顔の睨み合いを、傍らの枳はじっと見守っている。 ただし、あの冷ややかな瞳だけは変わらない。本当に燥一郎と利宋に意識を向けているのだろうか。二人の膠着状態に口を挟めずにいるだけなのか―― 互いに譲らない攻防。 だから三人は、近づいて来た気配に全く気付くことができなかった。 「旦那。燥一郎の旦那」 襖越しの切羽詰った声に睨み合いは中断された。呼んでいるのは燥一郎の付き人を務める、 「取り込み中だぞ。近付くなって言っただろうが」 「それが……あっ!?」 問答無用とばかりに襖が開かれる。現れた姿に利宋が余裕の表情を失った。 それは驚くほど長身の男だった。歳のころは二十六、七か。六尺程の高さにある頭は、その場のどの人間よりも突き抜けている。白の小袖と黒い袴から伸びる引き締まった手足や、精悍で彫りの深い顔の肌色は浅黒く、燈籠の白い光に晒された瞳は 最も目立つのは男の髪だろう。後ろ側だけ頭の上で一つに束ねてある、二の腕まで届くそれは、赤銅色のたてがみだった。昇陽人にそのような髪色を持つ者はいない。赤茶けた色合いは所々で微妙に違い、黒味がかった髪が交じり合う様は、黒髪で統一した昇陽人には嫌悪感を誘いそうである。 しかし、利宋はその髪に 「お――」 微かに利宋の口が動くが、声にならない言葉はここではない遠い時へと消える。 「お頭――」 「久暁ぉ!」 気の抜ける燥一郎の大声が、利宋を正気に戻した。 ――久暁、だと? もう一度、利宋は現れた男を確認した。 「すいません! 久暁の旦那でも通すなって言われてたから、止めようとしたんですけど」 開いた襖の裏で小さくなっている若者が木賊だ。赤髪の男の傍にいるせいで、本当に小さく見える。 「久暁、お前いつ帰って来たんだよ?」 燥一郎と男――久暁が並んだ途端、彼に重なっていた幻影が消えた。 確かに過去の記憶にある顔だが、利宋が恐怖した面影とは全くの別人だった。 悪夢から覚め、無意識に額へ手を伸ばせば脂汗の感触がした。動揺を抑えようとすると、ふっと己の前に影が射した。 「久しぶりだな、利宋」 首が痛むほど仰ぎ見れば、重厚な声音の割に何の感情も現れない仏頂面があった。ひょっとしたら利宋がそう思っているだけで、僅かに感情の起伏は現れているのかもしれない。この男は昔からそうだった。 「おい久暁。俺を無視するなよ」 久暁が現れるやいなやご機嫌になった燥一郎は、声一つかけられなかったくせに久暁に纏わりついている。昔通りの光景に、利宋の動揺は跡形もなく消えた。 「直接顔を会わすのは六年前のあの時以来か、久暁」 利宋もまた、久暁に倣って五月蝿い奴を無視する事にした。 「こらぁ利宋までって、いででででで!」 「貴方は少し黙ってなさい」 見かねた枳が助け舟を出し、問答無用で夫の耳を掴むと両者の視界の外へと引きずっていく。開けっ放しの襖の向こう側へ、抵抗する声は遠ざかっていった。 「それにしてもお前、どうしたんだその髪は。また随分と赤くなってるじゃねぇか」 利宋はしばらく見ないうちに変貌した久暁の髪を指した。 最後に顔を見た六年前にはすでに赤みがさしていたが、幼い頃の久暁の髪は漆黒だった。赤くなっていると気づき始めたのは彼が利宋の傘下に入った時だったが、しばらく見ない間にその時分や子供の頃とも様子が一変している。すぐに久暁と認識出来なかったのもそのせいだろう。 もっとも、いくら大陸人の血が入っているとはいえ、成長するにつれ髪の色が赤くなるなんて特徴は砂螺人にもない。 「両親譲りの黒髪がもったいない。一体何で染めたらそんな風になるんだ」 「好きでこうなったんじゃない」 答えにならない応えに利宋は顔をしかめた。今度は逆に、 「利宋、あの阿呆と何を話していた?」 と久暁が訊く。阿呆とは燥一郎のことだ。心の内を探るような瞳の紅に睨まれると、再び利宋の脳裏に過去が蘇る。言い淀む利宋の変化を獣の目は見逃さなかった。 「俺には言えないか」 「大した事じゃねぇよぉ」 枳の攻撃から脱出した燥一郎が、襖の陰からなおもしつこく口を挟んだ。 「上都の連中が下都に黒鼠を放とうとしてるってだけだ」 「黒鼠?」 いぶかしむ久暁の意識が不意に利宋からそれると、潮時と感じた利宋はすかさず撤収を試みた。 「燥一郎、俺はもう帰るぞ。久暁の顔も見た以上用はない。ウチの若衆を連れて来い」 言った瞬間、燥一郎は輝かんばかりの笑顔となる。今すぐ即行で帰れという心中の声が、利宋には良く聞こえた。 「おぉ〜そいつは嬉しいな。木賊、二つ隣の部屋の連中を連れて来い。楝と白藤が相手して遊んでるはずだ。香で酔って倒れてたら、大将がお帰りだとでも言ってやれ」 「へい旦那」 木賊も利宋の傍から逃げたかったのか、嬉々として身を翻して行った。 「言っとくが、『桃源楼』から『火燐楼』への花代は一切支払わんぞ」 「俺だってジジイの臭いのする金なんざ欲しくないね」 そうこう言ううちに、やがて利宋の若衆が数名、血相を変えて推参した。やや顔が赤いのは酒と同じ効用を持つ香のせいだろう。利宋に呼ばれ、夢心地は一気に吹き飛んだようだ。 立ち去ろうとした利宋の行く手を、久暁が遮った。 「何だ、久暁」 「何処かの阿呆が教えないから、直接アンタに訊こうと思っていた事がある。ここ一年で、『桃源楼』では何人の女を殺した?」 燥一郎と枳は平静を装っていたが、触れられたくないことに触れられたという気不味さは隠せなかった。 利宋は袖の中で腕組み、上からの赤い視線をはね返した。 「三十三ってとこだ。珍しく少なく済んだが、不満か」 確か最後に話した時も、同じような会話があった。あの時も、利宋はただ相手を見据えて己を正当化した。久暁はその後、燥一郎と共に独立した。出て行くことが利宋への意趣返しならば、今回はどうするのか。 「理由は?」 「男と逃げようとしたのが十四、隠れて孕んでいたのが十、物の裏取引で九人。何度でも言うが、俺のシマでは俺のやり方に従ってもらう。この『都』では、いずれかのシマに属していなけりゃ飢えて死ぬだけ。従ってさえいれば、生きる事だけは保障してやるってんだ。文句は言わせん」 「アンタの言い分はある意味正しい。だが、そうして殺される者が後を絶たないのは、その根幹が間違っているからとは思わないのか」 さらに一段低くなった声音には、明らかに殺意が含まれていた。にもかかわらず、その気色が表れるのはぎらぎらと据わる目のみ――本当にこの男は、感情の表し方を知らないのだろうか。それとも 人並み外れた自制心を持ち合わせているのか。 こういう所は全く両親に似ない、と利宋は思った。育ての親に似るというのは、どうやら本当らしい。 「あいにく俺は自分のやり方を曲げる気はない。お前等が俺を否定するなら、せいぜいココを潰さないようにすることだな」 ――この、利宋への挑戦状とでも言うべき、『火燐楼』を。 利宋が『火燐楼』を嫌う最大の理由を知る者はいない。自身の否定こそが、利宋の最も憎むものなのだ。 だが久暁と同じく、利宋も決して怒りを表さない。 代わりに利宋は全てを嗤う。 「じゃあな。半月後にまた来よう」 お決まりの台詞を後に、嗤い鬼は部屋から出た。小さくも強大な威を持つ背が見えなくなっても、部屋中を拘束する緊張感はなかなか解けなかった。 「だ〜から、お前とあのジジイを会わせたくなかったんだ」 燥一郎は煩わしげに言うと、天井に吊るされた鉄燈籠に手を伸ばした。下の空洞部分から手を差し入れ、微かに澄んだ音がすると、あれほど眩かった光が一瞬にして止んだ。 廊下の鉄燈籠がわずかな光を射し込む。闇になりきれない薄暗がりに立つ影法師の主は、どれも浮世離れした存在だった 秀麗にして朱蜘蛛と呼ばれる男。 絶世の美女にして蜘蛛の妻。 そして、昇陽人とかけ離れた異貌の男。 『火燐楼』の主達がこうして一同に会するなど滅多にない。 「木賊!」 「へ? え、は、はいっ!」 一部始終に見とれていた木賊の間抜けな返事を気にも留めず、燥一郎は続けた。 「厨房まで行って、塩持って来い」 「は、何でまた?」 「ジジイが居た部屋を清めるのに決まってるだろぉが。分かったらさっさと行く!」 「へ、へい! すぐにっ!」 「ありったけだぞぉ!」 上都から半月に一度、左大臣の命により配給される塩はその時にしか手に入らないため、極めて貴重な物のはずだが、燥一郎は本気でその塩を部屋に撒くつもりらしい。枳だけが呆れた溜め息をついた。 「燥一郎、そんな事に塩を使わないで」 「後でちゃんと集めるって。土に撒くのとは違うから大丈夫だ」 「あのね……利宋はもう帰ったんだから、いいじゃない」 さりげなく、枳は利宋を呼び捨てにした。本当の所、彼女も利宋には手を焼いているらしい。 「む〜、それもそうだな。あのジジイ長々と居座りやがって。本当に『火燐楼』が目障りなら来るなっての」 二人が話していると、すっと赤銅色の髪が横切っていった。口を開きかけた燥一郎を抑え、枳が久暁を呼び止めた。 「あんな所で来るものだから言いそびれてしまったわね。お帰りなさい」 桜の花びらを髣髴とさせる笑顔だった。 久暁は無言で会釈した。先程までの威圧感は失せていた。 「……利宋はよく来るのか?」 「ええ、最近では半月に一度の割合で。『火燐楼』が『桃源楼』から独立して、利宋が一番潰したがっているのは『火燐楼』だって『都』の誰もが承知のはずなのに、こうして一応は提携してるなんて知れたら、下都中が泡を喰うわね」 と、心外だとばかりに燥一郎が割って入った。 「あのなぁ、俺も利宋も協力なんて意志はこれっぽっちもないからな。枳が勝手にほいほい呼ぶから……」 「『火燐楼』が抱える人の数と経済状態を考えれば、少しでも手を結ぶ方がマシよ。鉄燈籠と生産区の物資だけで、『桃源楼』や『彩牡丹』や『睡竜胆』と渡り合えると本気で思ってはいないでしょう?」 燥一郎は行き当たりばったりなんだからと、枳は自分よりもずっと高い位置にある仏頂面を覗き込んだ。 「少し疲れているみたいね。顔色が悪いわ」 「俺のことはいい……一つ訊くが、さっきの黒鼠ってのは」 「あぁ、何か上都で八色の黒≠ェ再編されるらしいぞ」 「燥一郎……」 枳が燥一郎を睨んだ。 「俺は嘘つくのが嫌いだからな。どうせすぐに知られるだろ」 「貴方は本当に、他人の感情に鈍感なんだから。少しは久暁の身になりなさい」 「枳、もういい。母親の事なら気にしていない……で、それは何時頃の話だ?」 「上都で黒の噂が囁かれるようになったのは、三日前の左大臣参内からだと。利宋の語り口から考えりゃ、もう動いているのかもな。あの利宋の言う事だ、どこまで信用できるのやら……って、聞いてるのか、久暁?」 燥一郎の語りなど辺りの嬌声と同じであるかのように、久暁からは何の反応も返ってこない。燥一郎が不満を言いだす前にと、枳が慌てて言った。 「だから、しばらくは黒狗山に行くのは控えた方が良いと思うの。もう少し詳細が明らかになるまでは」 「つーか、もう行くの止めろ。何回も俺が言ってるじゃねぇか」 「燥一郎は黙っていて。久暁は貴方と話したく……あっ、久暁」 夫婦が口論している間に、久暁は部屋から出ている。燈籠にぶつかりそうな長身は、明るみから逃れるように遠ざかっていく。 「おい久暁!」 燥一郎が呼んでも去りゆく姿は立ち止まらず、廊下の角を曲がり消えてしまう。 「黒狗山で何があったんだ?」 重い足音が急に途絶えた。 「いつもなら『都』の情勢に見向きもせず、母親の事も気にしていないと言う割りに、今日のお前は黒≠やたらと気にしてるな。山で何かあったんじゃないのか?」 赤い打掛の裾が床を這う。花風に舞う蝶を見つめる燥一郎は、答を期待してはいないのか。ちらちらと見え隠れする赤茶けた髪を、見ようとしていなかった。 「……妖怪に話す事など、ない」 ぞっとするような声音。 渾身の憎しみを搾り出せば、こんな声になるのだろうか。 たったそれだけ言うと、重い足音はまた、静かに歩いていった。 前へ | 次へ | 目次へ |
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