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<楝太夫>はちきれそうな瑞々しい躰。落ちきっていない白粉の香り。 久方ぶりに触れる己の女の肌は、今にも齧られる時を待っている。待っていながら自分から身をゆだねはしない。それは彼女に限らず、ここの女にとって礼節に反する以前に身を貶める。良い女は安値で自分を売り捌きはしない。 だから椿は生真面目に、触れるだけでも了解を得てからにしている。寝るその度に、である。まるで万年素人な男と笑う者もいる。彼が『火燐楼』の若衆頭なだけに、余計可笑しいのだろう。 椿の女は『火燐楼』の遊女の一人。名を 若衆や妓楼内の男が党内の遊女に手をつけるのは、各々の党で差異はあれど、最低限のルールさえ遵守し、必ず夫となるならば許されている。もちろん遊女を退くまでは客を取らねばならないため、それまでは形だけの夫である。 ともあれ『火燐楼』の武を束ねる椿ともあろう者が、許しがなければ女に触れもしないのかと、主人の燥一郎までが彼をからかった。 他の連中はともかく燥一郎は知っているはずだが、椿は決して素人ではない。むしろ百戦錬磨らしい。真偽は定かでないが、そうだったとすれば、椿の楝大夫への気遣いっぷりは彼女と添う以前の自分への反動なのかもしれない。 椿自身は、自分を果実にたかる蝿にするのは御免だからと、断固主張しているが。 「今日は本当に災難だったねぇ」 椿から厨房の惨劇を聞き終えると、楝は椿の頬をなぞった。面の皮に走る一筋の傷はまだ痛々しい。 「それで、茂さんをのしちまったのかい?」 「安心しろ。殺しちゃいない」 「物騒な事、してなくても言うもんじゃないよ。仲間殺しは御法度だよ」 「分かってるって」 「その口振りは半分本気だったんじゃないのかい?」 痛い所を突かれた。あの混乱を収めるのに料理長を殴り飛ばした椿だったが、二度目に切られかけた時は頭に血が上り、勢い余って相手を死なせかけた。泳ぐ椿の目を、一重で切れ長の双眸が追って捕らえようとする。細面の楝の顔は湯上りで紅潮しているから、なおさら椿の心臓をざわつかせた。 「怒るなよ」 「怒ってなんかいないさ」 言葉に偽りはなく、むしろ楝は楽しんでいた。 吊られた鉄燈籠が仄々と二人を照らす。長年働いている燈籠の光はもう随分と弱々しくなり、不意に薄暗くなる時もある。するとその都度、燈籠の黒い地金に咲く小さな楝の花の 燈籠の象嵌が示すように、ここは楝大夫の寝間である。普通契りを交わしたとはいえ、形だけの夫婦が添うて寝ることは許されない。女は身を引くまで遊女であり、夫と寝るよりは一人でも多くの客を取るのが妓楼共通の一貫した主義である。女達の仕事次第で妓楼の、すなわち各党の強弱が左右され、結果的に党の経済力にも影響が出てしまう。人並みの暮らしを求めるのならば、女達に拒否権は許されない。 契る相手を得ても私生活は分断され、華の盛りを過ぎたころにようやく本当の夫婦となることを許される。これが二十数年の間に、下都に根付いたルールだ。 この極端なまでの晩婚は、実は遊廓だけの義務ではない。生産区域に住み、党から与えられた作業をこなすだけの平凡な女ですら婚姻には党の了承を貰わねばならない。加えて、結婚できる男女というのは極めて運が良い者達で、状況によっては何時までも夫婦と認められない場合もある。 朝廷に課せられた政策課題の一つに、人口調節があった。『都』が孤島となった直後は混乱の影響で人口が大幅に減少したが、反動で経済的に落ち着いてくると、太陽を知らない若者達――今の『都』世代の誕生がこの時期に集中したのである。 本来喜ぶべき子供の誕生は、『都』にとってあまり歓迎できたものではなかった。親の多くは生まれた子供共々、下都の権力争いに巻き込まれ、党の抱える人員として取引の材料にされることが多かったからだ。朝廷から半放置状態にされている下都の手管は徐々にエスカレートし、利宋の『桃源楼』でも意図的に党の女達を孕ませて、孕み女ごと他の党に物資と対価で引き渡すという横行がまかり通っていた。 さすがに左大臣もこれを傍観する訳にはいかなくなり、婚姻に規制がかけられるようになった。実際は婚姻関係で生まれた子供より、金と欲情で無理やり作られた子供の方が多かったため、それらの行為を止める目的で、遊廓には上都から配給される避妊薬を服用する絶対的な義務が課せられた。下都の権力者達は現金なもので、売春自体に規制がかからなかったのを幸いと、それまでのやり口を反転させ無断で妊娠した女を厳しく取り締まり始めた。孕む心配のない方が多く客が取れる上に、上都からの印象も良くなる、という理由でだ。 女達からすれば血も涙もない話である。いいように道具にされた挙句、救う立場であるはずの左大臣は表面を平らにならしただけで満足し、主達は平らになった地面の上で自分達を押しつぶしているのだから。 これに堂々と反発したのが、誰であろう燥一郎だった。 彼の存在がなければ、楝と椿が仮の夫婦として褥を共にする事はできなかっただろう。 水を吸って重たい髪のまま、楝は差し出された肩へ頭を乗せた。 ちょっと顎をそらすだけで男臭い息が頬にかかる。身を寄せ合うにはまだ身体が冷めていない。そこで楝はまた椿の傷を撫でた。 「痛い?」 「痛くはないが、あんまり触ると治っても傷跡が残るようになる。もう止めとけ」 ニコ、と楝が微笑む。 「それは良いじゃないか」 「おいおい、顔の傷は人相を変えるぞ。俺が不細工になっても良いってのか」 「そうさ」 「ふぁ?」 はぁ、と言おうとした椿だったが、楝に頬を摘まれ妙な声になった。 「だって顔が悪くなりゃ、アンタも少しは威圧感ってものが出せるようになるだろう。アンタは二十八になった割に妙にさっぱりした顔してるから、若衆頭にしては凄味が足りないんだよ。日頃から可笑しな格好で威嚇してるみたいだけど、件の久暁の旦那ほど、アンタってば怖そうじゃないしねぇ」 それは仕方がない――久暁の外見は椿でも異様と感じるのだ。並ぶ者のない長身に、赤茶けた髪。浅黒い肌に、彫りの深い眼窩から覗く紅い猫目。大陸の砂螺人はそういう人種だと分かってはいるが、大陸人が両の手で数えるほどしか居ない『都』では、嫌でも畏れられる存在になってしまう。 「アイツと比べるなよ……あぁ、けれど燥の阿呆よりはマシだ。あれも昔は『桃源楼』の若衆副長だったが、あの通りの白瓜……いや、あのころは女にしか見えなかったな」 「上を見ずに下を探そうとするなんて、男のやることじゃないよ。それに、燥の旦那はアンタよりずっと上」 「うっ……」 「アタシは、厳つけりゃ良いとは言ってないだろう? 日頃のアンタは、ビッとくるような鋭さは持っていても、重苦しい塊を受け止めるような懐がない」 あまりな言われ様である。 「威圧感持て、ってのはどうなんだ?」 「だからそれは若衆頭って事に対してさね。要は、こんな世の中、安心できるのが一番なのさ。久暁の旦那は、年の初めしかアタシらの前に出て来ないからよく分からないし。燥の旦那は見ての通り」 「阿呆な女男」 「だけど、こんなに居心地良い場所をアタシ等にくれた。他の遊廓なんかとは雲泥の差ね。アンタもそう思うでしょう。『彩牡丹』と比べて、ここはどう?」 椿はすぐには答えなかった。ふぅんと鼻を鳴らし、曖昧な笑みで、 「良いんじゃないか?」 とだけ返したが、楝はやや非難するような気色を目に浮かべた。 「何で臍を曲げるんだ?」 「アンタ、そう言うって事はまだ『彩牡丹』に義理立てしてるんじゃないかい?」 椿は一瞬面食らったように硬直したが、次には天を仰いで呵呵大笑した。逆に驚いて目を丸くした楝を両腕で抱え込み、くたびれた敷布団の上に組み敷いた。 「どうしたのさ、らしくない……」 「俺が怒りっぽいってのは知ってるだろ。それも惚れた女の前だろうと……我慢はしない性質なんだ」 ちらつく燈籠の光は寿命が近づいたのか、ますます弱々しい明滅を繰り返すようになった。楝に覆い被さる椿の顔もよく分からない。はっと明らかになる顔は笑っているが、次の瞬間には薄闇に溶け、はたしてその微笑が真か偽りか分からなくなる。けれども楝は怯えていない。そう、これはじゃれ合いなのだ。 「俺が『彩牡丹』に未練を残しているのなら、ここでこうしてお前を抱いていると思うか?」 「分かってるさ。アンタは『火燐楼』の椿だ。『彩牡丹』でどんな人間だったか、どんな名前だったかなんて今は関係ない。でもねぇ……時々不安になるんだよ」 フッと楝が瞼を伏せた。 「『火燐楼』に居る奴は皆、訳有りで他のシマから出てきた連中だよ。何にも言わず家族同然に燥の旦那は扱ってくれるけど、昔をなかった事にはできやしないだろう? 『火燐楼』で平和に暮らすほど感じてしまうのさ。こんなに幸せでいる時、不意に昔を思い起こしでもしたら……苦しいと思わないかい? 途端に、今の幸せが嘘っぱちになるような気がして」 楝の言いたい事は椿にも分かる。夫婦となる間柄であっても、椿は楝に過去を打ち明けていない。楝もまた、『白梅廊』以前の己について告白していない。互いに口に出すのを憚るような過去とは限らないが、他人の領域には立ち入らないという暗黙の了解が、『都』共通の理念として存在していた。 過去を禁忌と成す。封印′繧ノ『昇陽』が忘れられたように、それ以前の人生を忘れ、突きつけられた新たな生活を受け入れていかなければ生きてはいけない。椿も楝も――おそらく誰もがそうだ。 「不安だというのなら、二度と思い出さなければいい。お前が一生思い出だせなくなって困るほど、俺が忘れさせてやる。真っ白になってしまえばいいんだ」 「真っ白に……」 耐え切れなくなった燈籠の光が、その寿命を全うして消えた。 ――あぁ、随分と長持ちしたのに。 楝は思ったが、それは灯りに対してだけではない。それまで押し止められていた奔流が堰を切って流れ出し、二人は暗い褥に身を投げ出した。 相手の内にある流れに身を委ね、あるいは逆らい―― ふと、欲情の水面下で喘ぐ二人の理性の片隅に、奇妙なものが見えた。 暗闇に光明が射している。すでに命尽きた燈籠とは違う。 噛み合う障子の隙間から―― そう、障子はわずかに開いていた。ぎくりとして固まる二人をよそに、隙間がたちまち広がっていく。 ついに二人の顔が見えるほどになるとそこには、白濁した目と斑紋の散った醜い老婆の顔が、青白い燈籠の光に浮かんでいるではないか。 椿と楝の口から、魂ぎる悲鳴が飛び出した。 前へ | 次へ | 目次へ |
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